日本同盟キリスト教団

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あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 

(詩篇37篇5節)

  • 長野福音教会では、年に数回、教会員向けに「祈りの友」を製作配布しています
  • 下記に、その抜粋を掲載します
  • タイトルをクリックしていただくと、文章などが表れます

2024年冬号

■巻頭言 2024年テーマ聖句について 吉村恵理也

 あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。詩篇37篇5節
 長野福音教会の新年礼拝では、詩篇37篇5節より「みことばへの信頼と実践を通して、キリストが開いて下さる御業に生きる。」というテーマ聖句と年間目標を分かち合いました。
[詩篇37篇について]
 詩篇37篇は、主への信頼が問われるみことばです。信頼が問われるということは、信頼が揺さぶられるような状況や環境があることが予想されます。私たちは最近での出来事をニュースなどで知りながら「年始早々に何故このようなことが?」と思うことがあるでしょう。その意味や解決を見出そうとしますが、しっかりと納得のできる答えにたどり着くことができません。それは自分の考えや周囲の人々の意見では答えが落ち着くことのないことを私たちは知るからです。聖書には現実に起きている事件や出来事に対する直接的な答えが書いてありません。しかし、人が陥る悩みについてはお勧めの答えが明確に書かれてます。
 丁度、新年礼拝プログラムの交読文の箇所も詩篇37篇でしたが、5節に至るまでのみことばを見るとテーマ聖句がより分かりやすいと思います。1~2節では悪を行う者への苛立ちと、不正に生きる者の一時の繁栄をねたむことへの注意が教えられています。
 詩篇37:1 悪を行う者に腹を立てるな。 不正を行う者にねたみを起こすな。
      2 彼らは草のようにたちまちしおれ 青草のように枯れるのだから。
 災害発生時において地域の混乱に乗じて詐欺の噂や窃盗の犯罪のニュースを聞くと「災害の危機的状況の中で人として信じられないようなことをする。」と怒りを覚えることもあります。しかし、そのような行いをしている人の歩みは長く続かない。警察に取り締まられ、悪事は必ず明るみに出されることによって、罪による生き方は続かないことが、枯れる青草に例えて言われています。
 解決の答えが見えない時、聖書はこのように宣べるのです。
 詩篇37:3 主に信頼し 善を行え。 地に住み 誠実を養え。
      4 主を自らの喜びとせよ。 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
      5 あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 一言でいえば、「主に信頼して、神の思いに生きなさい。」と教えるのです。人間関係にイライラする時に「主に信頼するように」と口で言うのは簡単ですが、行いをもって実践することは難しいことです。
[信仰に生きる難しさ:ゴリヤテに怯えるイスラエルの民から学ぶ]
 聖書の中でも、「信仰の実践に生きる難しさ」を教えている歴史がサムエル記第一17章にあります。そこでは、神を信じる民を侮辱していたペリシテ人のゴリヤテという人物が出てきます。彼は3メートル近い身長があり、鎧で身を固め、一騎当千を体現する人物でした。彼は神に仕えるイスラエル軍を侮辱します。イスラエル軍もゴリヤテの暴言に苛立つのですが、戦う勇気が起きません。身体能力差がありすぎて勝てないと思ったのです。国中の兵士やイスラエルを率いるサウル王ですらゴリヤテに勝てる方法はあるのかと悩んでいました。しかし、そこにまだ兵役にもつかない年齢の少年がゴリヤテの発言に怒りをあらわにします。
 Ⅰサムエル17:32 あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。
 初めはダビデの信仰の姿勢に、兄弟が怒って注意し、サウル王も「大人の鎧も着れないような子どもがゴリヤテを倒せるはずがない。」と考えていました。しかし、羊飼いをしていたダビデは獅子や熊から羊を守ってきた主の守りの経験があることを証し、ゴリヤテと戦うことが許可されます。昨年も熊被害のニュースが多かったことからしても少年ダビデがいかに日ごろから勇敢であったかを伺えるのではないでしょうか。ゴリヤテと戦いに挑み、勝利を収めます。
 ダビデには主に対する絶対的な信頼がありました。家族や周囲の人々や国のリーダーまでもが怯える事態の中で、神への信頼をもって歩むことを教えられます。しかし「ダビデのような信仰を持ちましょう。」と言いたいのではありません。ダビデのように素晴らしい信仰を持てるのであれば、それに越したことはありませんが、主への信頼がいかに難しいか、イスラエルの人々の歩みから教えられるのです。
[主への信頼を出エジプトから考える]
 では主への信頼とは、どのように歩むことなのでしょうか。戦争や争いごとのニュースを耳にしたとしても、極限的な状態における信仰を問われても身近に覚えにくいところがあると思います。
 自然災害や災いだと思える出来事が続く中で、どの様に歩むのかを聖書から見てみます。先ほどのサムエル記よりも、もっと前の出エジプト記です。そこでは、エジプトの政治に苦しんでいたユダヤの民が、モーセを通して神の守りを体験する様子が描かれています。出エジプト記7章~12章ではエジプトの国全体に10の災いが起きます。ナイル川が血に変わり、カエル、ぶよ、あぶの大量発生、疫病や皮膚病による病の蔓延、雹、いなごの被害による食物の被害、暗闇による生活の不自由、と災害が続いていきます。
 そして極めつけは最後の「過越しの災い」です。これは家族の長男が死ぬという、人に直接下される災いでした。主に仕えるユダヤ人の歩みは、9つの災いの最中に何をしていたのか殆ど記述がありません。しかし、最後の災いには注意点がありました。それは家の門に羊の血を塗るということです。最後の災いが起こり、エジプト人の家族の長子には突然死という悲痛な出来事が起き、モーセを通して神の教えに生きた家族は守られました。
 ユダヤ人からすると、家の門に羊の血を塗ることに何の意味があるのか?当時は分からないことでした。ただ、羊の血を塗った家庭の裁きの災いは過ぎ越されるという事実だけが言い伝えられて行きます。ですから、共同体として主のみことばに生きるというのは、聖書の教えに聴き続けることであるのです。
[結論]
 詩篇37:5   あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 とあるみことばを目標とするとき、主に信頼することへの難しさも分かち合いました。ですが、自分の考えを主に委ね、自分の思いや考えを中心に生きるのではなく、神の思いを受け止め認めるときに、主の守りが確かにあることを聖書は旧約の時代からすでに示されていたのです。
 主の守りとは、「神のみことばに生きる者は、神の裁きが過ぎ越される。」言い方を変えると「主が裁きを過ぎ越される=罪から救われる」ということです。その裁きの印は私たちの門に血の証があるかどうかです。実際の家の門という意味ではなく、主イエス・キリストの十字架の御業が心に刻まれているのか、ということです。主が私たちの心を見られるとき、そこにイエス・キリストの十字架の血が覚えられているか、です。主は、神の民の守りと救いの道を、示し続けてくださるお方です。
[適用]
 ①主による「救いの確信」を堅くしていこうではありませんか。すでに洗礼を受けた方も、周囲の影響や幅広い神学によって、救いの確信がぶれる時があります。私も神学校に行ったとき、救いの確信が揺れることがありました。しかし、主のみことばによって、信仰のスランプを脱したことがあります。長野福音教会では、礼拝前に信徒講座があったと聞いています。以前と同じ様ではなくとも、主のみことばに聴き、疑問に思うことの分かち合いを通して、信仰の土台の再確認ができると良いと考えています。もちろん、まだキリストを救い主として受け入れきることのできない、葛藤の中にいる方には、豊かな導きがあることを願います。
 ②信仰を実践していきましょう。時に主の教えに従おうと「私は何をやったらよいでしょうか!」と奮い立って声をかけてくださる方がいます。私はここで、日々のデボーションと祈りを勧めさせていただきます。主のみことばによって示されたことが、教会内で分かち合われ、祈りを通して神様と確認していく中で、成すべきことが開かれていくからです。私自身も改めて主の前に聴きつつ、祈りをもって、主の導きに期待したいと思わされたところです。できないことを責めるのではなく、出来ることについて、励まし合い、祈り求めていこうではありませんか。

■音楽礼拝(10月12日)からいただいた恵み S.S.

 罪びとの群れに、恵みを与える音楽とはいかなるものなのか?ましてや「罪びとの中のエリート・医者であるイエス様をすぐさま必要としている空しき人間」である私に、与えてくださる音楽の恵みとはいかなるものか?ちょっとひねくれた観点から音楽礼拝に臨んだ。
 音楽的才もなく芸術的分野への関心もほぼ0に近い私に、いったい神様は、どんな音楽的恵みを与えてくださるというのか、というのが正直な気持ちであった。罪をいやす音楽とは讃美歌・ゴスペルなどと答えるのが教科書的答えなのかもしれない。たしかに讃美歌は主を誉めたたえることによって自分自身の信仰に目を向けることができるから、まんざらまちがった答えではなさそうだ。讃美歌と言えばオルガンとピアノであるが、今回の主たる楽器はバイオリンということで、私にとってはかなり異色の取り合わせであった。むろん音楽的才のない人間の言うことなので、読み飛ばしていただいてもかまわないと思いつつ書いている。
 バイオリンの音を生で聞いたことはあまりないが、いざ礼拝が始まってみると引き込まれた。プロの演奏者だからという単純な理由ではない気がする。スピリチュアルというべきか。それとも聖霊様がこんなもののために降りてきてくださったのか。いずれにしても曲目はよくわからなかったけれど、一曲一曲に魂を感じた。真に不思議なことであったし、真に不思議な感覚であった。
 演奏者の経歴を見れば、とにかくエリートたちであった。だから引き込まれたのかと言えばそれも違うような気がする。とにかくバイオリンもピアノも楽しそうに演奏されていた。それだけはわかったつもりである。
 もう一つ引かれたのは、ピアノが見事にバイオリンを引き立てる脇役としてしっかり機能していたということである。目立たずされど地味でもなく、バイオリンを引き立てていた。あれこそプロフェッショナルの技術だろうと私は思った。とかく芸術家の方々は、「私が私が」となるイメージがある。礼拝奏楽者の人たちにもそのような傾向が見受けられる人がいるような、いないような。それはともかく、ピアノ奏者の方の脇役に徹した演奏は実にすばらしいと感じざるをえなかった。よりバイオリンが引きたてられて素晴らしい音色として耳に入ってきたのだと思う。
 バイオリニストの方の証もすばらしかった。音楽大学は日々競争競争で蹴落としあいも激しいと聞いたことがあった。音楽の楽は「楽しい」という意味であるのに、、。弾けなくなった時期もあったと聞いた。しかし神に導かれこうして楽しく礼拝で弾いていらっしゃる姿を見て、狭き門から入られた選ばれしバイオリニストさんだったのだと改めて畏敬の念にかられたものだった。
 その後の演奏もすばらしかった。唯一わかった曲はベートーベンのメヌエットぐらいであった。蛇足になるがベートーベンも耳に障害がありながら魂をフルに使って音楽を作曲し続けた人だそうで、とても人間だけの力ではないと思う。神様が彼を通して、素晴らしい音楽たちを世に送り出させたものであろうと思いながらメヌエットを聴いた。フィナーレはわれわれの目線まで下りてきてくださって、会場と一体となった演奏だった。これこそ父・子・聖霊の三位一体が音楽を通じて証された瞬間だったように思えた。改めて神様の無条件の愛のすばらしさと三位一体を肌で感じることができた。こんな「罪びとのエリート」である私でさえそう感じたのであるから、他の人たちは果たしてどのような感想をいだいたのであろうか。どのような恵みをいただいたのであろうか。興味津々である。
 この原稿依頼が来た時、たぶん神様は「罪人のエリート」である私に書くようにお命じになったのだと思い、ずうずうしくも直ぐに引き受けた。今回の礼拝が伝道や福音に繋がってほしいと願うが、まずは自分自身がたくさんの恵みとたくさんの三位一体を肌で感じることができたことがとてもうれしい。また来年も主の恵みをいっぱいいただけるそんなコンサートが開かれれば、こんなすてきなことはないと確信する。音楽礼拝を主催してくださった全ての方々に心から感謝したいと思う。

■クリスマスの思い出 N.T.

 三十年前位に、父とささいな事で言い争って一週間程口をきかない事がありました。従姉妹が家に食事をしに来てくれ、そこから少し会話ができましたがまだギクシャクしていました。従姉妹が帰った夜、父がお風呂から出た直後、「何だか胸が苦しい・・・息ができない・・・痛い・・・。」と言ったと思ったらベッドに倒れて反応がなくなりました。あわてて救急車を呼びましたが、救急隊員の問い掛けに段々答えなくなっていくし、握っていた手が冷たくなるし、脈もなくなってきました。ダメかもしれないと不安でした。病院では「心筋梗塞で、呼びたい人がいたら呼んで下さい。」と言われ、集中治療室に入りました。二週間程経って少し安定してきた時に、朦朧とした父は心臓を補助しているポンプを引き抜いてしまい再び危篤状態になりました。どうなるかわからないとなっていた時、クリスマスイブになりました。
 「父を助けてください。きちんと仲直りできていません。もう一度話せるようになれますように。」と毎日毎日お祈りしました。その時、看護学生の方たちがロウソクを持ちクリスマスキャロルを歌い患者と付き添っている私たちを励ましてくれました。「家族で神様に祈ろう。きっと助けてくださる。神様は私たちを見放さないから。」と心から祈りました。神様は私たちの声を聞いて下さると信じて、クリスマスキャロルを聞いていました。神様は私たちの祈りを聞いて下さる御方だと確信しました。
 後に、主治医の先生ではない先生たちから「よく助かったね。助からないと思ったよ。それほど危なかったからね~。」と言われるくらいだったのです。
 神様はいつも私たちの側に居て守っていて下さいます。本当に感謝な出来事でした。
※もし誰かとケンカしたりした時には、後悔しないように次の日まで持ち込まないで、なるべく早く仲直りして下さい。

■10回目のゴスペルコンサート K.Y.

 11月12日(日)4年ぶりにゴスペルコンサートが行われました。無観客でしたので、本当の意味で神様に捧げる賛美となりました。ゴスペルコンサートは今年でなんと10回目。ここまで続けてこれた恵みと皆様のお祈りに感謝です。
 長野福音教会でゴスペルワークショップが始まったのは、今から12年前の2011年。ゴスペルの企画やプロデュースをされている波多先生(ビサイドチャーチ東京の牧師)と高橋先生との間で、長野でのワークショップ開催の話が持ち上がり、役員会での審議や講師である藤崎恵美子先生(Emi先生)の意見等を経て、長野福音教会ゴスペルワークショップは始まりました。
 毎年6月から11月まで、月に一度東京からEmi先生をお迎えしてレッスンを受け、先生が本場アメリカで習得した曲を67曲教えていただき、12月に聴衆を招いて、生バンド付きでまとめのコンサートを行ってきました。
 クワイヤーの募集は、新聞折り込みのほかタウン誌に載せることもありました。感謝なことに、毎年「教会に来たのは初めて!」という未信者の方が与えられてきました。全体の人数は年によって違いますが、25~40人集まりました。そして驚くべきことは、足掛け12年間ずっと通い続けて下さっている方が少なくない、ということです。ワークショップでは、当然神様を賛美する歌を歌います。牧師先生のショートメッセージがあり、Emi先生の証があったりします。祈りに始まり祈りに終わります。それを月に一度、12年も続けていて、未信者の方が聞いてきたわけです。すごいことだなあと感じます。すぐに芽は出さなくても、種はしっかり植えられていると思います。
 2019年の9回目のコンサートの後、コロナ禍に突入しました。Emi先生に来ていただくことはできなくなりましたが、それでも希望者はオンラインでレッスンを続けることができました。そして2022年には単発で7月・10月・11月にEmi先生をお迎えしてマスク着用での対面でのレッスンを再開しました。いったん途切れた企画の復活ですから、どれだけの人が集まるだろうと心配しましたが、かつてのメンバーがたくさん参加してくれました。久しぶりに再会できて、また心を一つにして歌うことができて、このつながりの大切さを再認識した瞬間でした。
 そして今年は、5月開始の11月に無観客コンサートを行う(すべてマスク着用)、という形でワークショップが正式に再開しました。友達を誘って参加してくださったり、新たに加わったメンバーもいて、楽しく6回(6曲)のレッスンを行うことができました。11月11日(土)に、ピアノ・ベース・ドラムによるバンドメンバーの生演奏に合わせてリハーサルを行いました。12日(日)コンサート当日はそれぞれきちんと赤と黒の衣装に着替え、ひと通りおさらいをした後、通しで全曲を歌いました。例年だと聴衆に向かって歌っているので緊張するし意識してしまいますが、今年は講壇に向かって賛美したので、人目を気にせず、心から神様に賛美ができました。生バンドに合わせての賛美は最高です。みんな思い思いにバンドに合わせての賛美を楽しんでいました。とても有意義な時間でした。
 ワークショップを続けて行くことは簡単ではありません。未信者の方がたくさんいるわけですから気を使います。英語が覚えられなくて途中で挫折してしまうことがないように、レッスンの後すぐにパートごとに編集したCDを作成して郵送し、それぞれの家で練習できるようになっています。私は、月に一度ですが教会に来るのが面倒にならないように「一緒にがんばろうね」の意味を込めた焼菓子を用意してお渡しします。Emi先生にも気持ちよく来て帰っていただけるようにお茶の接待をしています。教会にたくさんの未信者の方が足を運んでくださっているこの企画が今後も続けられるようであれば、陰ながら支えていきたいと思います。恵みはたくさんあります。きっとこれからもたくさんあることでしょう。
 教会員のみなさま、いつもこの働きのためにお祈りくださり、ご奉仕くださりありがとうございます。ぜひクワイヤーに加わってください。一緒に賛美しましょう!!

■おばあちゃんの歌 M.M. 

 1.今 バスの中ですよ もうすぐ 家に着きます
   あの角を曲がるとすぐ 赤茶けた壁の家が見える
   そしたら おばあちゃんの 
   その温かい 愛に 触れるでしょう
   この 小さな村を出て 遠い街で暮らすことが
   僕にはどうしても必要なんです 反対ばかりされてたけれど

 2.今 緑の野や山が 窓の外を走っていきます
   春 今はもう春ですね 初めてそれに気がつきました
   縁側の小さな陽だまりで
   一人ぽつんと 何をしてますか
   僕 今はまだ 一人なんです 嫁さんの話も まだないんです
   ただ 都会ではいつもみな 生きることだけなんです

 3.今 なつかしいおじいさん 牛をひいて通り過ぎた
   どろんこまみれのあいさつが 明るい日差しに輝いていた
   これはおばあちゃんへの たった一つのおみやげなんです
   いつまでも長生きしてください 僕の嫁さんきっと見てください
   ここ 僕も嫌いじゃありません でもまだ まだ若いんだし
   やりたいことが沢山あります だから 明日また 出ていきます
   おばあちゃん 元気でいてください

 もう50年も前、学生時代にギターを弾きながら作った歌です。その後は時々歌ってはいたものの、ほとんどほったらかしでした。
 私は農家で生まれ育ちました。5人兄弟姉妹の3番目で長男。おばあちゃん子でした。親からは実家を継ぐように言われましたが、反対を押して都会に出ました。でも、山も見えず多くの人がいるもののあいさつすることもなく、孤独感や寂しい思いにさせられました。そんな時、ふるさとに帰っておばあちゃんから元気をもらいたいと思い、列車やバスを乗り継いでふるさとに帰りました。
 そんな思いを歌にしたもので、伴奏をつけて歌を録音。ラジオ局と相談して10月に放送されました。
 実家には神棚と仏壇が並んでいて、おばあちゃんはある宗教の熱心な会員でした。私は、本当の宗教はもっと別なものではないかとずっと思わされ、学生時代に聖書を学び教会にも通いました。でも一つの宗教にこだわってしまうのは避けたいと思い、のらりくらりの状態が続きました。卒業を控え決意を固めなければという思いを示され、洗礼を受けました。
 ただ、おばあちゃんがどんな風に受け止めるだろうということが気がかりでした。実家に帰った時、思い切っておばあちゃんにクリスチャンになったことを伝えました。おばあちゃんは、「それは良かった。信仰を持つことは大事なことだよ」と言ってくれました。私はホッとして喜びも倍になりました。
 明治生まれのおばあちゃんは誰とも気軽に話す心の広い人でした。88歳で天に召されました。いつの日か天国でまた会えると信じています。

2023年秋号

■巻頭言 信じない者ではなく信じる者に 山岸直生

 「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

 インターネット社会となった近年、非常に便利になりました。それは教会においても同様で、礼拝のライブ配信やリモートでの会議なども一般的になってきました。そしてひと昔前まではテレビや新聞のみしかなかった情報源が、インターネットの発達により、以前とは比べ物にならないほどの情報を得ることができるようになりました。その反面、残念なことですが、信用することよりも、まず疑ってかからなければならないようになった事柄も増えてきました。けれども信仰の世界は、全く逆であるとも言えます。疑うところから始めるのではなく、信じるところから始めます。
 ヨハネの福音20章27節には「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」という主イエスの言葉があります。有名なトマスの場面です。「トマス」と聞くと「あ~、あの信じなかった人ね!」と思い浮かべる人は多いのではないかと思います。しかし私は、この出来事の主役はトマスではないように思えます。その根拠として私は2つのことを考えてみたいと思います。

 一つは、主の「信じないものにならないで、信じる者になりなさい」というトマスに向けられた言葉は、その場にいた弟子たち全員に向けられた言葉ではないかということです。つまり、弟子たちも、そして私たちも含め、人とは、そのような信じることのできない弱い存在であるということです。ヨハネの福音書20章の前半を見ていくと、主はトマスだけではなく、他の弟子たちにも手と脇腹を示されたということが記されています。しかも弟子たちは、主を「見て」喜んだとあります。主を見て喜んだということは、見るまでは不安で恐ろしくて仕方がなかったということです。別の福音書では、主の復活を目撃した女性たちが弟子たちに知らせに行く様子が記されていますが、そこでは、弟子たちが主の復活を信じなかった様子が記されています。見ずに信じることができなかったのはトマスだけではありません。
 そして、この弟子たちの姿のように、私たちもまた信じることができない存在なのです。けれども私たちは結果としては見ずに信じているのです。福音書はイエスを実際に見た弟子たちが記していますが、私たちが見たわけではありません。私たちは聖書のみことばを通しイエスを信じることができます。何故でしょうか?それは聖霊なる神の働きがあるからです。Ⅰコリントの12章3節には「神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」とあります。私たちは誰しも弟子たちのように見ずに信じることのできないものです。けれども聖霊の働きにより私たちは信じることができるのです。「聖書は誤りなき神のことばである」という聖書信仰も、聖霊の働きがあってこそのものです。
 人間的努力で信じようと、あるいは信じさせようとしても意味はありません。それでは、たとえ「信じます!」と言っても後々「本当に自分は信じているのだろうか?」という疑問にぶつかることでしょう。聖霊なる神の働きを待つことが「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」ということであり、もっと言うならば「聖霊の働きによって信じさせていただきなさい」ということであるのです。

 二つ目は、主イエスは信じることのできない私たちを十分に知っておられ、そのうえで受け入れて下さっているということです。主は弟子たちに脇腹と手の傷跡を示されました。よくよく考えてみると、復活された主のからだは栄光のからだです。そのご自身の力によって傷一つないからだとして復活されることもできたはずです。けれども主は、その傷跡を残されました。そしてそれを弟子たちに示されました。

 主は「信じないものにならないで、信じる者になりなさい」と言われましたが、同時に信じることのできない弟子たちを受け入れ、見える形でご自身を示してくださったのです。私たちの信仰は聖霊により頼まなければ信じることのできない小さなものですが、その小さな信仰をも主は受け入れて下さいます。そしてその信仰が増し加わるようにと聖霊が共にいて下さいます。そのような主イエスの愛と聖霊の働きに信頼していきましょう。

■WINGSキャンプの恵み S.K.

 四年ぶりにCSキャンプがHキャンプ場で開催されました。
 ・主の家族としての交わり。子どもの自立。
 ・海や自然と豊かに交わる。
 ・接待するキャンプではなく、神の家族キャンプとして行い、すべての人が参加する。(自分にできることをする。)
 ・夕礼拝、朝の集会を行う。主を中心とした交わりを形成する。
の四つの目的の下、総勢19名のキャンプとなりました。
 子どもたちは6名。年齢は皆違いますが、小さいお友だちはお姉さんに憧れ、お姉さんたちは小さいお友だちの世話をし、主の家族としての交わりが見られました。
 海の近くだったので、みんなで海水浴に行きました。大人たちの見守る中、子どもたちは海水浴を十分に楽しんでいました。次の日も「行きたい!」と言っていましたが、海水浴は一日だけとなりました。二日目の朝はキャンプ場を散策し、隣接の学園やチャペルも見学しました。神様の造られた自然に十分親しんで来ました。
 夕食と朝食は、皆で作り、食べ、片付けてとそれぞれができることをし、おいしく楽しく食事を取りました。いつもは少ししか食べないお友だちもみんなと一緒で、食が進みうれしい限りでした。
 夕礼拝、朝の集会は、賛美やゲーム、吉村先生のメッセージと主を中心とした交わりの時でした。楽しい時はあっという間に過ぎていきました。
 暑い中でのキャンプでしたが、冷房の効いた食堂があり、ほっと一息つくことができました。
 何よりも、子どもたちが仲良くなって笑顔が輝いていた姿が印象的でした。神様の愛に守られ、神の家族の交わりの中で子どもたちが成長していくことを願っています。キャンプを導いてくださった神様にハレルヤ!
 来年度もパワーアップしたキャンプが開催されることを願っています。

松原湖バイブルキャンプ M.S.

 松原湖バイブルキャンプに行きました。ベースは行ったことあるけれど、アウトは初めてだったのでドキドキしました。アウトに行くまでは、うまくできるかなとか心配しましたが、とっても楽しかったです。ベースとの違いは、時間に緩やかだったことです。ベースはプログラムがきっちり決まっていて計画通りに動いていて、それはそれで良かったけれど、アウトは、鐘がなったら集合ということでプログラムはざっとで時間に緩やかでした。
 キャンプで心に残ったことは、四つあります。
 一つ目は、水遊びです。自分で作った竹の水鉄砲で的に当てます。最後はカウンセラーに当てました。ビショビショでした。
 二つ目は、火を使って料理を作ったことです。二日目のお昼から作りました。焼きそば、カレーコンテスト、キャベツの丸ごと煮込み、ウインナーパンを二日目と三日目で作りました。
 三つ目は、アクティビティです。アクティビティは、クライミング、アーチェリー、その他(ゲーム)からやりたいものを一つ選んでやりました。私は、アーチェリーを選びました。矢は飛んだけど、的にはあたりませんでした。でも楽しかったです。
 四つ目は、ゴスペルタイムのメッセージです。Gさんがメッセージをしてくれました。一日目は、創世記1:1~3 二日目は、ローマ人への手紙5:7~8 三日目は、ヨハネ6:1~11 四日目は、イザヤ43:19 のメッセージでした。聞きやすくてお話がより分かりやすくてよかったです。
 大きくなってもアウトに行きたいです。
 最後に、皆さんお祈りありがとうございました。

■松原湖バイブルキャンプの証し E.T.

 私はMちゃんと一緒に、バイブルキャンプに行ってきました。とても楽しかったことが、四つあります。
 一つ目の楽しかったことは、途中からだけど自分たちで、カレーコンテストに優勝して、アイス無料券をもらえたことです。初めてご飯をはんごうでたいたり、たき火のちょうせつ、初めてのカレー(大人の力少々)で、「うまくできたし、一位ではなくても、二位か三位にはなるだろう。」と、グループで話し合いました。結果発表では、私たちのチームが一位で心底びっくりしました。
 二つ目の楽しかったことは、ナイトカフェです。夜にお皿を取りに洗い場に行ったら、大人が木の陰とかから、「わあっ!」って飛び出してきたりしました。紅茶とかフレンチトーストなどが出て来ました。山は標高が高くて、夜と明け方は寒かったので、暖かいものを飲んだり食べたりすると、いつもよりとてもおいしく感じられました。
 は三つ目は、賛美です。私が知らない賛美や、振り付けがありました。難しい振付が、できなくて、逆に楽しかったり、覚えられた時の楽しさがあったので「この賛美歌を、忘れないで、教会でも家でも、歌っていきたいな」と、思いました。〔結局ほとんど忘れました。(笑)〕
 四つ目は、Gさんのメッセージです。四、五、六年生向け、自分があった経験の話や、もちろんイエス様のお話、そこからGさんが思ったこととかを言ってくれました。話に引き込まれるような内容で、とても聞きやすかったです。「将来、私もそういう話をしていきたいなー。」と、思いました。帰りの車の中でお母さんにずっとそのメッセージのことを話していました。(笑)
 教会の皆さんおかげです!ありがとうございました!

三人四脚のダイアモンド婚(結婚六〇年) M.Y.

 夫93歳の誕生日、ケーキで祝う家族4人。「来年もまた美味しいケーキいただけますように」「来年はわからないねー。」「天国か地獄へ行くんだよ。行く先わからないのに?」「地獄ということはないだろう。」「イエス様は永遠の命をくれるといってるよ。」(かろうじて伝道のひとコマ)
 23歳で洗礼を受けた頃、近所の先生の同僚を紹介されて、親に心配かけないようにお見合いをし結婚しました。彼には教会へ行くことの承諾を得ていました。
 あれから60年、あっという間に時が流れたんですね。地域の老人会で祝賀の該当者になるとお知らせをいただきました。二人共に会に加入していないとだめなんです。意識するようになり振り返る時があたえられました。
 二人三脚で歩いてきたと思っていましたが、いつもイエス様の守りの中にあったのですね。三人四脚で、ときには忍耐をいただき、相手を理解する知恵と、相手を愛する力を与えて下さいました。
 夫は地質学を専攻していたので、趣味は化石採集です。今は出かけられませんが、日曜や休日には戸隠や信州新町の沢に行って化石を見つけてきました。「見つけてもらって化石が喜んでいる。」というわけで、家の周りは化石がごろごろ。家の中にも大事にしているものが沢山あります。
 義理堅いところのある人で、教会の伝道集会のお知らせを下さった方にご挨拶したいからと教会に出向いたり、地区の家庭集会では7~8名を迎えて開放してくれて、かつては正村先生の説教を一緒に聞くことができました。バザーでは、おやきや壁掛けやしおりなど(奥さん)の売上げに協力してくれました。
 私の踊りの発表会にも欠かさず来てくれて、家での稽古のときは、音楽が聞こえると「元気が出るねえ」と言ってくれました。
 冬の入浴時にはヒートショックにならないように、暖房をつけてくれたり声をかけてくれる優しい人です。
 2年前には、二人で同時期に入院したことがありました。ときどき理髪を頼まれて切ってあげることが仲の良いところかしら。
 朝は炊事中の私に「ママさん、ごくろうさん……」と毎日いたわりの声をかけて起きてきます。
 今の私の仕事は家族のために食事を作ること。出来るだけ手作りで胃袋を満たしてあげたいと思っています。日ごとの食事ももちろん神様からです。イエス様は「私にはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われましたが、私も家族もみことばの食事が頂けるよう、お祈りしていきます。
 今のように幸せな家庭を築いてこれたこと、教会につながっている事を許され、家族の協力のあることを、神様と夫に感謝しています。

■思い出の聖歌 M.M.

  雨を降り注ぎ 恵みたもうと
  神は愛をもて 誓いたまえり
  夕立のごと あまつ恵みを
  イエスよ今ここに 注ぎたまえや (聖歌570番『雨を降り注ぎ』)
 6月の礼拝で歌った聖歌です。この聖歌を歌うと、あの時のことが思い浮かんできて胸が熱くなります。
 1980年8月11日から16日まで5泊6日で、韓国ソウルで開かれた世界福音化大聖会に参加しました。正村先生の指導のもと、長野福音教会からは合わせて9人が参加しました。
 国会議事堂前のヨイド広場が聖会の会場。広大な広場で、もし戦争になったら滑走路になる所だと説明を受けました。そこで開かれた大きな聖会。確か2日連続の聖会だったと思います。広場いっぱいに韓国の人たちが詰めかけ、新聞などでも100万人集会と報じられていました。中央に一段高い演台が造られ、その両サイドは階段状に座れるようになっていました。私たち外国からの参加者はゲストとして、その階段状の場所に座りました。広場は見渡す限りの人で埋め尽くされました。力強いメッセージが語られ、賛美であふれる集会。私たちはイヤホンを借りて同時通訳を聞きました。
 ある集会の時、突然強い夕立が降ってきました。私は傘を持ってきていませんでしたので、困った、どうしようか、ホテルに帰らないといけないかと思い、あたふたしていました。
 その時、会場いっぱいに「雨を降り注ぎ~恵みたもうと~」大合唱が響き渡りました。もちろんプログラムにあったわけではありません。詰め掛けている韓国の人たちは、広場にそのまま座ったままです。立ち上がって帰ろうとする人は誰もいません。それを見て私も、腹を固め、びしょぬれになりながら、一緒に賛美しました。感動の集会でした。
 当時はまだ夜間外出禁止令が継続していて、駅などで夜を過ごす韓国の人たちも多くいました。韓国のクリスチャンたちの人数やエネルギーは、予想以上に大きなものでした。教会の礼拝にも参加しましたが、会堂は日本で言えば市民会館のような大きな建物でした。
 私たちが日本人だと分かると、60代くらいの婦人が話しかけてきて、流ちょうな日本語を話すのに驚きました。若い人たちの多くは英語を話す力を持っていましたが、日本の言葉は一言も話すことは無く、年配の人とのギャップの大きさに驚きました。
 「日本のためにも祈っています」という言葉を何回か聞きました。その背後には、日本がそして世界が平和でなければ、自分たちの国の平和も成り立たないという思いが強くあることを教えられました。
 バスで移動して、北朝鮮との境にある板門店も見学しました。北と南でそれぞれ銃を持った兵士が向き合い警戒に当たっています。双眼鏡でのぞくと、北側でも双眼鏡でこっちを見ています。会談が行われる建物に入ると、大きな机の真ん中にマイクのコードがあって、それが国境線になっているということでした。この室内だけは、自由に移動できるということで、北と南を行き来してみました。
 ソウルのパゴダ公園は、3.1(サンイチ)独立運動発祥の地とされるところです。日露戦争の後1910年(明治43年)に、当時の大日本帝国は、朝鮮半島を併合して支配しました。これに反発する宗教者たちが中心になって、1919年独立運動を起こします。しかし、日本の軍隊によって制圧されました。その時の様子を伝える大きなレリーフが何枚も並んでいます。独立を訴える朝鮮の群衆、その群衆に銃剣を向ける日本軍、倒れている多くの人たち・・・。私たちが日本人だと分かると、高齢の案内役の人がすぐ近づいてきて、独立運動のことを熱心に説明します。日本の朝鮮半島統治は、第二次大戦が終わるまで35年間続きました。
 8月15日は終戦の日ですが、韓国では「光復節」(こうふくせつ)と言います。韓国にいる時、ちょうどこの日に当たりました。

 日本では、歴史の授業で明治維新辺りまではきめ細かに学びますが、近現代については歴史評価の位置づけがしっかりできていないせいなのかサラッと過ぎてしまっている気がします。日本が朝鮮半島を統治していた厳しい時期があったことも実感しました。その後、朝鮮半島は南と北に分断されましたが、そうした朝鮮半島の背後に、日本も深く関わっていたことを教えられ、日本にも責任があること、平和的に統一できるよう尽くす責任があることも教えられました。戦争によって、朝鮮や中国、東南アジアの国々に対しても、どれほど悲惨なことをしてきたのか、日本は戦争の被害だけでなく加害の責任にも向き合っていかなければと考えさせられます。
 正村先生はいつも、韓国や東南アジアにも思いを寄せていました。その正村先生の指導のもとで、多くのことを教えられ、沢山の恵みをいただいた韓国の旅でした。

2023年春号

■巻頭言 みことばのリアリティー 山岸直生

へブル人への手紙13:8
「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」
 今年も幸いなイースターを迎えることができて感謝します。
 復活の出来事は女性たちが主イエスのお墓を訪れたところから始まります。主イエスは、洞窟のようなお墓に入れられて、とても大きく重い石で入り口をふさがれていました。しかも、見張りがいました。「三日目によみがえる」と言った主のことばを無理やり真実にするために、弟子たちがイエスの遺体を盗むかもしれないと思ったからです。しかし女性たちが墓に行ってみると、重かった石がお墓のわきに転がされ、中に入ってみると、なんと死んでしまったはずのイエスさまがいない!…女性たちがあわてていると、御使いが、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と語ります。しかも、女性たちは、主がよみがえったことを伝えに行く途中で、その復活なさった主イエスにお会いしました。これがイースターの大まかな出来事です。
 当時、実際に経験した人々にとっては衝撃的な出来事ですが、おおよそ二千年後の私たちにとっては、そこまでのリアリティーはないことでしょう。けれども、私たちがこのみことばに記されている出来事をどれだけリアリティーをもって受け止めるかということは大切なことです。そのためには、この出来事を過去に起こった他人事として受け止めるのではなく「この時、復活なさったキリストが今もなお、私たちと共におられるのだ!」と今を生きる私たちとのつながりを日々覚えることが大切なのではないでしょうか。イースターの出来事に関して、私たちとの結びつきをいくつか挙げてみたいと思います。
1.十字架の必要性
 父なる神は義なるお方です。そのような神の義の前に誰一人正しいと言える人はいません。私たちは生まれながらに罪人であるのです。けれども愛なるお方である神は、私たちの罪の身代わりとして、ひとり子イエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。何故、キリストのみが罪の身代わりとなりえたのでしょうか。例えば、借金の肩代わりをしてくれた人が、お金を払えないと肩代わりの意味がありません。無理をして肩代わりをしたとしても、自分に負債があれば結局、負債は残ったままとなります。私たちは誰しも神の御前に「罪」という負債を負っています。ですから、いのちをもって罪を贖ったとしても、それは自分の罪を贖って、つまりさばきを受けて終わりで、他の人々の罪を贖うことなどできません。ですから罪を犯したことのない神であるキリストのみが、私たちの罪の身代わりとなることができたのです。
2.復活の必要性
 聖書は罪からくる報酬は死であると述べられています。そしてキリストは確かに罪の罰としての死を迎えられました。けれどもキリストは死に打ち勝つ必要がありました。そして罪に勝利し、私たちは、その罪に勝利した復活のキリストのいのちの中で生かされているのです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20)とみことばにある通りです。
3.イエスが復活しなければ私たちに救いはない。
 私たちの罪を背負い死なれ、その死を打ち破ったことにより、私たちに罪からの救いがもたらされました。私たちが信じているのは、過去に死んで今はいなくなってしまったイエスではなく、聖書の時代と何ら変わりのない今も生きておられるイエス・キリストです。そのキリストを信じることによって復活のいのちにあずかることができます。まさにここに過去の出来事ではない、みことばのリアリティーがあるのではないでしょうか。
4.「知っている」ことと「信じている」ことの違い。
 みことばにリアリティーを持つために大切なことは、「知っている」のではなく「信じている」ということです。「十字架の出来事は本当です」「イエス・キリストが復活されたことは本当であると知っています」といった感じで、ただ単に聖書の内容を知っていることでは信じたことにはなりません。もしそのような聖書の内容の記述を知っているということが救いの指針となるのであれば、私なんかよりも聖書の内容に精通しているノンクリスチャンの歴史学者の方など大勢おられることでしょう。けれども、それは必ずしも「信じている」ではなく「知っている」だけのこともあるでしょう。みことばにリアリティーを持つという事は、たとえ過去の出来事であったとしても、それを自分の事として受け止めるということです。イースターの出来事でいうならば、十字架は「人々の罪のため」ではなく「この私の罪のため」であることを信じるということです。
 そしてこのことは何よりも人の業ではなく聖霊の御業によって信じることができるのです。ですから、もし十字架の福音を信じているというならば、そのことそのものが聖霊が今そこに働いておられるということの証明になります。これもまたみことばのリアリティーということであると思います。みことばは過去に記されたものですが、神のことばとして今もなお私たち一人ひとりに働いてくださることを覚えつつ歩んでいきましょう。 

■救いの証  M.A.

 生きる上で最も重要なことは努力だと思ってきました。成功体験は全て自分の努力の成果、失敗は自分の努力の足りなさだと思っていました。まわりが見えず、狭い視野でただ報われることだけを願って努力してきました。
 しかし自らの有限性に気づかされることが多くなり、そのたびに努力の足りなさを他人のせいにするようになってしまいました。ついには精神的にも追い詰められ、仕事も退職するに至りました。自分を責め、どうしてこうなったのかと悩む日が続きました。
 その時、献身的に私を支え耐え主に祈ってくれていたのは妻でした。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリント信徒への手紙 一 13章4節~7節・新共同訳)
 妻は洗礼を受け、私も導かれるように長野福音教会に出会いました。私は徐々に回復することができ、自分ではどうすることもできないことがあることを知りました。
 説教を聞く中で、主の愛について理解が進み、自らの罪の大きさにも気づかされました。また献身的に支えてくれた妻の行動から主の愛を感じ取りました。そして、教科書で理解していた贖罪の思想つまり主イエスキリストが私の罪も負い赦して下さったということを体感しました。心は安定に向かい、日々感謝し憐れみと救いを求めるようになりました。忙しい時でも感情がコントロールしにくい時でも、行動を一度止めて主の前に立ち返り正しい判断と行動に向かわせていただけるようになりました。自分自身の変化に驚き、洗礼を受けたいと強く願うようになりました。
 今後は迷わず主のお導きに一切を委ね、期待し、自分を過信せず生きようと決意しました。選択すべきことを導いて下さる主に感謝し憐れんでくださる主に支えられ生きていきます。自らの罪を認識し祈りと感謝を生活の中心に据えて、主を拠り所に生きてまいります。(202212月受洗)

                                         

献身の証 ―KGK主事に導かれて―  M.T.

 献身について意識したのは高校最後の冬でした。牧師から「牧師に興味ないか?」と聞かれ、それまで意識したことはなかったのですが惹かれるものを感じました。ただ当時は受験生だったので、現実から逃げたい故と思っていました。
 その年の春にキャンプに参加し、エレミヤ書29章11節が開かれました。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている-主のことば-。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 私がどこに進もうと、主が共にいてくださるならそれは平安と将来と希望が与えられるものだということを覚えました。同時に、自分の願いを正直に神様に打ち明けるよう導かれ、「私は献身したいです」と祈りました。牧師と家族にも打ち明け、想いを共有し祈ってもらいました。牧師には「召しがあるか確かめる必要がありますね」と言われました。
 その後「なぜこんな者が献身なんてことを口走ったのか」と思う日々がありました。仕事に就くと、神ではなく人を恐れ、愛に乏しく、自己中心な自分を見ました。翌年は予備校に通いましたが、勉強が嫌で、自制と忍耐に欠ける自分の弱さを見ました。自分がクリスチャンましてや献身者として相応しくないことを痛感しました。それでも、大学進学の道は開かれ、そこで神様の恵みをいただきました。「献身」というものを「主を愛すること」として捉えるようになっていきました。またマタイ6章34節「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」の御言葉から、毎日のその時々をお献げすることが献身であることを覚え、「今日という日をあなたにお献げします」という祈りに導かれていきました。
 大学3年生の春、教員となるために動き始めた矢先、KGKから声をかけていただきました。私自身は嬉しかったものの家族や近しい人はこのことに積極的ではありませんでした。私は人の目を恐れやすいので、私の心は人の声で満たされました。それでもピリピ1章6節「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」という御言葉に導かれ、全てのことを主が完成させて下さることを信じて、教員となる道を逆らわずに進むことにしました。KGKからのお誘いをお断りした後は「あれでよかったのか」と問う日々でしたが、最終的には「今の自分には召しがなかった」と結論付けました。ただ今振り返れば、召しがなかったというより、私が召しを受け取れなかったという方が正しいかもしれません。
 教員の準備を進めるうちに気持ちも落ち着いていきました。そんな中、KGKのキャンプに参加しました。初日のメッセージで、ヨナの姿と創世記3章9節『あなたはどこにいるのか。』」という御言葉に心をとらえられ、直接献身について、もう一度神様に祈るように導かれました。そして神様に3つの祈りを献げました。「私自身の本当の願いを教えてください」、「あなたの御心を私に分かる形で教えてください」、「私とあなたとの間にまだ解決していない問題があるのでしたら、和解させてください」。そのすべての祈りに神様ははっきりとお応えくださいました。献身することで生じる周囲との不和への恐れ、またその恐れの原因となる私の心の傷に、主が寄り添ってくださり、十字架の御業によって癒してくださいました。そしてマタイ16章24.25節「『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従って来なさい。』」という御言葉に導かれ、「ここに私がおります。遣わしてください」と祈りました。家族や近しい人を失望させてしまうことは少なからず予想できたので、手放しに喜ぶことはできませんでしたが、恐れはありませんでした。私の隣にはいつも復活のイエス様がいてくださるゆえに、深い平安がありました。その後も、日々自分の十字架を負って主に従うように召されています。
*KGKは、キリスト者学生会

■信徒対象 家の教会セミナーについての証  T.Y.

 2022年1118日~20日に、大阪府松原市にある松原聖書教会にて、信徒対象家の教会セミナーが開催され学ぶ機会をいただきました。2022年6月に浜名湖バイブルキャンプで開催された牧会者対象カンファレンスにも参加しましたが、その時は「家の教会とは何か」についてぼんやりと分かる程度でした。11月の信徒対象のセミナーでは、家の教会についての基礎的な知識を知り、実際に家の教会が行われているところを見ることができました。
 家の教会とは、新約聖書に出てくる初代教会の形に返っていくことを指します。具体的には、教会に集う信徒が牧会者となり、信徒の家に少人数で毎週集まり、礼拝、教育、交わり、伝道を行うことです。この集まりを「牧場」と言います。参加させていただいた牧場には78名が集っていました。20代の青年たちと、若い夫婦とその子どもたち、またその上の世代のご婦人が集まり、食事をし、賛美し、教会の近況報告を聞き、主日の礼拝の内容から分かち合い、またそれぞれの祈りの課題を伝え、ともに祈るという内容でした。婦人や壮年は若い世代を教え励まし、若い世代はさらにその下の世代の話を聞いたり、また子どもたちの遊び相手になったりと、それぞれが役割を持っていました。その姿はまさに家族と言ってよいと感じるほど、関係性が濃密で共に支え合い、共にいることが当たり前のようでした。もちろん、そのような関係になるまでは長い時間が必要だったそうですが、まさに主によって結び合わされた家族でした。このような家族の姿が未信者の方への証になるのだと分かりました。
 家の教会を始めることは、当初手の届かない夢のように感じていました。しかしセミナーに参加して、これなら教会でもできると思いなおしました。新しいことを始めるときには犠牲や悩みも出てくるでしょう。それでも長野福音教会では家庭集会をしてきた経験がありますし、交わること、祈り合うこと、集まることに積極的な方々が多くいらっしゃいますから、夢ではありません。
 「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」第一コリント15章58節
 この箇所にあるように、主に仕えるときに、私たちが担う労苦は無駄ではありません。そのことを主はご存じです。
 今回のセミナーでは、神様が用意してくださった素晴らしい出会いもありました。共通の知人がいる方々に出会い、またセミナーの参加者7人のうち半分が私と同じような福祉系の仕事をしていて、まるでセミナー参加者の牧場ができたような体験をしました。私は間違いなくこの場に招かれていたのだと感じました。セミナーで講師の先生より、「受け入れられているから、招かれているから、人は愛を感じる」との言葉を聞きました。私たちを招いてくださっているのは神様です。神様が私たちを愛し、いつも招いてくださっているから、神様の愛を感じるのです。家の教会では、まさに神様が私たちを招いてくださっていることを、体験することができます。私もこのように、人々を主の交わりに招く働きをしていきたいと、心を新たにされました。
 家の教会について知りたい方はぜひ参加してみてください。今回のセミナーへの参加にあたり、祈り支えてくださった方々、尊い献金をささげてくださった方に、心から感謝いたします。誰よりも、天の神様に心から感謝します。

■茶筅の会の恵み  A.I.

 お茶の道の同好会として、毎月一回お茶のお稽古をしております。
 会発足においては、「種をまく人」という言葉が胸に去来します。1年前に神様の愛の種を蒔いて下さった高橋先生がこの地を去られ、淋しい思いをしました。そのことをMさんにお話したところ、墓前礼拝にお誘い下さりその方々と休憩させていただきました。その時、お茶を点てさせていただいたことが茶筅の会発足の機縁となりました。
 目標は「楽しくお茶をいただく」、「盆略点前ができるようになる」です。
 年配である事、月に1回の稽古である事により歩みは遅々たるものですが、遠からず各々が初歩のお点前ができるようになると思います。
 先日あるアスリートの方が「立ち止まりさえしなければゴールは近づく」というお話をしておられました。神様の光の道を歩ませていただいている私たちです。希望を持って歩みたいと思います。

■『世の光いきいきタイム』を聴いてみませんか  E.Y.

 『世の光いきいきタイム』を聴くようになったのは、ラジオ放送継続のために必要な費用に対して献金が足りず赤字が続いていると聞いてからです。
 日曜日の朝710分から始まりますが、習慣になるまでは聞き逃した!ということが何度もありました。『世の光』のHPからメッセージを後からでも聴けることを知ったのはだいぶ後になってからです。
 テーマ曲に続いて、飛田喜代美さんか江橋摩美さんの声で始まります。第1週にはお便り特集、第2週にはインタビュー企画、第3週には全国のクリスチャンにインタビューする「この街のあなたを訪ねて」、第4週には視聴者からの質問に牧師が答えるQ and Aというコーナーがあります。クリスマス、イースターの時期には企画は入れ替わることがあります。
 私は『世の光』はクリスチャン向けの番組だと思っていました。でも2021年の70周年記念企画で村上宣道牧師がお話ししてくださったのは、アメリカ人宣教師とアメリカで放送伝道をされてきた羽鳥明先生の情熱から始まったということでした。むしろ未信者の方への伝道のためでもあったのです。
 私が好きなのが「この街のあなたを訪ねて」で、インタビュー形式の証です。これを聴くと、神様が信徒を招かれる方法はその人だけのものであることに強い感動を覚えます。印象深いものを2つ紹介します。
2022年619日に放送
 2022429日に昇天された小坂忠さんの追悼特集で、2018年のイースターのインタビューを編集したものです。
 『放浪』というアルバムを出した直後、日本中ツアーで回った後に、妻の実家に遊びに行って義理の母が料理をしている時に、当時2歳の娘が台所に入って行って、熱湯を頭からかぶって大火傷を負うという事故が起きた。顔も焼け爛れてしまってすごく心配した。妻の祖母がクリスチャンで、祈ってくれていたが、この義理の祖母が、「教会に行って祈ってもらいなさい」と勧めてくれたので、祖母が紹介してくれた教会に水曜日の夜に行った。そこでは小さな祈り会をやっていた。娘のことを話したら、娘のために祈ってくれた。そして1ヶ月後、治療の効果を見るために、娘が包帯を外す時が来た。1ヶ月で、綺麗に治ってしまった。その時に初めて、「神様っているのかもしれない」と思った。それまでは何かに頼って生きる生き方は自分のものではない。自分の力で人生を切り開くのが自分の生き方だと思っていた。でも、神様がいるんだったら、知るのは今しかないと思って、聖書を読んで、礼拝に参加するようになった。聖書の中でとても印象的だったのが、イエス様が十字架の上で「わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか」と叫ぶ場面。キリストが神に見捨てられた。これは僕の叫びだと思った。そう思ったら、感動して涙が溢れて来た。その時にキリストを救い主として受け入れた。

2021年815日放送
 2018年にドイツから帰国し、大阪を拠点に活動されているソプラノ歌手・伝道師の工藤篤子さんの証 
 ずっと一人っ子だったので、妹か弟が欲しかった。7歳の時、待望の妹が生まれた。その妹が1歳になる頃にハイハイをしていて、壁に立てかけてあった重いテーブルを後ろ足で蹴って倒してしまった。そして、テーブルは妹の頭を直撃。その怪我が原因で知的障害を負うようになってしまった。母親は妹を一所懸命世話していたが、その姿を見ていて、母や妹への恨み、妬みを感じるようになった。そんな気持ちでいっぱいになると、吃音や自律神経失調、幻聴、幻覚といった症状が出るようになった。高校に入って合唱部に入り歌うようになった。すると歌っているときには吃音が出ないことに気づく。歌うことが心の安らぎとなった。高3になって音楽大学へ進学することを決め、受験勉強のため、ラジオ講座をタイマーで録音して聴くようになった。ある日録音を聴いてみたら、タイマーを掛け違ったようで全然違う番組が入っていた。その中に「世の光」が入っていた。メッセンジャーの先生が優しい声で言われた「神は生きておられます」という言葉が、一条の光のように心に差し込んだ、それがきっかけで聖書を読むようになった。この神だったら、私の荒んだ心を変えてくれるかもしれないと思った。そして、時々教会の礼拝にも出席するようになった。でも、救いは何かということがわからなかった。その後、スペインに留学するようになって、信仰を持つようになった。日本にいるときは、自分が変わらなければ、良い人間にならなければ、クリスチャンになれないと思っていた。音楽の世界に入れば入るほど、聖書が言うような良い人間にはなれず、音楽仲間を蹴落としていこうとすると思った。スペインである時、叫ぶように祈った「こんな哀れな私を救ってください!」何日かそういう祈りを続けた。その後、1人のアメリカ人宣教師に出会い、その方に色々とお話して、御言葉をいただいた。その中でローマ5:8の御言葉が心に響き、救いを受け入れることができた。

 まだ聴いたことのない方、ぜひ一度聖日の朝710分にSBCラジオを聴いてみませんか。

2023年冬号

■巻頭言 2023年の主題聖句について 吉村恵理也

 あけましておめでとうございます。今年も主にある歩みを共にしたいと願っています。
 昨年はローマ10:17より「みことばに聞くこと」、「みことばの実現」を年間目標にしてきました。「一年の計は元旦にあり」とも言われているぐらい、年の初めに計画や目標を立てることは大切です。計画を立てる時には、目標に向けて達成できた部分と、反省点を見直し、新年の目標へ心を新たにしてゆくのが良いと思います。
 昨年はみことばに聞くこととして、デボーションの実践と浸透を勧め、祈祷会などで日々のみことばを分かち合いました。信徒同志が、みことばから教えられたことや、考えさせられたことを話すことで、聖書の深みを味わい始めました。そして、少しずつですが、家庭集会や各種の諸集会が再開されたことも、目標に向かって歩めたところであると考えています。福音宣教の前進により、受洗者が与えられたことも感謝なことです。
 次に反省点ですが、みことばを聞けなかった(聞きづらい)方々へのアプローチに欠けがあったように思います。教会から離れ気味な方々への励ましや、「共に祈り合う」事の実践には足りなさを覚えさせられています。自戒の意味も込めて、新年の歩みに課題意識を持ち、刷新されていきたいと思います。
 そして、新年への歩みについて、これらのことを踏まえながら考えてみます。
 2022年11月以降の役員会で、新年の目標や聖句について分かち合いました。いくつか候補を挙げて、話し合いを進めましたが、その中で「信徒同志の交わりを深めていきたい」という意見が多くありました。使徒信条でも、私たちは信じていることを告白する中で、「聖霊を信じる」項目で、神さまの働きによって「聖徒の交わり」が行われていることを信じていますと共通の告白をしています。ですから、信徒たちの交わりは、とても大切です。聖徒の交わりを通して、どの様なことが開かれていくのか?と言いますと、続く告白で、「罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」と言っています。ですから、聖徒の交わりは、「カフェでアフタヌーンティーを飲みながら、世間話に時間を割く」という、2022年の流行語になった「ヌン活」ということではないのです。お茶を飲んだり、お菓子を食べるなということではなく、聖徒の交わりにおいて「罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのち。」につながることになっているのか?ここが重要であるということです。
そして今年の年間聖句は、
コリント人への手紙第一 19
神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」
 というみことばから「真の神による呼びかけに応えて、主にある交わりの回復を目指す。」ということを覚えていきたいと考えています。
 コリント教会の特徴は、紀元前146年にローマによって破壊されました。その後、紀元前44年にローマの植民都市として再建され、土地柄の特徴を活かし、経済的繁栄を遂げていきます。
 [聖書背景]コリントは、アドリア海とエーゲ海を結ぶ運河に位置する都市でもあったので、交通の要所であり、地中海から、様々な産物が集まってきていたのです。ですから、コリントの人々は新しいモノや思想に抵抗がなく、新しいことをどんどん取り入れる傾向がありました。ローマの植民都市でしたから、ローマ皇帝を崇拝する皇帝礼拝も、盛んだったのです。他にも、様々な問題がありました。コリント人への手紙を見てみると、夫婦の問題、性の乱れ、偶像との向き合い方、教会員の不一致、信仰生活における諸問題について、書かれています。
 [本論]年間聖句である第Ⅰコリント1章9節にある「神の真実」、この理解を確認しますと、辞書では、①うそや飾りのないこと、本当のこと、まこと、とあります。これが聖書で言われている解釈を掘り下げると、
 「神が人への愛や忠実を守られること」と思われがちですが、そのように訳されることは実は少ないのです。「不変の愛」「いつくしみ」「親切」「あわれみ」等と訳出されていることが多いのです。詩篇では、「恵み」と訳されていることが多いです。
 ですから「神は真実です。その神に召されて、」とは、神の愛の呼びかけに応えた者、と解釈することができます。コリント教会は、腐敗した現状にもかかわらず、聖徒として召された者としてパウロが宣べています。これらのことから「クリスチャン」とは、私たちの生活が聖書の教えを完璧に守っているから聖徒なのではなく、「正しい方向へ向かい、罪は悔い改め続ける者」であることが読み解けます。
 [結論]その主の呼びかけた方は、愛を示すだけではなく、神であり、世界を治めておられるほど偉大な方が、私たちと交わりたいと言ってくださるのです。真のリーダーシップは、手を差し伸べ、悪や腐敗から、救いの希望を導くものであるです。その愛の真実とは、キリストの十字架と復活です。みことばの示す「神の真実」は、愛や恵みであることを確認しましたが、それと同時に、行動で示してくださったのが十字架の御業です。そして復活された主が、復活に相応しい生き方を共にしようと、手を差し伸べてくださっているのです。その招きに応え、主イエスと共に、生き続けようではありませんか。
 [適用]主が示してくださった神の真実を、具体的にどのように聞くのでしょうか?続くみことばで、パウロはこう勧めています。
Ⅰコリント1:10 「さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。」
話す方向性が一致していること、意見が食い違うことがあったら、同じ方向を見て歩むこと、神のみことばによる理解を共にするように言っています。神のみことばによって目標を立て、キリストによる関係の回復を目指していこうではありませんか。

■結婚の証   Y.T.

 私は昨年、長野福音教会にて、Tさんと結婚しました。お祈りありがとうございました。吉村先生には結婚の学びから導いていただき、教会の皆様には沢山の準備を手伝っていただきました。感謝です。
 私はずっと結婚に憧れを持っており、高校生の時から「24歳くらいで結婚したいです!!」とひそかに祈っていました。大学に行くことになった時も、もしかしたらそこで結婚相手に出会うかもしれない…!と少し期待していました。入学後、期待していた運命の出会いらしきものはなく、友達に次々と彼氏ができる中でとても焦っていたことを思い出します。しかし、KGK(キリスト者学生会)に通うようになり、同じ奉仕を通してTさんと出会いました。
 交際が始まって一年ほどで、私が社会人になり遠距離恋愛が始まりました。しかし、直接会うことが難しい中、学生と社会人の価値観の違いや、時間の流れの違いから、衝突することが増えました。特に私は、自分の弱さや本心を人に伝えることが苦手で、答えが曖昧になってしまったり、逆に自分を守ろうとして攻撃的になってしまったりして、ギスギスした時期もありました。お互いに、「このまま付き合い続けても良いのだろうか」と考えていたと思います。
 そんな時、Tさんから一緒にデボーションをしようと提案があり、毎週日曜日の夜に詩篇を1章ずつ読み進めるようになりました。そこから私たちの関係は、徐々に変化していったように思います。デボーションの時間には、聖書を読んで感じたことや、祈りの課題、今まで生きてきて嬉しかったこと、苦しかったことなどいろいろなことを分かち合いました。そうしてだんだんと、素直な気持ちを伝えられるようになり、お互いに相手を受け入れ、尊重できる関係になっていきました。
 「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」伝道の書 4:12
 結婚式のメッセージで語られた箇所です。ふたりはひとりよりも心強いです。ですが、ふたりだけでは解決できないことも沢山あると知りました。今まで、私たちの間に問題が起こった時、イエス様は聖書やまわりの方々や祈りを通して私たちに適切な言葉を与え、解決に導いてくださいました。イエス様に導かれて始まった夫婦としての関係。これから楽しいこともあれば困難に直面することも沢山あると思います。しかし、私たちの間にはイエス様がいてくださることをいつも心にとめ、祈りつつ夫婦で歩んでいきたいです。

穏やかなひととき 音楽賛美礼拝~講師/稲垣俊也先生・奏楽/田口靖子姉   K.M.

 10月23日、音楽賛美礼拝があり、講師に稲垣俊也先生を、また奏楽に田口靖子姉をお迎えすることができました。
 お二人とも華々しい経歴を持つ方で、どんな曲を演奏されるのか、また参考になることは何かが関心事でしたが、楽しめたことが一番うれしいことでした。
 稲垣先生は、終始にこやかに、冗談を交えながら、軽妙な語り口でメッセージを語り、バスバリトンの豊かな幅広い声量は美しく響き渡り、会堂全体が揺さぶられるようでした。
 “ガリラヤの風かおる丘で”は、私の大好きな曲で聖歌隊も礼拝で合唱賛美をしました。先生に教えていただいたらどんなに素敵な曲になっていたことでしょう。
 “主イエスの歩みし道”と“主の祈り”は、私も声楽家の伴奏をした当時を思い出し懐かしく聴きました。
 マタイ受難曲より“わたしの心よ自分を潔めなさい”は、マタイ受難曲では最後のアリアで、シチリアーノのリズムによりピアノとのかけ合いが美しく心地良かったです。
 しかし、先生がお(・)バッハというくらいなら、もう少しお(・)バッハの曲を聴いてみたかったです。
 バッハは形式的な重い曲の他にも、喜怒哀楽や悲しみ苦しみなどの感情も表し、(私が)信仰を持ってからはおどろくほど多くの曲を知ったのです。これもバッハ、あれもこれも…と、その偉大さに、音楽の父だなあと、改めて思わされます。そして私にも「お」をつけたい作曲家が数人いて、その楽聖達がいなければ、音楽生活は味気のないものになっていただろうと、感謝感激です。
奏楽の田口さんも、歌とバランスよく弾いてくださいました。前奏曲を楽しみにしていたのですが、聴けずじまいで残念でした。
 “空の鳥を見なさい 天の父が養ってくださっている”のメッセージ、また人に起こる事実は1割で、9割は反応である。すべてのことに肯定的に反応すると、物事は良くなる。また、荒野で墓が見つかった時「もうだめだ、ここで死ぬ」という人と、「これは人家が近いというしるしだ」と思う人の違いを言われ、自分の残された人生を、肯定的に生きたいと思いました。
 罪の痛みや悲しみを捧げると主は喜ばれる。信仰は楽しむもの、と秋の穏やかな日差しのもと、にこやかに話され気持ちも軽く家路に就くことができました。

■ゴスペルワークショップ  N.S.

 11月末そろそろワクワクする時期。なぜなら12月の初めには4月から毎月練習してきたゴスペルコンサートがあるから。風邪をひかないよう気をつけて、外から帰ってきたらいつもはしないうがいなどしていたなぁと思い出す。
 2年前からのコロナによって、コンサートは中止になった。なんとも言えない喪失感が続いた。もうこれで、ノンクリスチャンの人達はゴスペルから離れてしまうのではないか、 コロナが収まってまた始めたとしても誰も来なくなってしまうのではないか?自分自身もゴスペルはもういいかなってあきらめの気持ちが続いていた。
 しかしやっぱり、神様はなんとかしてくださった。
 2022年には7月・10月・11月に単発であったがワークショップを行うことができた。 みんなに声をかけると懐かしい顔ぶれが揃った。エミ先生も東京から来てくださり、いつもの発声練習、 アーメン、アーメンとソプラノ、アルト、テナーで合唱すると、涙が溢れだした。嬉しくて嬉しくてゴスペルってこんなに楽しかったんや、 しかもノンクリスチャンの人達が多い中みんなが神様を賛美していると思うとそれだけで感無量。 ワークショップを終えて帰る時のみんなの満ち足りた顔、笑顔。ほんとに素晴らしい。
 神様はワークショップを通してノンクリスチャンの人達に神様の存在を示しているのだろうなと思う。
 あなたに比べ得る存在は 他にいません。
 あなたのような存在は 他にはいません。
 あなたは 大いなるお方。
 アーメン その通りです。
 2023年5月から、10年目に向けてワークショップを開催の予定です。たくさんの方がゴスペルを通して神様を知り信じていけますように祈りつつ。

2022年秋号

■巻頭言 執事と長老について 吉村恵理也

 2022年9月時点では、長野福音教会における決定機関に役員が立てられています。その役員の基準として教会規則で八つ定められていますが、簡単にまとめると「教会の良い奉仕が出来る者」と言えると思うのです。そして役員の心得は、使徒6:1-7、Ⅰテモテ3:1-13を根拠としています。その中身は、
 ①教会担任教師とともに、教会に奉仕し、教会を治め運営する責任を負う。
 ②教会担任教師とともに教会の秩序の維持、教育訓練の責任を負う。
③教会担任教師、教会員とともに、教会員のために祈る責任を負う。
④教会担任教師とともに、教会員の子どもを教育する責任を負う。
⑤教会担任教師とともに、率先して伝道する責任を負う。
 この5つが掲げられています。
 改めて根拠となる聖句を見直してみると、使徒6章では教会内の諸問題を「信仰と聖霊に満ちた人(使徒6:3)」たちが、みことばを宣べ伝える人たちの助けをするために選出されていました。長野福音教会での役員は「教会担任教師とともに」とあるので、教会担任教師は役員と同じ働きでないことが分かります。また、Ⅰテモテ3:1-13では監督の職と執事について書かれています。これらのことから、教会は根拠聖句により忠実に従うために、教会担任教師の務めを確認する必要があるのです。その務めとは「聖徒たちを整えること」です。聖書にはこうあります。
 エペソ4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
 エペソ4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
 つまり、教会担任教師の務めは、教会建設の働きが出来るように、教会の信徒を良い信仰生活が送れるように、整え務めることが求められるのです。そして、聖徒を整える手段が「みことばと祈り(使徒6:4)」になります。ですから、教会担任教師は主日説教と水曜祈祷会にはどうしても時間を割かなくてはなりません。
 そして今回分かち合いたい部分は、「教会担任教師を聖書がどのように位置づけているか?」ということです。聖書では、「教会担任教師」を「監督」と言っています。
 ピリピ1:1 キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
 つまり、監督に教会担任教師が含まれるからです。ですが、監督を牧師・伝道者と限定していないことも忘れてはなりません。共同体を治めるリーダーとして長老という立場が定められていましたが、この長老も聖書の示す監督に含まれるのです。というのも、
 Ⅰテモテ 5:17 よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。
 というみことばがあります。ここでは報酬のことは触れませんが、
 ①よく指導している長老
 ②みことばの教えのための長老
 と共同体を導く監督は複数分けられていたことが分かります。私の育ってきた教会では①治会長老、②宣教長老、という言い方をしていました。
 これらのことから、私たちの教会政治の在り方について根拠聖句を見直すのであれば、「教会担任教師とともに」の部分を「監督(牧師・伝道師・長老)とともに」とした方がより聖書的です。長野福音教会では過去に長老制を行っていたことが記録として残されていました。前主任の高橋牧師の元で教会政治を改革したものだと聞いて、資料も確認しています。そして現役員の声を聞いていると、役員の負担と責任が大きいという課題があります。役員が長老も執事の役割も兼任しているからこそ、負担も大きいのではないかと考えています。これらのことから、教会政治を見直す中で、長老を立て、霊的な方向性や祈ることを大切にすることが必要であると考えているのです。このためには、規約を見直したり、長老になる立場を聖書的に再確認したりして、その立場を担う人を祈り求めなくてはなりません。少し大変さも覚えることがありますが、聖書的かつ健全な教会形成を目指す上では、重要かつ大切なことになります。ですから、良き教会形成ができるように続けてお祈りくださればと思います。

■教育部の諸活動  M.T.

 漫画知識ですが、「教育」とは、「教え」「育む」と書くそうです。では「育む」とは何でしょうか。意味を調べると、「親鳥がひなを抱いてそだてる」、「親が子を育てる」と出てきました。教育部としての活動を考えるとき、そこには愛を持った直接の交わりが不可欠ということです。
 教育部の活動として、ウイングス、ユースなどの教会学校(CS)をはじめ、信徒講座、賛美タイム、図書、家庭集会、各自主活動グループなどの活動があります。ご承知の通り、COVID感染により、あらゆる活動がいったんは強制的に停止をしました。しかし3年の時を経て、それぞれのペースで活動は再開してきています。未知の環境の中、不安を伴いながら、情報を集め、知恵をつくし、そして神により頼んで進められていることは、言うまでもありません。
 さらに吉村師が当教会に赴任されたことにより、今までの課題であったサタデークラブと家庭集会が、新たに動きだしました。研修などもあり、しっかりした目標と土台も備えられています。家庭集会は早くも枝分かれ的な広がりを見せ始め(参加者募集中)、サタデークラブは8月27日から始まることが決まりました(奉仕者大大大募集中)。ちなみにこれらの活動は、ほぼ吉村師のリードによるものです。2020年度総会において、次世代伝道のためにスタッフを招聘することを決めた、総会決議の実りが見え始めたといえるのではないでしょうか(高橋牧師が新しい地に遣わされたことには寂しさを覚えますが)。
 ちなみに、現在ウイングスでは、聖餐式がある主日に限っては、子供たちを第一礼拝に参加するように促しています。そのため、教会学校であるウイングスはお休みとし、代わりに交わりを目的としたイベントの日としています。そのため、第二礼拝に出席している方で、聖餐式の最中に子供の声のにぎやかさを感じる方がいらっしゃったなら、これが原因です(笑)。今まで遠足をはじめ、バルーン大会やサイエンスキッズなどが行われました。ぜひ皆様からの提案も頂きたいので、何かありましたらお伝えください。また、どなたでも自由にご参加下さい(教会Face Bookに告知や報告などアップしています)。子供たちにとっては、教会の人たちに愛されていることを実感できる、とても貴重な時間となります(子供は一緒に遊んでもらう時に愛を感じます)。これは現代社会で失われつつある、人との交わりを学ぶ時でもあります。
 ユースは、今年度から加わった女性たちが、中学生の傍らに寄り添うことにより、自分の生き方を選ぶ時期である中学生にとって、その場所が居心地のよい空間となっているように思います。
 振り返ってみると、教育部としてはCOVID前と比べても、根本的なところは何も変わっていないように思います。嵐にもまれようとも、キリストなる港に、愛する兄弟姉妹とともに憩いたいと思う。それには人の繋がりと神の繋がりが必要であり、そのために教育部のそれぞれの活動があるのだと思います。ぜひ、新たな活動や、再開したい活動などあれば、始めてください。そして加わってください。もし何か必要があれば、教育部にお声がけください。

レディスランチョン主催のコンサートを終えて  E.M.

 622日、3年ぶりにレディスランチョン主催の、ランチョンなのにランチのないフルートコンサートが行われました。
 コロナ禍ではありましたが、比較的感染者数の落ち着いているなか、フルート奏者の紫園香さんをお迎えして118名が集い、長野福音教会からは男性も含め16名、未信者の方も3名参加してくださり、無事に終えることができました。お祈りとご協力、ありがとうございました。
 紫園さんのフルートの音色はすばらしく、一曲一曲が心に響く演奏でした。また、音楽伝道師として、ご自身の経験や病気を通して、神様の愛をわかりやすく語ってくださり、癒され満たされ感謝なひとときでした。
 レディスランチョンは、各教会やNaECの集会とは別に、北信の女性たちに超教派で伝道するという目的で1995年に始まりました。当時は、女性が出かける機会も少なく、講演や音楽を聴いて、ホテルでフルコースの食事をするなどなかなかできず、1年に1回のランチョンを楽しみにしている方もいたと聞いています。
 私はクリスチャンになって6回目からの参加、9回目からは正村八重子先生の補助として委員を勤めてきました。
 世代も変わり、コロナ禍で世の中の状況も変化しています。
 亡くなられた正村八重子先生の、病床での心配が頭を離れず、足りないものが委員を長く続けましたが、変化に柔軟な若い力を必要だと感じています。伝道の働きのために若い方が委員に立候補してくださるとうれしいです。

At Calvary  E.Y.

 7月9日に、丸2年お休みしていた対面でのゴスペルワークショップを再開しました。30人強が集まり、開け放った礼拝堂にはちょうど良い人数でした。私は以前にゴスペル体験に参加したことがありますが、それ以来のことでした。参加した理由は、聖歌隊も丸2年お休みで、しっかり声を出しての賛美の機会が減ってしまっていることから、とにかく賛美したい、できれば仲間と一緒に、と思ったからです。
 今回は以前合唱をやっていたゼミの学生を連れての参加でした。コロナ禍で歌う機会がないので・・・と語ったことがありましたので、誘いました。学生は無料にしていただき、ありがとうございます。
 さて、今回の課題曲は、“At Calvary (Arranged by R. Smith)”でした。久しぶりのワークショップなので、易しい曲を・・・なんてことはありません!かなりハードルの高い曲を選ばれました。最初にそのようにエミ先生がおっしゃるのを聞いて、大丈夫かな?と一瞬不安になりましたが、少々外してもこれだけいるのだから大丈夫と気を取り直しました。
 少しずつ、でも着実にソプラノ、アルト、テナー、ベースとパートごとに仕上げていき、ある程度のところで、全パートで一緒に賛美する、そしてハーモニーが生まれる。この瞬間は、合唱の醍醐味を感じます。でも、ゴスペルはただそれだけではありません。歌詞が普通の合唱曲とは違うのです。
 At Calvary とは、カルバリの丘でという意味です。カルバリの丘で何があったか。イエス様が十字架にかかって死なれました。まさに福音の根幹に関わる箇所を歌い上げるゴスペルです。
 Years I spent in vanity and pride; caring not my Lord was crucified, (何年もの間、私は虚栄心とうぬぼれにおぼれていた。主が私のために十字架に磔になってくださったことなど気にかけることなく)で始まるこの曲は、強烈な印象を残しました。エミ先生が証をしてくださったのですが、その始まりはまさにこの歌詞とオーバーラップしました。エミ先生が主の前に砕かれて、イエス様を救い主として受け入れるに至ったお話を聞くことができたのは恵みでした。
 今年度、私は伝道部員を務めております。ゴスペルワークショップが再開されたことは伝道活動においても大きな一歩だと思います。30人強のクワイアの多数は、クリスチャンではない人たちです。主なる神が、参加された方々にどのような奇蹟を起こしてくださるのか、祈りつつ期待しています。
 9月役員会で108日(土)のゴスペルワークショップ開催が承認されました!
計画通り開催されるようお祈りください。

■生まれたよ!石渡地区の家庭集会  T.K.

  十字架やあっぱれ受け身イエス様
  聖霊の満たされるのは胃の満たし
 2022年7月16日に、S家とK家を母体とした家庭集会が産声をあげました。牧師先生のビジョンの元、両家の祈りと皆さんの祈りによって生まれました。
 家庭集会は毎月1回、その月の後半の土曜日に行われます。時間は11時から13時です。構成は前半と後半の二部制です。
 前半は、①聖書5・7・5コーナー、②水野源三さんと今を生きるコーナー、③証しコーナー、④アラカルトコーナーとしています。
 冒頭の2句は聖書5・7・5コーナーに投句されたものです。聖書の世界のことや私たちの心情・日常の断片を切り取って5・7・5に表します。俳句というよりも川柳に近いので季語にはこだわりません。一人2句の投稿が原則です。聞くことに慣れきっている私たちをアクティブにし、また忘れやすい思いや出来事を記憶や記録に残すという目的のコーナーです。
 水野源三さんと今を生きるコーナーでは、源三さんの詩を通して、信仰・証・家族のあり方等を見つめていきます。いや、それよりも口・手・足が不自由だった源三さんの口・手・足に私たちがなって、源三さんを過去の人にせず、今に生きる源三さんにするコーナーです。
 証しコーナーは参加者から随時、証しをしていただきます。特に求道者が参加したときに重要なコーナーとなります。
 アラカルトコーナーは季節の話題や、その時々の世の中の動きを話題に取り上げる企画コーナーです。
 後半は食事会・愛餐会です。継続性を重視するため、食事内容はシンプルな物に心がけています。当面の美味は新婚牧師家庭の雰囲気の味です。聖書の5つのパンと2匹の魚の話や最後の晩餐の記事のように、イエス様は胃袋を満たすことを大切にしています。
 家庭集会でも食事会は外せないと捉えています。感染予防対策をしてウイズコロナ下、賢く家庭集会を進めていきます。

■家庭集会での証  S.S.

 私が初めて長野福音教会の門を叩いたのは、ある年の「昇天者記念礼拝」の日で、その礼拝にも参加させていただくことができました。
 私は18歳で上京しました。20歳の時に同級生の人にある新興宗教の寺に連れて行かれ入信させられました。そこは、教祖という生き仏を信仰し仏教であるということを表に出しながら、裏では「お助け・お布施・ご奉仕」という三つの教えを出して、お金を払えば仏に近づけるということを信者に叩き込む洗脳宗教でした。私も抜けるに抜けられなくなってしまい、知らない間に洗脳されていました。導き親からの暴力によって抜けることを固く禁じられてもいました。
 長野に赴任しましたが、毎月1回は東京の寺に出向くように導き親から言われていました。なんとかしなければと思い、同僚の先生に紹介していただいて長野福音教会の門を叩きました。新興宗教から逃げたい一心でした。イエス様とか神様とかそういったものはどうでもよくて、この苦しみから逃れるために、どうにかして欲しいとの思いだけで教会の門を叩いたことを覚えております。
 その新興宗教には、お袈裟・??・教本などの七つ道具を必ず買わされることになっており、私も持っていました。それを処分したくて、牧師先生に祈っていただき処分しましたが一つだけ処分できないものもありました。それは??で、かたくなに拒んで暴れたりしていました。洗脳の呪縛からまだ解き放たれていない自分を知りました。処分できたのは洗礼を受けてからだったと思います。
 教会に行くようになり、入門講座で熱心にキリストのことを学びました。私を導いてくださった同僚も一緒に参加してくださいました。それでもなかなか洗礼に踏み切ることができませんでした。前の新興宗教の呪縛が頭をよぎってしまって、イエス様の十字架の死と復活を信じることができませんでした。結婚をきっかけに新興宗教からの呪縛も取れて、イエス様のことを少しずつ受け入れられるようになりました。そしてイエス様を信じる決意をして洗礼を受けました。「私から見ればあなたは高価で貴い。私はあなたを愛している」という言葉に、迷いはすっかり消えました。こんな新興宗教にのめりこんでいた私を「高価で貴い」、しかも「私はあなたを愛している」と言ってくださったイエス様の寛容さに感銘を受けました。
 今もイエス様を中心とした生活が送れていることに感謝しています。妻と共にクリスチャンホームを作ることができたことにも感謝しています。新興宗教の導き親からの電話も無くなりました。本当に神様ってすごいなあと思います。

■聖書5・7・5
 イエス様鎮めてください妻の愚痴     
 福音を述べ伝えたい両親に
 イエス様支えてくださいぼくの杖     
 主にすがり歩んで行きます我が人生
 絶対にユダにはなるまじ我が心      
 信仰に燃ゆる我が身を捧げます
 わたくしを選んでくれたイエス様     
 信仰の道険しくともわれは行く
 罪咎を許してくださるイエス様      
 ディボーション唯一続く日課です
 祈祷会みんなで学ぶ主の教え       
 聖書こそ我が人生の道しるべ
 人生の最大の友はイエス様        
 信仰の道を歩まん妻とわれ
 妻とわれ結んでくれたはイエス様

■神の御業(6)  K.I.
 さあ、みなさん。いよいよ待ちに待った天国まで飛んできました。  
 天の御国が来る前に、様々な裁きがなされました。
 最大の敵である悪魔も、神様に最後まで敵対した人々は、地獄へ投げ込まれました。もう私たちを攻撃するものはいなくなりました。
 なんと素晴らしい世界でしょう。
 
 天国に行ったら、皆さんは誰に会いたいですか。
 お子さんを亡くした方は、お子さんに会いたいですね。奥様(御主人)を亡くした方は奥様(御主人)に会いたいですね。 
  大変困っていた時に助て頂いた人は、助て頂いた方に会いたいですね。
 子供は、自分を育ててくれた、お父さん、お母さんに会いたいですね。
《新しい天と地》
これから見る景色は、イエス様が再臨して、信ずるものが天に引き上げられた後の光景です。
 
 また私は、新しい天と新しい地とを見た。
 以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
 そのとき私は、御座から出る大きな声がこういうのを聞いた。
 「見よ。神の幕屋が人とともにある。
 神は彼らとともに住み、彼らは、その民となる。
 また、神ご御自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
 もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
 なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
 すると、御座に着いておられる方が言われた。
 「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」
 また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。
 わたしは、渇くものには、いのちの水の泉から値なしに飲ませる。
 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第2の死である。」ヨハネの黙示録 211節~8
                  
 私は、へそ曲がりでしょうか。
 この景色を見て、何かが足りないのです。
 私の大好きな、猫や犬がいないのです。また、心を癒してくれる植物や虫の鳴き声が聞こえません。
 牛を飼って一緒に生活していた酪農家は、もっと寂しいと思います。
 動物園で動物の世話をしていた人は、どこにいるのか、探すと思います。
 このような疑問については、もう議論が尽くされ結論が出ていると思いますが、私は知りません。
 みなさんはどう思われますか

2022年夏号

■巻頭言 すべてが神によって 山岸直生

 主の御名を賛美します。今年の4月より、主任牧師として奉仕をさせていただくことになりました山岸直生です。普段は長野めぐみ教会の牧師として仕えさせていただいております。力不足の者ではありますが、主にあって吉村先生と共に励んでいきたいと思います。
 さて、日々の生活の中、そしてこの世に存在するもののすべてには、その意味が良いことであるか、そうでないかは別としても、作られたすべてのものには意味があります。時計は時間を刻んでいます。車は人を運びます。多くのものには意味や存在理由があるのですが、今日、大きな意味があるはずなのに、多くの人がその意味を見出せないという存在があります。それは、私たち人間です。本来、この世に存在するものの中で、最も意味を持つものとして造られた人間であるのに、その存在意義を見出せずに、悩んでいる人々が多いのです。
 私たちは、意味を持たないものは所有しません。そのものの本当の意味、存在価値がわからなければ、処分されてしまうでしょう。しかし、同じものであったとしても本当の価値がわかったならば、それは大切にされるのではないでしょうか。今日、多くの人々が自らの存在価値が見出せないでいます。それだけではなく、周りの人々の存在価値も見出せないのです。他人を配慮できない気持ち…自分さえ良ければ良い…そのようなところからくるさまざまな争いや苦しみ…もし、それらの人々が、自らの存在価値、そして周りの人々の存在価値を見出すことができたならば、それはすばらしいことなのではないでしょうか。聖書はどのように言っているでしょうか。ローマ人への手紙11章36節に、このように書かれています。
 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
 人間の価値や存在する意味が、この1節に集約されています。この聖書の言葉には大前提があります。それは「すべてのことが神から発し」ているということです。すべてのことが神から出ているということは、すべてのものが神によって生み出され、創られたということです。もちろん、「すべてのこと」の中には、私たち人間も含まれているのです。このことだけでも、私たちの存在価値を示すには十分です。神が創ったものを、私たち自身が価値の無いものとしてはならないのです。聖書は、神が人間を創造されたという創造論をとるのですが、広く知られる進化論の前提は、簡単に言うと偶然の重なりです。もし私たちの存在が本当に偶然の重なりによるものであるならば、確かに、その存在価値というものは見出せないかもしれません。しかし、人間は偶然の産物や進化を経て生み出されたものではないのです。神が、人間を最も価値ある者として造られたのです。
 イザヤ書434節に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」という言葉があります。すべてを支配しておられる神が、私たちを、価値ある者として造られた…私たちが存在している理由は、それで十分すぎるほど十分ではないでしょうか。
 そしてみことばの続きに「神によって成り」とあります。私たちは生み出されて、あとは自分の力で生きているのだと、誰しも思ってしまうことがあります。しかし、自分の力で生きていると自信をもって言えるような人であっても、その人生は神によって保たれているのです。「神によって成る」ということは、逆に言えば、神がいなければ、成り立たないということであるのです。本来、私たちは神なくしては生きていけない存在なのです。それは「神によって生かされている」ということです。神を知らずしての人生は、働いて自立さえしていれば、誰しも「自分の力で生きている」と思うことでしょう。しかし、すべてのものは、神によって保たれてこそ、初めて存在し続ける事ができるのです。私たちは、神によってただ造られただけの存在ではありません。
 私は以前、自動車整備士をしていたのですが、自動車工具でトップクラスのあるメーカーがあります。そのメーカーの製品はドライバー1セットでも何万円もするぐらいの高級品です。そんなに高くて、普通のドライバーとの違いはどこにあるのかというと、もちろん品質がずば抜けて良いということもあるのですが、一番の特徴は、永久保障という点にあります(20年ほど前の当時の規定)。通常の使い方であるならば、たとえ破損しても何回も新品と交換してくれます。
 私たちも神によって永久保証を受けた存在です。ただ生み出されたわけではないのです。時に過ちを犯したりすることもあれば、深く傷つくこともありますが、私たちが神を求めるならば、神は決して離れることなく、私たちを守り支えてくださるのです。そのようにして私たちは神によって支えられ、保たれて生きているのです。
 さて、最後に「神に至る」となっている部分ですが、今までの「神から発し」そして「神によって成り」ということを信じるならば、神に向かっているということは、いわば自然な事であり、当然のことでもあるのではないでしょうか。私たちは神によって造られ、日々与え続けられる神の恵みと導きの中に生きています。このことが私たちの存在を価値あるものとします。人は弱い存在です。それ故に、悲しい現実ですが、すべての人が、すべての人に価値を見いだすということは大変難しいことです。しかし神にとって私たちは、最高に価値あるものであると聖書は語ります。神によって存在し、生かされ、多くの与えられている恵みを感謝し、また、すべてにおいて、私たちを愛しておられる神が働かれていることに希望を抱きましょう。そして「神に至るもの」へとなっていきましょう。

■主の示される道を信じて T.Y.

 私はクリスチャンの両親のもとで、何不自由なく育てられてきました。
 小学1年生の頃、兄が洗礼を受けたことで、自分も洗礼を受けたい!と強く願い、洗礼を受けました。
 小学3年生の頃、持病が悪化し入院することになりました。すぐに退院できたのですが、体調が優れず、検査してもらうと糖尿病だとわかりました。私は入院するのが嫌で病室で泣き続けていました。母は聖書を示しながら私を励ましてくれました。
 ローマ人への手紙828節  神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
 この聖書箇所を読むとき、当時の心のうちを思い出します。目の前が真っ暗になったときに、神様が一筋の道を示してくださった。私はこの道を歩いていて良いんだ、間違いではないんだと、自身の信仰が新たにされる入院生活でした。
 この病気は、現代の医学では完治できない疾病で、生きている限りインスリン投与を続けていかなければなりません。それを知った時に、私がいかに何も考えずに生きていたのかを知りました。社会には、世界には、こんなにも苦しみや悲しみが溢れている。障害や病気や偏見、差別で苦しむ人々がいる。そこから「社会福祉」という分野に興味を抱き、社会福祉を学んだ後、医療ソーシャルワーカーとして働きました。神様から示された道は険しく、悩み苦しみながらも、人と神様に仕えることに大きな喜びを感じていました。
 教会で私はどのように仕えていけばよいのか、身の置き所を探していた私は、母の強い勧めや祈り、牧師先生との相談等の中で、クリスチャン結婚支援ミニストリーに登録しました。
 神様は、必要な道を過不足無く示されます。糖尿病を発症した時も、いじめにあい苦しんだ時も、進学や就職に迷っている時も、教会での奉仕に悩んでいる時も、結婚に恐れを感じている時も、いつも神様は私に進むべき道を示してくださりました。その道がどのような道でも、私は主の示される道を信じて歩んでいきたいと思いました。
 主にありて。

■中学生になりました! N.S.
 この春、中学生になりました。
 Youthでは礼拝に出た後、その日のメッセージを振り返ってお祈りし、カードゲームをしたりみんなで楽しくお話をしたりします。
 私はこれまで礼拝でしっかりとメッセージを聞くことがなかったので、先生のメッセージは難しくて、いつも最後まで集中して聞くことができません。ですが、Youthだとわかりやすくまとめてくれるので、メッセージの内容をより深く知ることができます。
 みんなと一緒にゲームをしたりお話をするのはとても楽しいです。4月にはテントを張って駐車場でお茶会をしました。学校の話やTVの話で盛り上がりました。バドミントンもとても楽しかったです。
 これからもYouthで楽しく活動したいです。

■新社会人となって M.E.

 ハレルヤ。主の御名を賛美します。
 私はこの春から看護師としての歩みを始めました。
 心に不安を抱いている患者さんの一番近くにいられる存在、それは看護師だ。だから私は看護師になって、患者さんの不安に寄り添えるような存在になりたいという思いを抱きました。大変なこともたくさんあり、その度に「なぜですか神様」と、問いかけながらもここまで守られてきました。これまでの歩みが神様のお導きであったことを深く思わされます。感謝します。
 最近、患者さんの苦痛を伴うケアの場面で、辛そうな患者さんの姿を見て、とても苦しい気持ちになったことがあります。生命の維持のためには実施しなければならない…どうすればいいのだろうと思いました。この時神様は、患者さんにかけるべき言葉や関わりを教えてくださいました。患者さんは私の目を見て、私の言葉に耳を傾けて、ケアに応じてくれました。またそれだけでなく、「次はいつ来るんか?」と声をかけてくれました。神様は、私の言葉が口にのぼる前に、私の小さな思いも知り、極められる方であるのだと感じました。
 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ。あなたはそのすべてを知っておられます 詩篇1394
 とても嬉しかったのと同時に、ただただ神様に感謝しました。どんな状況でも、神様は私という小さな器でさえも、存分に用いてくださる方です。これからも神様に信頼し、歩んでいきたいと思います。

■子どもの頃の戦争体験から 太平洋戦争昭和十六年十二月八日 N.T.

 真珠湾攻撃が始まったのは、小学校五年生の時でした。
 先生が「お国のために戦っている兵隊さんに慰問袋を送るので、皆も手紙を出しましょう。」とハガキを一枚ずつ頂き書きました。兵隊さんから「ありがとう」の返事が来た人、来ない人。私は手紙を受け取り、大切に机に入れました。
 裾花川の両岸で、赤と白の旗を持って手旗信号の練習をしました。河川敷にさつま芋を作り、校庭に藁のゴザを敷いて干し芋を作りました。
 東京から疎開児童が来ました。校庭の隅に防空壕を作って、空襲になると、家の遠い人たちは中に入ります。戦果は毎日の新聞を切り取りました。
 戦争が激しくなり、母の着物で作ったモンペをはき、防空ずきんとお弁当を持って学校に行き、工場へ向かいました。工場では、飛行機の部品の3㎝四方で5㎜ぐらいのビスが三つ付いて直径3㎜ぐらいの赤、緑、黒の銅線の先から2㎝ぐらいを、中の銅線を切らないようにゴムを切り取り、そのビスにハンダ付けをする作業をしていました。間違えないように、飛行機が無事帰るようにと願い、作ったことを思い出します。
 鉄の物は供出します。出さないと非国民と言われます。町では千人針をお願いする人がおり、一針に無事を願い、縫います。寅年の人は年の数を縫います(白い手拭いに赤い糸を針に巻きつけ針を抜きます)。
 灯火管制では、電気を黒い布で覆い、灯りが外に漏れない様にと心配しました。
 女学校では五人ずつ班になって、出征兵士の農家に行きました。田の草取りは大変でした。裸足でヒルがいる畔や田の中に入ります。左の手のひらに、爪楊枝ぐらいのヒルがついて取れなかったことが、今でも忘れられないことです。
 八月十三日、長野空襲の時、私たち母子は疎開先の湯田中へ行く途中でした。中御所の跨線橋を登り出した所で、飛行機の編隊が見えて、すぐ引き返して橋の下に入ればよいのに、考えが浮かばなかったです。登って横にある階段を降りていると、飛行機は手の届く程に来ました。無事に橋の下に入った途端に、とても怖くなりました。飛行機が去って静かになったので、長野駅に向かう途中、頭から血を流した人に出会いましたが、怖くて手を貸すことができませんでした。電車は、はみ出す程の人です。宿に着いてやっと落ち着いて、炒り豆を食べていると、隣の部屋の傷痍軍人さんが炒り豆を食べたいと来ました。隣には大勢の傷痍軍人の方がおりました。
 十五日の玉音放送を聞いて、皆泣いています。道に座った人、呆然とした人、しばらくは動きがなかったと思います。
 十六日に、宿や傷痍軍人の方たちに挨拶をして帰りました。翌日、炒り豆しか受け付けないと言っていた傷痍軍人の方に、炒り豆を持って宿に戻りました。
 終戦から今年で七十七年の平和は、国のために家を出た人たち、少年特攻隊の人たちの心があることを忘れないでいたいと思います。

■てっちゃんの聖地? S.S.

 男の子だったら憧れるSL。最近では、「鉄女」と呼ばれる人たちも増えているとか。てっちゃんとは、「鉄道ファン」のことらしい。蛇足になるが、私の生まれ故郷には、「てっちゃん」というお好み焼きのお店がある。その店主が、「てっちゃん」かどうかは定かではない。
 てっちゃんにもいろいろな角度から、鉄道を楽しみ方があるようで、鉄道写真を撮る「いわゆる撮り鉄」、鉄道の音を録音する「音鉄」など。私の職場にも、東京を走る山手線の駅名を外回りからも、内回りからも一周全部言えることを自慢する一風変わった同僚がいた。
 さて、そのてっちゃんの間で、近年話題になっている「神社」が存在することをご存じだろうか?私は、てっちゃんではないので、詳しくは知らないが、なんでも鉄道の車輪をご神体として祭ってある神社が存在しており、てっちゃんの間では、「聖地」として崇められているようである。パワースポットにもなっていたかもしれない。車輪を拝むなんて聴いたことがないし、半分あきれたことを今でも覚えている。
 偶像崇拝という言葉がある。作られた物を「神」と崇め奉るということらしい。簡単に説明できるものではないかもしれないが、少なくとも私の理解の範囲ではその程度である。我が国では、偶像崇拝があふれていると言っても過言ではないだろう。宗教の自由が、日本国憲法で認められているためか、仏壇と神棚・マリア像が置いてあったりする家もあるかもしれない。外国では、考えられないことだろう。それが我が国の実情である。
 もっともキリスト教においても、先ほども述べた「マリア像」を置いて、それらを祈りの対象としている「カトリック」というものが存在する。否定するわけではないが、それは「偶像崇拝」になるのではないかと思ってしまう。
 我が国においては、偶像崇拝の歴史は長い。また、それを当たり前の生活の一部として、取り込んできた文化がある。それを否定することは、賛成できないが、肯定することもわれわれにはもちろんできない。
 去る日の祈り会では、この偶像崇拝が話題になった。日本に住む中で、どこで折り合いをつけて、われわれの祈りを通すべきか、ということが話題となった。お葬式の時に、お焼香をするが、われわれは、その時どう振舞えば良いのだろうか。とあるクリスチャンは、ご焼香を断ったために、嫌われてしまったと告白した。それぞれの価値観に委ねるべきなのだろうか。私にもよくわからない。お祭りもそうだ。私の住む町内は、組費の中に、お祭りのお金も含まれているので、払わざるを得ないということで、払っている。これも、クリスチャンだから、払わなくても良いのかと言われれば、なんと答えて良いものかわからない。しかし、聖書に、「偶像を崇拝してはならない」と書かれている以上、それを守っていくのが、私たちクリスチャンに課せられた責務であると私は思う。
 ちょっと話は大げさになるかもしれないが、偶像として人間を崇めるようになることも過去にはあった。ファシズムの台頭によって、独裁者が現れ、それを崇拝して、戦争へと突き進んで行ったドイツやイタリアなど。もちろん日本においても例外ではなく、天皇陛下を現人神として崇拝した経験を持つ。偶像崇拝の果てには、人を崇めるファシズム思想が待ち受けているのではないかと思う。
 善光寺では御開帳が行われている。この機会に、偶像崇拝について、改めて考える必要があると思う。先に述べたように、日本は、偶像崇拝に囲まれた文化であり、クリスチャン数は0.8パーセントである。どう折り合いをつけていくのかを常に考えておく必要があるし、原点には、「聖書の教えには必ず従う」という絶対的な信念は、持っていなければならないと、改めて考えた。
 鉄道の車輪をご本尊として祭るこの国で、偶像崇拝文化と、どう折り合いをつけて、クリスチャン生活を送るかは、われわれクリスチャンが、日本で生きて行くなかでの永遠の課題であろうと私は考える。答えは、私自身見つかっていない。

2022年春号

■巻頭言 礼拝に臨む姿 吉村恵理也

 現代の礼拝において、課題や改善した方が良いと思われる点がいくつかあります。長野福音教会でもコロナ禍対応ということで、礼拝プログラムを短縮したと伺っています。賛美を減らし、礼拝する(密集する)時間を少しでも短くしている対応をとっています。その対応も気が付くと丸2年を過ぎ、3年目に突入しています。そしてインターネット礼拝が急速に普及して容認されるようになったことは、世界的に見てもキリスト教の歴史における大きな転換点と見ることが出来ます。では、私たちが主の前にささげる礼拝について主はどのように見ておられるのでしょうか?礼拝はささげられるけれども、本来のささげられ方ではないことが記されている聖書の歴史を見てみます。
 歴代誌Ⅱ30:17 会衆の中には、身を聖別していない者が多かった。そこで、きよくないすべての人々に代わって、レビ人が、過越のいけにえを屠る役目に就かなければならなかった。それらを主に対して聖なるものとするためである。
18 民のうち大勢の者、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめずに、しかも、記されているのとは異なったやり方で過越のいけにえを食べてしまった。それでヒゼキヤは彼らのために祈った。「いつくしみ深い主よ、彼らをお赦しください。
19 彼らは聖なるもののきよめの規定どおりにいたしませんでしたが、心を定めて神を、彼らの父祖の神、主を求めています。」
20 主はヒゼキヤの願いを聞き、民を癒やされた。
 南ユダ王国の王であったヒゼキヤと祭司たちは、過越祭りの正しい守り方を長い期間行えていませんでした。ですから、聖書の教えを守ることが出来ずに過越のいけにえを食べてしまったのです。つまり“間違った方法で礼拝をささげてしまった”ということになります。
 このことと、現代の私たちがコロナ渦におけるオンライン礼拝の対応を直接結びつけて適応できるわけではありませんが、重なる部分があると思います。
①安息日を聖なる日としているかが問われる。
  イスラエルの民:(17節)聖別されていない人でも祭司の働きをした
      私たち:インターネット礼拝においては礼拝に集中しづらい
②本来の礼拝ではない方法で礼拝をささげている。
  イスラエルの民:(18節)身をきよめずに、規定を守れず過越の食事をした
      私たち:“聖徒の交わり”が礼拝として持つことができない
 こう比較してみると直接適応できなくとも、
①本来の礼拝が出来ていない。
②礼拝の守り方に欠けが生じている。
という共通点が見えてくるのです。
 この似たような問題をどのように解決すべきでしょうか?聖書を見ると、このことを発見したヒゼキヤ王は主に祈ります。「本来の礼拝はささげられていませんでしたが、礼拝をしている民は心から主を求めています。」と、とりなしの祈りをささげるのです。この祈りに主は応えられ(20節)「民を癒された。」とはっきり書かれています。ですから、まずは従来の方法ではない礼拝でイレギュラーが生じても、主の前に祈ること、主を心から求める渇いた心に、主は潤いを与えてくださることを知ることが出来るのです。
 インターネット礼拝は便利さがあります。しかし、そこには“心から主を求める”ことについては難しさが生じる現実も捉えなくてはなりません。周囲の状況に左右されずにインターネット礼拝をささげられることは、現代の私たちに主が大きな恵みを開いてくださっていると思うところも確かにあります。ですが、インターネット礼拝の良し悪しのことについて考える時に重要なポイントは「インターネット礼拝を通して、真の救い主であるイエスキリストを求められるだろうか?」ということになります。緊急対応の礼拝対応ということは忘れてはなりません。
 身近なことで例えて考えてみてください。災害などの緊急時には非常食として、水や乾パンを食べますが、それを食べ続けることは、かなり苦しいはずです。同様に魂にみことばの栄養を満たそうとすると、乾パンだけでは満ち足りにくいのです。これはインターネット礼拝をしている人だけの問題ではありません。教会堂に来て礼拝をささげる人でも、礼拝プログラムが終わると、駆け込み乗車のように直ぐに帰ってしまう人も同様の課題があると推測されます。
 長野福音教会では昨年の9月から礼拝後に“共に祈る”という時間を持っています。だんだんと祈る人が増えていくことが教会として健全だと見えるのですが、始めたころよりも祈る人が減っています。このことから今の礼拝に臨む姿が健全ではないという判断をすることができます。この課題については「教師がまず祈るべきではありませんか?」という声があってもおかしくないことだと思っています。ですから、今後は「礼拝の後にそれぞれお祈りしましょう。」だけではなく、「礼拝の後に牧師・伝道師に祈ってほしい方は前の席に来てください。礼拝後すぐに祈ります。」という時間をもつことが良いと考えています。
 共に喜びあふれ、主を心から求める礼拝をささげていきましょう。

■「教会難民」」「霊的難民」に助けの手を リバイバルミッション 平岡修治

  《リバイバルミッションニュース1月号より引用》
 さまざまな問題を抱えたまま、2022年がスタートしました。
 以前から懸念材料だった教会の問題はコロナ禍で加速しているようにも思えます。牧師不足・無牧教会の増加・信徒の高齢化・教会の硬直化・教会内の世代ギャップ・自教会自教派への固執・そのために起きる超教派活動の希薄化など内向的思考の悪循環は加速されています。大きな渦に巻き込まれるようにキリスト教社会にも大きな変化が起きています。神学校の定員割れや閉鎖、長年親しんできた文書伝道団の解散、書店の閉鎖、私達一人ひとりの思い出が詰まった「軽井沢恵みシャレー」の閉鎖と売却など、残念でくやしい出来事が続いてきました。
 教会の危機的状況は、いまだ改善には至っていません。クリスマス行事はプログラム内容を大きく変更して実施しましたが、「教会難民」と呼ばれる人たちは急激に増え続けています。それでもオンラインが可能な人は何とか救済できるのですが、苦手な人たちの扉は閉じたままです。コロナ以前から強い信仰に立っていた人はまだしも、教会に来て間もない人、信仰歴の短い人、求道者の方々なども「教会難民」の中に入ると思います。まだ福音を聞いていない「霊的難民」の人々にも目を向けていきたいと思います。コロナはそのうち終息するだろうという甘い考え方が教会を崩壊に導いていくことを心配します。

■「信仰のこと」 S.S.

 この原稿を書いているのは、ロシアによるウクライナ侵攻から一週間経った日です。一方的に攻撃を受けたウクライナの人々はもちろんのこと、ロシア市民の間にも大きな痛みがあることを知りました。
 情報の中で、出兵したロシア兵を孫に持つおばあちゃんのことが紹介されていました。彼女は悲しみに打ちひしがれ、涙ながらにこう語ったそうです。『あの子はロシアを守りたいから軍に入ったはずなのに。優しい子だから、人なんか殺せない。教会に行って祈ることしかできない自分が悔しくてたまらない。私はこれ以上、愛する家族を失いたくない…。』おそらく先の大戦でも親しかった人たちを亡くしたのでしょう。その「祈り」とは、どんなに苦しいものだったでしょう。思わず「私も悔しくてたまらないよ!」と涙があふれました。
 こんな悲劇が起こったのはもちろん人間の罪が原因です。しかし、なぜ神さまはこうした惨事を「事前に」、あるいは「直ちに」止めてはくださらないのだろうか?と煩悶してしまいます。皆さんはそういうことってありませんか?私は理不尽な事が起こるたびによく考えます。そしてあれこれ想像するのです。もしかしたら神さまは、後の世の永遠の命があまりにもすばらしいので、この世界での命など取るに足らないと思っておられるのではないか?今は辛すぎて感情的に受け入れられないけど、すべての不条理の答え合わせは、天国へ行った時にしていただけるのではないかと。
 黙示録には「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」とありますが、涙をぬぐい取ってくださるとはそういうことなのですか神さま?と、祈りの中に思いを巡らせます。
 この世界で生きている限り試練や災いは止むことはありません。そしてそれらを信仰によってどう受け止めれば正解(神さまに喜ばれる・良しとされる)なのかは、正直なところよく分かりません。ただ少し前に『世界と神さまを混同してはいけない』と聞いて教えられたことがありました。ともすると神さまに対して恨めしい思いを抱いてしまうことがありますが、それでも与えられた信仰によって、下ばかり見ないで神さまに目を上げ続けていく者でありたいと願っています。

■高橋宣広先生!ありがとうございました。

 3月6日の礼拝後、高橋先生御家族の送別会が行われました。コロナ禍のため短い時間でしたが、心の通った集りとなりました。 

■青年会代表 A.K.
 高橋先生との出会いは13年前。その時の記憶はあまりないのですが、東日本大震災後のボランティアで福島まで一緒に車で行ったことがありました。
 私がTCUに入る時には、推薦文を書いていただいたり、英語の課題を一緒にみていただいたりしました。教会から離れることなくここまで来られたことを感謝しています。
 農家の友達がいっぱいいるので、長野のおいしいものを福井まで送らせていただきます。本当にありがとうございました。

■女性会代表 『めぐり逢いの不思議を想う』一期一会の愛語 K.I.
 長い間お世話になり、ありがとうございました。先生と出会えたことが、まさに一期一会であったと思います。この間たくさんの温かな言葉をいただきました。
 先生との出会いは2011年の暮れのことで、リズ先生に誘われるままにゴスペルコンサートを聴きに来た時でした。広い礼拝堂で満席の聴衆に感動しました。クワイヤーの中でひときわ神様を賛美している方に目が釘付けになりました。その方が牧師先生でした。それから10年間、先生が説かれるみ言葉によって受洗に至ることができました。心から感謝しております。
 私が先生に最も感謝したいことを述べます。36年暮らした家をやむなく出た時のことです。心が不安と悲しみでいっぱいの時、先生は偉大な牧者でいてくださいました。閉ざされた心に温かな手を差しのべてくださったお陰で、ひとり暮らしをスタートさせることができました。ご親切のすべてを決して忘れません。
 もうすぐ福井へ行ってしまう先生に、何度も何度もありがとうを伝えます。虹色に輝くアジサイを花束にして贈ります。
 福井の地でのご家族の健康とお幸せ、さらに神様の豊かな祝福を、ふるさと長野の地よりお祈りしています。言い尽くせぬ感謝を、変わらない想いに託して、先生に届けます。 

■男性会代表 S.S.
 13年間この長野福音教会を支えていただきまして、本当にありがとうございました。
 高橋先生との思い出は沢山ありますが、一番強く残っていることをお話しします。
 私が仕事を休んだ時に、牧師室に伺ったことがあります。その時、高橋先生は礼拝のメッセージを作成されているところでした。一言一言、一筆一筆ごとに「アーメン・アーメン」とお祈りを込めながらメッセージを書かれている姿に感動したのを覚えております。メッセージを聴くときには、一言一言しっかり聴かねばと思うようになりました。
 他にも、高橋先生が運転してくださるマイクロバスに乗って星野富弘美術館に行ったこと、その帰りに、温泉にたちよって「同じお湯」に浸かったことなどが思い出されます。ゴスペルコンサートなども含めて、思い出をたくさんいただき、感謝しかありません。
 「未だ見ぬ地」に行かれましても、この長野福音教会のことを忘れないでください。ご活躍されることを心からお祈りしております。高橋家に「幸あれ」と願います。

■送別会(2022年3月6日)での感謝のあいさつ 高橋宣広

 本日は送別会を開いてくださり、まことにありがとうございます。
 2009年、13年前の4月に神奈川県横須賀市から長野福音教会に夫婦2人で参りました。私は30歳になったばかりの若造でした。それから、この教会でずっと神様のすばらしい御業を見させて頂き、みなさんと共にすばらしい神様をともに礼拝し、ともに喜び、ともに涙することが許されました。
 長野福音教会の好きなところ、すごいところはいっぱいありますが、次の3点を挙げたいと思います。
1.皆さんの隠れた献身・隠れた奉仕・隠れた祈りです。
 「右の手がしていることを左の手に知られないようにし」ておられる(マタイ6:3)皆さんの陰ながらの奉仕と祈りが、この教会を支え、動かしています。教会のお掃除、草取り、雪かき、修繕、ゴミ捨てなどなど、「私がやっていますよ」ということを一切おっしゃられずに、黙々と奉仕してくださる皆さんのお姿に感動してばかりでした。
2.不思議と、この教会には、新しい方々が呼び集められています。
 長野市中心街から離れたところにありながら、礼拝や祈り会、ウイングスまたコンサートなどに、新しい方々が与えられ続けています。これまで62年間、この地域で宣教し続けてくださった先輩牧師たち、先輩信徒たちの伝道の実が実っています。皆さんの伝道の働きと、それに応えてくださる宣教のが与えてくださっている賜物です。
 これからも、この地で、長野福音教会は、宣教の歴史を積み重ねてください。皆さんが蒔いた福音の種が、今すぐではなくても、私たちの子どもたちの世代に、さらに孫たちの世代に、必ず芽生え、花咲き、実を結びます。
3.危機に直面したときの教会の一致と、皆さんのささげる力です。
 在任中、多くの天変地異に見舞われ、突然の教会員の訃報に動揺し、そして現在のコロナ禍と、思いがけない危機に直面させられ続けてきました。
 2011年3月11日 東日本大震災、12日に栄村大地震
 2014年1月 私の家に双子誕生。10日後に九州福岡にいた私の父が突然召天。教会の仲間たちを若くして天に送ることが続きました。11月に長野県北部地震。 
 2019年10月 台風19号による千曲川氾濫・大洪水
 2020年1月 正村八重子先生を天に送り、そして今もコロナ禍が続いています。
 このような危機の時に、みなさんが示してくださった一致や、驚くようなささげもの、そして実際にボランティア活動やご奉仕に励んでくださるお姿に胸が熱くなりました。他にも、教会バザーやゴスペルコンサートのために、熱心に仕えてくださる皆さんの姿に励まされ、教えられて来ました。
 多様な方々が集まる群れですが、平時でも、長野福音教会が一致して主の業に励み続けていかれることを願ってやみません。
 私たちは、3月20日の礼拝を最後に、24日には福井に入っている予定です。3月27日から福井中央キリスト教会で奉仕をさせて頂くことになっています。
 長野福音教会は、吉村恵理也先生を中心に新たな歩みに入って行きます。心から期待しています。今年春の牧師交代が決まっていましたので、2022年、今年の主題聖句や年間目標は、吉村先生に決めて頂きました。「みことばに聞き、御国の実現を知る」。吉村先生のご提案で、ディボーション冊子の統一がはかられ、今、教会の多くの方々が、毎朝、同じみことばを味わっています。このような変化を間近で見ることが出来たことも大きな喜びです。これからも様々な良き変化が、吉村先生を通して、長野福音教会にもたらされると期待しています。
 吉村先生と私は似ている所もありますが、タイプの違う牧師であるのかなとも感じています。私は柳のように風にそよぎ流されている人間であるように思っていますが、吉村先生は竹のようにまっすぐにぴーんと伸びていかれる方です。若さと気力あふれる吉村先生にバトンタッチしていきます。いつか長野福音教会に戻って来たときに、この教会が青々とした竹林に成長していることを見ることができることを心から願い、遠くから神様の守りと祝福を祈り続けています。
 これまで本当にお世話になりました。ありがとうございました。

2022年冬号

■巻頭言 年間テーマ聖句2022 ローマ10:17~みことばに聞き、御国の実現を知る~吉村恵理也

ですから、信仰は聞くことから始まります。
聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。ローマ10:17
 2022年の長野福音教会の年間テーマ聖句は、ローマ10:17から「みことばに聞き、御国の実現を知る」というテーマを掲げました。私たちの教会では、2022年1月からデボーションガイド「マナ」を教会のデボーション誌として定め、共に読み進めていくことにしました。教会で一つ定まったみことばを読み進めていくことは良いことです。そしてみことばを聞くと言う事は、教会において主日礼拝の説教や聖書を聞くことでもありますが、それだけではありません。みことばから聞くと言うのは、毎日私たちが神様から示されて歩むことです。なかなか慣れない人もいると思われます。そのような場合、励ましや訓練を受ける必要もあることでしょう。
 テーマの前半部分の「みことばに聞く」ということは、聖書が教える正しさを知り、自分の向かっている方向を主の求めて居られる方向へ軌道修正することです。本来向かうべき方向に歩むためには、正しい情報を知ることが大切です。その正しい情報を知ると言う事について、私たちは聖書から教えられていくのです。そのために、まずはみことばから聞いていく必要があるわけです。
 19世紀イギリスの大伝道者であるF・B・マイアーは「日々のみことば」というデボーションガイドの中で、毎日聖書を読み、理解を深めることについて下記のようにコメントしています。
 聖書は神の知恵で満ちている。聖書は神の言葉である。私たちは聖書を頭だけではなく、心で読まなければならない。聖書の内容を区分し、言及する事は、良いことであり、望ましいことである。
・・・(中略)・・・
 そこで古くから行われてきた良い方法、すなわち、本書にあるような簡単な注釈を合わせて用いて、注意深く、組織的に、着実に聖書を読むことが、聖書の正確な知識を得るのにおそらく最も重要なことであるといえよう。しかしここで、いつも注意しなければならない事は、御言葉に対する最も深い知識は、御言葉を解き明かされる聖霊の恵みによって与えられているということである。
 と聖書を読む良さと注意点を挙げています。聖書を読むことはいいことですが、全体を読むようにして、個人の好きなところだけを見ることは避けるように言っています。ですから、デボーション誌を用いて聖書全体を満遍なく見られることは良いことなのです。
 デボーションがとても大切だと考えていても、一人で始めるには少しハードルが高いと部分があります。というのも、信仰を持っていて、教会の奉仕もしっかりしている青年たちの話を聞く機会がありました。その中で、「デボーションができていない」という悩みを抱えている青年が8割を超えていたように思います。最初はやるがあったとしても長く続かなく、それが何度も繰り返されることで、諦めてしまう人が多かったのです。青年を例に挙げましたが、年配の方であっても同様の悩みを持っておられる方も多いと思います。
 これらのことに、やはり教会として個人で頑張るだけではなく、信仰共同体として取り組む必要を覚えるのです。
 そして、デボーションをどのように行うべきか?ということですが、デボーションガイドのマナのHPを見てみますとデボーションの薦めが書かれています。
 1)静まって、思いを主に向けましょう。
 2)賛美しましょう。
 3)「今日の聖書」を読みましょう。
 4)黙想しましょう。
 5)分かち合いましょう。
 6)祈り合いましょう。
とあります。賛美の順番は2番目でなくても良いと思いますが、基本的にはこのような流れです。このようにデボーションガイドを見てみると、「デボーションは聖書を読んで黙想するだけではない」ということに気が付かされます。私自身もこのデボーションガイドを見たときに5項、6項が出来ていないことに改めて気が付かされています。

分かち合いましょう、祈り合いましょう

とあります。個人で行うデボーションの後には誰かとの交わりが薦められています。つまり、神のみことばに聞くことは、個人による賛美から始まり、みことばを通した神様との交わりへと続きます。そして、分かち合いと祈りの実践により、神の国がみことばを聞いた人を通して広がっていくだと知ることが出来るのです。一人暮らしをしている人などは、毎日の分かち合いや祈り合いには難しさが生じることでしょう。教会としての対応として、今後は水曜祈祷会や礼拝後の祈り会にこの時間を設けていくのも良いと考えています。
 神のみことばに聞いて歩むことは何事においても基礎にあたるものであり、宣教のためのミニストリーや奉仕においても欠かすことのできない重要なことです。神の国の実現は主のみことばに聞く者たちから豊かに広がり、地域や社会においても良い影響を及ぼすことが出来ると信じています。
 文章でデボーションガイドを記していますが、慣れていない人たちからすると説明するよりも体験して学ぶことの方が取り組みやすい部分があります。2022年のどこかでデボーションの学びや実際に体験して学ぶ機会を設ける必要があると考えています。
 主のみことばから教えられるときに、示される志や、教会で行いたいミニストリーなどが、沢山浮かぶことがあります。個人の思い付きと、神から示されるみこころを見分けることについては、デボーションガイドの5項、6項にあるように、分かち合い・祈り合いから確認していくことが出来ます。示されたことを共有し、長野福音教会に必要な奉仕は何であるのか、信仰生活が豊かな実を結び、神を喜び、キリストの輝きが地域を照らすようになっていくことにワクワクしていくことが出来れば、素晴らしく、楽しいクリスチャンライフへとつながっていくことでしょう。

■証し  N.K.

 初めて長野福音教会を訪れたのは2020年の秋頃のことです。その時はクリスチャンではなかった私を、ここまで神が導いてくださったことを強く感じています。
 私は、クリスチャンではない家庭で育ち、何不自由なく過ごして来ました。しかし、心の中では自分の性格や外見に囚われ、人からの評価によって自分を評価していました。思春期は人間関係に悩み自分の弱さや問題を克服するために必死にもがいていました。そして自分ではどうすることも出来ないことを理解してからは、虚しさや諦めの気持ちの中で日々を過ごしていました。
 そのような中で、神様の存在に出会いました。私はカトリックの学校で過ごしましたが、「聖書の神」を知識として知っているだけで、クリスチャンと深く関わることをしませんでした。当時は、神様を受け入れる心を持っていなかったのだと思います。夫と出会った時、彼がクリスチャンであることを知り、ただ神様のために喜びを持って生きる姿を見ました。それは、他人からの評価を気にして自分自身の問題ばかりに囚われていた私とは全く違う姿でした。そして多くのクリスチャンの方々とも出会い、彼らの価値観や生き方に驚かされました。この人たちを動かしているものは何なのだろうと思い教会に通って、クリスチャンの方達と交わり聖書を読むようになりました。
 そのような日々の中で、私は大きく心を揺さぶられました。「私たち人間は罪深い存在である」ということが理解出来ずにおり、むしろ「真面目に正しく生きてきてきたのに、自分には傷つけられた過去があって、この性格も今の苦しい状況も、誰かや環境のせいで、自分は被害者なのだ。」と感じていたのですが、自分も誰かを傷付け心の中で誰かを憎み妬んでいたこと、人には言い難いような罪を犯し、同時に何度も許されてきたことに気付きました。そして、神様がその私達の罪のためにイエス様を与えてくださったこと、そして、まさに今、神様が私に解決策を与えてくださっていることに気付き、涙が止まりませんでした。
 202112月に洗礼を受けました。神様はただただ生きるのが辛かった私に、信仰を与え新しく生きる命を与えてくださいました。そして、いつでも共に祈ってくれる兄弟姉妹と人生を共にする夫を私に備えてくださいました。
 申命記6:5「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
 このみことばに固く立ち、祈りと感謝の中で神様と共に歩んで参りたいと思います。

■4年間の歩みと私の願い  Y.W.

 私は4年前、長野の病院のベッドの上にいました。10ヶ月ほど入院して、その後施設に入所しました。母を亡くした4か月後に施設を退所し、一人暮らしをすることになりました。最初は精神的な苦痛を感じましたが、徐々に慣れて落ち着いてきました。
 4年前は車椅子でした。いまはバスと徒歩で教会まで通えるだけで幸福だと感謝するべきかもしれないです。ただ私は、自分自身が障害者だということを受け止めなければならなかった時強いショックを受けてしまいます。それは、私がかつては逆の立場だったからかもしれません。
 故郷を離れて長野で、施設生活を送る中、時折思い出して口にしていたみことばは、「私たちの齢は70年。健やかであっても80年」です。私はあと何年元気でいられるのか?と考えると、このみことばが心に強く響いてきます。母を亡くしてから思い起こすことが多くなったと感じます。
 受けとめ方を変えるだけで違ってくるかもしれない……。そう思える時もありますがナーバスになるとやはり悲観的にとらえてしまう。でも『喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい』(ローマ12:15)というみことばを思うと心があたたかくなります。感謝です。これは「施設職員へ向けたみことば」だと聞きました。かつて施設職員だった頃はとてもそんなサポートはしていなかったと思いますが、自分が施設利用者となって生活するようになってからは、他人に対してそのような思いをもって接しかかわれるようになりたいと望む毎日です。
 いつも心がけることは続けていきたい…と思っていますし、何よりも『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ43:4)というみことばを私にも語って下さる神に従う生涯であり続けたい…と願っています。

■秋の特別礼拝  S.S.                    

 2021年10月17日は、ベアンテ・ボーマン先生・るり子さんご夫妻をお迎えして音楽礼拝を捧げました。ボーマン先生はスウェーデンから来られ、有名な楽団で活躍されたチェリストで、宣教師でいらっしゃいます。るり子さんは、ピアノ演奏をされ礼拝の奏楽をしてくださいました。ボーマン先生のメッセージは演奏を交えながら語られました。
 最初にバッハの「主に向かってハレルヤ」という曲を演奏され、祈りの音楽についてお話しされました。神を褒めたたえる・賛美するという意味の「ハレルヤ」は、多くの作曲家がテーマにしており、その代表的なのはヘンデルとバッハだそうです。バッハの聖書に書き込まれていた祈りの言葉を紹介されました。幼いころから次々と家族を亡くし、苦労の多かった中で、神に嘆きを打ち明けながらも、恵みによって、神のために役に立つものとして生きられるように、正しい信仰を与えてくださるよう祈り、譜面の最後には必ず「神に栄光あるのみ」の頭文字を書き込んでいたのだそうです。
 バッハやヘンデルのように、作曲家の中には教会のオルガン奏者だった人が多く、神への信仰を表した曲が、たくさん作られてきたといいます。日々、いつも神を感じ、それを曲に表さずにはいられなかったのかもしれないと思いました。印象深かった曲は、ブロッホというユダヤ人作曲家の曲です。旧約聖書の時代から、今も祈りの歌としてシナゴーグで奏でられている旋律を元にした曲で、4分の1音が連なる不思議な響きでした。
 祈りの音楽で最後に紹介されたのは、日本語では「御使いの糧」で知られる曲です。ここからメッセージは「いのち」について語られていきました。御使いが降らせたマナを食べて荒野を行く民は、生きることができましたが、イエス・キリストはいのちのパンとして来られました(ヨハネの福音書6章31~36説)。イエス様が与えたい命はどのようなものかお話しされました。「いのち」という言葉は、ギリシャ語には三つあり、「ビオス」は生命としてのいのち、「スイコス」は魂としてのいのち、そして「ゾーエ」はイエス様を通して与えられる、無くなることがないいのちです。ゾーエはとても深い意味を持つ言葉で、あふれ出るという意味があるそうです。いのちのパンを食べる、つまりイエス様を心に迎えることは、そのときから始まる、飢え渇きのない、平安であふれ出る豊かないのちを生きることです。イエス様はこのいのちのプレゼントを受け取ってほしいと、あなたの心の扉を叩いておられるのだと。必要な条件はなく、それを受け取ったなら、だんだんと深められていくので、なにも心配することはないと言われました。最後に、祈ったことがない方もいっしょにいかがでしょうかと、祈りの言葉を教えてくださいました。「イエス様、私の心の中に入ってください。私の間違いと罪を許してください。あなたの恵と平安を与えてください。あなたの豊かなゾーエのいのちを与えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」
 いのちの救いは礼拝で何度も語られますが、聞くたびに新しく、聞くたびに感動します。初めての方がいっしょの礼拝ということもあって、聞きやすい言葉で、受け止めるための間を持ちながらお話されていたように感じました。演奏はとても奇麗な音で引き込まれました。それは、メロディーや技術のすばらしさだけでなく、きっと神を賛美する音だったからなのだと思いました。

■特別礼拝を終えて  R.M.

 こんにちは。伝道部役員をしております。先日の特別礼拝にたくさんの方が集まられ共に礼拝をささげられた恵みに心より感謝いたします。
 教会員の皆さんに特別礼拝に来ていただきたい講師を募集したところ、たくさんの反響があって驚きました!コロナ禍にあっても、特別礼拝に対する期待と伝道の熱意が感じられました。失礼ながらあまり存じ上げない方もありましたが、今回はチェロ奏者のベアンテ・ボーマン先生になりました。レディースランチョンのゲストで演奏してくださったこともあります。クラシック音楽ファンである私にとってワクワクしながらの準備が始まりました。
 夏になり、長野でもコロナが急拡大してきたので不安になりましたが、神様の深いあわれみにより無事に当日を迎えらることができ、ホッとしました。集われた方の中に、教会員のご家族や友人・知人もたくさんいらっしゃり嬉しい悲鳴でした。
 ボーマン先生ご夫妻のチェロとピアノの奏楽は、とても澄んだ音色で心が休まる素敵な調べでした。
 メッセージとお証しも素晴らしいものでした。ボーマン先生の級友の一人は誰もが才能を認める学生でしたが実は心の渇き苦しみの中にいたということでした。彼がイエス様と出会っていたならば、と思わずにはいられません。イエス様を信じるだけで、決して渇くことがなく永遠のいのちをいただける恵みを改めて教えていただきました。ボーマン先生ご夫妻、本当にありがとうございました。
 講師をお招きする特別礼拝やクリスマス礼拝は、教会に通っていない方々にとって教会に足を踏み入れるきっかけになるものです。教会はけっして敷居の高い場所ではないことを知っていただきたいと思います。そして長野福音教会にたくさんの人々が集まり、イエス様を知る人が増し加えられることを、心より願っています。

■小さなクリスマス  S.S.

 ハロウィンが終わったと思ったら、町にはクリスマスソングが流れイルミネーションがかがやき華やかな光景に包まれていく。私も子供のころは、クリスマスはサンタがやってきてプレゼントをもらう一大イベントだ、と思っていた。
 ところで、全国には視覚障がい者のクリスチャンの会がある。ただ、高齢化の波はもろに影響し存続できなくなった会が多く見受けられる。長野県視覚障がい者キリスト信徒会も例外ではなく、一人抜け、また一人抜けながら、現在では、私たち夫婦を含めて4人となってしまった。平均年齢はおよそ80歳。いつ存続の危機を迎えてもおかしくはない状況である。
 そのうちの一人は今年になって老人施設に入居したため、クリスマス会に参加できたのは、私たち夫婦ともう一人の会員、顧問牧師、吉村先生だけとなってしまった。なんとも寂しいクリスマスになってしまったものだと思うが、「小さなクリスマスこそ祝福される」と信じて実行することとした。コロナウィルスのことも心配されたが、讃美歌を多く取り入れて歌うこととした。ケーキは、シュークリームに早変わりしてしまったが、まあそれもありかと思った。讃美歌の歌詞を噛み締めるように歌った。讃美歌の集いを通して、イエス様が、十字架の運命を背負って、一番弱い赤子の姿で、生まれて来てくださったことを改めて考えさせられた。
 昼食のあと近況報告などをして、無事にクリスマス会は終了した。皆とても良いクリスマス会だったと言ってくださった。以前はプレゼント交換などをしたり盛り上がったものだったが、今回は本当に讃美歌を歌うことを中心とした静かなクリスマスとなった。老人施設に入居した会員は外出が制限されてクリスマス会には参加できなかったが、「来年は、その施設に赴いてクリスマス会ができたらいいね」とみんなで話したりもした。とても暖かい雰囲気の中で、クリスマス会ができてよかったと思う。きっと神様が祝福してくださったに違いない。そう思うのである。
 みなさんも来年のクリスマス、ぜひ「小さなクリスマス」を体験してみませんか?いつのまにか「大きなクリスマス」になっているかもしれませんね。参加を心待ちにしております。

■長野福音教会の皆様へ  T.T.

 主の御名を賛美します。長い間大変お世話になりました。
 長野を離れて2週間になります。目まぐるしい日々でしたが、神様の助けと導きのうちに少し落ち着いてきました。島での生活は自然に恵まれ、毎日出歩いていますがめずらしいことばかりです。暖かい地域なので、虫たちの活動が活発で気が抜けません。甘い物はすぐに冷蔵庫やレンジに入れておかないと虫の大群にやられてしまいます。
 教会も歩いて5分位の所にあります。牧師先生と4人の信徒です。礼拝後にはお茶を飲みながら交わりの時がありました。家庭的な和やかな時間でした。娘やご近所の親切な方がいろいろ教えてくださったり誘ってくださったりするので、長野にいた時より忙しくなりました。
 長野は寒くなってきますが、皆様の霊肉が守られますように、お祈りしています。

■『パピルスのかご』の仲間になってくださいませんか  M.D.

 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなた方が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」第Ⅱコリント8:9
 2021年から「パピルスのかご」を担っています。「パピルスのかご」は日本国際飢餓対策機構(ハンガーゼロ)の組織チャイルドサポーターが複数(グループ)で里親の働きを担うものです。長野福音教会のチャイルドサポーター(里親)は17名で、2人の子どもたちを支援しています。支援している子どもたちは、ボリビア多民族国15歳の男子とウガンダ共和国17歳の男子です。サポーターは毎月の支援金を提供するという簡単なものですが、ハンガーゼロニュースや、チャイルドサポーター活動報告などの情報を共有することができ、与えるよりもはるかに大きな恵みを受けることができます。ニュースや報告で他のグループが支援しているご家庭の様子がわかって想像を働かせることもできますし、年2回子どもたちから絵やメッセージ・クリスマスカード・写真が送られてきて年々成長する様子を知ることができます。それらはとても大きな感動を与えてくれます。そしてこちらからもクリスマスカードを送ります。
 今年新たに仲間に加わってくださった方もおられますし、○○君のサポート終了まではと2倍の支援金を払ってくださっている方もいます。
 ただ残念なことにサポーターの人数が減少し、3人の子どもたちを2人にせざるを得ませんでした。他のグループの支援もあるので子どもたちに問題はないのですが、祈って支えてきた子を支援できなくなると知った時は残念でなりませんでした。
 イエスさまはまだ2歳という幼い時に、ヨセフとマリヤに連れられて、外国エジプトへ難民となって逃げなければなりませんでした。現在も同じように困難を抱えている子どもたちがたくさんいます。彼らに教育を与えることができれば、彼らの生活、彼らの生きる世界は大きく変わっていきます。
 「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことはわたしにしたのです」マタイの福音書25:40
 3人の子どもたちの支援をしようとするならば24名のサポーターが必要です。サポーターが無理なら祈りに加えていただけるだけでも感謝です。そして会堂階下の掲示板に貼られているニュースや報告を関心を持ってご覧いただけたら幸いです。あなたの行動を心よりお待ちしています。       

■『きよしこのよる』  K.T.

 クリスマスというと『きよしこのよる』を世界中で歌いますよね。世界中の誰もが知っていて愛されている歌で、作詞したのはヨーゼフ・モーア、作曲したのはフランツ・グルーバーです。教会のオルガンの鍵盤を支える一部が、ネズミにかじられて音の出ないところが何ヶ所かあったのですが、その音の出ない部分以外の音を使って作曲された、ということをご存知でしたか?映画『マグダレーナ』(ナスターシャ・キンスキー主演)では作詞した神父さまに恋する女性の物語が描かれていますが、その映画ではオルガンだけではなくてクラシック・ギターで歌われるシーンも出てきます。
 子どもの頃、レコードで『きよしこのよる』等のクリスマスの歌が入っているドーナツ版がありました。クリスマス・イブには家族みんなでレコードを聴きながらお祝いしたものです。“救いのみこは まぶねのなかに”という歌詞がよく分らず、ミコちゃんという女の子が世界を救ってくれるのだと思い込んでいました(笑)。クリスチャンではなくても、救い主がいること、世界を救ってくれる赤ちゃんがクリスマスに生まれた、ということは何故か分かっていたのですね。我が家は家族でごちそうを作り、クリスマスケーキも手作りでした。毎年父は、新聞紙で靴下を作りなさい、と言うので大きな靴下を作り、ワクワクして眠ったものです。
 クリスチャン・ファミリーでなくても神様の守りと恵みがあり、世界で一番売れたアンディ・ウィリアムスの『ホワイト・クリスマス』の入ったレコードをBGMとして流したものです。父と母が存命中のクリスマスにこのレコードを流すと、父と母で思い出話に花が咲きました。『きよしこのよる』をみんなでアカペラで歌って心がひとつになりました。父と母は「シューベルトの“野ばら”、ドイツ語で歌えるよ」と言い、歌ってくれて感動しました。
 かつてキリスト教主義のケアハウスで働いていたのですが、12月になるとクリスマスの飾りつけをしたりして楽しかったものです。私がもみの木に飾りつけをしていたら、アルコール依存症のおじいさんが、私ともみの木を指さして、「キリスト!」と言ったのには驚きました。仏教徒のおじいさんでも、クリスマスにはキリストの日と分かるようでした。音楽療法を取り入れながら、皆でケーキとお茶を囲み、『きよしこのよる』を歌い、心がひとつになり、静かで楽しいクリスマス会となりました。クリスチャンとしてイエス様がお生まれになったことを伝えられて、大変に感謝なひとときでした。
 音楽療法の言葉の中に「所与性の尊重」という難しい言葉がありますが、『きよしこのよる』が音が出ない鍵盤を除いて作曲されたように、たとえば音楽療法をする時に、ギターがなければ打楽器と歌だけでやってみる、生ピアノがなかったらキーボードなどでやってみる、といったような足りないものは足りなかったら他のもので代用するといった援助方法のことを言います。音楽的にも足りないところを他で補うということです。
 クリスマスのごちそうを作るのはとても楽しいものです。毎年11月から白いシクラメンを買ってきて植えて手入れしたり、いのちのことば社の通販で友人や家族などにプレゼントを買い、手紙を書き、クリスマス前に郵送します。クリスチャンではない友人が多いのですが、皆さんとても喜んで下さいます。
 “一般恩寵”(いっぱんおんちょう)という言葉があることをティモシー・ケラー著作の本で知りましたが、神様の恵みはすべての人の上に注がれている、という意味です。クリスチャンだけではなく、一般の方々にも恵みがあり、神のもの、悪魔のもの、と分けて考えがちですが、どんな音楽や芸術などもクリスチャンでも自由に楽しんでよい、という意味もあります。神さまは良い人にも悪い人にも雨を降らせる、とバイブルにあるように。分け隔てなくお祝いしましょう。佳いクリスマスをお迎えください。

2021年10月秋号

■巻頭言 朝に主の御力を知る~デボーションテキストの一致~ 吉村恵理也

 今回はデボーションについて分かち合いたいと考えています。人によっては「デボーションとは何ですか?」とそもそもの質問を上げる人もおられるでしょう。改めて確認するとデボーションとは“神様と静まる時間”のことです。具体的には、
①みことばを読み(聞き)
②知ったことを考え(黙想)
③祈りをもって応答していく(適応)
という流れになります。初めに祈りと賛美をするのも良いでしょう。デボーションが出来ていない人については、一人で始めると長続きしない傾向が見られます。一緒にデボーションを始める人がいれば、励まし合いながら始めていくと継続のしやすさがあります。具体的なデボーションの仕方などはここでは割愛しますが、どこかでデボーション学びを開き、「どの様にデボーションをするのか?」を学ぶことも必要だと考えています。
 話を戻しますと神のみことばに聞いて1日をスタートすることはとても大切です。「朝は眠いし学校や仕事の準備で忙しくて出来ません。」ということも何度か耳にしたことがあります。福音を伝え、人々を癒す働きの激務の中であってもイエス様ご自身はデボーションをしていたことが記されています。
 マルコ1:35  さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
 なぜ夜寝る前にみことばを読むのではなく、朝一番に神のみことばを聞くのでしょうか?少し考えてみてください。朝にTVのニュースや新聞を見る習慣があったとしましょう。世に出ているニュースの殆どが良い内容よりも悪い内容の方が多いのです。芸能人の結婚報道があったとしても、私たちに直接かかわる内容ではありません。
 ですが、神のみことばはどうでしょうか?もちろん時には聖書のみことばが毎回のように直接自分に関係するわけではありません。しかし、神の救いの御業がどれほど偉大であるのか、みことばの理解を深めていくとよく分かります。人はこんなにも神と離れやすいということにも気が付けますし、そこから悔い改める者を主は愛の手をもって「帰っておいで」と語りかけてくださることも多くあることに気が付かされます。そして何より、キリストの救いの真実が信仰者を励まし強めてくださるのです。
 神のみことばであればデボーションテキストを統一しなくても良いという人もいます。もちろん強制ではありません。ですが、同じみことばを分かち合ったほうが励ましやすかったり、みことばを深めやすかったりするのです。
 少し想像してみてください。もし家族でお父さんは創世記、お母さんは黙示録、子どもたちは使徒の働きを読んでいたら、分かち合いにくいことが想像できるのではないでしょうか。無理に分かち合ったとしても一致した信仰生活を送れるのか疑問です。優秀な聖書学者やベテラン牧師のような人がいればいいかもしれませんが、中々そうはいきません。教会も同じです。同じ聖書を開いた方が喜びや疑問を確認しやすいのです。
 長野福音教会では2022年1月を目安にデボーションテキストを「マナ」にして歩んでいこうとしています。選定理由についてですが、デボーション誌「マナ」は点字もあり、週末の聖書箇所は教会学校と関連した聖書だったり、と私たちの教会との信仰生活に関わりやすい部分が多いことから、役員会や教師の中で話し合って決めました。
 主のみことばを味わう日々を一緒に送ってみませんか?主の豊かな恵みが注がれていくことをお祈りしています。

■救いの証 「神の家族の中で」 N.S.

 ハレルヤ、主の御名を賛美します。幼い頃通っていた長野福音教会に、再び通い始めて11年経ちました。この度、転入したいという思いが与えられましたのでよろしくお願いします。
 私はクリスチャンホームで生まれ、三輪にあった福音教会に家族と通っていました。私が幼い時に父が亡くなったので、母は平日は仕事をし日曜日に子ども達を教会に連れて行くという生活になりました。当時の母の苦労は大変なものだったと思います。教会の皆さんが、日曜学校のために自宅まで迎えに来てくださったり、おいしい料理を届けてくださったりしたのを30年以上経った今でも忘れることはありません。
 中学・高校の頃は部活に打ち込み、浅川に移っていた教会にはたまに行くだけとなってしまいました。大学を卒業し教員になりました。高校時代の友人に誘われてクリスチャン・カンパニーの伝道集会に行ったとき、集会前の賛美を聞いただけで涙が止まらなくなりました。聖書の言葉に自分が飢えていたのがわかりました。牧師の白沢先生はそんな私を温かく迎えてくださり、1年後に受洗しました。正村八重子先生は、私が福音教会で受洗していないのに大変喜んでくださいました。
 長女を出産した直後に「福音教会の日曜学校に連れて行こう」という思いが与えられました。教会にさえ連れて行けば子どもは育つという確信がありました。2年後に次女が生まれました。
 職場に復帰した年は、自分の弱さを示された1年でした。仕事が上手くいかず、クラスの子ども達とも心が離れていると感じました。教会には来ていましたが、心の中は仕事のことでいっぱいで、「仕事が上手くいかないのは私の努力と祈りが足りないせいだ」という思いに囚われるようになりました。
 高橋先生は私の体調を気にかけ、相談するたびに祈ってくださいました。
 そしてある時、車をぶつけました。原因は睡眠不足です。車は使えなくなりましたが、私も娘たちも無事でした。私を一切責めずに黙って新しい車を探す夫を見ながら私は「なぜ高橋先生や家族以外の人には相談しなかったんだろう」とぼんやりと思いました。自分が上手くいっていないことがわかれば周りの人は離れていってしまうのではないか、常に人にどう思われるかばかり気にしている自分に気づきました。教員を続けていれば少しでも立派な人間に近づけると思っていたのかもしれません。教員でなくても私は神様のすばらしい作品なんだと改めて思いました。高橋先生に仕事を辞めることを伝え、勤めを全うすることができました。
 「もしあのとき、自分が思ったように事態が好転していたら?」と今でも思うことがあります。もしそうだったなら、私は祈りで神様をコントロールしようとする恐ろしく傲慢な人間になっていたに違いない、とも。
 今では福音教会で子育てのことから家のことなど様々なことを相談できるようになりました。
 長野福音教会に転入会しましたならば、弱さを支え合い祈り合う神の家族がさらに増し加えられるように、また、子育てに悩んでいる人には「とにかく教会に連れておいで」と言えるように、皆様とともに歩んでいきます。20年後、30年後につながるみことばの種まきをしていきます。
 ー主によって、人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも、倒れ臥すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。(詩編37:23ー24)

■主に導かれて  M.M.

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」マタイ7:12
 生きていくのに参考になったり支えになるみ言葉が誰にもあると思いますが、私にとっては、このみ言葉がその一つです。ゴールデンルールと言われている聖書のみ言葉です。
 ニュース取材や報道の仕事をしてきて、いつも何をどのように伝えたらいいのか、悩み考えさせられましたが、そんな時このみ言葉に支えられました。小さな子どもたちにインタビューする機会も多かったのですが、教会の日曜学校で子どもたちと接した経験が仕事でも生かされました。
 転勤を経て、再び長野福音教会で礼拝を守らせていただくことになりました。なつかしい方々が温かく迎えてくれて、久しぶりに故郷に帰ってきたような気持になりました。新しい方々も多く参加されていてうれしい限りでした。私は転勤のたびに、どこの教会に行けばいいか正村先生に紹介していただきました。おかげでどこに行っても主を第一とする教会に導かれ、よき交わりも与えられました。私にとって大きな宝であり、感謝でいっぱいです。
 3年前から体調が思わしくない状態が続き、骨髄異形成症候群と診断されました。血液のがんと言われています。一時入院もしました。今は病院で血液の数値を診てもらい抗がん剤の処方を受けるなどしています。
 体調を崩した頃、家内の母から、「一緒に住みませんか。」と声をかけられ、長野に引っ越しました。しっかり食べて、軽い散歩程度を心がけています。このところ、歩くのもよろよろで、おじいさん歩きになっています。できることを少しでもしながら、もう少し神さまのご用のために努めないといけないと思わされています。
 神さまは、どんな時にも、共にいて、支え、導いてくださっている。そう強く教えられます。多少の試練や困難があっても、いつも祈り、喜びと感謝を心に留めながら、生きていこう、そう思わされます。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」第一テサロニケ5:16ー18

■よろしくお願いします  C.I.

 この春からだったでしょうか。教会に息子とともに行かせていただいております。息子は3歳、私は1歳です。???・・・!!
 私は横浜市の教会で洗礼を受け、クリスチャンとして生まれ変わって1年が経ったところなので、1歳ということです。
 長野福音教会とのつながりは、ゴスペルワークショップに参加したところからになります。結婚して夫婦で、息子が生まれてからは3人で、ゴスペルワークショップに楽しく参加していました。
 私には教会のために役立つ能力が見当たりませんが、ノンクリスチャンの気持ちは想像できます。こんなエピソードがありました。結婚する同僚が自分はクリスチャンであるということを話してくれました。その時の私の心のうちはこんな感じ。「へえー。この人普通そうに見えて変わってるのかな。特に博愛精神とか感じないけど、クリスチャンって・・・?」(クリスチャン≒マザーテレサのイメージ)。ゴスペルワークショップに参加したことで、この遠い遠い存在だったクリスチャンへの思いが随分と変わったと思います。
 息子には病気があります。話すことが難しく、絵カード交換式コミュニケーションという方法で会話します。息子はとても人が好きですが、慎重でもあります。あいさつをしたり、タッチをしたりしたい気持ちは強いものの、相手から積極的に近寄ってこられると緊張して逃げてしまうこともあります。少しずつ慣れていくと思います。
 そんな息子と日曜学校に参加しています。初めは楽しく参加できるのか心配でしたが、息子なりに楽しいようです。日曜の朝は絵カードで「教会行くよ」と伝えるとニコニコです。でも不思議なことがあります。教会へ行きたい様子の息子ですが、毎回玄関を出るのを渋ります。ノンクリスチャンである夫に「あなたも来てほしいって言っているんじゃない?」と言って、試しに車まで夫に送ってもらったところ、息子はスムーズに玄関を出るのです!「やっぱり一緒に行ってほしいんだよ」となりました。夫も「そうだね。たまには行くかな」。おお!なんとすばらしい!主はいつも、人を通して私たちを助けてくださいます。
 言葉をよく理解できない子どもが日曜学校に参加する意味はあるのか?と思ったこともあります。雰囲気に慣れることはよいと思っています。実際に通ってみると、私が一番色々と教わっていることに気づきました。わかりやすい言葉で本当に助かります。感謝です。最近、家でのお祈りで手を組む息子の姿がとても微笑ましいです。日曜学校に参加する意味はちゃんとあるようです。
 私は児童発達支援事業所といって、障害を持っているもしくは発達に心配がある幼児を支援する施設で仕事をしています。子どもたちと接し多くのことを学ぶほどに、障害って何?普通って何?というのがよくわからなくなってきます。普通と言われる大人たちにも実は発達過程での特徴があることに気づきます。みんな違って、それでいい。みんな得意と不得意がある。それだけ。そんな風に感じてきます。
 “兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬しあいなさい” ローマ人への手紙12:10
 御言葉が、実感を伴って私に迫る気がします。
 クリスチャン2年目。多くのことを学んでいる最中です。どうぞよろしくお願いします。

■Tony Wilson(トニー ウィルソン) N.N.

 私にイエス・キリストを紹介し、今でも交流を続けている人物について書きたいと思います。
 私は、イギリスのマンチェスターという町で暮らしたことがあります。夫の夢(生物発生メカニズムの解明)を支えるためでした。研究の世界は競争が激しく、夫の研究はお蔵入りになるばかり。がんばっても報われない夫を笑顔で支えながら、先の見えない将来に、私の心は限界を迎えていました。
 また同時に、英語も上達しなければ!と焦りが出てきました。無料で英語を教えてくれる場所はないか。行き着いた先は、友人から紹介されたトニー(当時60歳ぐらいの英国人男性)が主催するバイブルスタディでした。キリスト教に勧誘されたら嫌だな…という躊躇が少しありましたが、誘ってくれた友人(韓国人クリスチャン)がとてもいい人だったので、彼女と一緒なら大丈夫だろうという感じでした。
 そこで出会ったのは、ペルー人夫妻。ヨルダン人。スペイン人。インドネシア人夫妻。香港人。キリスト教弾圧を逃れてきたイランからの亡命者。文化や言語が違うのに、クリスチャンとして深〜いところでつながっているような家族的な一体感があり、不思議にも羨ましく思えました。みんなで手をつなぎ、輪になってそれぞれの言語で祈るとき、神聖な空気の中で、その祈りの響きの美しさに聞き入りました。
 バイブルスタディでは、旧約聖書は壮大なスケール感で、人間の失敗を包み隠さず描いていて、とても面白かったです。新約聖書の奇跡は、イエス様が水の上を歩いたり、パンと魚を増やしたり…。正直言うと、「こんなこと信じられるかな〜?(苦笑)」という感じでした。そして、トニーに「人は罪がある」と言われると、「私は今まで誠実に生きてきた。罪人ではない!」と反発していました。放蕩息子の話しは、「失敗するとわかっていて、なぜお父さんはこの息子に財産を渡した?」と違和感がありました。また、イエス様が十字架にかかった場面を、感謝して喜んでいるクラスメイトを見てギョッとしたのでした。それでも、毎回トニーが準備してくれる手書きのプリントや、拙い英語でどんな質問をしても「それはいい質問だね。」と温かく応答してくれるトニーの態度に愛を感じ、気づけば欠かさずに通い続けていました。
 バイブルスタディの場所は、大学の食堂やメンバーの自宅、カフェ、教会などでした。授業後のティータイムやランチタイムが楽しみでした。また、ピクニックの企画があり、みんなで川沿いを歩き楽しい時を過ごしました。私は次第にトニーの中に、覚えづらい外国人の名前を一人ひとり呼んで、一方的に愛を与え続けてくれるイエス・キリストの姿を見るようになっていきました。
 ある時、「どうして外国人に無料で英語や聖書を教えているの?」と聞いたところ、次のように話してくれました。トニーは、かつて中学校の理科の教員でしたが、早期退職し神学を学びました。「マンチェスターは国際的な都市。自分は世界宣教には出られないけれど、ここで外国人に英語や聖書を教えていれば、その人たちが母国に帰った時に、福音を伝えてくれる。」そういう召しが与えられたのだそうです。そして、この活動は現在も継続されています。
 私たち夫婦はイギリスでの挑戦に区切りをつけました。転職先が決まり、ほっとしたのも束の間父の病の知らせを受けました。バイブルクラスで父の癒しを祈ってもらったことが、私の信仰告白のきっかけとなりました。結果的に、イギリス生活と父の闘病生活は自分の願い通りにはなりませんでした。しかし異国で苦しい状況に陥ったからこそ、主イエス・キリストに出会えました。いくつもの願いが叶わなかったからこそ、主と私の関係が強められ、真理を求めて自分から聖書を読むようになったのです。やはり私はバイブルスタディが大好きです。
 トニーから毎年クリスマスカードが届きます。Eメールも折に触れて届きます。「どうしてる?家族は元気?クリスチャンライフはどうだい?ニュースを楽しみにしているよ!」と。いろいろな悩みがあって何ヶ月も返事を書かない時、何一つ否定せずに「クリスチャンの友人と交わるといいよ。」と、いつもの穏やかな調子で励ましてくれました。『トニーが今でも私を気にかけ祈ってくれていること。』そのこと自体にイエス・キリストの愛が国を超えて、絶えず流れてくるのを感じるのです。
 コロナ禍がひと段落したら、マンチェスターを訪れトニーやバイブルスタディの仲間に再会できたらいいな、と思っています。

■変わってしまったもの、そして変わらないもの S.S.

 新型コロナウィルス。だれがここまで影響を及ぼす事態になることを予想しただろうか?むろん私もその一人である。
 去年の2月ごろから流行が始まり、今や世界で二億人の感染者を出すまでになった。当然私たちの教会も、新型コロナウィルスの影響を受けて、様々なことが変わった。
 福音食堂のご飯もストップした。礼拝も一時期できなくなり、オンラインでの礼拝を余儀なくされた。これは、長野福音教会が誕生してから初めてのことであろうと思う。
 コロナの感染レベルが少し下がって、福音教会にもぼちぼち人が戻ってきた。しかしそれは今までのスタイルとは変わったものであった。
 礼拝を全員で行うのではなく、早朝・第1・第2・夕拝と分けて20数名のグループで行うようになった。全員で、礼拝ができないのは残念ではあるが、人数を分けてでも礼拝をさせていただけることに感謝であると思う。慣れというものは恐ろしいもので、このスタイルが、私の中で、構築されつつあることは否めない事実である。変わったことにも適応する力を神様は備えていてくださるのかも知れない。でもやはり全員で礼拝をできるように早くコロナも終息してもらいたいものである。
 その中でも、変わらないものそして変わってはいけないものがあると思う。それは、長野福音教会の結束と、揺るぎない信仰心でなければならないと思う。長崎のキリシタンは、幕府からの迫害を受けても、スタイルを変えつつも軸となる信仰は変わらずに、歴史をつないできたということがある。われわれは、迫害はされてはないものの、スペイン風邪に匹敵するこの未曾有の事態に直面しているのである。ここで問われるのが信仰心ではなかろうかと思う。それと結束である。一昨年の台風19号の災害ボランティアに来てくださった各教会の方々には、本当に頭が下がる思いである。神様の前に集う結束を私たちも持ち続けて行きたいと思う。
 そして今。コロナの大流行には歯止めがかからない。礼拝のスタイルや、教会の諸行事ができなくなったとしても、揺るぎない信仰心は持ち続けていきたいと私は思う。そして、何時の日か、全員で礼拝堂に集い、笑って礼拝が守れる日がくることを願いたいと思う。

■夫の病と神様と私  A.I.

 夫が出血したということで検査~即入院。投薬~手術・再手術を経て、検査で小さな癌が残留という説明を受けました。手術で癌は摘出されたのだから治るだろうと楽観していましたので、この状況に愕然としました。
 私は50年前に自然療法の本に出会い、その力で何度か助けられた経験があり、自分のできる範囲で、夫にそれを実行させていただこうと思いました。 
 娘たちも物心両面で支援してくれました。感謝です。
 そして神様のお恵みをいただいて、CT検査では癌の影像が写らなくなり、夫は朝早くから畑に行けるほど元気になりました。私も、1年間ほど礼拝を欠席していましたが、日々数行でも聖書を読ませていただき、心の支えをいただいて、今日まで過ごしてきました。神様のお恵み、そして牧師初め皆様のお祈りに感謝致します。
 今年、初めて植えた夕顔が夕刻になると咲き始めます。白い大きな花が、この夏、私の心を癒してくれました。神様がおつくりになった鳥や花にも、感謝します。

■『重吉と旅する~クリスチャン詩人:八木重吉』  K.T.

『素朴な琴』
 この明るさのなかへ
 ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美しさに耐えかね
 琴はしづかに 鳴りいだすだろう     ―八木 重吉―
 ある日、クリニックに『重吉と旅する』という本を持っていきました。すると、ドクターが「ちょっと見せてください」と言い、診察の時間なのに先生がひっきりなしにこの本をパラパラとめくっているのです。
 私は、“先生どうしたのかなあ?”と思っていたのですが、この「素朴な琴」のページを開いた先生は、「ありました!これが私の一番好きな詩です!」と言い、目を少年のようにキラキラさせて喜んでいらっしゃいました。
 私のドクターは、クラシック、ジャズ、絵画、芸術に造詣があり、よく深く知っていらっしゃいます。
 時々、「今は何の音楽を聞いていますか?」と尋ねられます。「カラヤンとグレン・グールドのオーケストラを聴いています」と答えたら、「カラヤンとグールドが共演するなんて珍しいですね」と言いました。いつかは「今はキース・ジャレットを聴いています」と言うと、「あなたもキース・ジャレット好きなんですか?」と先生お目々キラキラ。「あたりまえですよ」といいたかったのですが、「あの赤い花のジャケットいいですよね」。「『愛と死の幻想』ですね」と私。「深くていいですよね」。「そのアルバムに、キースは”人は花のように生きるようにつとめるべきである“ってライナーに書いてありますよね、私もそうでありたい、と思います」。「そうですね、そう生きましょう」とふたりでニコニコ。
 このように、ドクターは様々な芸術や音楽や本に触れていなければならない、と思います。芸術や音楽も、心のごはん、ですからね。
 さて、八木重吉の『重吉と旅をする』は、日本の教会にぜひ、各々1冊は揃えていただきたい、とても良い本です。
 都会で生活していた時、この本の10ページ目にある、八木重吉記念館(町田市相原町)を発見してそばまで行ったことがあります。仕事があったので、外観を見るのみでしたが、入ってみたいなあ、と思いました。

『桃子よ』
 もも子よ
 おまえがぐづってしかたないとき
 わたしは おまへに げんこつをくれる
 だが 桃子
 お父さんの命が要るときがあったら
 いつでも おまへにあげる    ―八木 重吉―
 この詩はいつ読んでも、父性愛に満ちていて、涙が出そうになります。重吉は身体が弱かったので、娘さんも息子さんも、早くに死んでしまいます。どんなに深く、哀しかったことでしょうか?
 私も、15歳の頃から詩作を始めました。今では120篇以上になります。自分のアイデンティティとして、本にしてもらいたくて、東京の出版社に原稿を送りましたがボツりました。けれども、ある友人には「(あなたの)存在自体が詩人で、芸術なんだよ」と言っていただきました。谷川俊太郎さんのような詩を書き、読書量も膨大で、中国の漢詩まで読める方にそんな風に言っていただいたのです。
 私はイエス様の生き方、人生自体が、詩のようであり、詩人だと思っています。祈っている時、“これはどん底かしら?”と思う、苦しい時ほど、苦しみに耐えていると、自然に詩がうまれてきます。Facebookに時折、詩を載せていますので、よかったら私のサイト、のぞいてみてください。
 重吉は、子どものように純粋な心で、たくさんの詩を書き、生前は有名になることを拒みました。紙に墨字で詩を書き、奥さまのとみさんと一緒に、詩を綴(と)じるリボンを買いに行ったといいます。
 とみさんは、戦争の頃、防空壕でバスケット籠に入れた重吉の詩を大切に守り、重吉の死後、とみさんは歌人と再婚し、その方のお陰で重吉の詩は世に出ることができたのです。
 私も有名になりたくなく、死後に発表してもらいたいな、と重吉の欲のない子どものように素直な詩を味わいながら、そう思っています。
 晩秋に秋の紅葉を見ながら、散歩をして詩作を深め、神さまに祈りたい、と思っています。

■神の御業(5) K.I.
さあみなさん。いよいよ待ちに待った天国まで飛んでいきましょう。 WE  HAVE  WINGS

先に悪霊の働きについて書きました。
天の御国が来る前に、様々な裁きがなされます。
経済活動に対するさばき
 「ここに来なさい。水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女と不品行のぶどう酒に酔ったのです。」「すべての淫婦と地の憎むべきものの母、大バビロン。」と言う名であった。 ヨハネの黙示録 17:1、5
 
これは、経済的な活動に対する神様の指摘です。
 「それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。彼女と不品行を行い、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで、泣き、悲しみます。彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都、バビロンよ。あなたのさばきは一瞬のうちに来た。」
 また、地上の商人たちは、彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買うものがだれもいないからです。

 商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄、大理石で造ったあらゆる種類の器具、また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。」 ヨハネの黙示録 18:8~13

 これらの物を商って彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみを恐れていたために、遠く離れて立っていて、泣き悲しんで言います。

 『わざわいが来た。わざわいが来た。麻布、紫布、緋布を着て、金、宝石、真珠を飾りにしていた大きな都よ。あれほどの富が一瞬のうちに荒れすたれてしまった。』また、すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たちも、遠く離れて立っていて、彼女が焼かれる煙を見て、泣いて言いました。『このすばらしい都のような所がほかにあろうか。』
 それから、彼らは、頭にちりをかぶって泣き悲しみ、叫んで言いました。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に船を持つものはみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは。』 ヨハネの黙示録18:15~19
悪魔の一時捕縛
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
 彼は悪魔でありサタンである竜。あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。ヨハネの黙示録20:1~3
最後の審判
 しかし千年の終わりに、サタンは、牢から解き放され地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴクとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。
 彼らの数は、海辺の砂のようである。
 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。
 すると、天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。
 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、
 彼らは永遠に昼も夜も苦しみをうける。 ヨハネの黙示録20:7~10
 また私は、死んだ人々が、大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それはいのちの書であった。
 死んだ人々は、これらの書物にかきしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。
 そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
 それから死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。
 これが第二の死である。
 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。ヨハネの黙示録20:12~15
 ここで私たちが真に神を恐れなければならないのは、苦しみは永遠に続くということです。
 苦しくても、死ぬことができないのです。
 イエス様が福音書で語ったことが、実際に起こるのです。

私たちは、正しく神様を恐れましょう。

2021年7月号

■巻頭言「恵みを受け取る聖餐式」  牧師 高橋宣広

 今年7月4日の主日から私たちの教会では、公式聖書を『聖書・新改訳2017』に変更します。待ちに待った変更です。これまでと新しい聖書の翻訳の違いに、ぜひ注目してください。翻訳が変わったことで、「みことばの理解がより深まりました!よく分かるようになりました!」などの喜びの報告を届けて頂けますと、幸いです。
 私は、コリント人への手紙 第Ⅰ 11章27節の翻訳の変更に目が留まり、うれしくなりました。聖餐式の際の式文(牧師の語る言葉)に用いられるみことばですが、これまでの訳では、
 「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」となっていたところ、『新改訳2017』では、
 「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」と変更されています。
 私は以前の訳「ふさわしくないままで」が、聖餐式で語られるたびごとに、恐れを覚えていました。自らの内側に罪があり、そこから抜け出せないと感じていましたので、いたたまれない思いになりました。「私は聖餐式にあずかるには、ふさわしくない」と思わされました。「こんな自分が、パンとぶどう液を受けてはいけない。これを食べるということは、罪を犯すことになるのではないか・・・」と不安になっていました。
 聖餐式は、本来、神様の愛と赦しを確認する恵みのときであるはずです。けれども「ふさわしくないままで」という言葉にひっかかっていた私は、聖餐式を恵みとして受け取ることができませんでした。皆さんは、いかがでしょうか? このみことばが語られると「苦しい、心が痛む」という方がいらっしゃるのではないでしょうか。
 では、この「ふさわしくないまま」とは、どのような状態を言うのでしょうか? 使徒パウロは11章で、コリント教会が集まり方において混乱をきたしていると指摘します。11章17節、「あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。」それは18節の「あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂がある」ことでした。しかも、なんと20節以降を見ますと、主の晩餐、今の私たちからしますと、聖餐式のせいで、教会内に分裂が生じていたというのです。
 20節から22節まで、「しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。」
 このみことばを理解するため、約2000年前の教会での聖餐式のあり方を知らなければなりません。当時の聖餐式は、家庭集会のような集まりの中で(まだ教会堂という専用の建物は無かったので)、みんなで夕食を取り、そのあとすぐに行なわれていました。クリスチャンたちは、毎週日曜日集まる時、食べ物を持ち寄り、みんなで食べました。この食事は愛餐会と呼ばれたり、アガペーと呼ばれていました。その名の通り、裕福な人たちが、たくさんのおかずやパン、飲み物などを持参し、貧しい人たちに分かち合う愛の業でした。イエス様からはかり知れない大きな愛を受けた人が、今度は、そのイエス様の愛を他者に分かち合う。自発的で喜んでささげる愛が初代教会にはあったのです。そして愛餐会からパンを裂く聖餐式へと導かれていったのです。
 けれども、時が経つにつれ、また場所がエルサレムからコリントへと移っていく中で、初代教会のうるわしい精神は、すたれていきました。コリントの教会では、愛餐会の場が、めいめい我先にと自分の食事を済ませる場所となっていました。みんなが満腹して楽しむどころか、空腹な者もおれば、酔っている者もいるという始末でした。
 貧しい人たち、特に当時の奴隷たちは、夜遅くまで労働を強いられ、教会の集まりに遅れて来ざるをえませんでした。そのような貧しい人たちを待たずに、裕福な人たちは、自分たちが持ってきたごちそうを完食していたのです。ぶどう酒でもう酔っ払っている者までいました。そんな中に、一日の過酷な労働を終え、お腹をすかせた貧しい人たちが何も持たずにやって来ます。愛餐会の恵みにあずかれると期待して、教会に来た彼らの前には、何と、食べつくされたお皿と、飲み干されたぶどう酒の入れ物が置かれてあったのです。
 「食べ物の恨みは恐い」と言いますが、このような状況では、貧しい人たちと裕福な人たちの間で一致が見られるはずがありません。この世の力関係がそのまま、教会内に反映していたのです。弱い者が無視されている教会の現状でした。
 イエス様が与えてくださった尊い儀式が、不適切に、おざなりにされていたのです。そして、聖餐式を大事にしないことが、教会に分裂をもたらしていたのです。
 使徒パウロは、主の晩餐=聖餐式は、コリント教会が行っているような「ただの飲み食い・宴会」ではないと語ります。聖餐式は、もっと尊いもの、もっと神聖なもの、もっと畏れ多いものなのです。そしてパウロは、コリントの教会員に向けて戒めの言葉を発します。27節です。「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」
 これまでの文脈を踏まえながら考えますと、ここで言われている「ふさわしくない仕方で」とは、貧しい人たち、弱い人たちのことをかえりみない愛のない態度や、その態度がもたらすあり方ではないでしょうか? イエス様の愛を無視した歩みと言っても良いかも知れません。自分は、食べることができる。でも他の人のことなんて知ったこっちゃない。そんな態度、そんなあり方です。
 それは、ご自身の尊いいのちを犠牲にして、私たちを救い出し、そしてご自身のからだなる教会に呼び集め、一つにしようとされているイエス様の心を完全に無視することなのです。
 最後に、この「ふさわしくない仕方で」ということについて、宗教改革者のカルヴァンの言葉に耳を傾けていきたいと思います。『キリスト教綱要』という本の中でカルヴァンは、「我々が己れ自身から己れの『ふさわしさ』を求めねばならぬということになるならば、我々はもう駄目」である。「結局、『ふさわしく』あることを求めて極限までの努力がなされたすえ、我々が最も『ふさわしくない』ものとなるのが落ち着く先である。」と述べています。つまり人間の努力では、神様の前に「ふさわしく」あることはできない。反対に、自分自身の罪深さ、惨めさを知るだけだというのです。
 そして、真の意味の「ふさわしさ」とは、人間が自分自身で作り出す功績ではなく、神ご自身がその憐れみによって、我々をふさわしい者としたもうことである。したがって、もし何らかの意味で強いて「ふさわしさ」を言うとすれば、我々自身の「ふさわしくなさ」自体を神に差し出すこと以外に無い、と主張します。
 カルヴァンのこの主張を読みながら、本当にそうだなあと思わされています。神様の御前における「ふさわしさ」とは、自分が神様の前で「ふさわしくない者であること」を認めること以外何物でもないのです。
 神様の目には、逆なのです。「自分こそ聖餐式を受けるにふさわしい」と、傲慢な思いを持っている人は、「ふさわしくない」のです。反対に「自分なんて、聖餐式にあずかれない、本当にふさわしくない・・・」と自覚している人こそ、聖餐式にあずかるのにふさわしいのです。
 皆さんの中で、自分は聖餐式を受けるのに、ふさわしくないと感じている人はいらっしゃいませんか。そのような人こそ、勇気をもって聖餐式にあずかってください。イエス様は信仰の弱い私たちのために、目に見える聖餐式を用意してくださったのです。私たちは、聖餐式のたびごとに、ふさわしくない自分自身を、正直に神様の前に差し出し、イエス様の十字架の赦しを思い起こし、イエス様の十字架にすがっていくのです。

■教会は祈りの家でありたい  吉村恵理也

 2021年3月末に長野福音教会に転任してきて、まず私が考えたことがあります。それは、「この教会で祈祷室を作るとしたら何処に作れるだろうか?」ということです。私はそこまで祈る人ではありません。1日あたりの祈りの合計は30分~60分ぐらいです。そのうち教会で祈るのは30分ぐらいだと思います。教師なのだからそれぐらい当たり前と思うでしょうか?もっと祈るべきだと思うときもあります。ですが、個人では限界があります。だからこそ教会での祈りをみなさんと深めたいのです。
 イエスさまは「神殿(教会)とは祈りの家と呼ばれるべきところである。(マタイ2113、マルコ1117、ルカ1946)」と言っています。イザヤ56:7の引用ですが、引用元ではこうあります。
 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。イザヤ56:7
 主のみもとに集まり生きる人は、祈りの家で楽しんでいることが分かります。では私たちは教会生活を楽しめているでしょうか?新型コロナのことで色々なイベントができなくなり、礼拝も分散で礼拝をささげるようになり、礼拝が終わると即座に帰宅してしまうことが多いと思います。教会生活の喜びはどこへ行ってしまったのだろうか?と思ってしまうこところが正直あります。
 だからこそ、主が言われたみことばに立ち返って考えてみたいのです。イエスさまが「教会は祈りの家」と言われた流れは、神殿前で商売をしている人たちについて「神殿を強盗が狙うような場所にするな。神殿は祈りの家である。」と言われ、商売を乱暴にやめさせた流れで言われたことです。当時の商売をしている人たちは、善意で商売を行っていました。というのも、神さまの前にささげる物は傷のない新品の穀物や動物であることが定められていたからです。お金だけ持ってきて神殿の直前で購入するのであれば、ささげ物の準備が便利だったという背景がありました。
 このみことばに触れたときに「教会では、金銭のやり取りを行うことよりも、祈りが頻繁に行われている場所であること。」を教えられます。ですから教会の中における商売は避けるべきことであり、それよりも祈りが行われる必要性を教えられるのです。
 このことから教会のバザーなどが課題に挙がったりします。「地域における伝道のためには用いられる。」というのがバザーの行われる主な理由です。地域の人々とのふれあいも確かに大切です。ですが、バザーを行う・行わない、という議論以前に「主の神殿(今日における教会)において祈りがささげられているか?」という原点に立ち返りたいと思うのです。
 教会で祈りというと水曜日の祈祷会があります。そこで行われる共同体の祈りも良いものです。教会で祈ることへの入門としては教会の祈祷会出席があげられます。祈祷会の出席割合で、教会が元気であるかどうかの評価基準になったりするようです。その基準が礼拝出席数の10%以上だというのを耳にしたことがあります。
 ここに二つの点を見いだせます。
 ①90%の人が祈っていなくても10%の人が祈る祈りの力は教会を支える。
 ②祈りのない(足りない)教会は病気になる(元気がなくなる)。
ということです。誤解の無いようにしたいのですが、祈祷会に10%以上の信徒が集まらなくてはならない、ということではありません。教会での祈りが頻繁に行われるべきだと言いたいのです。
 これらのことがあり、教会では祈る場所(祈祷室)があると良いとまず考えたのです。誰もが祈るために教会に来て、いつでも祈れることを奨めていきたいのです。もちろん各家庭、個人の祈りも大切でしょう。ですが、教会が祈りの家と呼ばれてるためには、もっと教会堂で祈りが行われることが必要なのではないでしょうか?イエスさまはこう言われています。
 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。マタイ 7:7
 教会での祈りが洗練されていく中で、主の思いがよりよく分かり、神の御国が長野福音教会を通して広がっていくことを願っています。

■コロナ禍の日々

 コロナになって、勤務先で大きく変化したことがあります。
 最初はマスクの問題でした。昨年コロナが騒がれ出した頃マスクをした職員に対して、「具合悪いの?」と、半分心配、半分怪訝そうにされる人たちがいましたが、さすがに1年以上もマスクの状態が続くと、慣れてきて何も言わなくなりました。マスクで困るのは、表情がわかりにくい、声が曇って聞き取りにくいということです。滑舌良くはっきり話し、顔面いっぱいに笑顔を作る、ボディランゲージもオーバーにする、など注意しています。
 様々な行事も、縮小や中止になりました。毎年、バスで日帰り旅行をしていましたが中止。夏祭りやクリスマス会などは内々で行いました。
 人間は、衣食住が整えば生きていけますが、人と会っておしゃべりしたり、外出したりという楽しみがなければ生活の質は下がります。制約がある中でもできる範囲で幸せな気持ちになってもらえるよう工夫しています。
 ほとんどの方がワクチン接種を終え、心配だった副作用も軽くて済み、安心しています。
 慢性的な人手不足とコロナのおかげで、業務も増え休憩もとれない状態が続いていますが頑張っています。働ける場があるということを神様に感謝しています。また高齢者がコロナにかからず安心して人生を送っていけるよう祈っています。

■初夏(はつなつ)によせて~与謝野晶子詩集より 

 初夏(はつなつ)が来た 初夏は
 髪をきれいに 梳(す)き分けた
 十六七の美少年     
 さくら色した肉附(にくづき)に
 ようも似合うた詰襟(つめえり)の
 みどりの上衣(うはぎ) しろづぼん (与謝野晶子「初夏」より)
 初夏になり、すがすがしい朝を迎える季節となりました。亡き母の愛した庭も、素晴らしい庭師さんに剪定していただき、すっきりとしました。今日は527日、亡き父の誕生日です。
 与謝野晶子というと、情熱の歌人と言われ、子だくさんで、夫の与謝野鉄幹との恋、様々に話題となりますが、フランスに遊学したこともある晶子は絢爛豪華で豊かな生活をしていた、と想像しますが、本当はお客さまへのお茶を出すのにも、こと欠いていた時代もあったそうです。
 「日曜の朝飯」という詩では、幼子たちにごはんを出して、楽しくいただき、ラストでは‟日曜学校へお行き、みんなでお行き。さあ、一所(いっしょ)に、我家(うち)の日曜の朝の御飯と謳われています。
 晶子はヨーロッパ旅行でロダンなどにも触れ、碌山美術館にはロダンの彫刻の写真がありますが、肉薄が伝わってくるように圧倒されますね。晶子は自分の子どもに“アウギュスト”と名付けてしまいます。(オーギュスト・ロダンから、アウギュストです)。現代のキラキラ・ネームを名付けてしまう、コミックな若い親と似ているでしょうか?(ちょっと違うかな)。
 ヨーロッパの文化の香りと、自らの女性としての生き方を問うて、晶子はこんな短歌も書いています。

    淵(ふち)の水になげし 聖書を又(また)もひろい
    空(そら)仰ぎ泣く われ まどひの子   (「はたち妻」より)

 私自身、晶子が泣くように、まるで自分がまどひの子のように感じられます。
 私が洗礼を受けたのは、ちょうど長崎の原爆投下の日でした。故正村富男先生から、滴礼をしていただきました。野尻湖での夏のキャンプで、故田中政男先生が「イエス様は目には見えないけれど、今、ここにいます」と叫ばれた時、主の臨在を肌で感じました。滴礼を受けた時、つむった目の中で主が触れてくださり、イエスさまが自らバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、白い鳩が飛んだ、とありますが、心の中に白い鳩が飛ぶのが見えました。生まれ変わったように笑顔の私がいました。救われたよろこびでした。まさに光に包まれた瞬間でした。
 日本では‟怒りの広島”‟祈りの長崎と言われる夏です。そんな時に受洗できたことを摂理に感じました。
 晶子の詩では「森の大樹(だいじゅ)」という作品が、軽井沢を思わせます。美しい高原の木陰で夏の暑さに日傘で涼む、着物姿の晶子が目に浮かぶようです。
 昔、軽井沢のルヴァン美術館に晶子展を観にいったことがありました。晶子は学生を点数で採点することを好まず、nやmの字が連なるように、山ひとつ、山ふたつ、山みっつ(山みっつが最高点)というユニークな採点方法を取り入れたそうです。晶子の筆文字は優しくゆるやかな行書体で、とても美しかったです。様々な時代を感じる写真なども、じっくりと観賞できました。
 女学生たちに、家に入るにしても、職業婦人になるとしても、教えを胸に生きなさい、と背中を押したそうです。
 女性運動の草分けへのエネルギーとなった「山の動く日」、戦地に赴く弟を想う、有名な「君死にたもうことなかれ」。非国民、と家のガラス窓を割られても、晶子は自分の信念を曲げませんでした。
 私にはそんな強い意志はないのですが、現代を生きる日本人女性を詩や短歌で励まし続けた晶子の勇気は、まるで女ダビデのようです。芸術家の多くが、神を感じ、近づきたい、と願い、貧しさの中、天国へとたどり着きたいと願い、召されてゆく。
 晶子の人生を深く知ることで、現代に生きる私たちも、人と闘うのではなく、おのれと闘い、愛する人々を豊かに守り、どんなに小さなことでも、小さなことから忠実に、そうすれば、いつか大きなことにも忠実になれる、と信じて、生きていけたら、さいわいです。
 日本古来からの美を学び,日本人には日本人のように神様を伝えてゆけたらいいな、と思っています。
 ☆参考文献;『与謝野晶子詩歌集』神保光太郎編(白鳳社) 
 青春の詩集/日本編11

■神の御業(4) K.I.

 さあみなさん。今日は、住んでいる家の真上の空高く昇って、あなたが住んでいる周りの状態を見て行きましょう。
 あなたの生活の中にさまざまな困難や、病があります。日本人は病から守られるように、二年参りを始めとする、神社参拝等をします。また家を建てる時、地鎮祭をします。またプロ野球などはシーズン始めに怪我や成績のアップの為に、神主からお祓いをしてもらいます。
 自分以外に外から、何かの力が働いていると感じています。
 聖書ははっきりとその存在を記しています。
悪魔の起源と働き
 悪魔は神様が造られた天使長でした。その天使長が神様の座に上ろうとしたのです。
 「暁の子、明けの明星よ。どうして、あなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。
 『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」 イザヤ14:12-15
 「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つ事ができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」 黙示録12:7-9
 悪魔の働きについて韓国の牧師が日曜礼拝の説教で、大変判りやすいカセットテープがありましたので紹介したいと思います。
悪魔の呼び名と働き
 サタン、悪霊、いつわり者、悪しき者、この世の神、この世を支配する者、空中の権を持つ支配者、竜。悪霊は人に付いて抑圧し、滅ぼし殺そうとします。アルコール中毒、コンピュータ中毒、麻薬中毒、放蕩の中毒、悩み、不安、あせり、絶望、憎しみ、嘆き、不眠を起こします。また家庭の不和、子供の反抗は悪霊の働きです。悪霊は全世界を支配しています。
イエス様の悪魔に対する働き
 イエス様が地上におられた時代、悪霊の働きは顕著でした。
 「こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。
 彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。』それは、イエスが汚れた霊に、出て行け、と命じられたからである。」ルカ8:26ー29
 悪霊は私たちを住家とします。
 「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を探しますが、見つかりません。そこで『出てきた自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいて掃除してきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分より悪い霊を7つ連れてきて、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めより更に悪くなります。」マタイ12:43ー45
 イエス様は私たちが悪霊から解放される事を願っています。
イエス様は12弟子に悪霊を追い出すよう命じられました
 「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」 マタイ10:1
更にイエス様は私達に悪霊を追い出すよう命じられました
 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っています。固く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」 ペテロⅠ5:8
 「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」 エペソ6:10-12
 イエス様は私たちがイエス様の権威と力を使って、悪霊を追い出せと命じられました。
 「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また病人に手を置けば病人はいやされます。」 マルコ16:17ー18
 イエス様は「悪魔から守ってください」と祈るだけでなく、「イエス様の御名によって悪霊を追い出しなさい」と、命じられました。悪霊に立ち向かって追い出すように、命じられました。
 この時、間違った教えに陥らない為に、2つの事に気をつけましょう。
 1つ目は、悪霊が追い出された事は周りの全ての人に判るという事です。
 2つ目は、病気が癒された事は、医師に証明してもらわなければなりません。 証明されないのに治療をやめたり薬の服用を止めてはいけません。
 信仰は小説ではありません。
 信仰は現実的で、実質的に私たちの人生を導いていく、キリストの処方です。

2021年4月号

■巻頭言「悪意なく口にしていることば」  牧師 高橋宣広

 日本に住むキリスト者として、私たちは救われている喜びと共に、マイノリティ=少数派としての悩みや困難を覚えることがあります。私たちの従っている神様について、信仰について等、大切にしていることを理解してもらえていないと感じたりします。
 しかし、そんな私でありながら、意識せずに悪意を感じることなく、偏見や差別につながる言葉や思いが、心の中に刷り込まれてはいないだろうかと思わされています。誰かの足を踏み付け、平気な顔をしていることに気付けないでいます。
 アメリカで、黒人男性が白人の警察官に抑えつけられ、死亡した事件を受け、全米に抗議デモが広がった時、人々はBlack lives matter(黒人の命は大切だ)と訴えました。この言葉は、世界に広がっています。
 肌の色や、人種・民族・国籍の違いなどで人を差別してはいけない。頭ではそう理解していても、心の深い所で「○○はこうだ、こうに違いない」という意識が巣食っているのです。「ブラック企業」とか「ホワイト企業」という造語が生まれたり、「腹黒い」という言葉があったり、私たちの中に「黒=悪」、「白=善」という意識があるのではないでしょうか。
 色には本来、善悪や寒暖等といった価値や、肯定的また否定的な意味など無いのでしょうが、私たち人間が、色に様々なイメージや意味を勝手に書き込んでしまっているように思います。カラスは不吉な鳥、白さぎは幸運の鳥だという迷信に、とらわれています。黒は暗闇の、白は光のイメージなのかもしれませんが。こういった言葉を日本と世界に住む肌の色が濃い人たちが、どんな思いで聞いているのか、そのことに想像力が働かないのです。
 教会の聖歌の歌詞にも「墨より黒き心なれど」や「雪よりも白くせん」とあり、私はそのような歌詞を歌うことに、最近ためらいを感じています。もちろん「言葉狩り」をするつもりもありませんし、偏見などなく真心から歌ってきた聖歌の歌詞であることは理解しています。けれども、たった一人でも、そこで語られ、そこで歌われている言葉に傷つき、悲しむ人がいるならばという想像力を、それが私自身であるかもしれないという想像力を持てたらと思います。
 言葉で失敗することの多い私が、こんなことを書くのは恥ずかしい限りですが、自戒を込めて書かせて頂きます。

 出エジプト記 23章9節
 「あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。」

 マタイの福音書7章3,4節
 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」

 長野福音教会にようこそ!   

 昨年の秋、受洗と転入会により、3名の方が私たちの群れに与えられました。コロナ禍対応による分散しての礼拝のため、洗礼式・転入会式に立ち会えなかった方も、証を通して、ともに喜びを分かち合いましょう! 

■救いの証

 助けてほしいと思っているのなら自分から一歩踏み出さなければと思ったのが、教会に来たきっかけです。
 私の子どもの発表会を終えた夜でした。私は子どもたちの何かを育てているのだろうか。いいことを何かしているどころか、自分が「いい」と思ったことを自分勝手に押しつけてしまっていたのかもしれない。自分が「いい」と思ったことが、子どもたちにとって本当にいいのか私には分からないからです。それに、夫には冷たくしてしまうし、それで子どもは悲しくなるし、私は何て的外れなのだろう、何て何もできないのだろうと、自分の無力に絶望した気持ちでした。
 一人になりたくて散歩をしました。善光寺でお参りしたら心もしずまるかと思いながら歩きました。道中に教会があって、辛いならこっちにおいでと言ってくれないかなと思いながら横を通りました。でも言ってくれませんでした。
だれもいない真っ暗な本堂の前で、救われない気持ちになりました。
 歩いているうちに、何をしようとしても何もできないことを考えれば考えるほど、感謝したい気持ちが知らずに生まれていました。私が何もできない存在なのに、子どもたちは愛情を表してくれるし、家族もなんとか元気でやっているからです。でも、ありがとうとここでは言えないと思いました。
 でも、誰かに感謝したい。本当に感謝したかった。感謝を受け取ってくださるのは、キリスト教の神様かもしれないと思いました。自分から一歩踏み出さなくてはと思い、教会に行ってみることを決心しました。
 長野福音教会に伺ったのは、ホームページがきっかけです。初めてお会いした教会のみなさんが、うれしいと言って迎えてくださいました。また来られたらいいなと思いました。助け主のはたらきを初めて意識した日々でした。
 聖書を読みました。旧約聖書の、神様にすがったり、忘れたりする民衆が私にそっくりだと気が付きました。しかしイエス様は忍耐強く、父なる神を信じなさい、キリストを知りなさいと私に語りかけてくださっていることに驚きました。
 「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という力強い宣言が心から離れません。
 イエス様を心に受け入れ、与えられた命の主であるイエス様に従っていきます。
 神様に生かされていることを感じ、心が安らぎます。
 「あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」この御言葉に生きていきます。(1011日 洗礼式)

■すくいのあかし 

 わたしは、しんじる前は、おいのりしても、うそをついてしまうことが多かったです。ウイングスでせいしょのみこと葉を読んだりお話を聞いたりしてしんじました。
 おばあちゃんやお母さんが 子どものころからきてて それできました。
 お話しで 心をきれいにしなきゃ神の御国には行けないよとか聞いお話しで 心をきれいにしなきゃ神の御国には行けないよとか聞いたし、モう9年生きててつみをしてその心をきれいにしたかったからです。
 すきなみこと葉はコロサイ人への手がみの「たがいににんたいしあい、だれかがほかの人にふまんをいだいたとしても、たがいにゆるしあいなさい。主があなたがたをゆるしてくださったように、あなたがたもそうしなさい。」です。
 これからもさんびやせいしょをよんでたくさんのひとにイエスさまのことをしってもらいたいです。(1122日 洗礼式)

■講演会 戦国の世を生きたキリシタン大名高山右近とその時代

 2021年131日(日)、以前当教会でご奉仕いただいた奈良献児先生をお招きし、高山右近の信仰と魅力を語っていただきました。YouTubeで配信されていますので、ぜひご覧ください。

≪感想から≫
 一昨年に金沢へ行きました。その時に、高山右近が実は優れた建築技師であり土木技師であることを知って驚いたのですが、今回は更にスケールが大きく城下町の建設もしてしまったことを知ることができました。荒木村重の謀反に関連して白装束で信長に対面した話には心打たれます。NHKドラマ「八重の桜」を観たときに、武士道とキリスト教は相性が良いのではないかと思いました。高山右近の真に神を愛する姿、そんな右近を愛する奈良先生に元気をいただきました。4月からのご奉仕も大いに祝福されますように。

 興味深く聞かせていただきました。右近の父のキリスト教入信にロレンツという視覚障がい者がかかわっていたと聞きました。次回はロレンツについてお話をしたいです。先生のご健康とギャラリー・ジュストのご発展をお祈りしています。

 コロナ禍の中、お越しいただきありがとうございました。密度の濃いお話でした。多才な右近と奈良先生が重なるようで興味深くお聞きしました。
            
 高山右近のお話有難うございました。戦国時代の武将であった右近の人となりを一生懸命語って下さり、丁度テレビで放映されている「麒麟が来る」の裏舞台で活躍していた方として理解するのにタイミングが良かったです。その時代に城主となって大勢の領民がクリスチャンになったこと、紙子で信長に投降したことなど、立派なリーダーだったと思います。金沢城での26年の生活も、金沢城の改築や、お茶、能、お菓子など、文化に多大な貢献をされており、今も脈々と続いている風土が素晴らしいと思います。短時間に一生懸命語って下さったご熱意を忘れません。どうぞ健康に気をつけられ、又、ガイドのお仕事を通して大勢の方に「右近さん」を紹介してあげて下さい。

■寄稿 つぶやきの毒

 その昔、聖書を読み始めた頃、「つぶやき」と書かれた表現に当惑していました。それまでの自分の語彙では、「つぶやき」は「独り言のささやき」の意味だと思っていたからです。しかし聖書で「全会衆はつぶやいた」「あなたがたのつぶやきは」等と書かれている場合は、前後の文脈からは、「不平」「不満」「悪口」「不誠実なコトバ」の意味で用いられているようでした。(「新改訳2017」では、以前の「新改訳」の「つぶやき」は「不平」に直されて記載されています)
 私は毎年夏頃に「自殺予防ゲートキーパー養成講座」というところで講演をしております。2020年は誹謗中傷を副題のような形で取り上げました。この年は春から夏にかけて芸能人の自殺が複数件ありましたが、その中でも特に悲惨だったのは、SNSでの誹謗中傷のため自殺したと思われる若い女子プロレスラーの事件でした。テレビの番組中の彼女の言動に対して、彼女を批判する不特定の人々が、彼女のブログやSNSに随分ひどい悪口雑言を書き込んでいたのです。番組での彼女の言動は、悪役レスラーとしての彼女の役割であり、誇張だったにもかかわらず、です。そこで講演では「ことばが人を殺す」事例として、この事件を取り上げました。彼女は何故死なねばならなかったか。テレビ局の過剰な演出方針ゆえか。低予算で番組作りを任された下請の制作会社の暴走か。低俗な脚本ゆえか。こうした番組を面白がる視聴者ゆえか。最初に書き込んだ人ゆえか。他者の書き込みを見て自分も書いてみようと次々書き込んだ人々ゆえか。等々。講演では、(1)私たちの社会が彼女を死なせてしまったということ、(2)その責任を免れていると言える人は私たちの中に一人も居ないということ、それでも、(3)ことばというものがここで直接に彼女を死なせてしまったのだ、という形で論じました。
 それは、力の有る立場の者からの強いことばだったでしょうか。いいえ、そうではありません。ただの匿名の書き込みでした。多くは、短い、くだらない書き込みでした。書かれた内容に反応して他の匿名者たちがまた次々とエスカレートした書き込みを繰り返す形で、(「炎上」と言われている現象です)、膨大な量の罵詈雑言、誹謗中傷、侮辱、脅迫が積み上がりました。
 講演で語った「人を殺すことば」とは、あらためて考えますと、これが聖書に書かれていた「つぶやき」のことではないかと思いました。誰が言っているのか個別にはわかりにくいですが、ざわめきとして、複数の者の口から発せられ、積み上がって行く不平不満です。これらは悪者のことばではなく、弱い者のことばに過ぎません。でもこうしたことばは、きっと悪魔の格好の道具となるのでしょう。悪い毒に変換されてしまいます。なるほど、聖書では「つぶやき」が民の罪として描かれている理由がよくわかります。
 同じ不平不満でも、つぶやきと対局にあるのが、個人が名乗りを上げて意見として語る不平不満です。そういう発言でしたら、ヨブもヨナもダビデもエリヤも神に向かって語りましたし、神はそれに神のことばで答えて下さいました。神はその命がけの発言(「祈り」と言うべきかもしれません)を受け止め、慈しみ、神のことばを示してくださっています。
 あらためまして、つぶやきの毒を発して人を死なせてしまうのを防ぐには、この世に生きる私たちは、どうしたら良いでしょう。
せめて、匿名はやめましょう。ちゃんと名乗りましょう。名乗って向かい合って言えないことなら、最初から言わない方がよろしい。
他者の主張に便乗して積み上げないようにしましょう。
「私の意見」は「私個人の意見」に過ぎませんから、背後に大勢が居るかのような言い方をするのもやめましょう。
 つぶやきの毒に打ちひしがれている方を慰めるには、どうすればよいでしょう。誹謗中傷の中で傷つく方は、患者さんとして私の前に現れることもあります。その際には、匿名の非難を無視するよう勧めています。相手は面と向かって伝えようとしないのだから、その発言は捨て置けば良いとお伝えします。同様に、「みんなが自分のことを非難している」と言って嘆いている人に対しては、「みんなって誰ですか?」と尋ねることにしています。大抵、具体的な「みんな」なんて居ません。その人の非難をしようとした誰かが、自分の主張を通そうとして「みんな」が後ろに居るかのように誇張しているに過ぎません。ですから「みんながそう言っていますよ」ということばで締めくくられるようなことを言われた際も、その内容は一切無視して良いですよと伝えています。 
 神様がご自分に似せて作られた一人一人が居るこの世の中です。こうした介入で、少しでもつぶやきの毒から人が守られるようにと願っています。

■神の御業(3) K.I.

 さあみなさん。今日も私といっしょに鷲のように大空に舞い上がって、イエス様が生きていたシナイ半島まで飛んでいきましょう。 
 モーセの時代、シナイの荒野に一匹の青銅の蛇が竿の先に高く上げられました。その青銅の蛇を見上げた人は生きたのです。
「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人を噛んでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」 民数記  21;9
「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。」パウロが嘆いた解決方法は、イエス様と一体になり死に律法から解放され、イエス様と一体になり律法の要を実行したと見なしてくださいました。
新しい契約(新約)
  それは、新しい契約(新約)としてイエスという方がキリスト(メシヤ)として来られたことです。木に架けられたイエスと言う方をキリストと仰ぎ見る(信じる)とき、その人は生きるのです。
律法の壁は果てしなく高くアダムとエバの時から、現在から未来まで続いています。
誰ひとりその壁を乗り越える事はできません。
神様はこの契約を、イスラエル民族だけでなく全人類と結ばれました。
  契約とは、両者で結ばれた条件が満たされたとき、効力が発生します。
40年間の荒野の生活と律法
  神様は信仰による救いに人類にお与えになるのに、イスラエル民族の長い歴史を通して準備されました。
 神様はモーセを指導者として、イスラエル民族をエジプトの奴隷の状態から救い出しされました。
 紅海の水を分け、シナイ半島に入りました。まず、氏族ごとに人数を数え20才以上で軍務に付ける人を選び軍隊を作りました。レビを除いた氏族ごとに3万人から7万人で合計60万3千5百50人です。
 十戒が収められている幕屋を中心、氏族ごとに軍旗を立て民と氏族ごとの軍団が宿営します。牛、羊、やぎなど家畜も一緒です。異邦人も同行しました。体制が整い安定した生活になりました。民は昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれました。300万人の民をカナンまで40年間、養われた事自体が奇跡でした。
 基本的には生活は家族単位だったと思います。また、水とか食料、燃料などは氏族ごとに調達したと思います。しかし、荒野の中では周囲に何も無い為、モーセに訴えざるを得ませんでした。
 しばらくするとエジプトから持って来た水、食料、燃料が無くなって来ました。喉が乾きお腹が空くと、不満が爆発しました。
 モーセとアロンに「ああ、肉が食べたい。エジプトでただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりもすいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や私たちののどは干からびてしまった。だが今や、何もなくて、このマナを見るだけだ。」 民数記11:4-6 
 マナは夜、露が降りる時、マナも一緒に降りた。人々はそれを集め臼でついて、これをなべで煮てパン菓子を作った。その味はおいしいクリームのような味でした。
 神様は大風を吹かせて宿営地にうずらを落され、肉も与えられました。
 モーセの訴えに神様は「あの岩を持っている杖で打て。水が出るから民に飲ませよ。」と命じられました。
そしてカナンの地に入る前にこう仰せられました。
「あなたの神、主がこの40年間荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」  申命記8:2
 ところで、私たちが家族、家財、家畜を連れてモーセに従って旅を続けた時のことを考えてみましょう。
 「水がない、パンがない、肉がない」といった状態になった時イスラエル人と同じように文句を言うと思います。今まで信じてついてきた神様が実際の生活に立たないと思うようになります。
 現実の生活は厳しいのです。
 私たちは現実の生活の中で困難に会うとき、イスラエル人と同じように心のうちにあるものを知るのです。
メシヤの預言
 神様は預言者を通してメシヤ(キリスト)がお生まれになる事を長い歴史を通して約束されました。
 処女から生まれる事。ベツレヘムから生まれる事。メシヤとして病を癒し、死人を甦らせ、十字架に架けられる事など、事細かく預言しました。それらは旧約聖書に記されました。
 イエス様がお生まれになった時から天に帰られるまで、旧約聖書に記された通りでした。
 婚礼の席で水をブドー酒に変えられました。らい病を癒し、足なえを癒し、嵐を鎮め死人を生き返らせ、しるしによって御自身がメシヤである事を証明されました。福音を語り、信仰による救いを語りました。また旧約聖書に記されている通り十字架にかかり、3日目に復活し御自身を弟子を始め多くの人々に表しました。
 弟子や多くの人々の前で天に昇られました。十字架の死と復活と昇天はイエス様を信じる人々も同じ希望と確信になりました。
 神様への服従と律法の確立は、何千年もかかりました。長野福音教会もまだ60年しか経っていません。 
 福音の理解と定着、すなわち実生活の上で子や孫にまで定着するには時間がかかると思います。
 私たちはエジプトからカナンに至る40年の途中に居るのではないでしょうか。

2020年11月号

■巻頭言「ボランティアセンターの1か月を体験して- 宿屋のおじさんとして-②」  牧師 高橋宣広

 昨年の恐ろしい洪水被害、またボランティアセンターの事務局や拠点としての働きから一年が経ちました。時々、豊野の町を車で通ります。再建されているお宅や再開されている保育園もあれば、病院が取り壊されてさら地になっていたりと、本当に大変だったであろう一年を想像します。
 昨年1017()から、あるお宅に入らせて頂きました。その日に記した内容です。 
 「被災された信徒のご自宅のお片付けに行きました。月曜日にはまだぐちゃぐちゃだった道路は、乾いていました。強風が吹けば砂煙となりそうです。お宅は2階近くまで浸水していました。希望が与えられますようにお祈りください。駒ヶ根から牧師と精鋭3名が、上田から兄弟団の牧師と同盟教団の元大工さんの牧師が、隣宅から若い女性3人が駆け付けてくださいました。また家主とご友人たちが、そして長野福音教会から6名とたくさんの素晴らしい助け手が与えられました。まだまだ先の見えない長期戦となりそうですが、確かな一歩を踏み出すことができました。」
 翌18()は作業を休み、19()に再開しました。教会の多くの方がご参加くださり、重労働を担ってくださいました。
 私は19日、関西から訪問された日本福音自由教会の牧師夫妻と面談しました。その先生は東日本大震災や毎年続く豪雨災害被災地の救援の働きをされている方でした。豊野の被災状況写真で見て頂き、長野福音教会がボランティアセンターの拠点・宿泊場所として適していることを 確認して行かれました。この時、情報交換したことが、その後、日本国際飢餓対策機構(ハンガーゼロ)から全面的な支援を頂けたり、関西の諸教会からボランティアが来てくださることにつながったのかなと思います。
 被災後連日、広島・岡山・岐阜・福岡など、各地の教会の牧師から電話が入りました。ここ数年間、洪水被害を経験され、地域の諸教会が協力して、ボランティアセンターの働きをされた先生方が、「ぜひ長野でも教会がボランティアセンターを」、「そのために協力したい」、「土のう袋など支援物資を送りたい」と申し出てくださいました。
 22()は休日でした。教会全体にボランティアの参加を募ったところ、多くの方が申し出てくださいましたが、雨のため中止となりました。
 24()も多くの方々が片付け作業に入ってくださいました。この日からハンガーゼロの災害支援を担当されているスタッフが来会されました。東北、熊本、広島など各地で災害復旧支援のボランティアセンターの運営を担って来られた方でした。この後、立ち上がった北信州キリスト教会災害対策室において、中心的な働きをしてくださいました。午後、篠ノ井の教会に地域の牧師たちや、関東や広島から来られた牧師たちが集まり、これからボランティアセンターを立ち上げていくことを決定し、役割分担などを確認しました。
 25()にはハンガーゼロのスタッフと一緒に豊野や長沼の支所を回りました。これから立ち上げるボランティアセンターを地元の社協に認めてもらい、全国から集まるボランティアの方々の高速道路料金を無料にしてもらうための情報収集をしました。
 かつてダビデ王のもとにいた三人の勇士のように、長野のために、被災者のためにと、全国から時間をかけ、犠牲を払い、思いを寄せて駆けつけてくださった方々がおられました。
 第Ⅱサムエル記2316,17

  1. すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで  にささげて、
  2. 言った。「よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

■書評「愛の鬼才」(三浦綾子著) 西村久蔵の生き方

 三浦綾子の著作としては、「氷点」「塩狩峠」「道ありき」などが有名でが、「愛の鬼才」は、書店で手に取るまで知りませんでした。
 読み始めると、目頭が熱くなるエピソードの連続で、イエス様が、明治から昭和の日本に生まれて生きていたら、こんなようではなかったかと思えるようでした。紛れもなく、最近読んだ本の中の一押しの一冊です。
 三浦綾子は、結婚前に脊椎カリエスで札幌医大病院に入院していた時に、西村久蔵氏と出会ったそうです。幼馴染の前川正さんが西村久蔵氏に堀田綾子さんを見舞ってほしいとハガキを出し、西村氏はその要望に応えて、病床を訪ねたのが出会いでした。その頃の西村氏は、札幌で「洋生の店ニシムラ」を経営し、北一条教会の長老でした。虚無感に包まれ、頑なだった綾子を「親戚と思いなさい」と言って優しく包み込み、その翌年に亡くなるまで、病床の綾子を励まし続けたそうです。
 私にとって印象的だったエピソードは2つあります。
 一つ目は、少年久蔵が信仰を持った後に、耶蘇嫌いのお祖父さんと対決する場面です。今から約100年前の1917年(大正6年)、久蔵は、旧制中学を卒業し、高等学校受験には失敗して浪人中に高松の祖父を訪ねたのです。父からは、高松行きに際して、絶対にキリスト信徒になったことを、祖父に知らせてはならぬとのアドバイスがありました。祖父は、凛とした曲がったことの赦せない性格の人だったようです。祖父との食事の際に、食前の祈りを声を上げてすることができない、就寝前の祈りもうっかり声をあげてできない、と苦痛に耐えて生活する久蔵でした。祖父の家に来て4日目がクリスマスでした。こっそりと高松教会のクリスマス礼拝に出ることに成功した久蔵でしたが、東京で通っていた富士見教会からクリスマス礼拝の案内が来て、ついに祖父の知るところとなってしまいます。烈火の如く怒る祖父。日本刀があれば一刀両断にしかねない怒りの迫力で、改宗かさもなくば勘当かと、久蔵に改宗を迫るのでした。その翌日、祖父に詫びた久蔵は、祖父からまるで口頭試問を受けるように、次々と質問攻めにあいます。十日十夜、祖父の鋭い質問に対して、誠実に懸命に答える少年久蔵。孫が自分のために毎日祈ってくれていたという事実に心が動いたようでした。ついに、祖父は、久蔵を認めて連れて回り、「この孫は本物のヤソやぞ」と人々に紹介したそうです。
 二つ目は、小樽高等商業(小樽商科大学の前身)の教員であった時に、朝の始業前に聖書の学びを始めたことです。教え子が病気で亡くなるのですが、生徒を失った日の夜、一夜を祈り明かし、悔い改めを誓った久蔵は、生徒たちに少年の死を告げて、自分の教育の不真実さを詫びるのです。「自分は良い教師ではなかった。教師はただ知識を切り売りすれば良いだけのものではない。一番重要なのは、人間が人間として生きていくための、根本的な問題を示すものでなければならない。が、私はそのことをしなかった。・・・・」と少年にイエス様のことを伝えなかったことを悔いて、翌朝から1時間早く学校に来て聖書の学びをすると宣言するのでした。そして、二十人近くの生徒たちが早朝に集まって、久蔵からイエス・キリストの物語を聴いたのでした。この集まりから、多数のクリスチャンのリーダーたちが育ったそうです。そして、教師としての久蔵は、教え子の誰もが「自分は一番目をかけられている」と思い込むことができるほど、教え子一人一人を愛し、親身になって世話をしたそうです。久蔵の有り様に深く感銘を受けるとともに、本来の教育はやはりそうでなくては、と思いました。私の力だけでは難しいけれど、イエス様のお力添えを頂いて、できる限り、学生一人一人を愛し、人間として成長する手助けをしたいと思います。
 読了後は、「こんな素晴らしいクリスチャンの先輩がいたのか!」と爽
やかな気持ちになります。「この人をみよ」という聖歌を歌いたくなります。時間のない方は、エピソードのつまみ食いでも面白く読めると思います。

■主は私の羊飼い 正村献三師

 母・正村八重子が、85年の生涯を終えて、天に召されました。生前「この者のために、お忙しい教団の先生方のお働きの妨げになってはいけない」と、家族葬を強く希望していたのですが、思いがけず「神の家族葬」となりました。約六十年の教団の牧師としての歩みにおいては、末息子の私には、とうてい想像も及ばない多くの方々とのつながりがあったことと思います。これまでの主にある皆様とのお交わりを心より御礼を申し上げます。
 本人が何より願っていたことですが、生涯現役で、教会に仕えさせていただき、伝道者としての歩みをまっとうさせていただくことができました。主を愛し、教会を愛し、教会に仕え、教会の兄姉との交わりを喜びとし、生きがいとしていました。「私の宝物は教会です」が口癖でした。
 晩年の母は、悩みを抱える人に寄り添うようにして、耳を傾けることが多かったようです。昨年の11月中旬、体調不良を訴えて緊急入院、先に天に召された父と同じ悪性リンパ腫との診断を受け、二ヶ月余、闘病しました。お世話になった病院の看護師の方々が、「正村さんの病室に行くのは楽しい、いやされる」と口々に語っておられたという話をうかがい、いかにも母らしいと思いつつ、病床にあっても、最後まで主が用いてくださったと信じ感謝いたしました。
 母が天に召される直前、意識が混濁した状態にあったとき、このようなこともありました。御見舞いで病室を訪ねてくださった方々と話をしていたとき、レディースランチョンの集会が話題となりました。会話の中で「ランチョン」ということばが出たとたん、母の目が、突然、ぱっと開いて、私たちの会話にじっと耳を傾けていたように見えました。病床にありながら、心は教会のことでいっぱいであったのだと思います。
 母が息を引き取る10日ほど前、枕元で、詩篇23篇のみことばを読み、ともに祈りました。それが、母の意識がクリアな状態で、会話を交わした最後の機会となりました。後日、詩篇23篇が愛唱聖句だったこと、4人の子どもたちに、「あなたたちも『主は私の羊飼い』と告白して、主に信頼して生きてほしい」と願っていたと聞きました。
 私は母の若き日のことはほとんど何も知りませんが、先日、ある方が、以前、母からこのような証しを聞いたと、一つのエピソードを教えてくださいました。神学生時代、仕送りが少なく、いつも乏しさを感じていたとき、「神さま、助けてください」と何度も祈りました。お金を与えられることを期待もしたけれど、聖書を開くと、いつも「主は私の牧者であって、私に乏しいことはない」とのみことばが与えられ、神さまの答えは同じでした。でも、自分は神学校を無事に卒業することができ、今があるのだ、と話していたそうです。
 「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます」(詩篇23:6)主は、母を豊かな恵みによって支え、詩篇23篇のみことばのお約束どおりに生涯を歩ませてくださいました。感謝します。

■正村八重子先生を思いつつ 小宮ひとみ師

 私が新米牧師として新町教会に来た時、多くの先生方が支えてくださいました。そのお一人が召された辻浦定俊先生で、月に一度の聖餐式とメッセージに来てくださいました。そしてその後を引き継いでくださったのが、正村八重子先生でした。長野から2回バスに乗り換えて来てくださいました。「遠い所から大変な思いをして申し訳ありません」と言うと、いつもニコニコと「バスからの景色がすばらしいのよ、一人で貸し切り同然で幸せ」と、喜んでくださいました。
 私たちは何年も先生の優しさに甘えてしまいました。召される2年前、「送り迎えは悪いから他の方にお願いして」と言われました。今思うと、お元気にみえたけれど、大変だったのだなぁと思いました。いつも柔和で、でも凛としておられる、そんなお母さんのような先生に助けられて来ました。
 そして、それが実を結ぼうとしているのが歓迎礼拝でした。先生にずっと来てほしかったのは、そこに集われるご婦人方の強い思いがあったからです。月一度の歓迎礼拝に求道者が与えられました。必ず夫人が23名出席します。先生のメッセージを聞くためにです。それは、女性として母として、そして人生の先輩として生きてこられた人が語るメッセージが頭にすんなりと入ってくる、受け入れることが出来る、納得出来る、そしてその婦人方はもっと教えられたい、もっと聞きたい、一緒に時間を共有したいという思いでした。
 毎年8月は必ず平和のすばらしさを語ってくださいました。辛い辛い時、ご長男を亡くされた時、そんな辛い時でも先生の語られる姿の中に神様のすばらしさを見せていただきました。飾らない、そのままの姿のメッセージが忘れられません。だから集われた婦人方が、先生にお会いする事を心待ちにしていたのです。
 また、私たち小さな群れの婦人会にもいろいろな配慮をいただきました。小さくても堂々とやりなさいと言う叱咤激励をいただきました。
 最後の葬儀にて「人間をとる漁師になりなさい」と言うみことばが皆さんに与えられました。正村先生は、ご主人が召されたあと、一人の女性伝道師として歩む道は大変であったと思います。私も一人の女性伝道者として、主のもとに行く日までがんばりたいと思います。

■神の御業(2

 さあみなさん。今日も私といっしょに鷲のように大空に舞い上がって、モーセの時代まで飛んでいきましょう。
 旧い契約(旧約)
   神様は、罪の問題解決のために、イスラエル民族と一つの契約を結ばれました。契約とは、両者で結ばれた条件が満たされたとき、効力が発生します。
 十戒と律法の授与
   わたしはあなたの 主なる神である
   1. あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない
   2. あなたは自分のために、偶像を造ってはならない
   3 あなたはあなたの神の御名をみだりに唱えてはならない
   4. あなたは、安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ
   5. あなたの父と母を敬え
   6. 殺してはならない
   7. 姦淫してはならない
   8. 盗んではならない
   9. あなたの隣人に対して、偽りの証言をしてはならない
   10. あなたの隣人の妻、財産をほしがってはならない
 神様はモーセを通して十戒を始めとして神様を拝む礼拝規定、人と人との倫理規定を律法としてイスラエル民族と契約を交わされました。
 そして、この律法を一つ残らず完全に守るなら、その報酬として「罪なし」とされる契約でした。
 ところが、歴史を通して明らかになったことは、律法を守るその行きつくところは自分が神様の要求に全く合格できないという現実です。律法が自分に死をもたらすものであることを自覚させました。その事を、パウロはこう記しています。
   「律法は罪なのでしょうか。絶対にそんな事はありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知らなかったでしょう。
    律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
    しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。
    律法なければ罪は死んだものです。
    私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
    私には自分のしていることがわかりません。
    私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎む事を行っているからです。
    私はほんとうにみじめな人間です。
    だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
ローマ 7:724

 この旧い契約(旧約)は、モーセの時代にイスラエル民族と契約を交わしましたが、アダムとエバの最初の人間から現在の私達、そしてイエス様が地上に来られて最後の審判をするまでの全人類に適用されます。つまり、誰ひとり旧い契約(旧約)によって「罪なし」と認められないということです。
 イエス様の時代、律法学者とパリサイ人が、おもにイスラエル民族の宗教で支配的な立場でした。律法学者は文字通り、律法の研究と解釈、パリサイ人は実生活で忠実に律法に従おうとしました。イエス様の彼らへの評価は。大変厳しいものでした。
 「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い守りなさい。けれども彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって人の肩に載せ、自分は指一本さわろうとはしません。」
マタイ 232ー4
 「わざわいがきますぞ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から御国をさえぎっているのです。 自分もはいらず、入ろうとしている人々をもはいらせないのです。」
マタイ 2313
 「偽善者たち。イザヤはあなたがたについてこう預言しているが、まさにその通りです。『この民は口先だけはわたしをうやまうが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを拝んでもむだなことある。人間の教えを教えとして教えるだけだから』」      
マタイ 157ー9

 律法学者とパリサイ人たちは、イエス様の命を取ろうと、機会を狙っていました。

■コロナ禍の礼拝

 令和になって初めて迎えた正月が過ぎ、雪も少ない日々が続いていた今年の冬でした。ところが、新型コロナウイルスという恐ろしいウイルスの感染拡大が始まり、穏やかな日常が一変してしまいました。三密の回避、マスクの着用、手指消毒の徹底等が盛んに呼びかけられる毎日です。
 人との接触が減り、外出も減り、感染の不安を抱える中でしたが、教会では、十分な感染予防対策をとって、分散して礼拝が行われるようになりました。このような時だからこそ、迷える子羊には、導いていただけるみことばがあることを感謝しています。
 牧師先生が語ってくださる神様からのメッセージを直接お聞きすることができることの恵みの豊かさをしみじみ感じています。皆で集って、喜びと感謝をもって神様を心から賛美する日が一日も早く来ますように祈りつつ、楽しみにしています。

■今夏、私が思うこと

 今、私たちは、早く、出来るだけ早くと、競いあう生活の中で暮らしている。パソコン、スマートフォンなどの普及、定着で、それがなければ夜も日も明けないという生活になっている。ゆっくりとした生活自体罪悪のように思われてしまう。生活が便利になれば、なるほどゆとりの生活ができるはずなのに、逆に、ゆとりがどこかへとんでしまったかのような生活をしている。そのうえ地球温暖化が叫ばれ、最近では新型コロナウイルスの感染が世界中に至るところに広まり、外に出たら手の消毒、マスクの着用、自粛生活が余儀なくされている。人々の間には、「不安・不平・不満」や「偏見・差別」が生まれ、ギスギスした生活が生まれ始めている。
 主イエスがマルタとマリアの家に立ち寄った時、マルタは接待のもてなしのため忙しく働いていた。マリアは主イエスのそばに座ってじっと話しを聞いていた。主イエスに、これから起こる出来事を知っての行動であったように思う。(ルカ103842)昔、預言者エリヤは国や地震や火の中で主の存在を知る事ができず、火のあとでかすかな細い声の中で主の存在を知る事ができた。(第一列王記191112
 私の好きなテレビドラマの場面で次のような場面があった。主人公は運動が苦手で、音楽が好きな人でした。彼がまだ小学生の頃、運動会で、当然の如くビリで走っていました。その上悪いことに、ころんでしまい、しばらくは立ち上がれませんでした。この状況を察知した彼の先生は生徒たちのハーモニカの演奏を指揮した。すると、その音色を聞いた彼は、その場に立ち上がって、ゆっくり、ゆっくりと再びゴール目指して走り出したのです。それを見た人々は拍手した。走り続けた彼は、最後まで走り通して、ゴールしました。
 パソコンもスマートフォンも使用しない今の私の生活は、他の人から見れば、ゆっくりはがゆい生活に見えるかもしれない。でも、時間をかけてやらなければ出来ないことも多々あると思うのです。みことばを聞き、その御心を知ることもその一つではないだろうか。今一度、私は自分の生活を見つめ直し「人より神中心の生活」を求め、主のかすかな細い声を聞きのがすことなく、聞き続けながら、天の御国のゴールを目指して走り続けたいと思うこの頃である。
 「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ2820

■子育ての日々に思うこと

 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(Ⅰコリント 1313)
「あなたがたは、世界の光です。」マタイ 514
 子育てのためにお祈りありがとうございます。
 信仰をもち世の光として輝く子に育ってほしいと願い、聖書から名づけました。
 昨年、嵐の中、産まれてきた子は、10月で1歳になります。長いようであっという間の1年間でしたが、日々成長を感じています。
 出産のときは、検査入院となりました。しかし息子は何の問題もなく元気に生まれてきてくれたこと、主人は嵐の中をかけつけ面会できたことなど、私の不安や思いを越えて、神様はご計画を成就してくださいました。神様のなさるわざは時にかなって美しいと、改めて実感したことを思い返します。
 最近では、自我の出てきた息子は、気に入らないことがあったり不安になったりすると、抱っこを求めてきます。抱いていると、息子は安心してすべて身を預けるように寄りかかり、しがみついてきます。この姿を見たときに、ふとイエス様と自分の関係が浮かんできました。私はこの子のようにイエス様に身を委ねていただろうか?自分の力でどうにかなると思ってしまうことはなかったか?順調なときには祈りの少なく、困ったときにここぞと祈り助けを求めてしまうような自分を突き付けられました。
 「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた方は何もすることができないからです。」(ヨハネ 155)
 子育てを通じて、困った時だけでなく絶えずイエス様により頼むことの大切さを感じています。
 神様から預かっている小さな命を、いつも御言葉を胸に、イエス様に身も心も完全に委ねて育くんでいきたいと思います。そして、子どもの成長を祈りつつ、神様と共に歩んでいきたいと思います。

2020年6月号  正村八重子先生追悼文集

■その存在を通して  牧師 高橋宣広

 いまだに礼拝や祈り会に臨むたびごとに、正村先生の丸まったお背中が、そこにあるような気がしてなりません。外部の方から「正村八重子先生が召されたのですか?」と聞かれるたびごとに、先生が、もうここにはおられない事実を突き付けられるようで、悲しくなり、落ち込んでしまいます。
 「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。―」(第二テモテ4:7ー8)とみことばにあるように、先生は最後まで走り続け、生涯現役で主の教会に仕えてくださいました。勇ましい献身者の生涯でした。
 昨年11月に入院された先生は、2020年1月23日(木)のお昼前、愛するご家族に見守られ、主イエス様が待っておられる天国へ召されました。翌週1月27日(月)、午前11時30分に始まった故正村八重子師の家族葬には、100人近い方々が参列され、礼拝堂から人があふれ出ました。「教会の皆さんに迷惑をかけたくない、家族だけでひっそりとお葬式を」と遺言にも記していた先生の願いは、叶えられませんでしたが、信州で60年間、ご奉仕された先生を慕う方々が、神の家族として駆け付けました。
 先生の85年間に渡るご生涯、60年間の長野福音教会での歩みの最後11年間を私は共にしました。本当に幸せな日々でした。先生は恵みの人でした。至らない所だらけの私たち家族を、温かな愛の眼差しで見守ってくださいました。先生の所に来る悩む人・悲しむ人のかたわらに座り、お話を聴き続けてくださいました。
 先生はおもてなし上手な教会のお母さん・おばあちゃんでした。美味しいものを多くの方たちに振る舞い、イエス様の愛を表されました。入院直前まで、教会のお台所に立ってくださり、入院中も日曜のお昼を気にしておられました。
 先生は悔い改めの人でした。時に言葉が強く出て、誤解を生むこともありましたが、翌朝になると、「高橋先生、昨日は悪いことを言ったねぇ…赦してね」と頭を下げられました。少女のような素敵なお姿でした。先生のその言葉をお聴きできることが、私にとって大きな幸いでした。水曜祈り会などで、みことばに応答し、教会の婦人たちの前で率先して悔い改めを語られる先生のお姿が、皆の良きお手本でした。
 晩年、先生は弱くされることを通して用いられました。お怪我や病の痛みと向き合い、最愛のご長男・信一さんを先に天に送られる想像を絶するつらい悲しみを経験されました。その悲しみを包み隠すことなく皆さんの前で吐露してくださり、同じ思いをされている方々を慰め、励ましてくださいました。
 召天前の病室には、ご親族だけでなく、「子どもの頃からお世話になって来た」と教会や地域の兄弟姉妹がお見舞いに訪れました。現在、教会から離れている方々も先生を慕って駆けつけました。看護師さんたちは、「正村さんのお部屋に行くのは楽しい!癒される!」と口々に語っておられたそうです。主の仕え人は、病床にあっても豊かに用いられることを目の当たりにしました。
 先生の存在そのものが、私たち長野福音教会にとってかけがえのない宝でした。正村八重子先生に、素晴らしい生涯を与えてくださった主の御名をほめたたえます。また、私たちに素晴らしい牧師を与えてくださった神様のご愛に心から感謝します。天国での再会を心待ちにして。
 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。(ヨハネの福音書11:4)
 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。(使徒の働き9:39)

■八重子先生 K.I.

 私が教会を訪れた21才、八重子先生は33才でした。
 皆さんもご存じの通り、小柄で可愛い方でした。教会は私を一人前の社会人として扱って下さり、私に自信を与えてくださいました。
 私は日曜学校の小学科の奉仕に当たり、20年程続けました。八重子先生は日曜学校の生徒に楽しさを与える事が重要だとして、毎年春と秋にハイキングに出かけました。夏のキャンプは2泊3日で婦人会の食事作りのお手伝いを頂き毎年行いました。
 昨年の10月に八重子先生のお宅で話をしました。
 教会は三輪の開拓伝道の時から、トラクト配布をして、看板を電柱に出し、蔵春閣等の大きな会場を使い、有名な説教者を招いて多くの方に福音を伝えてきました。その結果教会員が増え浅川に大きな会堂を建てました。
 富男牧師が召された頃から、「大きな会場を借りて多くの方に福音を伝える」という伝道方法が受け入れられなくなりました。
 それ以来「どの様な伝道をしたら良いか」なかなか方法が見みつかりませんでした。八重子先生も同じ意見でした。
 その中で教会の現状を見ると、小学生や保育園の子どもが増えてきていることに気づきました。それから聖ヶ丘の夏期キャンプとコンタクトが増えて、昨年参加した3人の子どもたちも大変評判が良かったようです。
 神様は「子ども伝道」に力を入れるように教会を導いておられる様に思いますが、みなさんはどの様に感じられるでしょうか。
 「子ども伝道」はみなさんのお子さん、お孫さんに伝道する訳ですから、教会員全員で取り組める伝道です。
 12才の生徒が10年経ったら成人して、次の教会を担える力になります。
 八重子先生の遺志でもあることを伝えます。

■八重子先生へ  S.I.

 八重子先生、私が生まれたときからずっとお世話になりました。いつもおいしいご飯を作ってくださって、ありがとうございました。いつも明るく私たちに接してくださり、支えてくださったこと、本当に感謝しています。ありがとうの言葉と、謝りたいこともたくさんありますが、もう伝えることができません。わたしも、クリスチャンとしての道を全うして、天国でお会いしたら、伝えたいと思います。長い間、ありがとうございました。

■ありし日の八重子先生を偲んで K.I.

 再会の喜び抱いて天国へ八重子先生一筋の道
 1月23日、長野福音教会の教師として、教会のみならず地域に、長年仕えてくださった八重子先生が天に召されました。数日後の1月27日、故人の遺志により家族葬が営まれました。とはいえ、先生をお慕いする近隣の教会員が、礼拝堂に100人ほど駆けつけてので、事実上、教会葬となりました。このことは、先生の温かいお人柄と信仰心の篤さを物語るものと、私は確信いたしました。
 ありし日の先生のお姿を思い起こせば、日曜礼拝には、最後尾に座っていらした先生と言葉を交わすことが何よりの楽しみでした。しかし、なんと申しましても、『祈りの友』編集に携わっていらしたご長男の信一さんが6年前突然階段で倒れられた出来事を鮮明に思い出します。ちょうど桜が満開の時期でした。祈祷会の会員が先生の調達してくださったお弁当をいただきながら、往生地公園のお花見を楽しんだ数日後のことでした。信一さんは難しい病のため、しばらくの入院の後、帰らぬ人となりました。
 その後、先生が祈祷会でメッセージをしてくださる時、折にふれては、愛する息子に先立たれた母親の深い悲しみを率直に語ってくださいました。先生は4人のお子様に公平だったかと思いますが、そばにいらした信一さんをどれほど頼りにしていらしたかを、私は肌で感じておりました。
 司式を務められた北村先生は、新約聖書から、イエス・キリストがどのようにして弟子を招いたかをお話してくださいました。同様に、八重子先生も教師になられてからの60年の生涯を通して、人を生きながら漁(すなど)る業を貫かれたことを、あらためて知りました。生前より私は、先生の偉大さを痛感しておりました。しかし今さらながら、先生の存在の大きさを、喪失感と共にかみしめております。どうぞ、安らかに。

■偲ぶ八重子先生 T.K.

 八重子先生のメッセージは情熱・テンポ・間がよかった。重要ポイントは3、4回リフレインがあった。わかりやすかった。
 私が初めて聞いたのは1984年青年会のクリスマス会だった。当時のユダヤ社会から排除されていた羊飼いたちに焦点を当てたクリスマスメッセージだった。以降、社会的弱者の立場に立ったメッセージ、平和のメッセージ、愛・清さ・十字架のメッセージなどを先生の身近で聞くことができた。感謝だ。そんな八重子先生をイメージして、私は水野源三さんの詩を次のように脚色して口ずさんでいた。
  「女性牧師」
    天国からはるばると 遣わされてきた 女性牧師
    信州を愛し福音を語り続けて60年
    秋風に揺れる野菊のように キリストの香りを優しく放ち
    美しく老いていかれる 美しく老いていかれる
 「福音教会は私の宝です」と言って天国に先立だれていった八重子先生。必ず行きますからね。待っていてくださーい。再び会いまみえたらその時は先生の穏やかなお顔を今度はゆっくり見させていただきます。 

■八重子先生の思い出  S.K.

 私が長野福音教会に通うようになった時(1982年)から、八重子先生は長野福音教会にいらっしゃり、いてくださるのが当たり前で、いつも優しく微笑んでいた姿が思い出されます。
 八重子先生は、教会牧会の縁の下の力持ちとして様々なことに気を配ってくださいました。また、長い間教会学校の教師としてご活躍されました。一緒に教会学校に関わって来た思い出を書きたいと思います。
 まず、八重子先生のお話はとても分かりやすいのです。子どもたちがわかるように主題がはっきりしていて、間があり、大事なところは何回か強調し、視覚教材を使うので、子どもたちはお話にひきこまれていきます。(聞いている大人も)八重子先生のようにお話ができるといいなといつも思っていました。
 キャンプにも一緒に行きました。ある夏、妙高のキャンプ場でテントに泊まった時、八重子先生のテントにクマが来たということがあったとか、なかったとか。八重子先生がだんだんお年を重ね、キャンプに一緒に行けなくなってからは、キャンプから帰って来たスタッフにおいしいお昼を用意して待っていてくださいました。そのお昼のなんとおいしかったことか。本当にお母さんの味でした。
 我が家の子どもたちのこともいつも気にかけてくださり、長野を離れて関東の学校へ行っている時も戻ってくると必ず声をかけてくださいました。
 八重子先生の思い出は尽きませんが、天の御国でまた会う日に語り合えたら幸いです。

■八重子先生の思い出  S.K.

 先生と二人で、中条村の施設に教会員を訪問した帰りに、中華料理店に寄ったこと。栄村の村長に、レディスランチョンの義援金を届けに行って、ランチョン委員の皆で入った中華料理店。
 祈祷会のお昼に出して下さった煮物や味付ご飯、デザートに焼いてくださったりんごのケーキ、「簡単なのよ」っておっしゃってたけど作り方は聞かずじまいでした。
 おいしい思い出がいっぱいあるけど、一緒にお風呂に入ったことも楽しい思い出です。
 聖歌435番の「弟子となしたまえ」が好きだったこと、ランチョンのクッキーを一緒に作ったこと、漬物用に大根を洗ったり台所に居る八重子先生の思い出もいっぱいです。
 ランチョンのゲストが決まると、ゲストとの交渉を一人で行って下さいました。T家の家庭集会も、先生は毎回メッセージに神様の愛を教えて下さいました。お産で入院していた時は、一人で病院に来て下さいました。
 心にかけてもらってるとわかることがうれしいこと、気持ちが落ち着くこと、先生の態度から教わった気がします。

■八重子先生を想う E.T.

 私が長野福音教会に通い始めたのは中学2年生だった。いきなり自分の罪がはっきりと分かり、悔い改めをして、イエス様を救い主として信じた経過の私には、教会というものが全く未知の世界であった。しかしながら、八重子先生が私たち中高生に絶大な信頼があることはわかった。八重子先生はよく私たちのお腹を満たしてくださった。もちろん、当時の婦人会の皆様もよく恵んでくださった。きっと、常に腹を減らしている哀れな子犬のように見えていたのかもしれない。当時から八重子先生は突然教会に現れた私によく声を掛けてくださった。当時思春期であった私は、無口であったかもしれない。それでも、八重子先生は気にならないようだった。
 月日が経ち、結婚し、子どもが産まれた。長女の心臓病のことを告白した時も、温かく声をかけて励ましてくださった。八重子先生のなにげない声かけや会話にどれだけ癒されたことだろうか。
 もう八重子先生の声が聞けないと思うと、その寂しさは計り知れない。天国で再開できることに希望を持ち、ただこの時代を一生懸命生きて、その後起こった新型コロナ騒ぎを報告したい。

■八重子先生の思い出K.T.

 私が初めて長野福音教会の門をたたいたのは、高校1年生の春休みでした。中学3年生の頃、吹奏楽部でいじめにあい、うつ状態と診断されました。そのまま、希望でもない高校に入り、毎日頭が痛くて、学校では友だちとおしゃべりもできないほど憔悴していました。
 高校を転校して、西高の通信制に入ることを決めたその後、ある先生が私と話をしたいと申し出てくださいました。クリスチャンの先生でした。生まれて初めて、お祈りをしていただき、長野福音教会に導かれました。
 八重子先生は、いつも柔和であわれみ深く、明るくてユーモアがあって、深いお祈りをして支えてくださいました。丸くて白いお顔がいつもニコニコしていて。私はイエス様の山上の説教の一節を思い出します。
   “あわれみ深いものは幸いです。その人はあわれみを受けるからです”  (マタイ5:7)
 まさに人生において、このみ言葉を体現されている八重子先生には、深い深いあわれみがありました。常に愛情深くて。
 高校生の頃は日曜日にスクーリングがあり、でも、私は教会が大好きで主のことを第一にしたかったので、日曜日には教会に熱心に通いました。そして、月曜日に通信制のスクーリングに通うようにしていました。
 ある日曜日に学校へ行かなくてはならなかったときに、八重子先生にマンツーマンで、特別に夕方、礼拝をしていただいたことがありました。その時の聖句が、
   “わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな”(詩篇103:2)
でしたことを今でもよく覚えています。
 短大では神学の勉強もしたのに、音楽活動のために、教会に迷惑をかけてしまったこともありました。都会で、喧騒の中、茨の道を歩んだこともありました。私がとても辛い時に、富男先生が私の母の勤めている病院に入院されたこともあったので、母と八重子先生は、時折、お話をしたり、私の心配をしてくださったりしていた、と後で聞きました。八重子先生は本当に第二の母のような存在でした。皆さんもそうだと思います。
 私が乳がんになった時、八重子先生がM姉妹と家に来てくださり、お祈りをしてくださいました。柔和な八重子先生と優しいM姉妹がみえて、「これ、食べて」といろいろとお土産までいただきました。とてもうれしかったです。
 元旦那は八重子先生のことを、「八重子先生、礼拝の時、廊下を歩いている時に、まるで床から3センチ浮かんで歩いているみたいだね」と言っていて、ふたりで大笑いしてしまいました。(皆さんもそう思いませんか?笑)
 今は安らかに、天国でイエスさまとご一緒ですね。長い長い宣教と伝道の日々を、悔いなく過ごされたことと思います。八重子先生は長野福音教会の太陽でした。ご遺族に安らぎと慰めがありますようにお祈りしています。
 八重子先生、本当にどうもありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

■八重子先生を想う  N.T.

 八重子先生は、軍隊のオーバーを持って来られ「私が着られる様に直して欲しい」と云われ、その時初めて二人でゆっくり話をしました。(私はすっかり忘れていましたが、お土産に鯖を持って帰ったのが嬉しかったと後に聞きそんな小さなことを覚えていて下さったことが嬉しかった)笑顔で話される優しさに安らぎました。前号の祈りの友に「整えられて喜んで奉仕をする」を読みました。結びに「キリスト者として整えられて喜んで奉仕したい」でした。真っ直ぐにキリスト者として与えられた馳場を走り抜かれた八重子先生は、神様から最高の冠をいただいて喜びの賛美を富男先生と一緒にお献げして居られることでしょう。八重子先生の静かな笑顔が浮かびます。先生は「何時でも家庭集会のお手伝いができますよ。」と云われ、家庭集会を持ちました。
   「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)
 小さな交わりですが、恵まれたメッセージに和やかで時間を忘れる交わりでした。「今度は戸隠のそば屋に行こうか。」皆笑顔で賛成!!ゆっくりとしたひとときでした。
 高山村の櫻の時は、リンゴの花も一緒に見ることができ爽やか。小布施に栗おこわを食べに行き、町を散策したのは嬉しい思い出。飯山の菜の花も風に波うつ様に「いいね。」と語り合う。黒姫のコスモスはパッと色とりどりに咲き美しいと感動。松川渓谷は、「今年は赤が少ないね。」と落ち葉を踏みしめた。高山村におそばを食べに行く途中寄り道し、シャインマスカットを「安い。」と買った先生。「最初の一を見落として高いブドウにになった。」と笑い。(1800円を800円と見間違っていました。)
 豊田村の紅葉温泉で一日ゆったりと。富倉はおそばと笹ずしを楽しみ。ついでに新潟の道の駅に寄りましたが、帰りは急に雪になり怖くて皆が無言に。信濃町に来て雪から抜け、やっと安心して話し出しました。夏の信濃町で「今年も来られて良かった。」と云われ焼モロコシを半分ずつ香りと味を楽しむ。八重子先生との小旅行です。
 御見舞に行った時に、八重子先生がじっと見て「なみいさん、なお美さんありがとう。」と手をじっと握ってくれました。少しして「先生又来るね。」と言うと、先生が微笑んで「またね。」先生との最期の会話です。

 八重子先生はいつもニコニコ私たちを迎えて下さいました。先生の姿を見ると安心でき、ハグすると不安がスウーっと抜けてゆき、よくハグしていただきました。洗礼のことを相談した時に、「イエス様を信じているなら大丈夫。それが一番大事なのだから。」と、手を取り仰って下さいました。先生の温かい手の温もりと、愛に満ちたハグが我が家の薬でした。2008年7月20日に父母私の三人で初めて教会に行った時に大変喜んで迎えて下さり、一緒に写真を撮れて感謝でした。
 家庭集会は先生のメッセージの後に、お茶を飲みながら色々な話をして楽しい時間、大切な時間を過ごすことができました。休みの日にはお誘いして遊びに!去年の夏、信濃町でトウモロコシを買い「やっぱりここのトウモロコシは甘くて美味しいね。」と頬張って笑いあったのを忘れられません。
 八重子先生ありがとうございました。

■50余年前にお聞きした八重子先生の証  M.D.

  「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(詩篇23篇1節:口語訳)
 小学校5年生から日曜学校へ通い始めた私が小学生の時、クリスマスの集会でお聞きした八重子先生の証です。私の日曜学校の先生はO先生でしたので、八重子先生のお話をお聞きすることはほとんどありませんでした。覚えておりますのはこの1回のみです。
 「私は東京の神学校へ導かれて聖書を勉強していましたが、仕送りが豊かにあったわけではないので、いつもお金が足りませんでした。『神様お金が足りません。助けてください』何度も、何度もお祈りしました。でも、聖書を開くと『主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない』と神様の答えは同じでした」と。
 この時の八重子先生の声の調子も覚えています。「何度も、何度もお祈りしました」これを聞いて私は神様が奇跡を起され、たくさんのお金が手に入ったという結末を想像していました。しかし八重子先生のお話に奇跡は登場しませんでした。「神様どうしてですか。どうか助けてください」切に祈った八重子先生に、神様は奇跡は起こされず、しかし、神学校を卒業させてくださり今がある、と話されました。子ども心に私は神様の助け方は私の想像するやり方とは違うということ、辛い歩み、苦しみの道のりを歩んでも逃げ出さずにそこに留まり続けなさい、と命じられることがあるのだということ。神様が一緒にいてくださることで、その苦しみを超えていくことができるということを、理解はおぼろげながらですが、教えられました。感謝です。
 先日60代になっている私がそれを八重子先生に「小学生の時こんな証をしてくださいましたね」と話すと八重子先生は、「話したことは全く覚えていない。でも、その証の中身は本当です。その通りですよ」と懐かしそうにうなづかれました。
 「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」(詩篇23:6)のみ言葉通り、約束通りの人生を、神様は本当に八重子先生に与えられました。

■伝道会のおもてなし  K.N.

 50年ほど前だから、記憶は確かではありませんが、私が三輪の教会に来て2~3年たった頃、ダビデマーチン先生の伝道会の前日、正村富男牧師も八重子先生も30代半ば、信一さん、望さんも小学校低学年、愛子さんはまだ幼く、献三くんはまだ生まれてない頃の事。
 私と、大学生のKさんが伝道会の準備で教会に残っていたら、マーチン先生が料理をして下さったんです。それは教会の裏庭で飼っていたニワトリを煮込んだもので、初めて食べる味でした。大切に飼っていたニワトリが食卓に、どんな経緯があったのか分かりませんが、正村先生は少し残念そうでした。いただく前に、目の大きなマーチン先生がニコッとして、「骨になるまできれいに食べたら、アイスクリームをあげます。」と言うと、信一さんと望さんが、ワァイと飛び上がって喜んだんです。でも今のチキンと違っていて肉も皮も堅くとても大変でした。ようやく骨になるまでみんなで完食して、先生からのプレゼントのアイスクリームをいただきました。今思うと先生への最高のもてなしだったのではと。そのころの八重子先生のことは、あまり思い出せなく、子育てでお忙しかったのではと思います。
 この十数年後、マーチン先生は、我が家に二回泊まっていただきました。朝と夕飯は我が家で、お昼は教会でとなり、メニューを作り八重子先生に見ていただきましたが、量が足りるのかがとても心配でした。
 一度教会に私もよばれ、八重子先生の作ったお昼を皆でいただきました。ちらし寿司、サンドイッチ、ハンバーグ、卵サラダ、すまし汁、フルーツと大きなお皿にたっぷりでした。とてもおいしかった、勉強になりました、と当時のメモに書いてありました。
 おもてなし上手だった八重子先生、礼拝後の掃除が終わり帰ろうとすると、Kさん、たまにはお茶していかない?という声が今も忘れられません。

■八重子先生との思い出  M.N.

 八重子先生とお別れして早1箇月余り。
 主日の朝、礼拝堂に入ると一番後ろの席に座って居て、朝のご挨拶から始まって、いろいろなお話をしたのが、まだ昨日のような気がしてなりません。
「八重子先生が常に座って居るとほっとする」というと、先生も、「西澤さんが見えるとほっとするわ」なんて。少しの時間だけどいろいろなお話をするのが主日礼拝の朝の楽しみでした。今でもまだそこに座っているような気がしてなりません。まだまだお話ししたり教えていただきたいことがいっぱいあるのに、なんでこんなに早い旅立ちをしてしまったのでしょう。
 もうすぐお花見の季節なのに。昨年は一緒にお花見をしたのに。
今年は、先生どこでお花見しているでしょう。

■追想  Y.N.

 私は早朝に、夏場は畑に出かけますが、冬は雪が解ける2月に入ると自宅周辺を散歩しております。天気の良い日には苅田参のサラダパークより西遠方に北アルプスを望む場所は私のゲッセマネです。
 6年ほど前の今頃でした。長男を35歳の若さで病気で亡くし、次から次の家族の苦しみに私は囲いから離れた羊のように、冬の浅川の地をさまよい歩いておりました。そんな時、ふっと長野福音教会に入っていったのです。八重子先生とお会いし、そんな私を受け止めて下さったことを覚えております。それから高橋牧師のもとに、早朝礼拝に、祈りの会にと通い始めました。八重子先生は、「以前の教会に戻ってもいいよ。」と言ってくださいましたが、とうとう戻れませんでした。そののち、八重子先生にもご長男様が亡くなられるという悲しい出来事が起きた時、そっと「Nさんの気持ちがわかるようになりました。」と言われたのを、申し訳なく、絶句したことを覚えております。
 10月頃だったでしょうか、C病院の玄関ホールを歩いている先生にお会いしました。「心臓の方ではないんです」と一言。気にはなりましたが、年が明けてから入院されたことを高橋牧師から聞き、安静中ということでしばらくしてから牧師よりお断りをいただき、主日礼拝の午後、I姉妹とお見舞いに行きました。A姉妹たちに通された病室にてお会いした時には、いつもの優しいお顔を見せてくださいました。お苦しかったのに手を差し伸べて下さり、私は手を一生懸命温めてから握らせていただきました。本当に力強く握ってくださいました。教会では主日礼拝の時いつも会堂に入ると八重子先生は笑顔を下さいました。
 お花係にお心を配り、聖歌隊でもご一緒に歌いました。お昼の食事作り、そして受付にても全般にいつも配慮下さり、八重子先生、ご苦労様でした。ありがとうございました。
 先生の故郷の長野市大岡の「アルプス一望の里」の絵を懐かしいと言ってくださった。
 御再臨の時またお会いできますように、私もしっかり神様と共に歩いていきます。

■八重子先生との食事会 M.H.

 初めて八重子先生にお会いしたのは、結婚式の準備会でした。正村富男先生に司式していただき、私は2000年2月に結婚しました。あれから20年間、本当にお世話になりました。主人が家に入ってからは、「会いたい」と何度も言われましたけれども、先生の願いを地上でかなえることができませんでした。それだけが悔やまれます。
 昨年度は食堂の会計係として奉仕いたしました。3月に開いた台所委員会にて、反省や希望など話し合う中で、今までご奉仕して下さった方々へ何も感謝の意を表していないことに気付かされました。そこで、感謝の食事会を提案したところ、皆さん、快く応じてくださいました。
 『おもてなしのプロである八重子先生や姉妹方をおもてなしする』これがとても良いプレッシャーになりました。アンケートをとり、肉料理をメインにしました。それだけというわけにもいかないので、その他にどんな料理やおかずだったら喜んでもらえるだろうか、夏野菜をたくさん採り入れたい、などと面々の顔を思い浮かべながらメニューを考え、5箇月間の準備期間を経て、8月18日を迎えました。
 八重子先生をはじめ、台所奉仕をして下さった姉妹方、高橋先生ご一家、当日説教奉仕をしてくださったケイレブ先生など約20名が集い、お食事会を行なうことができました。肉料理の弁当といくつかの野菜料理、K姉特製焼き菓子、E兄特製ジャムなど用意しました。話の花が咲き、おだやかで、なごやかな1時間を過ごすことができました。八重子先生への20年間分の御礼がこの食事会だったのかもしれないと今は思います。
 事前の準備や、盛り付けや片付けなどご協力いただきました皆様、遅くなりましたが、本当にありがとうございました。この教会には本当に賜物がたくさんあると思いました。
 正村先生ご夫妻に出会えたことを感謝します。

■先生のお供をして K.M.

 車の免許を取ってから3年目、教会のために何かできることはないかと考えました。
 あっ、そうだ!正村先生ご夫妻は車がないから、私が八重子先生の足になれたらと。でも、事故を起こして先生の身に何かあったら、教会中の人に申し訳がないし、怨まれて教会に行けなくなる、どうしよう―  しかし、28年間、無事故で終えることができたのは、神様のお守りがあったとしか言えません。専門家は、訪問先の方にどう接するのか知りたいのも動機の一つでした。イエス様が弟子訓練のために2人1組で遣わされたことは、やってみてわかりました。また「医者を必要とするのは、丈夫なものではなく病人です。」(ルカ5:31)が、働きの全体を貫いているように思います。正村先生は優しく思いやりがあり、大きな人柄でしたが、人には気負いがなく自然体で接していました。私には何回もありがとうと言われ、申し訳ないようでした。
 訪問先は、病弱・病気で自宅または入院している方、高齢者、施設入居者、未信者、安否不明者、とさまざまです。伺うと皆さん、とても多くのお話をされます。自分の体や病気のこと、家族のこと、世の中のことまで、70代の頃から時には(聖書の)1章を丸暗記して神様にいつも感謝しているという信仰深い方には、私たちが逆に励まされました。
 また、聖書カレンダーの1箇月分をベッドの上で日課として読み、私たちに聞かせてくれて、聖歌を数曲賛美し、3人でお祈りをして、ミニ家庭集会ができたことを喜び合いこともありました。たまにしか行けなかった未信者の80代の女性は、覚えていてくれて満面の笑みを浮かべて迎えてくれました。しかしある時から急に衰えてゆき、亡くなってしまいました。えっ、いつの間に?という方も多くおられました。
 晩年の正村先生の一番大きな働きは、人の相談や悩みを聞いてくださることでしょうか。多くの方々のたくさんの悩み事を抱えておられたことは心労も大変だったことでしょう。数年に一度、私の調子が悪くなった時には先生に相談に行きました。すると、ほとんど黙って話を聞かれます。そして30分も経つと私自身で答えが見いだされるのは不思議なことでした。
 また、外に出かけたついでに、教会のために必要な食料品、行事に必要なものなどの買い物ができたのも、私にはうれしいことでした。先生と共有できた多くのことを改めて思い出しながら、幸せをかみしめています。

■八重子先生の思い出 E.Y.

 私は2011年に長野福音教会に加わりましたので、正村八重子先生と過ごした時間は長くはありません。でも、いつも礼拝のために伺うと、ホールの長椅子に腰掛けておられ、お得意の冗談をおっしゃり、笑って私どもの心を和ませてくださった姿を思い出します。
 私たち夫婦が、礼拝に継続出席するようになって間もない頃には、夫の仕事の都合もあり、2〜3週続けて夕拝に出ることがありました。そんなある日の夕拝は、八重子先生が司会・メッセージを担当してくださいました。テーマは忘れましたが、テーマに関連してご自分の子育ての話をしてくださいました。学生と同じで、本論の話を忘れてしまっても、そういう教師のプライベートな話はいつまでも印象深く覚えているものです。
 先生は、末っ子の献三先生(大和郡山めぐみ教会主任牧師)が生まれた時、それまで3人の子どもを育てられましたので、「私はもう子育てのベテランになったから、次こそは理想の子育てができる。してみせる!」と思われたそうです。ところが・・・、親の思いをよそに、末っ子が一番手がかかって大変だった・・・。子どもって本当に一人一人違うことを学んだ。でも一番手がかかった子が牧師になりました・・・というエピソードを語ってくださいました。なんだかジーンと胸に訴えてくるお話でした。 
 それまでにも、長野福音教会は健全な教会だと感じ、継続して礼拝に通っていましたが、この先生のおられる教会にこれからも通い続けよう!と背中を押された出来事でした。2020年2月の礼拝に、正村献三先生が来てメッセージをくださいましたが、礼拝後に御本人にこのお話をお伝えすることができました。
 長野福音教会に集う大勢の信徒や求道者を、まるでイエス様のように、一人一人違う者として愛し、慈しんでくださった八重子先生に天国で再会できることは楽しみですが、もう少し、この地上で頑張りたいと思います。先生、それまで待っていてくださいね!

■八重子先生を偲んで M.Y.

 2019年11月のお茶っこ会は若槻地区の手話サークルの方6名を招いての交流会でした。いつも八重子先生にメッセージをいただきますが、その時は詩篇23篇「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」でした。
 私たちは小さい子や弱い方などに寄り添った緒方貞子さんやマザー・テレサさんのように愛をもって寄り添える人に、とお薦めをいただきました。聾唖者に寄り添う手活グループの方も、心静まる時がもてたと喜んでいただきましたが、この時が最後になってしまいました。
 毎週水曜日の祈り会は持ち寄りで昼食会をしていますがいつもたくさんの煮物、特に大根が美味しく、お漬物も美味しかったです。いつかは「心からもてなしなさい」のメッセージがありましたが自ら実践する先生でした。
 私には、取って置きの思い出があります。2008年2月にイスラエルに聖地旅行したことです。行くときのオランダでの乗り換えの時、出発ゲートが突然変更になり(テロ防止のためだった)、待っていた人たちが段々と減り二人だけになりました。アナウンスが分からず途方にくれました。何とか移動ができましたが手荷物検査が厳しくて、いろいろ言われるのですが困っていると、係の方が近くに並んでいた日本人の男性に通訳を頼んでくれました。覚えておけばいいという三つの英語はイスラエルでは必要もなくすんなり通れました。
 R.K.さんの案内で10日間のゆっくり旅でした。まだ発掘途中のベエルシェバはじめ受胎告知教会や生誕教会など巡り、ガリラヤ湖畔の山上でイエス様が説教された菜の花畑に立ったり、また死海では浮遊体験したり、泥のマッサージ等々。キブツでペテロの魚という大きな魚を一匹ペロリと食べたこと、イエス様の歩まれた道を想像し毎日が心ときめく感動の旅でした。
 八重子先生に初めてお会いしたのは60年ほど前です。新婚のお二人をお迎えしましたが、台所は床板が抜けそうな古い住宅で狭い教会でした。伝道会はいつも満員になり、長い間には出産、育児等がありましたが、その時々に寄り添っていただき、ありがとうございました。 

■90秒の証し 神様にはできる K.K.

 聖書の一番初めの創世記1章1節のことばは、「初めに、神が天と地を創造した。」です。
 私が最初に教会に行ったのは、大学1年の時でした。心の支えになるようなものを求めて行きました。毎週日曜日ごとに教会に行くようになり、1年ほどたったころに、もしかしたら本当に神さまがいるかもしれないと思うようになり、洗礼をうけました。
 それから48年たちましたが、今日まで教会につながってきました。
 最近、キリスト教について思うことが2つあります。
 1つ目は、キリスト教の最も大切な教えは、隣人を愛し、神様を愛すること、言葉を変えると、周りにいる近くの人を大切にし、また、神様を恐れ敬うことです。
 2つ目は、キリスト教の土台となっていることですが、常識や理性ではとても信じられないことです。
 約2000年前にイエス様が私たちの罪の身代わりとなり、十字架につけられたこと。そして、墓に葬られてから3日目によみがえったこと、そして、しばらく弟子たちに会った後、みんなの見ている前で天にあげられたことです。私は、正直なところ、半信半疑でしたが、最新の科学では、私たちの住んでいる地球や宇宙の始まりは、137億年前にビッグバンとよばれるもので、無から一瞬のうちにできたようです。無から天と地と宇宙を創造される神様なら、復活だって、できるのではないかと思うようになりました。

■ R.Y.姉の思い出  M.K.                       

 昨年、信仰の大先輩であられるY姉が、天に帰られた。
 R.Y.姉は、旧三水村のY家の中で初穂となられ、次々にご家族が救われていった。ご両親が教会へ行かれるように、朝早くから農作業を手伝ったことなどのお証を、お読みした覚えがある。岐阜県の大垣市にある美濃ミッションの教会で、長年、教会に仕えてこられた。日曜日だけ、牧師先生が来てくださるようになってからも、教会を支えられ、教会のご高齢の方のお世話を何人もされたとお聞きしている。
 長野に戻られてからも、岐阜の教会を愛し、そのために献げ、熱心に祈っていらっしゃった。
 教会でお会いすると、いつもにこやかにご挨拶をしてくださり、時々、車でお宅までお送りする時に、いろいろな信仰の話をお聞きするのが楽しみだった。デイサービスに行っていて、そこのスタッフに証をしていること等々・・。信仰が一本とおっているって、こういう方のことだろうなーと、いつも思わされた。
 ある日、礼拝が終わって帰る時、教会を出たすぐの所で、お迎えの車を待つR姉をお見かけした。その時、R姉は立ったまま、高校生が使う単語カードのような物を一枚一枚めくりながら、一生懸命何かを覚えようとされていた。「聖句を暗記されているんだ」と、すぐわかった。80歳をこえられても、まだみ言葉を覚えようとしているお姿が、今でも忘れられない。
 長野福音教会40年誌に、「当時の教会の組織」(1972年祈りの友より)には、青年部に属されていたR.Y.姉のお名前が載っている。若き日から、召されるまで、伝道に生き、教会に仕えられた姉妹だった。

■編集後記 K.M.

 本当であれば、ここに今回も八重子先生のエッセイが載るはずでした。
 昨年の11月23日主日の朝、8時前だったと思います。我が家に電話がかかってきました。八重子先生からでした。『祈りの友の原稿、ちょっと体調が悪くて書けなくて。ごめんなさい』。今思えば、病院からだったのですね。そんなときにまで、祈りの友のことを気にかけていてくださって。そしてそれが、八重子先生のお声を聴いた最後となってしまいました。
 30年近く前、八重子先生と一緒にWINGSの奉仕をさせていただきました。長い長い教師会も、奉仕者の熱い思いがあふれていて、苦痛どころか本当に楽しみでした。思いついたことは、何でもやらせていただきました。一緒に失敗して、一緒に不平も鳴らしました。でも先生は、いつも一歩先に悔い改めて、不信仰な愚痴の沼からさっさと抜け出していかれました。『待って~おいて行かないで~』と何度思ったことか。
 亡くなられる直前、二晩に渡って先生は私の夢に現れ、黙ってただ教会堂を掃除していかれました。お別れに来てくださったんだとわかりました。もっと奉仕しなさいと、伝えに来てくださったのだと思いました。八重子先生ならきっとわかってくださる、と思いこんで、きちんと言葉で伝えられなかったことがたくさんあるような気がします。天国で待っていてください。そのうち、行きます。
………先生、大好きです。

2019年12月号

■巻頭言「ボランティアセンターの1か月を体験して-宿屋のおじさんとして-①」 牧師 高橋 宣広

 10月末から11月末までの33日間、この教会は、ボランティアセンター:北信州キリスト教会災害対策室の事務局また宿泊所として用いていただけた。これまで体験したことのないような災害に見舞われた今年の信州の秋。長野のために、被災したこの地に住む方たちのためにと、全国から、いや世界各地から兄弟姉妹が駆けつけてくださった。教会には毎日、少ない時で数名、多い時には10数名の助け手たちが寝袋にくるまって滞在していた。長野福音教会の皆さんの中からもボランティアに参加してくださる方々が起こされた。さらにボランティアの方々のために、美味しいおかずや果物、疲れを癒すマッサージを提供してくださる等々、背後で支え、祈ってくださる方々が存在した。会計や買い出しなど事務全般を引き受けてくださる方も起こされた。皆さんの多くのご理解とご協力があった。
 11月、同盟教団から毎週代わる代わるボランティアチームが派遣されて来た。私と同世代の牧師たちの来訪に、なんだか同窓会気分を味わったような1ヶ月だった。母教会の土浦めぐみ教会からも週末、4回のボランティアが来てくださり、大変慰められた。つらい試練の中にも、神の家族の一員である幸いを覚えた。同時に被災地に生きる苦しみも感じた。
 12月2日になり、ボランティアの方々が突然いなくなった。静かな会堂に入った時、何とも言えない寂しさがこみ上げてきた。「ボランティア・ロス」の症状が出ているようだ。10月第二週から今日までの私と教会の歩みを時系列で振り返っていきたい。今回は、災害発生前後の緊迫した状況を振り返る。 
2019年10月第二週
 :連日、報道で警告されていた。「台風19号は大型で猛烈な勢力で、中心気圧は915ヘクトパスカル、最大風速は秒速55メートル、最大瞬間風速は75m/s。3連休初日の10月12日(土)から翌13日(日)にかけて、暴風域を伴い、西日本から東日本にかなり接近するでしょう。」
 12日(土)に予定していたゴスペルワークショップは、講師の交通手段が断たれる可能性があり、延期を決定した。
 11日(金)  「長野県は、まぁ大丈夫だろうと」の油断があったが、周りを見、焦って、屋外にあるもの(自転車等一式)を屋内に移動する。  
 12日(土) 恐ろしい豪風雨が続く。午後3時から一晩中、翌朝までスマホの緊急速報メールが鳴り止まない「特別警報、河川氾濫警戒レベル5…千曲川越水…」。 午後、役員の姉妹から「大規模災害安否確認連絡網を用いましょうか?」との連絡が入るが、まだどんな状況になるか想像が付かず、保留とする。
 13日(主日) 教会外の物置が倒れていて中のものが割れている。会堂1階に雨漏りが発生していることを確認。
 早朝礼拝(出席者3人)後、役員の兄弟が飛び込んでくる。「緊急連絡網を使うのは今ですよ。安否確認と教会に避難できることを知らせてください。」 私は、まだ報道を見ていないため、事の重大さに気付いていなかった。朝9時「台風19号 安否確認メール」を送信。「礼拝を予定通り行うのか?」との問い合わせが数人から入る。10時30分からの礼拝の出席者数は44人。千曲川を渡って来なければならない信徒たちは自宅待機。 礼拝後、緊急役員会を招集。連絡網での安否確認を報告し合う。教会の複数名が避難されたことを確認。予定していた素人演芸会は中止。翌日の信州クリスチャン修養会も中止を決定。礼拝後、倒れていた物置を動かし、割れた花瓶等をゴミ袋につめる。
 多くのヘリコプターが一日中、空を飛び交っている。午後「祈れ」とうながされ、車を走らせ北信五岳道路へ。山の上から豊野一帯を見て愕然とする。多くの家屋が浸水している。「りんごの湯がある所も、、、」、「教会員のFさんの家があの辺りにあるはずだ」そう気付き、すぐに電話。何度かけても通話中。
 うちの子の一人は、朝から吐き始めた。精神的ショックが大きいのだろうか…
 14日(月/休日) 長靴やマスクなどを持って、祈りつつ豊野へ入る。仲間がほしくて、教会の若い男性と連絡を取る。各地から集結した救急車が、対向車線を次々に進んで行く。自衛隊の車列もあり、被災地・非常時であることを強く感じる。信号機も止まったままだ。豊野駅西側に車を停め、地図片手にFさんの家を目指す。豊野駅東側の道路は泥水で覆われている。
 Fさんの家を発見。大変な状態。ドアを叩いても反応なし。Fさんの携帯番号を知りたく、何名かの教会員に連絡するが、分からない。避難先になっている小学校を2校ほど回るが、Fさんの登録は無し。ある寺が避難所になっていることを聞き電話をするが、地区が違うと言われる。
 もう一度、Fさんの家に戻った所、お隣の方がおられたので、Fさんのことをお聞きする。「お友だちの家に避難していて無事ですよ。先ほど、ご自宅を見に来られ、でもどうしようもできないと言って帰って行かれました」とのこと。無事を知り安堵する。その晩、アフリカにおられるご子息にご自宅の状況をお伝えし「避難先のお友だちを教えてください」とメールし、返信をいただく。
 教会役員にFさん宅の状況を伝える。各地の牧師・信徒たちから安否確認の連絡と、「泥かきに行きますよ」との申し出が入ってくる。
 15日(火) 信州宣教区教師会。開催すべきかどうか迷いつつ、非常時だからこそ情報を寄せ合い、祈り、対策を講じることを示され、新町教会に集う。災害対応のため欠席の牧師も。O.B.J.(オペレーション・ブレッシング・フォー・ジャパン)というキリスト教援助団体の方から、「これから長野に入って支援活動を行う」との連絡が入る。  
 同盟教団事務所の総主事から「被災状況の問い合わせと具体的にどのような助けが必要か?」とのメールをいただく。日本福音同盟(JEA)がボランティアセンターの立ち上げを検討している、またキリスト者学生会(KGK)がボランティア派遣を検討しているとの情報が入ってくる。
 16日(水) 午前の祈り会後、豊野に入る。ご子息からの情報をもとにFさんの避難先を捜す。何件も空振りに終わるが、最後の最後、お友だち宅に避難していたFさんと再会!!手と手を取り合って喜び合う。Fさん「何度も教会に連絡したのにつながらなかったのよ」携帯の電波状態が悪かったせいだろうか…。「家のこと、どうして良いか分からない…教会の皆さんに助けていただきたい」とのお申し出。すぐに教会全体に、信州宣教区に、また援助を申し出てくださった方々に「明日、来てください」とヘルプを発信する。
  この日に発信したメールの抜粋
長野福音教会の皆さま
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)
災害対応に追われる日々をお過ごしのことと思います。
教会員のFさんは、豊野駅の東側にお住まいで、今回ご自宅が大変な被害に遭われました。Fさんご自身は、台風19号接近の中、お友だちの家に避難されていてご無事でした。しかしご自宅は2階近くまで水・泥が入り、すさまじい状況です。今日ようやく避難先のお宅を捜し出すことができ、Fさんにお会いできました。「汚れた畳をあげたり、家の内外の片づけや、ごみ出しなど、女手一人ではできません。教会の皆さんのお力をお借りできたらとのことです。」急な話で申し訳ありませんが、明日午前10時頃からF家のお片付けを始めます。可能な方は、ご一緒にお願いします。携帯電話は一切つながりません。
 ※持ち物は汚れても良い服装、長靴、ゴム手袋、モップ、ブラシ、スコップなど泥かき道具、マスク、帽子、タオル、ご自身の汚れ物を入れるビニール袋、お昼ご飯、水分など ある方は、ゴミ袋、ホースなど 
 途中から参加していただいてもかまいません。長期戦になるかもしれません。お忙しい中、恐縮です。今のところ、教会から牧師含め3,4名が、また兄弟団上田教会の牧師が、そして駒ヶ根の教会から複数名ご協力の申し出があります。祈りつつ

■90秒の証し 一週間を乗り切って行く生活パターン  S.T.

 クリスチャンになった経緯については以前の「祈りの友」で紹介させていただきました。
 イエス様を信じるようになったと言っても、私たちの信仰はいつもハレルヤとは参りません。ご飯を食べなければ生きていけないのと同様、霊の糧である聖書を読まなければ霊的に飢え死の状態であると、まだ韓国にいたときにさんざん聞かされました。その必要は結婚して日本に来てから深まりました。想い描いていたものと現実のギャップにずい分悩みました。結婚生活や韓国教会でのこと、職場となった大学などでも悩むことは増すばかりでした。
 長野福音教会はこの浅川の地に新会堂が与えられてちょうど30年、当時私たちは三輪の教会のごく近くに住んでおりましたので、引き続きそこで礼拝に参加していました。夫はヘランド先生について聖書の学びを続けてはおりましたが、容易に信仰に導かれません。けれどもそこから一旦移った韓国教会でやっと受洗の恵みに浴しました。
 数年後、私たちは浅川の教会を南へ下った所に住まいが与えられ、へランド先生ご夫妻に喜んでいただきました。しかし、子どもたちのこともあり、私たちのホームは長野福音教会だと思い定めて、正村先生ご夫妻に願って、やっと戻って来ることができました。
 今は毎週日曜朝、礼拝の始まる前の信徒講座での聖書の学び、週の中日の学びと祈り、これに力を得て一週間を乗り切って行く生活パターンが続きます。
 「私と私の家は主に仕える」ヨシュア記24章15節。27年前にヘランド先生からいただいた小さな木の板の額が部屋の壁に今も飾ってあり、私たちを世に送り出してくれています。

■90秒のあかし 虚しさからの解放 S.Y.

 10代~20代の頃の私は、人生を虚しくバカバカしく感じていました。世の中は偽善に溢れていると思っていました。また当時はキリスト教徒や聖書について負の先入観を持っていました。未だ読んだことのなかった聖書は、偽善しか書かれていない書物だと思っていましたし、それを信ずる人々もまた、口当たりの良いことしかしか言わない偽善者だと思っていました。
 ところが何と、その聖書に「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(伝道者の書1章2節)と書かれていることを知り、驚きました。自分が感じていた虚しさを、わかってくれている方がいると知りました。聖書は、「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12章1節)と勧めてくれていました。また、主の愛にとらえられた者については、「死も、いのちも、御使たちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」(ローマ書8章38節、39節)と記してくれていました。「どんな被造物も」、つまり自分自身も含めます。自分が虚しさを感じようと信仰心が揺らごうと、思考力や記憶力が失せることになろうと、そんな自分になっても、もはや主は決して手放さないのです。
 今、私は虚しくはありません。わからない時や途方にくれる時があっても、何があろうとも、主が一緒におられることがわかっていますから。アーメン。

■サタデークラブの奉仕を振り返って S.I.

 2008年に、前任の方から受け継いでサタデークラブの奉仕を始めました。わたしはこれからのサタデークラブは、英語の要素が入ったものがいいだろうなと思っていました。ちょうどその頃、Lさんが教会に来られて、奉仕させてくださいとのお申し出があり、英語をメインにしたサタデークラブが始まりました。ネイティブスピーカーの英語に触れる事ができる、ということで本当にたくさんの子供たちやお母さん方が参加してくれました。本場アメリカのレシピのお菓子作り、英語のゲームや歌、イングリッシュレッスン、聖書のお話、おやつタイム。そんな構成でした。
 3年前からは、中高生のための英語プログラムも行いました。Lさんの都合がわるいときには、軽井沢から語学学校の皆さんやBさんを始めたくさんのネイティブスピーカーたちが来て助けてくれました。また、毎年テキサスからチームが来て、盛り上げてくれました。K子さんやH子さんがお買い物やプログラムの進行を助けてくれました。見えないところで、お掃除や洗い物などをして支えてくださった皆さんも、本当にありがとうございました。不思議なことに、Lさんがいないときは、必ずネイティブスピーカーが与えられて助けてもらいました。
 Lさんが東南アジアに行かれたことや、奉仕者の都合があわないことから、2019年11月で一旦この活動は休止します。皆さん、長い間ありがとうございました。何より、子供たちに神様のことを紹介できてうれしかったです。

■サタデークラブ・英語で遊ぼうを振り返って  K.T.

 先日(11月16日)、東南アジアから一時日本に戻ったリズ宣教師を囲んで「サタデークラブ」最後の会 ポットラックパーティーや中学生との夕食会がありました。
 ポットラックパーティーでは、よく「サタデークラブ」に来てくれた親子や、最後だからといって久しぶりに参加してくれた親子の顔を見ることができました。中学生たちは、振り返ると、まだ幼稚園児だったり、小学一年生の時から来てくれた子どもたちでした。一人一人の顔を見ながら振り返り思ったことはただただ神様への感謝でした。毎回、毎回、必ず「サタデークラブ」に参加する子どもや大人を与えてくださったこと、テキサスチームや軽井沢のSYMEの方々、近隣の宣教師、教会の姉妹たちと…いつも必要に応じて助け手を送って下さったことなど、数えきれないほどの恵みを体験してきました。来てくれた子どもたち、お父さん、お母さんとのお交わりや、ともに準備した姉妹方とのお交わりも楽しい思い出の一つです。また、リズ宣教師が、「とにかく小さな福音の種を蒔きつづけることが大切」と言っていつも積極的に、うれしそうに、楽しそうに、奉仕している姿を間近に見てきて学ばされ、励まされてきました。
 最後のポットラックパーティーで、別れ際に一人のお母さんが、「また、是非、何か違うかたちでもいいので子どもたちと集える機会をつくってください。」と言って帰って行きました。このような方々が教会の周りにいてくださることを感謝しつつ、神さまの時に、新たな奉仕者が起こされ地域の子どもや大人たちが集える場が、また始まっていきますようにと期待し祈っていきたいと思います。  

■ただのTさん家(ち)の話1  E.T. 

 20年前「あー、はたして私のクリスチャンの王子様はどこにいるのかなー。」とつぶやいた乙女がいた。しかしその5年後には、「クリスチャンの王子様はいない」という結論に至る(正確には、いる人にはいる)。10代から「結婚するならクリスチャン男子!」と教育でたたき込まれてきたが、現実の厳しさに打ちのめされた。ちなみに、世の中にも王子様はいなかった(正確には、フリーの王子様はいない)。
 神様、どういうこと?
 波にもまれながら、乙女はアラサー女子になった。アラサー女子には最強の盾であった「若さ」はもうない。捨てるものは何もない。よし、捨て身で行こう!あとは神様がなんとかしてくれるはず!クリスチャンであろうがなかろうが、友人たちからの出会いの誘いは断らない。ひたすら出かけた。
 男性から食事の誘いを受けた。「神様、この人なの?」祈ってから待ち合わせのレストランに行った。男性は「E子ちゃん、動脈硬化が気にならない?」と言った。動脈硬化を予防するためのサプリメント情報が載ったパンフレットを渡された。健康食品販売の勧誘だった。
 別の男性から食事の誘いを受けた。「神様、この人なの?」祈ってから待ち合わせのレストランに行った。男性は「E子ちゃん、どんな保険に入ってる?」と言った。数種類の保険について説明が載ったパンフレットを渡された。保険の勧誘だった。
 神様、どういうこと?
 神様、健康食品買わなきゃダメなの?保険に入らなきゃダメなの?教えてくれー!
 それからほどなくして、とある男性から食事の誘いを受けた。「今度は何の勧誘だろう」アラサー女子の心は傷ついていたが、「誘いは断らない」と決めていたのでしぶしぶレストランに行った。話はどんどん進んでいく。「これはおかしいぞ。勧誘してこない。」「おかしい。最後まで勧誘されなかった。」アラサー女子は病んでいた。とある男性はTさんであった。アラサー女子もTであった。会話の中で「Tさん」「Tさん」が飛び交う。どの「Tさん」なのかわからなくなった。
 Tさんはアラサー女子をタクシーで家まで送った。別れ際に、Tさんから「お土産です」と言ってかわいいラッピングがしてあるチーズケーキを渡された。かくして、アラサー女子は「Tさん」に勧誘されたのであった。

■クリ妻を持つ夫たちの集い  E.T.

 E子、R江、M美の3人(すべて仮名)は、青春時代を共に過ごした同志であり、仲の良い友達であり、姉妹のようでもあった。その3人が結婚をし、それぞれに家庭ができた。
 結婚生活を送り始めると、夫という人種に驚かされることがある。もちろん、夫たちも妻という人種にどう立ち振る舞えばよいのか試行錯誤しているのかもしれない。妻たちは考えた。そう、自分たちはただの妻ではないのだ。クリスチャン妻(以下クリ妻)なのだ。きっと夫たちも悩んでいるに違いない!
 クリ妻は、青春時代よく鍋パーティーを開いていた。それこそ毎週教会に集まって、夜な夜な女子会を楽しんだものである。(当時の先生、大人の方々ごめんなさい)そうして将来の夫像を語っていた。よし、季節的にも鍋だ!鍋パーティーで悩みを解消させよう!
 2019年新年になり、集まった3家族とT先生。料理上手なM美に音頭をとってもらいながら鍋の準備が始まっていく。やはり鍋は良い。準備している段階から交流が生まれる。自然と会話になる。鍋を食べながらも良い時間が過ぎて行った。
 少し落ち着いたところで、夫組、妻組に分かれるように誘導した。E子の夫(以下E夫)は困惑した表情で「え?聞いてないよ」と静かにつぶやきながら間仕切りの奥へと消えていった。そう、E夫は予定外のことに弱い。予定は把握していたいタイプだ。ごめん、夫よ。言うの、忘れた。それでも夫たちは、T先生に仕切ってもらいながら談笑していた。クリ妻たちは願った。頼む、ここで悩みを解消してくれ!どんな悩みがあるのかも知りたい!
 小1時間ほどたっただろうか、E子の長女がグズり始めてしまい、会を閉じることになった。夫たちは笑いながら小部屋から出てきた。良かった、なんかクリ妻に対する悩みも解決できたかな。
 帰り道、E子はE夫に尋ねた。「どんな話をしたの?」E夫は答えた。「みんな真面目な人だから、真面目な話だよ。仕事の話とかプロポーズはどうだったかとか。」うん、そうだったんだね。クリ妻に対して何にも考えていなかった。悩みはなさそうだ。そして青春時代の3人に言いたい。将来の夫たちはみんな真面目だぞ!
 悩み解消ということではなかったが、夫たちの良い交流になれたのではないか、とクリ妻たちは思う。

■キリシタン大名 高山右近を訪ねる旅(金沢ツアー)   N.E.

 9月23日(月)男性の会主催の「金沢ツアー」に参加しました。11名の参加者が与えられ、「高山右近」を研究し、その信仰や功績を通して伝道されている奈良献児先生を訪ねました。
 その日の数日前から北陸に台風が直撃するとの予報が出ていましたが、全員無事に金沢に到着しました。金沢駅で懐かしい奈良献児先生にお会いし(当教会にいらした頃より少しスリムになられていました)、先生ご家族が経営されている「ギャラリージュスト」にて一服し、いざ、出発!
 先ずは、ギャラリージュストから徒歩5分程にある兼六園へ。奈良先生は兼六園を巡りながら、園の造りやその歴史、右近との関わりについて、分かりやすく情熱的にお話しくださいました。奈良先生の知識の豊富さには圧倒され、他の観光客も耳を傾けているほどでした。豊臣秀吉がバテレン追放令を出したときに、キリシタン大名だった右近を庇護したとされる前田藩のお屋敷の屋根瓦の一つ一つに○十の文字が刻まれていたのも印象的でした。また、特に心に残ったことは、兼六園から見える小高い丘(卯辰山)に長崎の浦上村からキリスト教徒約500人が強制的に送られ、牢獄に幽閉されていたということです。その暮らしは本当に大変なもので多くの方は殉教されたそうですが、その人たちのお陰でこの金沢にもキリスト教が広まったとおっしゃっていました。
 次に訪れたのは右近の像が建てられているカトリック金沢教会です。歴史を感じる荘厳な礼拝堂でした。十文字が隠されている仏壇や踏み絵など、貴重な品々を特別に見せていただきました。そして、約2時間30分のツアーを終え、ギャラリージュストに戻ってランチ。結構な時間歩いて頭も使ってお腹はペコペコでした。奥様とご家族が「あめん堂」という和カフェを営んでいて、歴史にちなんだお食事をご用意くださいました。美味しく優しい味にほっとする時間でした。
 お昼のあとは、ギャラリージュストの二階へ。古い書物などが置いてあり、写真や地図が飾られていました。築城技術のある右近が金沢城の築城に関わったことや、バテレン追放令施行の際には地位より信仰を選んだことなど、更に詳しくお話を聞くことができました。
 過去のクリスチャンたちが迫害の中にあっても神様を見上げ、信仰を守り通したことを改めて知ることができました。今私がクリスチャンとして生きているのは、彼らのつないでくれた信仰によるのだと感じました。
 金沢を訪れたことは何回かありましたが、こんなにもクリスチャンにゆかりのある地であったとは知りませんでした。金沢の新たな魅力を発見し、楽しく充実した旅でした。皆さまも、奈良先生と「高山右近」の足跡を訪ねてみてはいかがでしょうか。

2019年8月号

■巻頭言「桃太郎とモーセ」 牧師 高橋 宣広

 「むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」と始まる代表的な日本昔話、桃太郎。子どもたちに絵本を読み聞かせしながら、ふと思いました。「この展開、どこかで聞いたことがあるぞ。そうだ!出エジプト記のあのモーセの誕生に似ている!」と。 もちろん、桃太郎は作り話、モーセは歴史上実在した人物ですから、二つを安易に並べてはいけないでしょうが、共通点と違いから気付くこともあるのではと思いました。
 まずは共通点。
 ①どちらも赤ちゃんの時、川に浮かんだということです。桃太郎は大きな桃の中に入って「どんぶらこ、どんぶらこ」と流れて来ました。モーセはパピルス製のかごに入れられて、ナイル川の茂みに浮かべられました。ユダヤ人が難民生活をしていたエジプトの王ファラオが、人口急増するユダヤ人を恐れ、「男子抹殺」との恐ろしい命令を下したからです(出エジプト記1:1‐2:10)。
 ②どちらにも強い敵が存在します。桃太郎では鬼たちが、モーセにとってはエジプトの王ファラオであり、工事現場でユダヤ人を酷使した監督でした。桃太郎もモーセも正義感からその敵を倒しにかかります(出エジプト記2:11,12)。
 ③彼らには仲間が必要でした。桃太郎は犬・キジ・サルを従えて。口下手なモーセには雄弁なお兄さんアロンが付いて来てくれました(出エジプト記4:10-16 、4:27‐5:1)。
 ④敵に勝利した時、どちらも宝物を手にしました。桃太郎は鬼ヶ島から持てるだけの宝物を持ち出し、 モーセに導かれたイスラエル人はエジプト脱出の際、エジプト人から金・銀・着物をはぎ取りました(出エジプト記3:21,22、12:35,36)。
 次に両者の違いは何でしょう?
 桃太郎は自信満々・意気揚々(ようよう)と鬼ヶ島に乗り込んで行きます。モーセは真逆でした。神様から「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(出エジプト記3:10『新改訳2017』)と命じられても、「私は、いったい何者なのでしょう」(同3:11)とか、「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」(同4:13)と言って、尻込みするのです。やりたくないのです。自信が無いのです。恐いのです。逃げ出したいのです。
 しかし神様は、そんなモーセを出エジプトのリーダーとして大きく用いてくださったのです!聖書を見ると、そこかしこに、そんな勇者たち、神様によって立てられ、用いられた「元臆病者→現勇者」たちが登場しているではありませんか。ギデオン(士師記6:15)、サウル王(Ⅰサムエル記10:21,22)、エステル(エステル記4:10,10,11)、エレミヤ(エレミヤ書1:4‐8)、ヨナ、イエス様を三度も裏切っても教会の指導者として立てられたペテロ、そしてパウロなどなど。 
 神様は、あなたのこともそのように取り扱ってくださるのではないでしょうか!?

■90秒の救いの証 神の愛を知らされて  K.H.

 私は、中学・高校生の頃、自分の欠点ばかりが目に付くようになり、自分自身を受け入れがたい存在になっていきました。自分に自信がなく、周りの人たちの顔色をうかがい、本当の自分でない自分を演じるように、周囲に合わせようとしていたので、だんだんと疲れていき、友達や人との関係が楽しいというより億劫になっていきました。
 19歳の時、クリスチャンのおばを通して、ドイツから来た宣教師と出会いました。初めて会った時、私に向かって「Kを造った神様はあなたをとても愛している。神様にとってあなたは高価で尊いとても大切な存在なんだよ。」といって、そのように書いてある聖書個所を開いて見せてくれました。びっくりした私が「えっ!本当に?」というと、「神さまはうそをつくことのできない方だから、聖書に書いてあることはすべて本当のことだよ。」といって、新約聖書ヨハネの福音書3章16節を開いて読んでくれました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」「世を愛された」の「世」のところに私の名前を入れて読んでくれました。初めて聞いてよくわかりませんでしたが、驚きと一緒に何だかうれしくなりました。
 それから、周りのクリスチャンの方々が、あたたかく迎え入れてくれる中、家庭集会や聖書のキャンプに参加するようになり、一年後イエス様を信じて受け入れ、洗礼を受けました。神様が私を造ってくださったことを知ったこと、そしてただそのままの自分が受け入れられているという安堵感がありました。疲れて億劫になっていた人との関わりが、もっと楽で楽しい交わりへと変わっていきました。そして、それまで本当の自分を隠して装ってきた私にとって、まったく気づいていなかった真の自分の姿、汚く醜い心、自己中心的で傲慢な心に気付いたとき、(何とイエス様を信じてから何年もしてから)、実はイエス様の十字架は私のためだったんだ!と、本当に知りました。
 何もかもご存じで、私の全てを受け入れて下さっている神様の愛は、私の理解を遥かに超えていますが、ただただ(讃美歌のタイトルではありませんが)「驚くばかりの恵み」です。
 最後にヨハネの手紙Ⅰ4章10節の御言葉です。
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。」

■暗いトンネルを抜けて  M.K.

 私は、小学校6年までは、明るくほがらかな子どもでした。
 ところが、中学から大学2年までの7年間は、精神的にとても不安定な状態になり、毎日が重苦しく、不安で不安でしかたがなく、何が不安なのかもわからず、出口のない真っ暗なトンネルに閉じ込められているようでした。
 高校へ行っても、大学へ行っても、環境では変わらず本もたくさん読みましたが答えは見つからず、あまりの心の苦しさに、自殺も真剣に考えました。
 大学2年の夏、大学構内に貼られていたチラシを見て、「松原湖バイブルキャンプ」に参加しました。そこでの中心は、イエス様の十字架の話でした。初めて「イエス様を信じて生きたいです」と祈った時、神様のご臨在に触れました。
 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28) 私のために言われているようでした。
 また、神様は教会生活の中で、「心の中の王座にはイエス様ではなく、いつも自分がつこうとする。この罪がイエス様を十字架につけたのだ」ということを、はっきりと示してくださり、受洗にいたりました。
 受洗後、信仰は上がったり下がったりしましたが、7年くらい経った頃、「私、トンネルを抜けている!」と気がつきました。変えようがなかった自分を、神様は知らないうちに真っ暗なトンネルから、光に引き出してくださっていました。感謝します。

■連合婦人会に参加して  R.M.

 5月21日に長野めぐみ教会を会場に連合婦人会が行われました。
 午前の部は、今年3月まで塩尻聖書教会で牧会しておられた廣田洋子(ひろこ)先生より「塩尻開拓10年の恵み」と題しましてお話をお聞きしました。なかなか教会堂として使えそうな物件が見つからず、焦りを感じていた時に、素晴らしい物件が見つかり、その建物を貸して下さる方が、とても良くして下さったことが一番の恵みだったそうです。新しい地で語り続けることは様々な困難があったかと思います。廣田先生ご夫妻が10年という長い間まかれた御言葉の種が実を結ぶ日が来ることを願っています。
 午後の部は昼食を交えながら、楽しい教会紹介がありました。司会者の2分以内でPRしてほしいという旨を大幅に超えつつ、どの教会も熱の入った紹介をして下さいました。(笑)
 塩尻含め信州宣教区15教会のためにこれからも祈っていきたいと思います。

■レディスランチョンの恵み  E.M.

 6月26日、初夏のチェロコンサートと題して、第25回レディスランチョンが開催されました。25年とは四半世紀、北信の教会が協力し合って、伝道の種まきが続いているのは、主のお導きとこれまで尽力下さった先生方姉妹方の働きがあってこその事だと改めて思わされました。
 今年はボーマン先生ご夫妻のチェロとピアノを通して、たくさんの恵みを頂きました。「神をほめたたえる賛美です。」と一曲一曲丁寧に曲紹介をしながら、たくさんの曲を演奏して下さいました。
 普段のざわついていた心が洗われて、静まり、穏やかになった頃、「心を開いてみて下さい。」と先生が語りかけて下さった言葉が、素直にすーっと心に入ってくるのを覚えました。
 心にしみる音色は、心を開いて、静まり、みことばを受け取る準備の時だったように感じました。
 未信者の方がどのくらいいたのか把握できていませんが、まかれた種が教会につながるように祈っています。
 今回は、私事の事情があって、委員会やホテルとの打ち合わせを欠席したりで奉仕ができるかについても心配しましたが、祈りと守りの中で、無事に終えることができました。

■新社会人として  Y.E.

 私はこの春から銀行で働き始めました。東京での研修を経て長野支店に配属されました。地元配属になることは、まずないと言われていたのですが、今年から方針が変わったようです。非常に驚きましたが、「良い教会があって、地元に帰りやすくて、生活しやすいところ」と祈っていたので、長野に戻ることができて本当に嬉しく思います。
 配属されて約一カ月半が経ちました。最初は電話を取るのもお客様対応も、手が震えて冷や汗、、というくらい緊張していましたが少しずつ慣れてきました。また職場は和やかな雰囲気で、上司や先輩方も丁寧に指導してくださいます。恵まれた環境で働けているなと感じます。
 この間、上司から渡されたビジネス書を読みました。そこには様々な仕事のノウハウや心構えが書かれていました。その中で最も印象深かったのが「雑用こそ真面目に取り組む」という文章です。これを読んで聖書の「小さなことに忠実に」という内容を思い出しました。私は面倒くさがりで、細かいことはまあいいか!と思ってしまうことがあるため、心に刺さりました。新人のうちは小さな仕事が多いですが、忠実に取り組んでいきたいと思います。
 こんな感じで私は新社会人として勉強の毎日です。遣わされた職場に仕え、教会に仕え、福音を証しできるような社会人を目指します。みなさんよろしくお願いいたします!

■妙高キャンプ2019が楽しかった理由(ワケ)  N.S.

 「今までのキャンプの中で、今年のキャンプが一番楽しかった!」
 2日間のキャンプが終わり、帰りの車内で娘たちが言いました。今年は悪天候で、楽しみにしていたキャンプファイヤーも川遊びもできなかったのに、どうしてこう言ったのでしょう。それにはたくさんの理由(ワケ)があったのです。
 長野めぐみ教会の皆さんと合同で、全部で50名ほどの参加で始まった今年のキャンプ。小学生が大勢いて賑やかでした。一緒に賛美を歌うと、めぐみ教会の子どもたちの声の力強さに驚きました。2日間一緒に過ごすうちにお互いの教会の子どもたちのよさがわかりました。
 ジョイフルタイムでは講師のKさんに、神様の愛について絵を描きながら教えてもらいました。我が娘は、そのときに描いた絵を持ち帰って学校の日記に貼り、「イエスさまはかみさまの子どもです」と書いていました。ハレルヤ!
 1日目の夜、雨のためにキャンプファイヤーはなくなり、キャンドルセレモニーが行われました。さわやか&おちゃめな進行のおかげで、楽しく和やかな時間となりました。
 2日目の川遊びも雨でできなかったのですが、子どもたちは広いプレイホールで思いきり遊んだり、館内オリエンテーリングを楽しんだりしました。
 私たちの計画通りにはいかなくても、神様はそれよりも更によいものを用意しておられるということを改めて学んだ今年のキャンプ。冒頭の娘たちの言葉はそれを表しているのでしょう。
 すでに娘たちは来年のキャンプを楽しみにしています。この文章を読んだあなたも夏のキャンプに今すぐ参加したくなったはず!一緒に来年のキャンプを人生で最高のキャンプにしましょう。参加者&奉仕者は随時募集中です♪  

■整えられて喜んで仕える  正村八重子師

 近くに住むご婦人が「教会の奥さん、教会の看板、散歩しながらいつも見てるの。毎週変わるから楽しみで…。時々、メモしておきたいと思う言葉もあるんだけど……」と。
 毎週書いてくださるT兄弟の陰の働きに感謝のほかない。誰に認められなくても、誉められなくても黙って書き続けてくださる。毎週というのは根気を必要とする作業である。近所の婦人がこれを見ていたのです。これも大きな伝道であったと、私は教会の奥さん(おばあさんでなくてよかった!三輪にいたときはキリストの奥さんであった!)と、いまだに呼ばれる。『教会の』と言われる。私も徒歩で教会の敷地に入るとき、あの看板を見ながら、今日のみ言葉を思いつつ礼拝に行く。
 み言葉を伝えるには、様々な方法や手段があり、何をしたら効果的かと、人間は考える。ゴスペルコンサートも伝道会もランチョンもみな良いと考えるが、どれが良いか決定的なものはない。ソロモン王は「あなたのパンを水の上に投げよと。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」・・・パンとは一体何でしょう?自分の考えで、あの方法が良い、これは効果的であるとかないとか判断しないで、効率が良くても悪くてもみ言葉を伝える熱心が長野福音教会を創ってきたのですから、これからも同じと信じて奉仕をしたいと思います。
 近代社会は生産性と効率性ばかり言われている。教会はそういうところから解放されて、不合理な水の上にパンを投げて、後のみを楽しみにして、どれが良いか効率的であるかは神様に委ねて、キリスト者として整えられて、喜んで奉仕をしたい。
「それは生徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」 エペソ4:12

2019年5月号

■巻頭言「90秒の→120秒の救いの証し」 牧師 高橋 宣広

 宣教師から教えて頂き、教会の多くの方々が取り組まれている「90秒の救いの証し」。私もやってみようと思い、台所からキッチンタイマーを持ち出しました。1分30秒にセットし、「ピッピッピッピ」となるまでに終えることが出来るように、救いの証しの原稿を削り、文章をまとめてみました。いっぱい削ったのですが、どうしても90秒では収まりません。120秒かかりますが、紹介します。
 「キリスト教会の牧師の息子」という日本では稀(まれ)な環境で、私は生まれ育ちました。小学3年生の12月、父から「洗礼を受けないか?」と言われました。厳しかった父の言葉に逆らえなかった面もあります。「救われた」という体験をしないまま、受けてしまった洗礼でした。大切な確信が欠けていたため、その後、苦しみました。神様が求めておられる聖さと、そうは生きられない自らの汚れの間で板ばさみになりました。罪を示され、「神様、赦してください」と祈りながら、私は自分の体を打ちたたいて、強い意志を持とうとしました。自分の力で聖くなろうと思いました。高校卒業後、親元を離れ、一人暮らしを始めました。導かれて行った教会の礼拝で、新約聖書・ローマ人への手紙3章23、24節の言葉を聴きました。――「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉(えいよ)を受けることができず、ただ、神の恵(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価(あたい)なしに義(ぎ)と認(みと)められるのです。」――この言葉を聴いたとき、私は神様の方から一方的に与えられる救い、受ける価値も資格も何も持っていない人間に与えてくださる神様の救いを知ったのです。二千年前のイエス様の十字架の死によって、私の救いは完成している。神様が与えたいと備えてくださっている救いを、ただ受け取るだけでいいのだと気付かされたのです。神様の恵みによって救われることを知り、それを受け入れてから、生き方・考え方が、大きく変えられました。神様の裁きを恐れて、びくびく怯(おび)えていた人生から、神様の愛と赦しに感動し、喜ぶ人生へと変えられました。」

■90秒のあかし  K.N.

 私は19歳の時に教会に来て、20歳の時に神様を信じ洗礼を受けました。社会人となり、結婚をし、3人の子どもが与えられ、教会生活を過ごしていました。
 37歳の時に夫が亡くなり、私と子どもたちの生活は一変しました。当時、牧師の正村先生が家にいらして、今後のことを話した後、「K子さんは、お子さんが3人いてよかったですね、宝物ですよ。」と言われましたが、私の心は、亡くなった夫の方が宝物なのに……と思い、その意味が分かりませんでした。
 それから50歳の時に夫の母が亡くなり、義母は商売をしていたので、私は土日に店の仕事をすることになりました。それが8年ほど続き、教会に来るのは年数回という年もありました。
 その後、子どもたちはそれぞれに成長し、店は長男が継いでくれました。長女は洗礼を受け、結婚し、娘が2人生まれました。次女はあちこちのテーマパークで働いたので、私は遊びに行って会えるのが楽しみでした。
 「K子ばあちゃん」と寄ってくるかわいい孫2人に接しているうちに、心の奥にあった大きな悲しみが徐々に消えていきました。またいろいろな思いがほぐれていきました。
  ヨハネ15章5節の御言葉「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
 今は、教会で娘と孫ふたりに会えることに感謝しています。

■あかし―生きづらさとともに  H.E.

 私は18歳の時に信仰をもって受洗したのですが、それから43年、何故か神様と教会から離れられずにいます。この度は、何故いまだに教会にいたり聖書を読んだりしているのか、諸々振り返って感謝し、それをもってあかしにさせていただきます。
 私は、自分のパーソナリティーが周りと少し違うということを中学生位の頃から感じていました。少人数のいい友達がいましたが、大勢の仲間とワイワイやることは苦手。集団スポーツも勧められてやりましたが、好きではない。とても内向的と思われていましたが、実は目立ちたがりやで欲求不満だらけ。耳から入ったことの理解が悪く、授業中、話を聞いていても右から左に抜ける感じで、努力した割には勉強の効率がとても悪い。忘れ物が多い。大事な約束をすっぽかす。空気感が分からなくて場にそぐわないことを言ってしまう。言葉の機微が分からずに字句通りに受け止めて反応をしてしまう。周りがしらけるのは分かるので、自分を守るために人を避けたり色々な仮面をかぶる。誰に対しても丁寧語で話すのは、それが無難だからで、自分なりに獲得したスキル・・・こういった個性は生きにくさとなって、昔も今も、そしてこれからも、ついて回るものだと思っています。
 学生時代はセルフイメージが低くて、自分が嫌いでした。こうありたい自分と、そのように生きられない、評価もされない自分の間の差に苦しみました。不謹慎ながら、どこかでパッと死んで天国にいけないかな、とよく思っていました。
 社会人になり、ある研修会で講師の牧師先生を通して、こういう自分は、実は、自分のことばかり考えているエゴイストである、と教えられました。そして、このことを悔い改め、神様を自分の心の王座に迎えることで解放されること。そして神の作品である自分を好きになって初めて、人との関係もできてくるということを教えていただきました。あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい(マタイ22:39、ガラテヤ5:14)等の御言葉を通して、健全な自己愛を持つこと、自分ばかりを見ないで神様を見ることを教えていただきました。
 ご助言は全くその通りで感謝しています。ただ、私自身については、こういった話は正直ピンときませんでした。健全な自己愛が欠如していて自分にこだわる普通の人と、私のようなそもそも少し変わった者として生まれついている人間の違いのようなものがあるような気がしました。
 私はどういう人間なのか、何故こんなに不器用で生きづらかったのか、未だに分かりません。一生分からないと思います。でも、聖書にはありがたい言葉が沢山あります。
 『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章3節)という御言葉もその一つです。そしてこれまでの人生でお世話になった教会はどこであっても、この御言葉の通り、どのような人であっても、その人をありのままで受け入れて下さいました。カウンセリングマインドや特別のノウハウが無くても、教会はどこであってもこのようでした。
 私が43年間、教会や聖書から離れることができなかったのは、このような神の家族がどれほどありがたい所なのか分かっていたからであったような気がします。
 神の作品に失敗作はない。みんな高価で尊い神の最高傑作であることを信じ、たとえその実感が無くても御言葉を握りしめながら、とりあえず今週を駆け抜けていこうと思います。

■救いのあかし  S.K.

 私は高校生の時、クラスの友人に誘われて初めて松原湖バイブルキャンプのクリスマスの集会に行きました。塩狩峠の映画を見て、イエス様が馬小屋で生まれたことを聞き衝撃を受けました。何か自分の力で、どうしようのないものを感じていました。それが何かはわかりませんでした。
 その後、山梨の大学に進学しました。初めての一人暮らしで、人付き合いが苦手で友達も少なく寂しい思いをしたり、自分の嫌なところが目につき自己嫌悪に陥ったりしました。そんな時、一緒に卒論を書くことになった友人が教会へ誘ってくれ、富士吉田の教会へ行くようになりました。ある日、大学で開かれた滝本先生の集会に参加しました。その中で、「私はその罪人のかしらです。」というみことばが私の心にグサッと突き刺さりました。私はどちらかというとおとなしい方で、小さいころから大人や先生から見たら結構いい子で、自分でもいい子なんだと思っていたところがありました。そのくせ、人を憎んだり、友達との約束を守らなかったり、ボーイフレンドはできないしと悩んだり、むなしい時もありました。そんな私にこのみことばが突き刺さってきたのです。それから教会へ行き聖書を読みイエス様に祈った時、神様が私の罪をゆるして下さり、心に平安がやってきました。今まで暗く重かった心が軽くなり、確かにイエス様は私の罪のために、十字架で死なれ、よみがえって下さったのだと信じました。それから30数年、神様は共にいて導いて下さり、感謝な気持ちでいっぱいです。
 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」 第一テモテ1章15節

■2019世界祈祷日に参加して  K.I.

 3月1日、聖救主教会で今年の世界祈祷日の集いがありました。市内から66名の参加者でした。プログラムはヨーロッパでもっとも小さな国の一つ、世界祈祷日運動の中でもかなり新しい委員会である、スロベニアの女性たちによって作成されました。
 スロベニア共和国は、ヨーロッパの中心部に位置し、西はイタリア、北はオーストリア、北東はハンガリー、南はクロアチアに面しており、アドリア海を通してその他の国々とつながっています。
 スロベニアの現在の状況は、かつてスロベニアが社会主義、共産主義だった時から、今日までの政治的、経済的状況を反映しています。今日、スロベニアは、民主主義議会制共和国であり、政府は首相によって率いられ、他の閣僚は執行機関であり、法律は議会によって制定され、司法機関は立法府と執行機関の両方から独立しています。
 さて、スロベニアの近年の歴史を辿ってみましょう。二十世紀の第一次世界大戦と第二次世界大戦の合間に結ばれた親和協定の下では、スロベニア地方は、ユーゴスラビア王国とイタリアに分かれていました。ファシズムの下で、イタリア領内のスロベニア人は、二大戦の間、さらに第二次世界大戦中に激しいイタリア化を経験しました。ドイツ人が占領していたスロベニアの他の地域では、激しいドイツ化が起きました。
 ユーゴスラビアとスロベニアとの関係は、悪化の一途を辿りました。スロベニアの要求がユーゴスラビアによって無視されたため、スロベニア共産主義者たちは、1990年1月ベオグラードで行われたユーゴスラビア共産党大会を退席しました。同年12月のスロベニア独立投票では、投票者のうち95%が独立に賛成しました。それによって翌年6月25日、スロベニアは、独立した複数政党を持つ共和国として独立を宣言しました。これにより、ユーゴスラビア軍との九日間の戦争につながりました。しかし、スロベニアは独立保持に成功し、ユーゴスラビア軍は完全撤退し、その後、崩壊しました。
 このようにスロベニアの歴史を紐解くと、第二次世界大戦中、イタリア、ドイツ、ユーゴスラビアの国々から、完全に独立するまでの道のりは、険しかったことが分かりました。
 私は、毎年の世界祈祷日の学びを通して、ようやく独立を果たした後進国が、先進国に牛耳られないような、平和な世界であってほしいと切望します。

■信州宣教区信徒セミナーに参加して  M.D.

 主題:種を蒔き、育て続ける~次世代宣教の今とこれから~    
 講師:本澤敬子先生 日本同盟基督教団 国立キリスト教会教育担当牧師・教団教育部部長 
 聖書箇所:マルコの福音書4:26~29、マタイの福音書18:12~14
 当教会の役員会で、教会の今後やビジョンについての話し合いの中に頻繁に登場してくるのが「次世代伝道」の言葉です。創立60周年の来年に向かって、役員会だけでなく、教会全体のテーマ・話題としてみんなで話し合っていけたらと私は期待を持ってこのセミナーに参加しました。
「これを聞いたら、皆さん一つはアクションを起こしましょう」と始まった本澤先生の講義は静かな声の中にも熱意のこもった内容でした。
 次世代伝道の必要性と現状をデータに基づいて分析され、2030年には教会員の3分の2が75歳以上と予測されている(日本基督教団)など、まさに日本の教会の危機的な状況が示されました。そんな中でも「子どもは10年たったら大人になる」こと、「教会学校の生徒数は激減している中で、教師数はあまり減少していない」ことなどの希望を手がかりに危機的状況の突破口はある、神様から知恵をいただいて、教会全体で取り組めば教会の明日は見えてくると思わされました。
 まずは、今いる子ども達が確実に信仰継承されていくよう、教会全体で大切に大切に育ていきましょう。当教会のサタデークラブの働きについても、ウイングスや、ユースも、またこれからの取り組みについても、どうかみんなで、その働きに関心を持ち、祈り、陰になり日向になりそれを支えていきましょう。「私はどんなアクションを起こせるか」と主に伺ってみてください。私はこれを書くことが、まず一つ目のアクションです。
 ※子ども聖書アプリ You Version&One Hope  www. Bible.com/kodomo 無料のアプリです。聖書物語が子供向けに話されています。聖書の流れも良くわかり、意味もわかりやすいので大人が聞いても面白いですよ。

■私の信仰生活  S.T.

 振りかえってみると、私の信仰のルーツは、祖父が当時の新学問として受け入れたキリスト教(プロテスタント)にありました。昔、韓国では家父長制度が厳しかったので、自ずから家全体がキリスト信者になりました。私はそれに反発していたかもしれません。でも二十歳の頃、他教会で開かれた伝道会に参加し、今までの不信仰を悔い改め、洗礼を受けました。受洗の翌日、たくさん雪が降り、周り中すべてが、きらきら輝いていたのを今でもはっきりと覚えています。神様がお創りになる世界は本当にきれいだと思いました。
 洗礼を受けてもその純粋な気持ちをずっと保ち続けることは容易とはいえません。聖書は中学の時から続けて読んでおりましたが、大学時代はこの世の楽しみに惑わされ、いつも葛藤していました。友達は日曜日になるとしょっちゅう山登りや海へ、空気の汚れたソウルを離れ旅行するのが常でした。私は日曜日を迎えるたびに悩んでいました。
 国際結婚し日本での生活はあまりのギャップの大きさに唖然とすることばかり。周りは偶像に満ち溢れ、食べ物も神社に祀(まつ)った(上がった)ものが食卓に供されることもありました。私もやむなくそのような生活に従い、家の習わしに従ったのでした。しかし、私の顔からはいつか笑いが消え、身体の調子も良くなく只々韓国へ帰りたいと思っておりました。
 そのうち長野市に住むことになり、散歩の途中教会を見つけてやっと落ち着きました。それが当時、三輪にあった福音教会でした。その後、長野市に韓国教会を建ち上げるということになり、参加する一人一人が清められるよう徹底的に今までの信仰を再点検し、よく集まって祈り、皆と固く団結していました。始めはそれぞれの家を転々として礼拝し、栗田に教会を借りてからは名古屋にある韓国キリスト教財団本部に属する牧師先生方が毎週代わる代わるいらっしゃってメッセージを語って下さり、私たちの信仰のレベルもとても高められました。そして、夫や義母の救いのために熱心に祈って頂き、神社の家庭からの穢(けが)れが少しずつ清められて行ったのかと思います。あるとき、母の住む山ノ内町に数人で出掛け、家にあった粗末で古びた神棚のお札類を庭に持ち出し、大きな声で賛美歌を歌いつつ、燃してしまうことが行われました。でも夫も義母もすんなり受け入れてくれました。
 一人の人を救うためどれほどの方々が祈って下さったかわかりません。一般信徒の方はもちろん、牧師先生だけ数えても我が家の救いのために祈って下さった先生方は、韓国の牧師先生が約5~6人、正村八重子先生、へランド先生、スモール先生、高橋先生、そして義母の病床洗礼の日には、東京のクリスチャンライフハウスの2部の礼拝中、その時間に合わせ、信徒約300人もの人々が共に祈って下さったのでした。義母はそれから一年間生かされました。
けれども、私は様々な信仰体験をし、恐ろしいサタンの働きに自分自身が苦しむこともありました。ちょうどその時は論文執筆のため、芥川龍之介全集、ニーチェの書などを読みあさり、彼らと同じく共感したり、苦しんだり芥川の『藪(やぶ)の中』を彷徨(さまよ)い、『歯車』の中に出て来る悪魔の仕業を体験するなど、理解に苦しむこともたくさん起きました。    
 いよいよ自分も「彼ら」と同じ目にあうのかと思い必死に、神様に助けを求めました。それからというもの、霧がかかったような状態から聖書の解釈や、理解できない部分も徐々にわかってきて一層、聖書のすべてを信じられるようになったと感じています。
 韓国教会には多くの人が集められ、成長が続き、待望の若い牧師先生が韓国から長野に赴任されました。ところが次第にぎくしゃくとなり、あれほど中の良かった中心メンバー達の間にサタンから悪い種を播(ま)かれたように意見が合わなくなってそれぞれ撒き散らされました。
 けれどその当時とは異なり、今の在日韓国教会は新しい牧師先生と新しい信徒たちによって成長を続けているようで感謝です。私も夫も子供達のことを考え福音教会へ戻ることができましたが、すべてをひっくるめて常に良い道を備えて下さるかどうかは神様だけがご存じでしょう。良い時も悪い時も失敗をしても罪を犯しても、主に赦しを請いながら前へ進みたいと思います。
 3月10日の高橋先生のメッセージと賛美曲525番<わたしは高い山を>は、私のあかしにぴったりでした。その曲の4番「あなたは災いから守られ、意味なく危ない目に合わない、あなたの出入りには御神の守りがある」は、私の信仰の要約かなと思わされました。

■信仰生活50年に寄せて  K.I.

 私が初めて長野福音教会を訪れたのは、21才の時でした。正村富男牧師、八重子先生が三輪淀が橋の瓦屋根の家で伝道を始めてから7年目でした。礼拝は3家族と独身の方で、7人から10人が出席していました。十分の一献金をするクリスチャンホームが5つあれば牧師を支えられると言われられた時代です。あと一歩という状態でした。
 一人で長野に下宿をして、就職して3年程でしたので、まだ仕事もできず自分に自信がありませんでした。そんな私に話しかけていただいて、私にも何か出来るのではないかと思えるようになりました。このことは私にとって大変大きな事で、ずっと長野福音教会と繋がり続ける事ができたと思います。会社の仕事も積極的に取り組めるようになりました。
 26才で結婚し、JR三才駅の西にある駒沢第二団地に住みました。Mさんご夫妻、Tさんご夫妻が住んでいたのが、この団地を選んだ理由です。会社が土曜休みだったので、家内と相談して団地の集会所を借り、「駒沢こども会」を始めました。車のスキーキャリアにスピーカーを付けて「♪♪~幼稚園、保育園、小学生の皆さん、これから団地の集会所でこども会を始め始めます。皆さん集まって下さい♪♪~」と団地を一周しました。毎回30人~50人の子供が集まり、賛美をして聖書の話をしました。同じ団地に住む小学校の先生をされていたMHさんご夫妻、学生だったAKさんがお手伝いをして下さいました。私が「駒沢こども会」を継続できた力は、自分で聖書読んだ時の感動、毎週正村富男先生が礼拝で語られるみことばの感動でした。今でも不思議に思うのは正村夫妻が「やめなさい」とは言わず、却って励まして下さったことです。飯山に家を建てて引っ越しするまでの6年間、「駒沢こども会」を行いました。
  飯山に移ってからは長野福音教会の日曜学校の小学科の奉仕をしました。日曜学校では、全体で賛美して聖書のお話を交代でしました。そのあと幼稚科、1~2年生、3~4年生、5~6年生に分かれて分級をしました。日曜学校の先生は各分級に2人で8人はおりました。春と秋には遠足に出かけ、夏は2泊3日で「夏期学校」をしました。これは、宮川姉、吉田姉等婦人の食事作りをしてくださる方が居たから出来たことです。日曜学校の生徒たちにとっては、良い思い出になったと思います。現在行っている「妙高キャンプ」につながっています。
 中高生科では毎年野尻湖の「三谷屋旅館」で「夏期キャンプ」をしていました。PA機材を持ち込んで、生徒が楽器を弾き、礼拝をしていました。そこで賛美していたのが「ワーシップソング」です。教会の礼拝に取り入れられた「賛美礼拝」は「賛美の中に神がおられる」という中高生科の先生方のスピリットが実現したものです。
 年を重ねて、交通事故の後遺症の痛みで苦しむ私は、同じ苦しみの中に居られる方に「神様は必ずあなたを助けてくださいます」とは言えないのです。このことは教会の力を弱めます。ですから、若いみなさん。自分のできることは何でもやって下さい。それが、これからの長野福音教会を建て上げることになります。

■役員に選出されて  M.T.

 教会の役員会そして総会とは何かを問うとき、聖書から見るべき箇所は使徒15章である。異邦人にも割礼を授けるべきか否か。初代教会の大きな分裂になった対立問題(15:2、7)は、使徒15章の会議を経て、対立ではなく教会の大きな前進をもたらした。(勿論この一回の会議ですべてが解決したわけではない)
 神を捨てたがゆえに国を失ってしまった歴史をもつユダヤ人にとって、その深い反省から、ヤハウェに立ち返るために作られた律法やおきては、彼らが命を捨ててでも守るべきものであった(実際に彼らは、何もできない安息日を利用したローマ人によってエルサレムの滅亡へと向かう)。又、イエスご自身も律法学者については批判したが、イエスの教えは律法をさらに厳しく教える立場であった。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです(マタイ5:7)。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます(マタイ5:18)」。 
 それが故に、異邦人にも割礼を授けるべきか否かという問題は非常に難解な問題となって、教会に大激論をもたらし、大きな分裂へと発展した。
 そのとき、会議に結論を与えたペテロの言ったことはなんであったか。それは、『神は…(7節)』、『人の心の中を知っておられる神は…(8節)』とあるように、まず神を主題にすることであった。神が何をしたのか。その奇跡を見ることに集中したとき、ユダヤ人キリスト者は自分の判断を捨てた。そして教会のリーダーであるヤコブが『聖書』からこの大きな問題の結論を導き出す。そして彼らは信頼できる人たちを遣わしその決定を当事者たちに伝えるわけだが、その言葉にも大きく注目するべき箇所がある。それは28節。『聖霊と私たちは・・・決めました。』という言葉である。
 なんと初代キリスト教会のこの決定は、教会の信徒だけで決めたものではなかった。彼らは永遠に続くかと思われた議論の中に、聖霊が存在することを認め、この決定は聖霊の決定であると告げたのだ。
 私たちの教会も主の教会であるなら同じでなければならない。役員会・総会のなかに聖霊はともにおられ、ともに決定を下すのだ。だからこそ私たちは教会の代表役員そして役員のために祈り、彼らの決定事項のために祈るのだ。勿論不完全な教会であるがゆえに間違いは犯す。失敗も犯す。しかし私たちにはイエスの十字架ととりなしがあるので、いつでも喜んで進んでやり直すことができる。『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ 8:34)』
 主によって長野福音教会の役員として選出されたことを厳かに受け止めたい。

■役員を卒業して  K.K. 

 私が初めて役員になったのは、1976年でした。役員会が長老と執事で構成されていた時の執事です。当時、私は25才独身でした。それから14年連続で役員をした後、制度が変わり、4年役員を務めたら、1年休めるようになりました。そしてこの2月まで、ほぼ続けて役員を務めてきました。
 これも、ひとえに家族の支えや健康が守られたこと、教会の皆様の支持があったことなどによるものと思います。ありがとうございました。正直なところ、ほっとしています。
 仕事を退職して、少しばかりの農業をしながら晴耕雨読の生活をめざしたものの、役員をしているとなかなかそうもいかず、67才になった今、やっと肩の荷がおりたと思いきや、地元の自治会長を1年間することとなり、来年までの辛抱と思い、もう少しと頑張っているところです。
 時々思うことですが、主催者・責任者側と、参加者・お客さん側では、その気持ちが全然違うことです。いつもお客さんでいられたらどんなにいいだろうと思います。でも、誰かが責任者をしなければ組織や活動はうまく動かないのだろうと思います。ムクドリやカラスの大群のように、人間も指導者なしでうまく団体行動ができれば良いと思うのですが、そうはいかないでしょう。
 聖書の、他人の目にある塵(ちり)はよく見えても、自分の目にある梁(はり)は見えないと同じように、責任者や指導者のすることに意見や文句は言い易いが、自分のことには、なかなか気づかないのが人間なのでしょう。
 また一般的に高齢になると、自制心がきかず、怒りっぽくなり、気が短くなり、思ったことを何でも言ってしまうようになるそうです。 ですから、高齢者となった私も、これからは、指導者や役員さんのすることに文句や意見を言うのではなく、黙って積極的に協力する者になりたいと思います。 

■女性会について  K.M.

 2月教会総会の頃から、このままでは女性会が衰退してしまう、はてどうしたら良いのだろうかと勝手な独り相撲をしてあせっていました。少々はめを外しても皆が楽しく元気になることをしてみたらどうだろうかとあれこれ考えました。一方で私のようなものがこんな大それたことを考えても良いのかと不安にもなりましたが、神様はノーとおっしゃらなかったのではと思います。
 3月の女性会の参加者はたったの7名でした。その場で〇月に○○をしましょう。そして、その時だけの係りの方を1~2名、決まった所だけ書き入れた紙を貼り出しました。役員の方が賛同してくださるか気懸りでしたが、皆で検討し修正しながらも決定しほっとしました。その計画は次項です。皆さんが参加して楽しい交わりの会にしていきませんか?
 今年度のチーフ(まとめ役)はHさん、Iさん、私の3人です。女性だけではなく男性にも加わっていただきたい時がありますが、いかがでしょうか?特に10月の「素人演芸会」の出演者を募集をしております。どうぞ今からでもかくし芸などの練習をして、その場を賑(にぎ)わせて頂けたらと、皆様に期待しております。

2019年2月号

■巻頭言「和解のことばを託された」 牧師 高橋 宣広

 2019年、教会の目標は、与えられたみことばから「和解のことばをゆだねられた者として生きる」としました。
 まず、「和解をしなくてはいけない」ということは、和解に至る前に、対立や争い・敵意・分断があるということです。多かれ少なかれ、私たちの中には誰かに対する敵意が存在します。赦せない思いがあります。怒りや憎しみがあります。関わりたくない人が存在します。もう冷たい関係になってしまって、やり直しのきかなくなった家族が、またかつての仲間が存在します。和解をしたほうが良いのだろうな…お互いに誤解を解いて、昔のように何のわだかまりもなく、話しを出来たらと思いつつも、そうできない人が存在します。それが正直なところ、私たちの姿です。
 そして聖書は、実は私たちと神様との関係もそんな冷たい関係になってはいないか…と、問いかけるのです。「違反行為の責め」と出て来ます。私たちの方がルールを勝手に破ったのです。真の神のみを第一とし、このお方に従うというルールを破り、自分勝手な道にそれ、この世の流れ・価値観に流されてきました。
 私たちには、和解しなければならない存在がたくさんあります。①まず神様との関係において。②続いて人との関係、身近な家族や友との関係において。③さらに自分自身との関係において:自分を受け入れられない…自分を大切に出来ない…そんな状態からの回復が必要です。④最後にこの世界との和解も求められています。壊して来てしまった自然環境との和解。また分断をもたらして来た偏見や先入観、外国の方々や少数派の方々への無理解・偏見・先入観という敵意を捨てなくてはいけないでしょう。
 この和解の主催者・担い手は、私たちのために犠牲となられた主イエス・キリストです。「これらのことはすべて、神から出ているのです。」(5:18) 自分では「もう無理」と投げ出したくなる多くのものとの和解、それは自分の意思・決断・努力・頑張りだけでは不可能です。だからこそ神様の側から和解の橋を渡してくださったのです。そのために御子イエス様を遣わしてくださいました。
 背きの罪の責任。本来、違反者本人が責めを負うべきものです。しかし神様との関係において、到底にない切れない責めを負い続けている不完全な私たちです。そんな私たちを神様は憐れみ、私たちの背きの責任を、神ご自身が代わりに負ってくださったのです。主イエス・キリストが全部代わりに背負い、帳消しにしてくださったのです。
 全部、神様の側で準備してくださり、計画を立て、実現し、完成してくださった和解の御業。それによって、私たちは神様と和解させて頂けるのです。神様は裏切られた側であり、裁く側でありながら、私たちと和解しよう!あなたを無条件で愛しているから赦そう!と申し出てくださるのです。
 神様の大きな愛に触れ、神様の愛に生かされる時、私たちは新しくされます。神様との関係が和解した時、私たちは変えられます。自分本位から → 神様のものの見方に倣う人生へ。人を赦せなかった…人なんかどうでも良いと思っていた…そんな生き方から → 人を思う人生に、愛や共感をもって人と接することが出来る新しい人生が待っています。
 新しくされた者として、神様の和解を頂いた者として、この年、人との和解、自分自身との和解、この世界との和解を目指していきましょう。
 主は、私たちに和解のことば(福音)を語りかけ、それを託してくださいました。立ち上がれ、これを語れ、これを行えと、私たちに使命を与え、遣わしてくださいます。主の励ましを聞きながら、新しい一歩を踏み出してまいりましょう。

■90秒の救いのあかし  K.E.

 私は、千曲川(信濃川)が日本海に注ぐ新潟市在住です。仕事は、道路の交差点についている交通信号機関連機器の販売をして、4年目になります。
 中野市で生まれ、大学を卒業するまでは、キリスト教とは全く無縁の生活を送ってきました。
 現在の会社に入社した際、寮が2人ひと部屋で、ルームメイトがクリスチャン(牧師子弟)であったことから、時折教会に誘われましたが、拒み続けておりました。そんな中、会社での対人関係の悩みの解決を求めて、ルームメイトが集う横浜市内の単立教会に通うようになりました。
 途中、長いブランクもありましたが、「医者を必要とするのは丈夫なものではなく。病人です。……わたしは正しい人を招くためではなく罪人を招くために来たのです。」という招きに応えて、足掛け3年の求道生活を経て、1987年のクリスマスに受洗の恵みにあずかりました。
 新潟の地でも、山岸先生ご夫妻や、山本真理子先生ご夫妻、佐藤神学生などの信仰の師が与えられ、慣れない営業の仕事で毎日大変な日々ですが、今まで何とかやってこられたのも(FEBCの番組名ではありませんが)『今あるはただ神の恵み』と思います。

■ 亡き父の教え→エホバの証人→そして今  K.I.

 1971年5月20日に召された父から、私は穏やかなクリスチャン人格を、知らず知らずのうちに肌で感じて成長しました。アットホームな雰囲気の中で育てられた幸せな娘時代は、22歳の春、父との永訣の朝に終わりを告げました。初任地の飯田から、長野の病院へ駆けつけ、父の枕元に立つまで、父は、私を待っていてくれました。病室に入るなり、父は私を食い入るように見つめ、「和子、そのスーツよく似合うよ」と言ったきり、目を閉じました。そして翌朝、静かに息を引き取りました。当時作った挽歌一首です。
   吾をじっと見入りていたり眼差しよそれが父との最期となりぬ
 大きな悲しみを乗りこえて結婚したものの、とても内向的な性格でした。そんな私が変化したのは、長男が1歳の頃、エホバの証人の伝道者たちの訪問を受けたことによりました。伝道者たちは、子どもの訓練に関する箴言の聖句を示してくださいました。「したい放題にされる子どもは、その母に恥をかかせる」という聖句から、初めて子育ての方法がわかりました。その後、証人との家庭聖書研究を通して、御言葉による積極的な思いへと、変化を遂げることができました。
 二人の息子たちの子育てをしながら、約10年間、証人としての活動を続けました。その間、家族の必要と宗教の責任を完璧に果たそうとするあまり、頑張りすぎたのです。その結果、張り詰めていた緊張の糸が切れて、まさかの心の病気を発症したのが50代半ばでした。父の死と同様の悲しみの中で、集会を欠席する度に信仰が薄れ、エホバの証人の組織は、異端の宗教であることに気づかされました。例えば三位一体を認めない教理、輸血拒否の聖書理解、墓参りをしないことなど…に疑問を持ちました。このような経過から、体調の回復とともに脱会を決意しました。
 その後、英会話の講師だったリズ先生にゴスペルコンサートに誘って頂いたことにより、この教会に導かれました。福音教会最初のイブ礼拝は感動的でした。
   小雪舞うイブの今宵に教会でみことば聞いて心慰む
 エホバの証人時代の苦い体験が踏み石となって、この教会で神様のみ言葉に触れ、本物の救い主・慰め主であられるイエスさまに出会うことができました。最後にローマ人への手紙8章28節の聖句をお読みして私の拙い証とさせていただきます。
   神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことをはたらかせて益としてくださることを、私たちは知っています。

■「不安」からの脱出  E.Y.

 私はアメリカへの留学を控え、英会話の先生のアメリカ人から教会で開催していたEnglish Bible Class(英語聖書クラス)に誘われました。戦後すぐに来日したTEAMの宣教師が開拓した小さな教会の蔵造りの部屋で行われていました。そこでまず英語の聖書に出会いました。20代後半のことです。紆余曲折はありましたが、英語の勉強のためと、アメリカ、カナダ、ガーナなどから来日している外国人クリスチャンたちとの交わりに惹かれて通い続けました。
 当時、夢だった留学を控え、不安なことがたくさんありました。夫と別々に暮らさなければならないこと、治安が悪いところに行くこと、現地に馴染んで成果を出せるのか、等々。期待よりも将来への不安と葛藤でいっぱい、これがイエス様と出会う前の私の姿でした。
 English Bible Classに集う外国人のクリスチャンたちの中には、家族を故国に残して一人で来日された方もおられました。中には、ビザが切れて不法滞在になってしまった人もいました。でも、彼らはいつも陽気で明るく、どうしてそのようにいられるのかが不思議でした。将来が不安でたまらない私のために祈ってくれることもありました。ただの能天気な人たちなのか? この方々は何者なんだろうと強い関心があったことが、通い続けた一番の理由だったように思います。そのうち、英語の聖書ではやはり内容がよくわかりませんので、日本語の聖書を読むために、English Bible Classの後の夕拝に出るようになりました。
 聖書を読み始めると、自然科学者としては到底信じがたい荒唐無稽な箇所に、多数遭遇しました。聖書はまず創世記から始まりますので、初めは「こんなことをどうやって信じろというの?!」と思いました。しかし、時間が経つうちに、「信じたい、だけど、どうやったら信じられるのか?」と思うようになりました。旧約聖書の伝道者の書の「空の空。全ては空。」(伝道者の書1:2)や「私は日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんとすべてがむなしいことよ。」(伝道者の書1:14)などが大変印象深く記憶に留まりました。最初の聖書を購入したのは、1992年12月2日です。English Bible Classに出るようになってから1年あまり経過していましたが、自前の聖書を持ってから1週間も経たないうちに、救いを受け入れる決心をしていました。
 イエス様に出会った後で、私はイエス様が私たちの道であり、真理であり、命であることを知りました。イエス様は私の重荷を背負って共に歩んでくださる方であることを知りました。
   「全て、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたも私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。」マタイの福音書12章28-30節
 すべては創造主たる神のご計画のうちに動いていることを知り、すべてをイエス様に委ねて従って歩んでいけば良いことがわかりました。不安は喜びに変わり、心に小さな平安が訪れました。
 イエス様が私の人生を変えてくれました。イエス様にすべてを委ねて従ってみませんか。

■子育て日記ーその1  M.F.

 昨年の8月に息子が産まれ5ヶ月が経ちました。教会の皆様にもいつも可愛がっていただき、スクスクと大きく育っています。ありがとうございます。私自身、元々子どもは大好きでしたがやっぱり自分の子どもは格別可愛いですね。笑っている時も遊んでいる時も泣いている時も…でも寝ている時が一番可愛い!!世の中のお母様方が言われていたことがよくわかりました(笑)
 息子が100日を迎えた時、我が家でも”お食い初め”をすることになりました。クリスチャンがやって良い行事なのか…と考えましたが”我が家流”のお食い初めを目指すことにしました。調べてみると、鯛の塩焼き、蛤(はまぐり)のお吸い物、他にも用意する物は沢山あるようですが”歯固め石”という物も必要とのこと。近所の神社や河原で拾ってくるようです。我が家はもちろん、迷わず長野福音教会へ石を拾いに行きました。主人が祖父母に「家はクリスチャンだから教会の駐車場で拾ってきた石だよ」と言っていたのは笑ってしまいました。
 日本に住んでいると様々な行事があります。特に子どもがいるとその行事に関わることが増えてきます。その時にクリスチャンとしてどう関わっていくのか、とても難しい問題です。割り切って受け入れるのか、全てを排除するのか。何が正しいのか私にはわかりませんがその度によく考えて神様に聴き、世の中とはちょっと違う神様を中心とした”我が家流”を大切に出来たら、と私は思います。これからますます教会の皆さまにお世話になることがあるかと思いますが息子共々今後もよろしくお願いします。

■楽しかったクリスマス会  M.Y.

 昨年の12月21日水曜日、教会においてクリスマス会が行われました。いつも第2水曜日の祈り会は「お茶っこ会」として用いられていますが、12月はイエス様の誕生された月、ご近所の方をお誘いしたり、メッセージも届けたり、お祝いの会としたいと提案され、正村先生のご親戚にあたる山形由美さんお招きの話があり、トントン拍子に話が進みました。山形さんは、大学在学中に留学されピアノ科を卒業されました。その折に堀内道旦(みちあき)先生と出会ったそうです。堀内先生の著書に感銘し翻訳することになり、今はピアノの先生をしたり翻訳をしておられる方です。
 正村先生から「『せごどん』のお話や当時もクリスマスを祝う会があったのでは……。西郷さんの書による『敬天愛人』がありますが、西郷さんの信仰が表れています。神様が私たちを愛してイエス様を贈ってくださったように私たちも人を愛することが一番大事なことです」とのお話をいただき、山形さんによるピアノ演奏と「いのちあふれる家庭を求めて」と題した講演をいただきました。
 ピアノ演奏は、どの曲もすばらしい演奏で、バッハ、ヘンデル、シューマン、ドビュッシーの曲で、作曲家の生まれた時代や背景、家庭の様子など、曲に親しみの持てる説明をしてくださいました。その間に堀内先生の著書から学ばれたという家庭の使命、子育ての大切さ、日常生活における夫婦の関係など、子どもにとって家庭に居場所があること、子どもだけでなく、大人にも平安な場所があること、お互いに認め合うこと、あたたかい家庭を作る大切さなど、信仰的な立場に立っての実践的なお話がありました。また、ご自分の子育て中に失敗した体験も話してくださり、気さくな方で親しみが感じられました。最後に、讃美歌を3曲演奏してくださり第1部は終了しました。久しぶりの方、ご近所の方、新町教会からも来てくださり、30名ほどの集まりでした。
 司会の小山姉が、指を使ったり、頭の体操で和やかな雰囲気を作ってくださり、先生に質問したり、高橋先生が神学生の頃、山形さんの母教会で、子どもさんたちにモテた良い先生だったとのエピソードも披露されました。栞(しおり)や匂い袋、壁掛けなどの手作りのバザーもあり、終了後は希望者が残って、ボールを使った「介護ピラティス」の体験会もありました。
 伝道部のご支援もいただき、一日ともにいてくださったイエス様に感謝します。また、先生の送迎、友人の送迎、受付、奏楽、買い物など見えないところで労してくださった皆さん、ありがとうございました。(山形さんが「先生」と呼ばないで、といわれたので、つい親しみを込めてさん付けで書いてしまいました)

■エッセイ 礼拝堂の花  正村八重子

 主日の朝、礼拝堂にはいると、最初に目に入るのは生花です。微かな花の香りとともに「さあ、造られた者同士、いっしょに神様を礼拝しましょう」と言っているようです。
 いつもこの花のため、土曜のほか週日にも、水を替え、枯れた花を除き、手入れをされている姉妹方の陰の奉仕に感謝しています。この花たちの中には、優しい姉妹方から、「今週、うちの庭の花がきれいだから」と週末に届けてくださるものもあり、感謝です。
 また、教会の近所の婦人が、「花がきれいに咲いているから、神さまにあげてよ」と声をかけてくださり、ありがたく頂戴して、ひとしきり農作物や花の話をお聞きしてくる、そんなご近所との楽しい交わりもありました。
 また、ある時、姉妹方からも近所からも花を買うのも忘れていた土曜日、夕方になって困っていると、時の牧師・正村は、厚かましくも、親しくさせていただいている植木を大切にしているHさんから、大切な植木をお借りしてきた。Hさんは、「教会に来る人がみんな見てくれるのなら」と、むしろ悦んで貸してくださった!(ちなみに、Hさんの奥様は八重子さん、娘さんは愛子さんなので、頼みやすかったと、後の談)この日の礼拝は、特別植木が輝いていた気がした。
 礼拝のお花は、開拓時代の一輪から、三輪の新会堂で少し大きくなり、今、西条の広い礼拝堂では、たくさん必要になり、とても感謝なのですが、活けてくださる姉妹方のご苦心に感謝です。
 そんなわけで、礼拝堂の生け花は、週末にお花を届けてくださる姉妹方や教会のご近所の方々に助けられています。この花を造られた神様に感謝します。
   「地に花が咲き乱れ、歌の季節がやってきた。」雅歌2章12節

2018年11月号

■巻頭言「アドベント:どなたを待つべきか」 牧師 高橋 宣広

 今年もアドベントの季節がやって来ました。「アドベント」という言葉は、ラテン語で「到着する」、「やって来る」、「今しも来つつある」という意味なのだそうです。
 キリスト教会の暦にアドベントが定められたのは、今から1500年ほど前、6世紀中頃だと言われています。クリスチャンは、ずっと待ち続けてきました。あるお方が来られることを待ち望んできました。そのお方は、「しかり。わたしはすぐに来る。」(ヨハネの黙示録22:20)と約束された主イエス様です。私たちは日々、主の再臨を待ち望みますが、特にアドベントの期間は、心を整え、生活をきよめ、たましいを探り、主の約束を待ち望みたいと思います。
 神のひとり子イエス様は約2000年前、人となって、母おとめマリヤから生まれて来てくださいました。地上で33年半の生涯を歩まれ、私たち罪人の身代わりに十字架に架かって死なれました。けれども死んで終わりではなく、墓の中からよみがえられ、天に昇られます。このイエス様が、やがて天からもう一度、地上に必ず戻って来てくださるのです。救いの御業の完成者として、王の王、主の主として来られるのです!
 私たちはアドベントを過ごす中で、2000年前のキリスト誕生の出来事を、福音書から教えられます。そこには、救い主の到来を心待ちにしていた人もいれば(シメオン、アンナ:ルカ2:25-38)、キリストの誕生に無関心な人もいました。さらにはキリストの存在を抹殺しようとする者(ヘロデ大王:マタイ2:16-18)までいました。過去の出来事を通して、私たちは今、同じように再臨のキリストを待ち望む、自らの姿勢を正されるのです。
 再臨の主を待ち望む私たちに求められていることは、いつ主が来られても良いように霊的 緊張感を保つことです。また、この地上にあって主から託された使命に誠実に歩み続けることです。そして主の赦しと守りにいつも信頼していく謙遜さが大切です。
 水曜夜の祈り会で読み進めているJ・Iパッカー著『聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門』(いのちのことば社)の中に、大変恵まれる文章がありましたので、抜粋して紹介します。(227-229ページ)
   希望 - 待ち望むことはキリスト者の基本の態度である。
 二度にわたるキリストの来臨の間に生きているという意味で、キリスト者は過去と未来の両方を見すえている。過去、すなわち飼い葉おけ、十字架、空の墓。これらの場所で私たちのために救いが勝ち取られた。そして未来、すなわちこの世を去ったときにキリストに会うこと、私たちの復活、そして救い主とともに永遠に栄光のうちに住むこと。新約聖書が語る信仰は、一貫してこの希望に向かっている。
 希望という価値観は新約聖書に浸透している。それは巡礼の生き方であり、私たちはこの世にあって、本当の故郷(天の御国)、へと向かって行く寄留者である。それはきよさを求める生き方である。イエスが現れるときイエスのようになることを心から望む者は誰でも「キリストが清くあられるように、自分を清くします」(Ⅰヨハネの福音書3:3)。それが、備えができている生き方である。私たちは、主が召してくださるときには、いつでもこの世を去る備えができていなければならない。
 キリスト者の生活は多くの場合、勝利よりも試練によって特徴づけられる。しかし、私たちの希望は確かなものである。私たちの心備えは「勝利は私たちの側にある」という失われることのない確信に満ちたものでなければならない。
 この年、クリスマスの出来事、イエス様のご降誕を思い起こしながら、信仰をもって主の再臨に備えていきましょう

■「転入会式」  S.N.

 このたび、再び長野福音教会員にならせていただきました。
 2003年4月に、正村八重子牧師に洗礼を授けていただき、教会員として礼拝を守り、皆様とお交わりさせていただきました。50歳を過ぎてからのクリスチャンとしての出発でした。
 子どものころ、小学校の近くのミッションスクールのクリスマス会に、友達と何回か遊びに行き、羊飼いの劇も観たことはありましたが、シスターに感想を聞かれても、「別に」、と答える冷めた子でした。そんな私が50歳を過ぎてから教会通いが始まりました。あることを通して人が信じられなくなったのです。
 それまでは、実家にも婚家先にも仏壇がありましたので、普通に特別な信仰心はなく、お盆やお彼岸には手を合わせる生活でした。でもある出来事から、自分では精いっぱいの力を出しきった、といえるくらい行動しました。でもダメでした。いくら考えても、どうしてこうなるのかわかりませんでした。その時、人間の力でダメなら神仏に頼るしかないと思い、お寺やお観音様に何回もお参りに行き、お願いもしました。でも結果はダメでした。日本の神仏がダメなら外国の神様だと思い、頭に浮かんだのは、子どものころミッションスクールのクリスマス会に行って観た羊飼いの劇のイエス・キリストでした。
 はじめは近くの教会に時々行きました。でも、よくわかりませんでした。そんな時、身近にいた友人に教会に連れて行っていただきました。主日の礼拝と水曜日の祈祷会の学びとで、ようやく少しずつ分かるようになりました。神様と教会のお陰で、重くのしかかっていたことも、薄紙をはぐように少しずつ薄らいでいきました。何かあったときは、御言葉の一つ一つが力づけてくれました。
 そのような福音教会での生活の途中、8年近く別の教会に通うようになりました。どうしてこうなるのかよくわからないまま通い始めましたが、あるとき、心の中で納得できるようになりました。教会は違っても信じる神様は同じ、神様のためにさせていただくのだからと。福音教会で教えていただいたことをさせていただきました。
 今年に入り司祭が4月に異動になることと家族や自分のこともあって、教会に戻らせていただこうと思い転入願を出させていただきました。これから通う教会は長野福音教会。神様と教会のために私にできることはさせていただき、牧師先生はじめ皆様とご一緒に、神様のお導きのもと、歩ませていただきたいと思います。これからもよろしくお願い申し上げます。

■現代の偶像−「健康情報」  

 ここ数年、『医療タイムス』という医療関係者が読む新聞に年2回(新春特別号と夏季特別号)エッセイを寄稿する機会をいただいています。
 2018年新春特別号に、「オルトレキシア」と呼ばれる病態について紹介する記事を寄稿しました。このテーマを、聖書的な観点から考察し直してみたいと思います。
 オルトレキシアとは、英語ではOrthorexia Nervosaと言い、ONと略されることも多いので、すぐに「謎かけ」ができそうです・・・。オルトレキシアとは、極端に健康を気遣うあまり、不健康な状態に陥る状態を指すもので、「健康に良くないとされる食品」を摂らないようにしているうちに、食べられなくなって低栄養状態に陥ることが多いようです。一見すると、いわゆる拒食症(Anorexia Nervosa)に似ていますが、拒食症の患者は大半が女性であり、強いやせ願望を持つのに対し、オルトレキシアは男性にも見られ、やせ願望を持たないことが多いと言われています。そもそも、この疾患概念の提唱者の米国のブラッドマン医師は男性であり、代替療法家として自ら有機農場を持ち、野菜を育て調理法の研究をしているうちに、自らがこの病態に捕われてしまい抜け出すまでに長年苦しんだそうです(コラム「社会から見る肥満症」 行き過ぎた「ヘルシー食」指向に警告 日本肥満学会学会誌『肥満研究』Vol8 No.1 p.91より)。
 私は、精神科医の夫と二人三脚で、「摂食障害」という病気の予防・治療にかれこれ20年近く携わって来ました。オルトレキシアという概念を知ったのも、摂食障害に関する国際学会に出席した時でした。私が初めてこの概念に出会ってから10年ほどになりますが、日本でも最近こういう方々が増えているのではないかと感じることがあります。例えば、ある有名な芸能人の方は、毎朝、朝食前に数時間かけて入念にヨガをするそうですが、そのために午前2時に起きるそうです。随分と痩せてスリムな体型になっていますが、おそらくあまり食べていないと思われます。健康のためにしたことによって、健康を害さなければいいけれど・・・直接関係のない方ですが、気にはなります。
 聖書には、「あなたには、私のほかに神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形も造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである(出エジプト記20:3-6)」との記載があります。偶像崇拝を堅く戒めています。お金、名声、美貌など何であっても、神ご自身の所有する栄光と被造物に対する主権とが、他に渡ろうとするならそれは全て「偶像」となり得、神はそうした偽りの神々に、自身の栄光と被造物に対する主権が与えられようとすることに対して、「ねたむ」存在であると教えられています。
 私はこれまでに幾度となく、公民館主催の高齢者対象の講座の講師を務めたことがあります。もともと専門にしていた脂質の話をすることが多いのですが、終了後に受講者からの質問を受ける度に、「脂質(あぶら)=悪いもの」という固定観念が強いことと、メディアからの「健康情報」に振り回されて不自由な食生活を送っておられる方の多いことに驚かされます。「オリーブ油が良い」と聞いたので、調理に使用する油を全てオリーブ油にしました、という方に複数出会いました。私も試したことがありますが、和食の天ぷらには香りの強いオリーブ油は向きません。「何年も卵を食べていません。」という方にも出会いました。バランスよく栄養素を含み、様々な調理を楽しめる卵を「コレステロール」に関する間違った指導によって味わえないなんて、悲惨そのものです。
 何でこんな滑稽であり、かつ哀しいことが起きるのだろうと長年不思議でした。メディアが悪いのだとメディアに怒りの矛先を向けたこともありました。しかし、「健康情報」、これも偶像の一つになりうると考えることで腑に落ちるようになりました。せっかく、イエス様がご自身を犠牲にしてまで、私たちと父なる神とを和解させてくださったのに、進んで偶像を造り出して神から離れるようなことをしないように、しっかり捉えていてくださいという大切な祈りの課題が与えられたように思います。
 この春、四年制大学の教員となり、20年間続けてきた栄養学の担当から外れました。このこと自体は残念でありましたが、4月以降、大学の先輩が高校生の家庭科の教材に使用される副読本の監修・編集に誘ってくださったり、スポーツ選手やコーチ向けの機関誌に寄稿する機会をいただいたりと、より広い対象に対する教育の機会が与えられていることを神に感謝するとともに、十分に生かしていきたいと思っています。

■90秒の救いのあかし  M.D.

 7月の妙高キャンプで学んだ短い証しを発表させていただくことになりました。
 私は、イエス様に出会う前は、いつも母親に怒られて暗い気持ちをかかえていました。何をやっても上手くできず、良い子になれないと悩んでいました。自家中毒といわれ、よく吐いていました。小学校4年生の夏、松本へ引っ越していた友達の家へ泊まりに行き、そこでイエス様にお祈りすることを知りました。家に戻って数日たち、母は毎晩寝る前にお祈りしている私に気づいていました。
 その年のクリスマスカードに「神に近づきなさい。そうすれば神があなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブの手紙4章8節)と友達が書いて、私に送ってくれました。5年生の時、友達は長野へ戻り私を日曜学校へ誘ってくれました。子供さんびかに「道を忘れ迷子になった時も私を見つけ出して叱らず」とあり、この歌詞にとらえられました。迷子になっても叱られないんだと安心が心いっぱいに広がりました。神に近づいた私に神様は本当に近づいてくださいました。イエス様はそれからずっと私の人生を共に歩いてくれました。イエス様を信じるようになって、私の気持ちは明るくなりどんなに辛い時も決して悪いようにはなさらない。最後には最善に導かれると信じて生活できるようになりました。あなたもこのようなイエス様を知りたいと思いませんか。

■救いのあかし  K.M.

 私が聖書に出会ったのは、大学生の時です。高校卒業までは、大学合格がすべてでしたので、いざ合格してしまったら、もう次がなくて、自分に失望し、いら立ちを抱えながら、日々過ごしていました。
 ……そんな中で迎えた4年生の秋、所属していたゼミの先生が、ご自宅で開いている聖書研究会に参加することを許されました。
 そこで見たのは、人生の土台に御言葉を置いて、信仰に生きておられる先生の姿。集う学生たちも、みな、聖書に聞きながら、真剣に生きる意味を問うていました。現実からの逃避ではない、本当の信仰者の目覚めた生き方に、初めて触れ、圧倒されました。先生と同じ信仰に立ちたいと、心から思いました。が、翌年の春には就職のため、そこを離れて東京に行くことになっていたので、求道の先が見えない。
 しかし、そこにも主は、導き手を遣わしてくださいました。帰省の為に乗った電車で、たまたま隣に座った夫人がクリスチャンで、その方の紹介で、東京の教会につながることができ、2年後のクリスマスに受洗しました。
 その時、与えられたみ言葉は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」です。
 こんな小さなものの為に周到な救いの道を備えてくださった方が、私を必要としてくださる限り、自分には、自分の行く先がわからなくても、この人生に意味があると確信することができました。

■あかし(私がクリスチャンになった体験談)  M.T.

 私は高校3年生のクリスマスに洗礼を受け、クリスチャンとなりました。 きっかけは、近所に住んでいた母の友人がクリスチャンで、その方に導かれて教会に通うようになりました。
 クリスチャンになる前の私は、小児ぜんそく・アトピーを患い、病院に入退院をくり返していました。病弱のため、学校も休みがちで、友だちも少なく、自分に自信が持てずにいました。
 しかし、教会へ導いてくれた彼女が、私を家に招き、聖書とお祈りの時間をつくってくれました。私は彼女と一緒に聖書を読み、お祈りをする時間が大好きでした。彼女から聞く、聖書のお話しや賛美はとても楽しく明るい気持ちになりました。また、彼女と一緒に手をつなぎ、神様にお祈りをすると嬉しい気持ちになりました。
 私は、もっと聖書を知りたい。もっと神さまを知りたいと思うようになりました。そして、彼女がすすめてくれたディボーションテキスト(毎日読む子どもの聖書テキスト)を買うことにしました。私は一人部屋にこもり、聖書を読み、お祈りをする時間が生活の楽しみになりました。
 高校生になり、彼女から「教会に行こう」と、誘われることが増えてきました。一人で読む聖書とお祈りの時間はとても好きでしたが、自分に自信が持てず、人付き合いが苦手、両親はクリスチャンではなかったので、教会に行くことはかたくなに拒み続けていました。しかし、神さまが「教会に行きなさい」と、すすめている気がしました。
 ある日、私は「神さま。私はまだ、あなたのことを完全には信じられません。もし、あなたが今も生きておられるなら、あなたを信じさせてください。そして、教会に行き、彼女のようなキリストの信仰者として歩ませてください!」と真剣に祈り訴えました。それから、教会に行く決心をし、日曜日は教会で礼拝をささげるようになりました。クリスチャンではない両親のもとで育った私は、日曜日、教会に行くことは後ろめたい気持ちがありました。しかし、教会の方たちがあたたかく迎えてくれたので教会に通うのが楽しくなりました。何よりも神さまが私をあたたかく迎え入れてくださっている気がしました。
  見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)
礼拝でささげられる賛美や聖書のことばが心に響き、涙が止まらない日もありました。また、教会でたくさんの方たちとお話しをしていくうちに少しずつ自分に自信が持てるようになり、人付き合いも楽しくなっていきました。
  主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)
 母は、私を教会に誘ってくれた友人に「うちの娘はかわった。教会に行き、イエスを信じて明るくなった。」と話したそうです。家族でひとり、イエスを信じ、クリスチャンとなることは、とても勇気のいることでした。でも今では母もクリスチャンとなり、父も聖書の教えにふれ、心を開いてくれました。
  神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
 神さまは、神の御子イエス・キリストの尊いいのちをささげてまで、私たちひとりひとりを愛してくれています。
  聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。(申命記6:4-6)
 神さまの愛にこたえて。毎日聖書を読み、お祈りをすること。教会に行き、礼拝をすること。このことを生活の中心に置くこと。そして、聖書とお祈りの生活の中で、神さまが私に望んでいることは何か。探り求め、実践すること。それがクリスチャンとしての私の生き方、喜びです。私はこれからもずっと、神さまの愛にこたえていきたいです。

■エッセイ こうして私は迷料理人となった  正村八重子

 去る日、初めて救急車に乗せてもらい入院した。看護師さんの励ましの声を、夢か現実かわからないまま数日が過ぎ、全身管だらけで身動きが出来ない惨めな姿で、祈るばかりでした。主に赦されている平安と、自分でまだ人を許せていない部分を示され、現実の世に戻された。謙虚に人を許すべきことを教えられた。
 それにしても、入院生活で食事が出るようになったのですが、その食事がおいしくなかったのです。私の健康状態に合わせて作ってくださる献立であることは分かるのですが……。それにつけても思い出したのは水曜日祈祷会の昼食でした。ベテラン主婦たちの、常日頃からよく研究している料理ばかり。早く退院してこの病院食から解放されて、祈祷会に行きたいと……。高橋先生のよく準備された説教を聞きたいとか、みんなで祈る祈りの楽しさを味わいたいとか、のハズなのに、私の本音はあの祈祷会の昼食だったのです。
 これでも50年余り、主婦として夫と4人の子どもの料理はしてきたのですが、家族は黙って私に飼いならされていた。今は申し訳なかったと思う。18歳で家を出てから、下宿のおばさんのお世話になったり、寮生活だったり、1年間はアメリカの婦人宣教師と同居で、少しクッキーやケーキを習った気がするくらいでした。私の料理の先生は、教会の泉会の先輩たちでした。すでに皆さん天国に引っ越されましたが、信仰深い方々たちでした。教会成長のため皆が集まって祈ることを教え、よく奉仕する手本でした。信徒講座も入門講座も受付もヤングチャペルも、泉会が元気で盛んだったのも、長野福音教会が今日あるのも、あの先輩たちがいたからだと思う。その後継者が育ってきていることを感謝している。
 『みなが一つところに集まっていた』使徒2章1節。時間を作って祈り、聖徒の交わりが深まったら、と思うこの頃です。

2018年8月号

■巻頭言「より深く主を知るために、公同礼拝をより豊かに」 牧師 高橋 宣広

 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。―エペソ人への手紙 3章17節―19節

 毎主日、皆さんと共に主をほめたたえ、祈り、御言葉に励まされる礼拝をささげることができ、本当に感謝です。
 今回10月から礼拝をより豊かにしたいとの願いをもって、礼拝プログラムに2つの変更を行います。数か月間、役員会で協議しながら準備を進めて来ました。下記の内容とその趣旨をご理解いただき、10月からの礼拝に臨んでいただけますと幸いです。
 1. 礼拝の中ほどに「今月の賛美」というプログラムを加えます。
  ある方が礼拝後、正直な応答をされました。「今日歌ったあの聖歌の歌詞の意味が、全く分かりませんでした」と。素晴らしい信仰の告白が歌われていても、古語であるがゆえに、意味が伝わらないのは、大変残念なことです。
  私たちは、これからも子どもたちに「礼拝を大切にしてほしい」、「信仰を継承してほしい」と願う者たちです。また今後、外国から学びやお仕事のために来日される方々が、私たちの教会の礼拝に多く集われると予測されます。
  礼拝の中の一曲でも、みんなが分かる言葉で、元気に明るく、主をほめたたえられたらとの願いで、ワーシップソングを中心にその月の賛美を1曲決め、ともに歌っていきたいと思います。時間に制約のある聖餐礼拝の第一主日や特別賛美のある主日は行わず、第二から第五主日の礼拝の中で「今月の賛美」を歌っていきます。
「この賛美を礼拝で歌いたい!」とのリクエストがありましたら、いつでも牧師までお知らせください。楽譜も持参して頂けますと感謝です♪
 2. 交読文から「聖書交読」に
  20年前に苦労して作っていただいた「交読文」の冊子を用いて、私たちは詩篇や各書のみことばを交読して来ました。「今日はメッセージの聖書箇所よりも、交読文の聖書箇所に恵まれました!」との応答を頂ける時もあります。
  しかし残念ながら、点字の方々には交読文は、ただみことばを聴いていただくだけの時間となっていました。また、不快表現や差別表現を無くすために改訂された『新改訳聖書(第三版)』(現在の長野福音教会の礼拝公式聖書)には対応できずにいました。
  そこで、この時間をより良いものとするために、メッセージの聖書箇所とつながりのある他の聖書箇所を選び、毎主日、司会者と会衆で1節ずつ交互に読みあっていく新しい形を導入していきます。例えば、サムエル記のダビデの逃亡記録がメッセージの箇所なら、その時に歌ったダビデの詩篇を交読する等です。
  この「聖書交読」のために、交読する聖書箇所(第三版)を10月からの新しい週報書式に毎週、印字していきます。それは現在、礼拝に集う方々は、それぞれ『新改訳(第一版)から(第三版)まで』、昨年発行された『新改訳2017』、また『リビングバイブル』や『英語の聖書』など様々な聖書を持って来られているからです。一緒に交読と言っても、バラバラになってしまいますので、一つ公式聖書を決め、それに準じていきます。
  なお礼拝の公式聖書は、点字版の『新改訳2017(旧・新約)』が発行予定の2020年以降、教会全体で『新改訳2017』に移行していく予定です。
  礼拝のプログラムや今回の変更について、ご質問やご意見などありましたら、いつでも牧師までお寄せください。
  より豊かな公同礼拝となり、より深く私たちが主を知ることを求めながら。

■「喜びと叫びの中から生まれた歌」 2018年6月 長野レディスランチョンの報告  N.K.

 今年のレディスランチョンは、早稲田大学名誉教授、生命倫理学会長、しあわせなら手をたたこうの作詩者、木村利人先生、奥様の賛美としあわせなら手をたたこうの誕生について先生からお話を伺った。
 この歌は誰もが口ずさんだことのある世界中で歌われ、愛され、笑顔になれる歌であると単純に思っていた。1934年生まれの84歳、とても若々しい先生だが、防空壕を作ったり山梨の寺に集団疎開をされたり、田舎と都会の違いはあるが同じ戦争の時を過ごしたものとしてこの時代の残酷さはよくわかる。
 25歳の時、フィリピンにWMTAキリスト教が主催したワーキングキャンプに招かれた時しあわせなら手をたたこう誕生。この歌がいつどのようにして誰により作られたか全く知らなかった。
 背景には、忘れることのできない、苦しみや嘆きの中で生まれた歌であり平和と喜びの叫び声であった。日本の戦争が植民地からの解放という大義のもとに東南アジアにおいて2000万人もの犠牲者を出し、フィリピンでは教会に住民を閉じ込め出てくる人を機関銃で撃った。また破壊された跡地を見、反日感情の強い、とても厳しい雰囲気のなかで、日本の侵略戦争の悲惨な現実を見せられ身の置く場がなかったという。日本人と一緒に仕事をするのも嫌だが、君がここに来てくれキリストの愛を示してくれた。キリストの精神で許すと、キリスト者でなかったならこの許しは生まれただろうかと。今生きていることが喜びであり神様が喜びの中に生きておられた。平和の中で生きる事が、どんなに喜びに満たされ、許して祈る。このような中で、詩が生まれたとだれが想像しただろうか。
 詩篇47篇から手をたたこう。フィリピンの御もてなしが素晴らしく、態度で示そうよと、エペソ5章8節から生まれた。曲はフィリピンの子供たちも唄う民謡曲からつけられた。
 この歌が歌われていた頃と世界情勢も変わって来ている。平和が続くよう願った。

■「礼拝前の賛美のひととき」  C.M.

 この4月1日より、聖日の礼拝前の10時から15分間、礼拝堂にて主を賛美し主に喜ばれる礼拝にしましょうと、数名の有志者のリードに合わせてワーシップ(賛美)が始まりました。
 時にはギターで、時にはピアノで、と歌う賛美を用意してくださったり、その場で希望する聖歌を心を込めて弾いて下さったり、と毎週いろいろ工夫して下さったりしています。賛美リーダーの歌声を聞いたり、メロディーを聞いたりしているだけでも、とても恵まれます。あっという間の15分です。最後にお祈りをして終わりになりますが、心が静まり後の礼拝までの15分間は、心を主に向けて祈ることができ、礼拝までの準備の時になります。忙しい日々を送っていますが、せめて聖日の朝はゆっくりと待ち望みたいと思います。
 多くの詩篇を書いたダビデがサウロに追いかけられ、死が目前にある状況であっても神に感謝の賛美を捧げ、またダビデの町に神の契約の箱を運び入れる喜ばしい時も、主に喜びの賛美を捧げている。
どんな中にあっても必ずメロディーの祈りと言われる賛美をしている。
遥か彼方にあるダビデの信仰ですが、少しでも近づけるように、第一歩の礼拝前の賛美に参加し感謝のうちに礼拝が捧げられればと願っています。
 「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目を覚ませ、十弦の琴よ。立琴よ。目を覚ませ。……
神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。」-詩篇57章7節~11節

■「教会バザー2018」   Y.S.

 今年も最良の天候が与えられ、無事バザーが行われたことを感謝します。
 今年からは、各会単位ではなく、個人の自主的参加をお願いしました。
 賜物と、奉仕の心、知恵と力が与えられたおひとりおひとりがいなかったら実現しなかった、当教会ならではのコーナー、販売物ばかりで感謝でした。
 屋外では、お子様向けのコーナーも増え、楽しい雰囲気を盛り上げて頂きました。
 屋内では、教会内外の方々がお買い物をして下さり、用意したテーブルいっぱいに、お食事をしたり、おしゃべりをされている姿がうれしかったです。
 お買い物や各コーナーを利用してくださって、当日バザーを楽しんで下さった方、また、あらゆる前準備から、当日の販売員や接待、バザー後のお掃除やゴミの持ち帰り等後しまつまで、ご協力頂きました皆様、ありがとうございました。
 目的の献金もできました。
 バザー後の感想、ご提案もありがとうございます。また、皆様が楽しみにして下さるバザーができたら、と願っています。

■「クリエイティビティについて」  K.T.

 私は、何か、ものを作ることがとても好きです。おやつだって、根性と暇があれば、一から作ります。詩を初めて書いたのは、中2くらいからで、小説も少し、何冊か個人的に書きました。サウンド・エッセイも書いて20年近くになります。そして、音楽も作詞・作曲も、CDも、みんな手作りでコツコツとクリエイトしていますが、それでお金をもらうのはあまり好きではなくて、むしろ苦手なので、売ったりはあまりしません。
 結婚していたとき、近所のスーパーに買い物に行きました。すると、買う前に、ちょうど私たちのレジの前のお客さんに、ピアノの先生がおられました。先生は、華奢な身体で、ワインやお肉や、たくさんのご馳走を買っていて、レジのおばさんは、「5000円です」ぐらいにたくさん、お金を使っていました。私たちは、値引きされた食パン一斤ですから、78円でした。
 恥ずかしかったので、ピアノの先生には、挨拶も声がけもできず、のちに,ひとに話したら、大笑いされました。
 でもね、私たちはそれはそれでとてもしあわせだったんです。私の家庭は、ひとにはお金を使い、ひとからお金をいちいち返してもらわなくてもいいから、という律儀だけれど、ひとからはそんなに求めず、かえって、あげてしまう、という家庭に育ちました。でも、パートナーは1円でも、ひとに、あげたら返してもらう、という家庭に育ちました。お金の話、しかも、お金に困っている、という話ばかりしている家庭でした。
 でも、貧乏っていうのも、とても楽しいこともあります。クリエイティビティも発達させてくれます。まず、節約というのも、どうやったら安くできるか、それなら、切り詰めている中で、何を楽しもうか、という考えをします。
 貧乏でも、お祈りはタダですから、お祈りの時に、「イエスさま、私たちに、5億円をお与えください」と祈って、笑いと涙と鼻水付き、というとても楽しいお祈りもできました。 正村八重子先生は〇億円をお与えください、とお祈りしたそうですが、うちでは、5億円でした。(笑)
 働いていた時、私たちをてこずらせて悩ませた方のことのほうが、よく覚えていて、懐かしく思い出します。
 そんなふうに、困ったひとや、大変な方のほうが、なぜか、胸に残り、そしてまた、自分が働いている、という実感を持たせてくれました。
 それで、作曲も、難産のほうが、より、親しみ、愛着もわき、工夫も努力もします。スラスラと書けてしまわないほうが、あとは、自分以外のひとのために作曲するほうが、心に残るし、心を込めることもできます。
 ほんの少しだけ無理をしてみると、ストレッチをすると筋肉が伸びて気持ちよくなったり、健康になったりするように、急速に一足飛びでなくても、毎日のようにコツコツと積み重ねていくとだんだんできるようになります。まずは、急に理想の自分になれなくても、少しずつ、やってゆく、ということだと思います。それには忍耐もいるし、周りの助言にも耳を傾ける、反対意見の耳の痛いことを言うひとにも、習ったりして訓練をするときの厳しさ、辛さの後に来るよろこびもたくさん経験しましたから、無駄が多いような不器用な人間ですけれど、何ひとつ無駄でなかったことが、後になって分かるんです。
 イエスさまも、わたしの言うことは、あとになって分かります、っておっしゃったでしょ?そういうわけ、なんです。

2017年5月号

■巻頭言 「ハーメルンの笛吹き男」   牧師 高橋宣広

 小児科で診察待ちの時間、そこにあった絵本を子どもたちに読んで聞かせました。その内容に、私は大変ショックを受けました。「ハーメルンの笛吹き男」というグリム童話にもなっているお話です。調べてみますと、実話に基づいているのだそうです。こんなストーリーです。
 1284年、ドイツのハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男が現れ、報酬をくれるなら町を荒らしまわるネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。男はそのまま川に歩いて行き、ネズミを残らず溺死させた。しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を破り、報酬を払わなかった。笛吹き男はいったんハーメルンから姿を消したが、6月26日の朝、再び現れた。住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子どもたちが出てきて男の後をついて行った。130人の少年少女たちは、笛吹き男の後に続いて町の外に出て行った。そして笛吹き男も子どもたちも、二度と戻ってこなかった。
 特に私がショックを受けたのは、下線部分です。親たちが教会にいる間に(私が読んだ絵本では、「親たちが礼拝に出ている間」に)、子どもたちは皆、笛吹き男に連れ去られ、行方不明となってしまったのです。約700年前のドイツでは、礼拝には大人だけが出席し、子どもは家で置いてきぼりにされていたのでしょうか。衝撃的なこの事件を思いながら、私たち自身の礼拝に臨む姿勢が問われているように感じました。
 できるだけ家族共に、できるだけ子どもたちと共に礼拝をささげていくことを目指して行きたいと思います。そうしなければ、この世の楽しみを奏で、子どもたちを誘う「笛吹き男」どもに、大切な子どもたちを連れ去れてしまうでしょう。
 主イエス様の言葉を聴きましょう。  「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」 ルカの福音書18章16節

■「新役員になって」   K.Y.

 この度、2017年度 教会総会において新しく役員に選出されました。総会の後の礼拝の中で、神様と皆様の前で誓約をし、その責任の重さをひしひしと感じているところです。
 長野市に来て19年。水曜の祈祷会と娘のWINGSのみの出席で、礼拝に集うのが難しい時期もありましたが、今は毎週の礼拝に出席できるようになり、神様と教会の皆様に守られて、ここまで来られたことを改めて感じています。感謝の気持ちを持って務めたいと思います。役員初心者ですので、皆様のご指導とお祈りをよろしくお願いいたします。

■「役員就任にあたって」   E.Y.

 2011年2月から通い始めて丸6年が経ちました。まだ教会員になってから日が浅いにもかかわらず役員に選出されましたことに戸惑いはありますが、同時に皆様の期待も感じております。
 さっそく、「祈りの友」の原稿依頼がまいりました。教会運営の中心となります役員の末席に加えていただきましたので、これまでのクリスチャン生活の中で、決して自ら望んだことではないにもかかわらず、神様に与えられました教会生活に関する試練から学んだことを書き記したいと思います。
 以前に通っていた教会で聴いたメッセージの中に、「雑多な群れ:教会」と題するものがありました。テープに取ってありましたので、何回か繰り返して聴いたことを憶えています。若くて未熟だった頃の私は、自分の価値観に合わない人々の言動がいちいち気になって、不必要に心を乱しておりました。その反動で、教会に自分の理想を投影し、過度に期待していましたが、教会においても「どうしてこんなことが起こるのか?」と心穏やかでない時が多くありました。そんな時に、このメッセージは強く心に響いたのです。教会に集まる人々も皆、「つみびと」であり、凸凹のある人間である。イエス様が言われたように、医者を必要としているのは病人であるように、「救い」を必要としているのはつみびとである。教会は、雑多なつみびとたちの群れである。そんな群れだからこそ、互いに赦し合い、愛し合い、仕え合ったりすることができる、そんなメッセージだったと記憶しています。
 以前に証しの中で触れたと思いますが、私はこれまで、米国滞在中の2年間に通った教会、また長野福音教会を含め、5つの教会で定期的に礼拝を守ってきましたが、そのうち、2つの教会が今は存在しません。1つは立ち上げから関わりました米国の教会で、もう1つは長野へ転居して来る前に通っていた松本の教会です。2件の教会の解散という事実のうち、1件には責任を感じております。時々、何をどうすれば良かったのか?と考えることがありますが、当時、教会に何か「自分にとってプラスになること」をしてもらいたいという意識が私には強くありまして、「礼拝することで神様が喜ばれているか、喜んでいただけるように礼拝したか」という視点が欠けておりました。牧師先生ご夫妻や教会会衆の方々にも申し訳なかったと思っています。
 このたび、教会役員に就任するにあたりまして、自宅の書棚で埃を被っておりましたフィリップ・ヤンシーの『教会 なぜそれほどまでに大切なのか』を読み返してみました。読み進めていくとはっとさせられる箇所がありました。「教会は本来、楽しみを供給したり、弱さを励ましたり、自尊心を育てたり、友情を育んだりする場所ではなく、神を礼拝する所である。この点で失敗するなら、その教会は失敗である。」(『教会 なぜそれほどまでに大切なのか』25P フィリップ・ヤンシー著 宮川常範・道子訳 いのちのことば社 2000年)
 人生も折り返し点を過ぎましたので、もう教会で「失敗」はしたくありません。私も所詮神の被造物ですから、つい自分中心で物事を考えてしまいます。忙しい最中ではなおのこと。神様に喜んでいただけているか、そのことを意識しながら、役員を務めてまいる所存です。皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。

■「20歳になって」   S.Y.

 私が20歳という歳を一番実感したのは成人式に出席した時でした。色々な人から、成人おめでとう、と言われると、今までにはない20歳独特の重みを感じました。20歳に特別感があるのは様々な責任が生まれるからだと思います。今までは親の後に従っていれば安全で守られていましたが、これからは経済面・精神面共に自立して自分のことは自分で決め、自分で責任を取るのが当たり前です。私は現在、大学生で経済的に完全に自立することはできませんが、就活で後悔のない納得した選択をして自立した大人になれるのか、人生長いとはいえある程度決まる時だと思います。
 私はずっと海外に漠然と興味があり、中学生の時にオーストラリアでホームステイをしてから、海外の新しい文化に触れ、新しい人と出会うことの楽しさにハマってしまい、今までに5回の短期留学や海外研修を経験してきました。その中で自分の固定概念や価値観が変えられることも多くありました。外に出て様々な人に出会い、様々な生き方を知れば知るほど、自分はどうしたら良いのかわからなくなります。私にはまだなりたい具体的な職業とか夢とかはありません。ですが一つだけ守りたいことは、後になって後悔したり他人のせいにしたりしないことです。なかなか結果が出なくても、結果が思い通りにならなくても、他人から見たら遠回りでも、自分のやってきたことに後悔はないと言い切れるポジティブな生き方をしたいです。
 私のゼミは食ビジネス・マーケティングが専門で、学生の大会に出場したりもします。大学生活で学べることは全て吸収して専門性をしっかり身につけて、国内であろうと海外であろうと自分に合った将来の選択につながる年にしたいです。
 最後に、ここまで守り育て何度も海外に行かせてくれて私のやりたいようにさせてくれている両親、いつも共にいて私にとって最善の道を備え導いてくださる神様に心から感謝しています。

■「イースター受洗」   M.S.

 私は飯綱町出身で、長野市で暮らしています。聖書は19才の時に読み始めました。分厚い本なので読んではみたもののよく意味が理解できませんでした。
 親元を離れた東京での生活。昼は働き、夜は大学という生活でした。ある駅の隣の書店に『永遠のベストセラー聖書』という大きなポスターを見て、買いました。毎日読みふけりました。休日には百ページ以上も読みました。意味もよくわからず、ただ読みました。
 東京の生活は2年で疲れ、実家に帰ってきました。そのころからです、ラジオから流れてくる羽鳥明先生の『世の光』を聞きだしたのは。切々とうったえる先生にとても興味を持ちました。新約聖書ももらい、ボロボロになりましたが今も持っています。転職が続きましたが、そんな時でもラジオ放送の『世の光』だけは聴いていました。
 今の聖書は4冊目です。豪華な大聖書も買いましたが、これはゆくえ知らずです。
 仕事に見切りをつけたのは40才少し前です。家に引きこもったり、ドライブや油絵を描いたり、モンモンとした生活を続けていました。そしてついに入院しました。楽ではありましたが、楽しくはありませんでした。神様ともしばらくはお別れです。病院は神様ではなく医院長先生が全てです。
 入院生活を終えまず買ったのが聖書です。毎日、新聞のように読んでいます。実は、幼いころ十字架上で処刑されたイエス様は、あまりのむごたらしさで怖くてあまり好きだはありませんでした。自分にはとても無理ですから。でも聖書は別です、すばらしい本です。罪を告白すると心に強く刻まれた傷は癒やすことができません。いくら教会で赦してくださいと祈っても苦い経験はなくなりません。だから2度と同じ罪にかからぬように神様にお願いするのです。イエス・キリスト様の恵みと真実が訪れることをこんな歳になっても望んでやみません。
 私は放蕩息子の聖書箇所が好きです。自分も若きころ全財産を使い遊んだからです。もちろん父におこられていました。でも庭の池を洗う自分を笑顔をもって手伝ってくれました。神様はあなたの力量以上の試練は与えませんと書かれています。
 だから、これからも少しの苦しみは耐えてゆこうと思っています。神様のうちにいたい、イエス様の力をお借りしたい、もう神様といるのだから寂しい思いはしないですみたいと望んでいます。どうか神様こんな深い傷を持った罪深い過ちだらけの私を神様の愛の内に止まらせてください。アーメン。
 追伸  私はいま福祉施設にお世話になっています。もう15年もたちました。そこでは、リンゴ農家での作業、牛乳屋さんでのピッキング、冬と雨の時は室内作業をしています。もうこの歳ですから、社会復帰は無理かなと思っています。でもこれからも聖書を心の友として大切にしてゆこうと思っています。

■「世界祈祷日に参加して」   S.K.

 今年の世界祈祷日は、松代教会でフィリピンについて祈りました。今年から式のやり方が変わり、式文を読むだけで、フィリピンについての説明やメッセージがありませんでした。前もって式文のフィリピンの基本情報を読むようにということでした。フィリピンは世界でも最大の出稼ぎ労働者を送り出す国のひとつです。出稼ぎに行っている間の家族の生活のため労働者は賃金の前払いを頼みます。そのお金は利子付きの貸付金とみなされ、家族に持ち帰る分がほとんどなくなるそうです。
 今回の表題は「わたしはあなたに不当なことをしているか?」でした。マタイ20章1~16節です。
 松代教会には以前フィリピンの方が来られていて、その方が置いていかれたという竹製の楽器があり、最後にその楽器で「いつくしみふかき」を演奏してくださいました。楽器の名前をお聞きしたのですが、聞いた人によって違って、なかなかわからなかったのですが、後でネットで調べたら、インドネシアのアンクルンという楽器でした。
 ほかの教会に行くことも、ほかの教会の人と交わることもあまりないので、世界祈祷日はいい機会でした。同じ主にある兄弟姉妹の喜びを感じたひとときでした。来年は、あなたも参加してください。あっ、来年は当教会が当番ですから、ぜひ参加してくださいね。

■「第6期ゴスペルワークショップ同窓会」   K.M.

 6月からの半年間、毎月一度教会に集い、ゴスペルを歌うことを喜びとしているワークショップメンバー。その多くは教会員以外の方です。ゴスペル賛美を生活の一部として大切にしていらっしゃる皆さんの姿をお伝えし、この教会が豊かに用いられていることを、ともに分かち合い、感謝したいと思います。
 3月11日、3ヶ月ぶりに第6期ゴスペルメンバーが教会に結集、エミ先生をお迎えして、再会を喜び合いました。登録メンバー39名中22名が出席。ゴスペルワークショップのもう一つのお楽しみ、CAKEさんのケーキを囲んで、まずはクリスマスゴスペルライブコンサートのDVDを視聴。3ヶ月前のコンサートに思いをはせ、振り返ったところで、恒例のひとり一言コメント。

* バケツをかぶって自分の声を聞くという練習方法を取り入れ、今年は良く声が出た。一緒に歌えたこと、とても楽しかった。
* 映像を見ていて、いろんな思いで参加していたことを思い出した。始める前に悩んだが、感謝に満ちて、全身で賛美できる喜びを改めてかみしめた。
* 直前に家族が体調を崩し、コンサート出場があやぶまれた。当日、ふと会場を見ると、職場の上司が聞きに来てくれていた。さらに、何も言わずに、6年目にして初めて夫がきてくれていて2度びっくり!
* 6年目の参加も楽しめた。DVDを見て、改め会場の観客の多さに驚いている。2階の礼拝堂の通路まで人に埋め尽くされていた。こんな礼拝ができたらいいな・・・。
* DVDを見て、みんないい顔してるな、と思った。コンサートが終わって、1月・2月と、忘れ物をしているような物足りなさを感じた。今日の同窓会をとても楽しみにしてきた。皆さんと一緒にゴスペルを歌える喜びが、自分の生活の中に入ってきていると感じる。
* 6年前、比較的時間に余裕のある中で始めたが、今は状況が変わりかなり忙しい。でも、参加することに迷いはない、楽しいから。今年は家で、夫とともにこれまで以上に練習を重ねてきた。
* 人事異動の時期が来たが、4月以降もとどまることになり、続けられそう。
* 思ったことがすぐ顔に出てしまう。それをすぐにエミ先生に悟られてしまう。先生は能力者?自分自身はすごく楽しんで歌ったつもりなのに、表情に全く反映されていない。今年こそ、楽しそうだったよと言ってもらうことを目指したい。
* 誘った人が子どもさんを連れてきてくれた。小学校一年の女の子は、宿題の絵日記に赤い服を着た人をたくさん並べて書いてくれた。年長組の男の子は、教会の雰囲気がとても気に入ってくれて、イブ礼拝にもきてくれた。大人だけでなく、聞きに来た子どもも楽しんでくれるコンサートだと思った。
* 第1期から参加。教会の皆さんがこうした機会を作ってくださって、先生が来てくださって、続けられていることがすごいなと思っている。このワークショップを通しての人とのつながりにも驚いている。ある研修会に参加したら、講師がゴスペルメンバーで、お互いにびっくり!
* DVDを見て、1曲目と最後の曲がそろっていてきれいに聞こえた。歌っているときには全部がんばっていて、きれいだと思っていたのに・・・お客さんにはどうだったのかな?120パーセント嬉しくて、感動して歌っているのに、後から見ると、あれ?っと思う。こんなにいい曲なんだよ!!というのが伝わるような見せ方を教えてください。
* 自分は歌ってるはずなのに、DVDみてみると、あれ?黙ってるのかな?と思うくらい口は開いていない、笑っていない、手はたたいていない・・・皆さんのように見せる努力をしたい。
* ちょっと休んでいたが、ひょんなことから復活しました。
* 昨年一年休んだが、今年は戻ってきた。一年休むと英語が覚えにくくなることを痛感。今年もやります。
* いろいろと大変なことが重なって、精神的に歌えないこともあったが、コンサートの3日前には仕上がってきた。練習しているとき、2階の礼拝堂正面の十字架に、イエスキリストの姿が見えた。自分は信仰を持っているわけではないので、受け止めることができなかったが、あのときありのままを受け入れていたら、その後の運命が変わったのかも・・・。
* 6年間続けられたことがすごいと思う。エミせんせいとメンバーに感謝。神様を感じる礼拝の時であった。
* すてきなDVDとおいしいお菓子。コンサート当日、エミ先生だけを見て歌っていた。終わってみたら、家族が全員来ていてびっくり!ワークショップ期間中に入院することもあったが、座っていてもいい、寝ていてもいいから歌って!と、先生に励まされて最後までやり抜けて、本当に嬉しかった。
* 始めた当初あまりいい顔をしていなかった夫が、娘や孫と見に来てくれた。最初の曲で感動して涙が出たと。また続けていいよと言ってくれた。
* 2回目の参加。コンサート直前に風邪を引いてしまい、がらがら声になってしまったが、ステージに立てて本当によかった!
* 人前で話すのは得意ではないが、皆さんと毎月会って歌って仲良くなって。こうした機会が与えられて感謝している。
* 妻とともに参加。夫婦で一緒に出かける楽しさもあり、主を賛美できる喜びもあった。練習用のCDも良くできていて使いやすく、とても助かった。

この後、春先で体調が万全でない中をわざわざお越しいただいたエミ先生から、人生最後の言葉について、ショートメッセージをいただき、2016年コンサートで歌った『HERE IS OUR PRAISE』を全員で歌いました。久しぶりでしたが、ホールは熱い歌声に充たされました。月に1回(自主練習を含めると2回) 併せて10回足らずの集いですが、同じ目的・同じ喜びをもって集まる、ゴスペルを通しての交わりの深さを思わされるひと時でした。

■「イスラエル旅行記」   K.K.

 2016年4月、念願のイスラエル旅行に行ってきました。イスラエル旅行というと、何か特殊な旅行で費用も高いし少しためらっていましたが、これから年をとるばかりだし、元気なうちにと思いきって行きました。行ってみると、頭の中で考えていたのとは違って、聖書の世界がとても身近なものに感じられるようになりました。イスラエルの雨季が終わり、乾季に入ったばかりの一週間ですが、実質は4日間の見学です。以下、日程順にまとめました。
 <成田発ドバイ経由、ヨルダンのアンマン空港へ>
 成田を午後9時45分に出発し、アンマンには翌日午前9時45分に着きました。日本との時差は6時間です。その後、バスでヨルダン川を渡ってイスラエル入国です。国境の入国審査は、非常に厳しいものがあり、バスの車体の下に爆発物がないかの検査から始まり、手荷物検査など3時間かかりました。テロ防止のため、周りをアラブの国に囲まれている厳しい現実を感じました。
 <死海>
 死海へ向かったのですが、乾季のせいか、バスから見える景色は茶色い荒野です。ところどころオアシス、あるいは灌水施設のあるところだけに緑があります。夏季半年の降水量26mmでは、作物が育つわけがなく、大変な所だと思いました。聖書に「乳と蜜の流れる約束の地」とありますが、少なくとも私の見た地は荒野で、あそこに比べたら、日本は緑と水にあふれる「エデンの園」のようだと思いました。
 死海には午後3時過ぎに着き、レストランで遅い昼食のあと浮遊体験をしました。本当に浮かびます。沈むことができないです。塩分濃度が海水は3%ですが、死海は30%で、目に入ると失明の恐れがあるとのことでした。両手を広げてただ浮かんでいる時はよかったのですが、添乗員さんが新聞を読む写真を撮ってくれると言うので、新聞を受け取ったとたんバランスを崩し1回転、見事に顔が水に浸かってしまいました。「目を開けないで、そのまま、そのまま」と、岸辺まで声をたよりに歩いて行き、ガイドさんにペットボトルの水で目の周りを洗ってもらいました。
 <ガリラヤ湖>
 その後、バスでヨルダン川沿いに100kmほど北上し、ガリラヤ湖畔のホテルに着きました。夕方30分ぐらい強い風が吹きましたが、穏やかな湖です。聖書の「イエス様と弟子が船に乗っていて、急に強い風が吹いて船が沈みそうになる」場面を思いだしました。大きさは、野尻湖の約37倍で166k㎡。深さは、ほぼ同じ43mです。死海と同じく海面下にあり、水面がマイナス213mです。
 <山上の垂訓、カペナウム、カナ、ナザレなど>
 山上の垂訓の場所に行きました。そこは城山ほどのちょっとした小高い場所ですが、だいぶ離れた下を通る人の話がよく聞こえるそうです。自然の地形がスピーカー効果です。当時の人口3万人のカペナウムから、多くの人がイエス様の話を聞きに来ていた光景が目に浮かびました。今のカペナウムは会堂(シナゴク)の遺跡があるくらいで人は誰も住んでいません。反対に当時人口300人ほどだったナザレ村は、現在25万人の大きな市になっています。
 カペナウムの遺跡へ行く前に、ペテロ達が漁をしていた場所にも行きました。そこは、タブハと呼ばれ、7つの泉から水が流れて湖に注ぐところです。実は、ヨルダン川の水は湖の右岸に沿って流れ、ここで泉水と合流するので、この場所が昔も今も魚がたくさん獲れる場所なので、聖書に出てくる漁をしていた場所は、おそらくこことのことでした。
 その後、観光船に乗ってガリラヤ湖クルーズを楽しみながらカペナウムからゲネサレまで移動し、中国風レストランで『ペテロの魚』を食べました。聖書にでてくる硬貨をくわえていたあの魚です。この日は金曜日で、イスラエルでは午後になると安息日準備のために普通の店は全て閉まってしまうので、中国系レストランでの昼食となりました。
 午後は、バスでカナに移動して、婚礼教会を見学しました。イエス様が水をぶどう酒に変えたところは、実は、今の婚礼教会の地下6mのところにある昔の会堂跡だそうです。
 そのあとナザレにも行きました。ヨセフが住んでいたところもマリヤに受胎告知があったところも洞窟のようなところです。当時は、洞窟のようなところに住むのが、夏涼しく冬暖かいので普通だったようです。現在は、両方ともそこを包むように教会が建っています。
 受胎告知教会には、各国から贈られたマリヤの絵が飾られていたのですが、日本からのマリヤの絵は、戦国時代の頃の日本の女性が、着物を着てイエス様を抱っこしている感じで、その振袖の所に6千粒の真珠が使われていたのには驚きました。教会内のかなりいい場所に飾られていて、ちょっとうれしくなりました。
 ガリラヤ地方の見学は以上です。訪れたそれぞれの場所に、聖書どおりの地形が実際にあることに驚きました。そして、多くの遺跡が地下数メートルのところに埋もれていることに歴史を感じました。
 <エルサレムとベツレヘム>
 ガリラヤのホテルをたち、エルサレムに向かいます。金曜日の日没から土曜日の日没までは、安息日のため車が少なくなります。ユダヤ教系の飛行機も、バスも電車も全て止まりますが、アラブ系やキリスト教系の交通は動いています。ガリラヤからエルサレムに行く道もすいていて、2時間ほどで着きました。途中のエリコ近くからエルサレムまでは20kmほどですが、標高差1100mほどの登りになります。 聖書の「都へ上って行った」とありますが、本当に上りでした。
 エルサレムには、多くのキリスト教関係の遺跡があり、そのほとんどは上に教会が建っています。そして、そこでは日曜日にミサが行われて、入れないことがあるので、土曜日に見学しました。主の祈りの教会、主の涙の教会、苦悶の教会(万国民の教会)と隣接するオリーブの園、鶏鳴教会、それと7km南のベツレヘムの生誕教会を見ました。
 特に印象深かったのは、鶏鳴教会の地下にある牢です。立ったまま両手両足を縛って、鞭打ちする場所と、鞭打後に死ぬまで幾日も吊るしておく牢がありました。本来ならイエス様もそこで鞭打たれてから、幾日も吊るされるかもしれなかったのですが、安息日の前日、それも過ぎ越しの祭りの直前だったため、それができなかった。当時は、ローマの支配下にあったため、ユダヤ人には、死刑にする権限がなかった。そこで、ローマ総督ピラトに願って金曜日の内に死刑にしてもらったのでした。
 また、ガバタ(ヘブル語で敷石の意味)と呼ばれる場所も印象に残りました。大きな敷石の下には当時のローマ軍の貯水槽があります。ヨハネ19章13節のピラトが裁判を行い、イエス様が鞭打たれた場所です。発掘調査により、ローマ総督施設近くの大きな敷石はここにしかなかったので、ここがガバタに間違いないとのことでした。
 <嘆きの壁、黄金のドーム、ビアドロローサ、聖墳墓教会>
 城壁の中に糞の門から入って、嘆きの壁ほかを見学しました。嘆きの壁は西の壁とも言われ、エルサレム神殿の西側にあるもので、高さが18m、地下にも21m埋っています。ちょうど目の高さ付近が2千年前のヘロデ王時代の石積みで、下のほうになるほど立派な石材を使っていることから、昔の技術の高さと歴史を感じました。
 嘆きの壁の東側にある黄金のドームは、イスラム教徒が礼拝をする場所だと思っていましたが、そうではありませんでした。イスラム教徒が「マホメットが1晩天に上った場所」として建てたそうですが、その中にあるのは大きな岩だけです。そこはかつてアブラハムがイサクを奉げようとした場所であり、ダビデが契約の箱を置いた場所、ソロモンが神殿を建てた場所であり、イエス様も聖なる宮として宮清めをした場所ですが、だれもそこで拝むことはしません。ユダヤ教徒は嘆きの壁(西の壁)で祈り、キリスト教徒は聖墳墓教会やほかの教会で祈り、イスラム教徒は南隣のアルアクサ・モスクでメッカの方角に向かって祈ります。三大宗教の聖地であり、間違いなく旧約聖書の神殿跡なのですが、どの宗教も礼拝をしないというのは、ちょっと拍子抜けした感じがしました。
 ビアドロローサは悲しみの道といわれ、長さ約1km、幅3~4mほどの狭い道です。現在は、両側にお土産屋さんが並んでいて大勢の人がいましたが、当時の道は地下数メートルのところにあり、ところどころ発掘されていて、見ることができました。イエス様がピラトの前で裁かれたガバタ付近から、十字架につけられたゴルゴタまでの道のりです。現在、ゴルゴタの場所には聖墳墓教会が建っています。ガイドさんの話によると、初代キリスト信徒がゴルゴタを記念の場所としていたので、反対するローマ軍はゴルゴタの丘を削って平らにし、その上にギリシヤ神殿を建ててしまったそうです。しかし、のちにローマの国教となってからは、その神殿を壊して聖墳墓教会を建てたそうです。言われてみると地下にそのような形跡が残っているように見えました。
 <過ぎ越しの祭りと除酵祭>
 最後の頃変わったことがありました。ホテルの食堂は使えず、会議室での食事となりました。それもプラスチック製使い捨て容器での食事です。実は、次の日の安息日はユダヤ教の過ぎ越しの祭りで、その日から1週間の除酵祭が続きます。そのため、事前に1週間かけてホテルの大掃除をして、キッチンだけではなく、ホテル内から完全に酵母菌を無くすのだそうです。普通の柔らかいパンは、私たちが食べたのを最後に2週間いっさいなくなるとのことです。もし違反すると、穢れたホテルとみなされてしまうそうです。イスラエルは人口の7割以上がユダヤ教徒の国ですから、穢されたとみなされるとホテルはやっていけません。私たち日本人旅行者にも、ホテルへそういう物を一切持ち込まないようにと言われました。モーセの出エジプトが起源の行事を今も忠実に守っていると実感しました。そして、ただ単に守っているのでなく、最近まで、1900年以上もの長きにわたり、亡国の民となっていたユダヤ民族の苦い思い出が、この儀式を通して子供たちに、また子孫にも伝えられるようにと願っていると感じました。
 <エリコとヨルダンの聖ジョージ教会>
 エリコに立ち寄り、オアシス近くの城壁のような遺跡を見ました。3200年ほど前のヨシュアの時の崩れた城壁かと思ったら、9500年ほど前の遺跡ということです。ヨシュアの時の城壁跡はまだ見つかっていないそうです。オアシスのあるところには、そんなに昔から城壁を造る文明があったのかと驚かされました。また、オアシス横の土産物屋さんでは、店員さんが上手に角笛を吹いてくれました。トランペット奏者のようにすてきな音色で、数キロ先まで聞こえるような大きな音でした。私にも吹かせてくれましたが、スースーいうだけで鳴りませんでした。一緒に行ったツアー客の一人は吹奏楽の経験があるとのことで、上手に吹くことができました。このお土産屋さんでデーツ(ナツメヤシの実)を買い、お土産にしました。旧約にでてくる『乳と蜜の流れる地』の蜜は、このデーツのことだとガイドさんが言っていました。
 帰り際、バスの車窓から道路脇にあるいちじく桑の木を見て、ザアカイがこのような木に登り、イエス様を見ようとしたのかと思いました。
 その後、イスラエル出国(入国に比べて、出国手続きは短時間でした)、ヨルダン入国手続きを済ませ、ヨルダンの聖ジョージ教会に向かいました。途中、バスは山道をかなり登り、モーセが、最後にイスラエルを見たネボ山の近くを通って行きました。ヨルダンはイスラム教の国ですが、その中にあって聖ジョージ教会は、キリスト教会として建てられ、AD600年頃、床にモザイクタイルで描かれたパレスチナ地方世界最古の地図があることで有名でした。

 以上、正味4日間ほどのイスラエル旅行でした。説明のほとんどが、イスラエル政府公認ガイドから聞いたことを書きました。実際に現地に行ってみて、聖書に対する考え方がだいぶ変わったように思います。行く前は、聖書に書かれている出来事を、努力して信じようとしていましたが、行った後は、聖書に書かれていることを人々はなぜ信じようとしないのかと思うようになりました。

■「あとがき」   K.K.

 寒さが激しい日々も少しずつなくなってきて春らしい陽気が降り注ぐ今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。ゴールデンウィークも終わってしまい、また、仕事に学校にと忙しい毎日が始まりました。私の仕事も暖かくなってきたここ最近から忙しくなってきました。その中のひとつに林野庁から受けている仕事があります。
 私が勤める会社では、林野庁から発注される業務を受注しています。その内容は、希少野生生物の保護と森林施業などをうまく連立させて行うというものです。具体的に言うと、森林の木を切るときに、ただ切るのではなく、野生生物を保護するために切っていくということです。少し前にNHKの番組で取り上げられた「イヌワシを守れ!子育て支援大作戦」では、イヌワシの狩場を作るために敢えて木を切るということをしました。イヌワシは国内で絶滅に瀕している種で、国の特別天然記念物でもあります。そんなイヌワシのもともとの生活の場は森林ではなく草原のような開けた場所なのです。まだ植林が大々的に行われていなかった日本には、そのような開けた狩りができる場所が多くありました。ところが植林により狩場が少なくなってきてしまったために、イヌワシは絶滅の危機に瀕してしまいました。ここ最近では、ひとつのイヌワシペアが繁殖に成功する(雛が巣立つ)のは、10年に1度ともいわれています。木を切って狩場を増やすことによって繁殖がしやすい環境を整えることで絶滅を回避させようと頑張っています。私が行なっていることはイヌワシの行動を見ることです。狩場を作るにしてもイヌワシの行動圏の外に作っても利用しませんし、子育て中の巣の近くで狩場作りの作業をしていると、それが気になり子育てを放棄して逆効果になってしまいます。どこに子育てをしている巣があり、どのあたりを狩場にしているのかということを知ってから狩場を作っていきます。そして作った後のことも確認をしないといけません。狩場を利用しているのか、そもそも繁殖は成功しているのか。
 ここまでイヌワシの話をしてきましたが対象はイヌワシだけではありません。イヌワシ同様に絶滅に瀕している生物も含まれます。イヌワシと同じ猛禽類であるクマタカ、動物だけではなく植物のツツジの仲間のホソバシャクナゲなどといったものもあります。そういった生物を守ること以外に、多くの人に知ってもらうということも重要なことだと思います(税金の一部が使われています)。一応、一部を除いて(保護に支障が出ない範囲で)情報公開はされていますが、知られる機会が少なく、これを機に知っていただけたらよかったと思います。少し長くなりましたが、こんな話に付き合っていただきありがとうございました。次回もよろしくお願いします。

2016年7月号

■「Tさんを偲んで」  T.T.

 Tさんが2015年11月3日に召されて早いもので3ヶ月が過ぎようとしています。もう一度、振り返って考えてみたいと思います。当日このことをお聞きした時は、全く自分の耳を疑うばかりの深い驚きに打たれました。どんな病状で、どんな経過で亡くなられたのか、あまりにも突然のできごとで悲嘆にくれておりました。そして11月4日「夜の祈り会」で参加者全員がTさんの御顔を拝顔し涙したところです。その姿は、まさしく82歳の人生を戦い抜かれ神様が待っておられる天国への旅に引き上げられた平安そのものの御姿でした。
 Tさんと私たちのお付き合いは2011年札幌から長野市に転住してこられ、2013年に教会を訪ねられた時に始まりました。教会では当初、「入門講座」に参加し、聖書を読み、聖書の内容を知ることに一生懸命努力されておりました。また、「長野三浦綾子読書会」、「聖書の学び会」にも出席され、神様との絆を少しずつ強くされていかれたと思います。やがて信仰の芽が膨らみ、2015年3月29日に神様を信じて、ご夫妻で新しい人生を出発されました。御主人どなたにも声をかけられる明朗な方で証しをしたり、賛美をし、時々詩吟を口にし、俳句、川柳をお詠みになる趣味豊かな方でありました。
 三浦綾子さんが旭川、札幌に居住されていた地域、歩かれた箇所の名称についてもいろいろ教えていただき、良い勉強になりました。長野市で三浦綾子読書会を開いて11年目になります。三浦綾子さんの残された作品「それでも明日は来る」に出てくる言葉に「言葉は確かに大切なものだ。しかし人間には、言葉よりも大切なものがあるのだ。それは心である。愛である。」とおっしゃっております。大変、重みのある言葉です。この言葉を忘れずにTさんを偲びつつ福音宣教に努めていきたいと思います。
 そして、久々に計画された11月8日のホテルメトロポリタン長野で行われました特別集会への参加を、とても楽しみにしていたと思います。残念で仕方ありません。Tさんが地上を去られ、また一段と寂しくなりました。もうしばらくお元気でご活躍をしていただきたいと思いました。
 最後になりましたが地上に残された御家族様の上に神様の慰めがありますようにお祈りいたします。

■「思わぬ共通点を見つけた泉会クリスマス2015」  E.Y.

 去る2015年12月5日(土)に、泉会クリスマス会として、ドクターキノシタこと木下和好先生と恵美子先生のご夫妻をお招きして、さんびとトークの集いを開催しました。
 ご夫妻がデュエットで賛美してくださった他、朗々としたお声の和好先生はソロで“OH HOLY NIGHT(邦題:さやかに星はきらめき)”を賛美してくださいました。圧巻の賛美でした。さらに、全員でおなじみの「きよしこの夜」を英語と日本語に加えて、ドイツ語でも賛美しました。私にとっては初めての貴重な経験でした。
 恵美子先生は、宮城県女川町のご出身で、東日本大震災でご家族を失くされたそうです。先生ご夫妻は、当初2011年3月11日には女川町に帰省することを計画されていたそうですが、予定通りに帰省できなくなって難を逃れたのです。何という神様のご計画でしょうか。予定通り女川町を訪れていたら、私たちは今ここにいないでしょうと恵美子先生は静かに話されましたが、そのことばの重みが空気を通じて伝わってきました。
 和好先生からは「クリスマスと我がおもしろ英語人生」と題するお話を聴きました。和好先生が子どもの頃には、まだ故郷の街にたくさん占領軍の米兵がいらっしゃったそうですが、貧しくて英語の教材も手に入れられない先生は、「費用がかからず、実践的に英語を勉強する方法」を考え出しました。それは、とにかく街で米兵を見かけたら英語で話しかけること。きちんとした対話にならずに、話しかけた相手の米兵に不審がられたそうですが、気にもとめずに話しかけ続けたそうです。肝っ玉が座っておられます。そして、クリスマスをきっかけに、教会へ行けば、英語の勉強が「ただで」できることを知り、英語の聖書を読み始めたそうです。思い返せば、私も教会を訪れたきっかけは「英語の勉強」でした。確かに「ただで英語の勉強」ができました。思わぬ共通点を見つけました。ただで勉強できると思った英語の聖書の学びから、和好先生はまことの神への導かれていったのでした。私も英語の聖書の学びから、いつしか教会の夕方の礼拝に出席するようになり、神を信ずる者とされました。
 今年「のクリスマスには、クリスマスはイエス様のご降誕をお祝いする時ですが、併せて、自分自身が主イエス・キリストを信ずる者として誕生した時のことを思い起こす時としても大切な機会であることを改めて教えられました。

■「泉会クリスマス会」   N.E.

 今年はどのようなクリスマス会にしようか・・・講師をお招きする?それとも教会内だけでお祝いする? 1年間のメインイベントであるクリスマスについていろいろ考える中で、今年はラジオやテレビなどのメディアで英語教育にご活躍されているDr.木下夫妻をお招きすることができました。
 第一部はご夫妻の歌、奥様の恵美子先生のお証しと木下先生の楽しいお話をお聴きしました。第二部はゲーム、お茶とケーキの楽しいお交わりの時間をもちました。ご夫妻の歌は、お二人で奏でるハーモニーがとても素敵で、支え合って二人三脚で歩んでおられることを感じた時間でした。
 恵美子先生は、東日本大震災で壊滅的な被害に遭った「女川町」のご出身で、あの3月11日もご夫妻で先生のご実家に帰省する予定だったとのこと。しかし、帰省の予定が1週間早まり、震災に遭わなかったとのことでした。神様の摂理などと言っていいものか、言葉を選ばなくてはいけませんが、ご健在のご夫妻を通して語られている言葉の内に、神様からのメッセージを聴く思いがしました。
 木下先生のお話は終始笑いに満ちた楽しいお話でした。先生は幼少期を長崎で過ごされ、街の中をアメリカ兵が闊歩してる環境で育つ中で、英語に興味をもたれたとのことです。小学5年生の頃から中学生の兄達が英語の勉強しているそばで自分も英語を覚えたことや、そのフレーズを使ってアメリカ兵に話しかけても全然取り合ってくれなかったことなどをユーモアたっぷりにお語りくださいました。
 教会に通うようになったきっかけは、中学生のときに学校前で配布された教会のチラシだったとのことです。”英語を教えます”・・何かいい英語の勉強方法はないものかと思案していた先生は、そのチラシにあった言葉に惹かれて教会を訪ねました。そして訪ねた教会の英語のテキストはなんと聖書だったそうです。そこで宣教師から聖書を通「して活きた英語を教わるとともに神様の大きなご愛に触れ、イエス様をご自分の救い主と信じ信仰をもたれたそうです。このとき活ける命の言葉をお与えくださった神様は、活きた英語を通しても木下先生の人生を用い、その証を通して私たち大きなチャレンジを与えてくださったような気がします。
 木下先生ご夫妻をお招きすることができ、心から感謝したクリスマスでした。

■「ゴスペル… 賛美の喜び」   S.T.

 5年前、ゴスペルが始まったとき、いったい私などにも歌えるものかしらと思いながらも、神様に招かれた気がして参加してみました。すると車に乗るたび、歌詞を覚えるためSさんが作って下さったCDに合わせ、大きな声で練習するうち、もやもやした心も吹っ飛ぶようなすっきり感をおぼえました。
 土曜日もなにかと忙しかった私は、4年目になった時、一時休むことにしたのです。さらにゴスペルに参加するにはボイスレッスンも含め結構費用がかかるということもありました。でも神様は私に「あなたにはいつも必要な時に十分に与えたよ」とおっしゃるような気がしました。1年の休みに心の中ではいろいろ葛藤がありました。私が休んで、他の方に多少なりとも影響してはいけないと思い、それも気がかりでした。自分が行ったことに後から悩む私ですが、神様に後押されたように感じてきました。
 ゴスペルを続けるクワイアの中には多くの悩みを抱えた方々や災難に遭われた方、病を抱えながらも、発声練習やゴスペルレッスンに頑張っていらっしゃる方もおられます。また、遠くお住まいの地からリュックを背負って時々歩いて参加する方もいらっしゃいます。
 従来のクリスマス会や伝道会などのイベントの時にも来る人が少なくなった昨今です。このとき、ゴスペルを通して働く神様の御手を感じてみましょう。去年、ゴスペル参加者は大分少なくなりましたが、それでも神様は信者でない方を通して働いていらっしゃいました。私も齢を重ね、英語の歌詞を覚えるのに一苦労です。いつまで続くかはわかりませんが教会員の皆様、ご一緒にゴスペルを通して神様に賛美を献げる喜びをともに感じてみてはいかがでしょうか。
 神様は祝福をもって皆さまを招いてくださることでしょう。

■「子どもクリスマス会について」  L.S.

 去る十二月、長野福音教会で「子どもクリスマス会」がもたれましたが、とても楽しい有意義な時となりました。飯山からピーター&メアリー・クリフト夫妻が来てくれて、すばらしい降誕劇をしてくれました。ピーターさんとメアリーさんが、イエス様がお生れになった晩、ベツレヘムの近くで羊の番をする羊飼いに扮して、見ている子供たちを物語に引き込むような臨場感あふれる劇を見せてくれました。救い主イエス様が地上に人となって生まれてくださったことの驚くばかりの恵みをあらためて感じさせるものでした。
 その後、子どもたちや一緒に来てくれた大人は、白い靴下を使って雪だるまを作る工作を楽しみました。また、おもちゃなどが当たるくじ引きでは、自分の名前が呼ばれないかとハラハラドキドキ、息をのんでくじが引かれる様子を見入る子供たちの顔が印象的でした。イエス様は小さな子どもたちを愛し受け入れてくださいました。同じように、このクリスマス会に来てくれた子どもたち一人ひとりをイエス様は愛し受け入れてくださっています。その主イエス様のことを、参加した子どもたちが知ってくれたら・・・また、このクリスマス会を通して、ますますイエス様について深く知る機会となってくれたらと切に願っています。

■「新成人の抱負」   T.S.                       

 新成人祝福式でのお祈りありがとうございました。とにかく行動に起こす、ということが一番の抱負です。
 先々に関しては、今の時点では断定的な将来の明確なビジョンはないですが、幅広い進路を選択することができるように目の前の勉強を着実に頑張っていきたいと思います。かつ自分の怠惰さゆえに受験で不本意な思いをしたことを忘れないようにして臥薪嘗胆したいです。また、新しいことを始めるのをためらいがちな傾向もなくし、いろいろなことに挑戦できるようになれたらよいなと思っています。

■「成人」   Y.S.

 昨年4月頃からお世話になっています。12月で二十歳になりました。特別変わった事もなく日々は過ぎて行きます。ただ、10代と20代の差は大きいな…と感じます。
 二十歳になった実感が持てた事といえば『国民年金』の通知が来ていた事くらいです。これで社会的には大人になるのだな、と。“気が付いたらオバサン”にはならないように濃い10年20年にして行きたいと願っております。
今だから、今しか出来ない事を精一杯出来たら、それが一番かと思います。主にゆだねて。

■「なぜバイクで転んでしまったのか」   M.N.

 教会の皆様方の深いお祈りとあたたかいお心遣い、そして尊い義援金を心より感謝申し上げます。また多くの方々にご迷惑をおかけいたしまして誠に申し訳ありませんでした。
 一昨年の12月20日以来、今でも夕方雨の降る日と救急車の音を耳にすると、とても苦しい気持ちでいっぱいになります。あの日は一週間ぶりに雪もやんでこの時とばかりにたくさんの買い物をして、外に出ると大変な雨降りで真っ暗。こんな時はいつものようにバイクを置いてタクシーで帰ればよかったのですが、どうしたことか正しい判断をすることができませんでした。
 10日ほど前に退職して、いよいよ4日後には転職先に行くことが決まっておりました。退職する2年半ほど前から嫌がらせなどがあり、不眠と食欲減退の日々が続き常に頭が重く痛みがありました。突然、意識がなくなり倒れたこともありました。そのたびに病院で検査を受けるのですが異常なし。食べてももどしてしまうこともあり、確かに体のどこかがおかしいと感じるのですが、どうすることもできず、6年10月勤めた職場を離れました。
 事故当時はあっという間のことで、気がついたら右肩が下になっていて、頭の下に何か太い棒が転がっているような感覚でした。救急車で運ばれたのですが、声にもならないほどの激痛でした。診断名は右肩関節脱臼骨折と右肩の石灰化。「石灰化した部分を取り除く手術は骨折が治ってからでないとできません。今手術をすると今以上の痛みが出ます」とのこと。それにしても両方の痛みが伴うわけですから、最初の6ヶ月半は5~6種類ほどの痛みがあり、夜も眠れず寝返りもうてず、寝ても覚めても痛いので、毎日イライラするばかりで落ち着いた気持ちで生活することが全くできませんでした。痛み止め薬もほとんど効き目がなかったようです。「痛いのは当り前だと思ってください。治っても90度上がるか180度あがるか分からないです」と、主治医に言われました。
 日常生活においてもお風呂とトイレが大変でした。無意識に1㎝でも1㎜でも動かすと「うっ!!」と身構えてしまうほどの激痛に「ああ・・・またか。やはりわたしは大変な失敗をしたんだな。」将来のことを考えると、不安と恐れの毎日でした。今にして思えば精神的にうつ状態のようであったかと思われます。それでもしばらくして7ヶ月を過ぎた頃でしょうか。感謝なことに石灰化したものが体に吸収され、きれいに消えてなくなっていましたが、こういうことはたまにあるということです。
 確かに主は生きておられ、知恵を与えてくださるお方。この1年5ヵ月、わたしは自らを反省する時でもあり最悪の中にも必ず最善があるということを学びました。骨密度も若い人や同年代と比べて標準値以上に高かったこともあり、右肩の骨折と右ひざの縫合手術だけで済んだのではないかと思われます。未だ腰痛もあり、杖を手放すことが難しい状態ではありますが、お陰様で回復してきております。
 「主よ。私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩くこともその歩みを確かにすることも、人によるのではないことを」(エレミヤ10:23)
 平安がないまま、ただ苦しく辛い日々が過ぎ、わたしにとってこのみことばがなかったら気がおかしくなって、仕事も続けられなかったと思います。こんなことならもっと早く離職するべきでした。 

■「信州宣教区 信徒・役員リーダー研修会に参加して」   Y.I.         

 「同盟教壇における教師の役割・信徒の役割」、使徒の働き6章1~7節 から 坂本誠師(愛知泉キリスト教会)より、講演をしていただきました。
 ◦教会の職制について
  監督、長老、執事、牧師について聖書から、その働きや歴史、審査など様々な事柄を通しておしえていただきました。
 ◦監督
  監督はエピスコポス「上から見るもの」「見張り人」「監視員」を意味している。
 ◦長老 プレスビュテロス
  旧約時代には、年長者で集団において尊敬を受け、まとめ役を担っていた人々。それが新約時代には教会の職務の名称になった。
 ◦執事 ディアコノス
  執事は、事務的、管理的働き、福祉や慈善の役割を負ったと思われる。
 ◦牧師 ポイメーン
  牧師の働きは羊を飼うこと。①聖書を教える。②信徒を訓練し教える。③信徒を世話する。すべての働きは、イエスキリストを基礎とし基本としている。
 牧師や役員、教会組織は何のために備えられているのか。目的はなんだろうかというとそれは、「教会に祈りとみ言葉が確実に行われ、仕える教会となるため」「教会員の一人一人が祈りとみ言葉の人として生きることができるようになるため」です。この目的の実現のために備えられています。これが最終的な目的と教えていただきました。

■エッセイ 「モカちゃんの想い出」  K.I.

 私たちの愛猫、モカちゃん(オス)が永眠してから2ヶ月以上が過ぎます。12年以上も、新婚時代からずっとずっと一緒でした。生活の様子をたくさん歌にしてきました。
 新婚時代、こんなことがありました。ひとりでいるには広い家の中で、掃除を済ませ、疲れて横になっていた時、急にひとりぼっちなんだと思うと淋しくて、ほんの一、二粒涙が出てきました。すると向こうの部屋にいたモカちゃんがフラリとやってきて、私の顔のそばに来てペロリと涙をなめて、「何でもないさ」と言うかのごとくに、またフラリと去っていったのです。モカの優しさに目覚めを感じました。モカちゃんは、主人のギターの音が大好きで、チョーキング(キューン、クイーンと弦を押し上げて弾く奏法)になると、私と主人の間にはさまって「ミャッ」とよく鳴いてくれてとても面白くかわいかったです。猫はミドルC(まんなかのド)の音から数えて2オクターブ高いA(ラ)かA♭(ラの♭)ぐらいの音が好きで、その音に反応して鳴くのだそうです。主人は「オレの音楽の最高の理解者」とモカちゃんのことをそう言っていましたので、ペットロスはすごいもので、“うさぎみたいにひとりにさせると死んじゃうかも”と思うほどです。私は号泣した後は、思い出としてたくさん詩を書いたり、毎日ずっと一緒にいたので立ち直ることができたのですが。たくさんの猫好きの友人、知人がメールなどで励ましてくれました。感謝です。寒い日は、いつも胸の中に来てくれてポカポカ。まるでモフモフなモカちゃんが睡眠薬のようで、顔のそばで眠ってくれると、私まで一緒に眠れました。今は淋しいけれど、何とかやっています。
 フジコ・ヘミングさんのピアノの音にラジカセにはりついて聴いていたモカちゃん。猫好きな音楽家の演奏にはすぐ分かって、静かな音で聴いていると、うっとりとしていました。優しい女性ヴォーカルが好きで、エンヤの癒し系の音には、またたびにやられたみたいにでんぐりがえりをしたこともあり、主人とびっくりしたこともありました。聖書には、猫だけはどこにも出てこないし、干支にもいないけれど、その存在の不思議さ、かわいらしさ、優しさ、柔和さは神様からのプレゼントでした。モカちゃんありがとう。Rest in Peace 安らかにね。
 《悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。マタイ5:4》

2015年11月号

■巻頭言 「さよならボート」  牧師 高橋宣広

 おばあちゃんの乗ったボートは見えなくなったけれど、きっときっと新しい世界に向かっているんだよ・・・。死がすべての終わりではなく、死のかなたには天の故郷があるのだというメッセージを伝えてくれる一冊のすてきな絵本があります。
 『さよならボート』(いのちのことば社フォレストブックス、2003年出版)。著者は3児の母であるメアリー・ジョスリン、翻訳者は堀(ほり)肇(はじめ)牧師です。家族に愛されていたおじいちゃんが天に召された時、しばしの別れについて、著者は子どもたちに話す手立てを見つけ、そして  悲嘆の中の暗い日々に希望のメッセージを届ける必要を感じ、この物語を書いたそうです。
 今年の一月、父の召天一周年記念会を福岡で行いました。家族・親族だけの小さな式でしたが、幼稚園児のめいっ子が、一番前にちょこんと座っていましたので、まず『さよならボート』の読み聞かせをするところからメッセージを始めました。そして翻訳者の堀先生が書かれた「はじめに」を紹介しました。
  はじめに
 生きるということの中には、春のような喜びもありますが、この世界から音も色も消えてしまうような悲しみもあります。わけても愛する人との死別は、心が引き裂かれるような辛く悲しい出来事です。お互いの愛が深ければ深いほど、悲しみも深くなります。この悲嘆・喪失をどう乗り越えたらよいのでしょうか・・・。
 今年も、何名もの神の家族との別れを私たちは体験しました。突然の別れに驚き、悲しみ、言葉をなくしました。そして、ご遺族のために祈り続けています。悲しみは尽きませんが、それでも私たちは、神様の確かな約束に慰めと希望を見いだします。
 「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」ヘブル11:16
 死のかなたには天の故郷があります。そして、そこで再会できる確かな希望があります。

■「証し 2015.8.26」   M.D.

 母の葬儀をここ福音教会で行わせていただき、ありがとうございました。簡単に葬儀までのいきさつを報告させていただきます。
 母は10代から70代まで善光寺の宿坊で働いており、70代には大きな交通事故や、心臓にペースメーカーを入れる病、また大きな動脈瘤(りゅう)を持ちながらも、元気に過ごしていました。
 父亡き後、母は毎週教会へ通うようになり、ここ数年は家庭礼拝と月1回長野福音教会へ来させていただいておりました。この間、神様の話しはしましたが、なかなか信仰の決断は迫れませんでした。今年に入り、家庭礼拝で、神・罪・救いに分けて教理をわかりやすく話してきました。
 8月16日の家庭礼拝後、暑さを避けて飯綱の宿泊施設へ行きましたところ、急に腹痛を訴え、動かなくなって意識を失ってしまいました。救急車を呼び、再び息を吹き返しましたが、動脈瘤の切迫破裂でした。1週間ICU・HCUでの入院生活となりました。19日の朝、イエス様がおばあちゃんの罪のためにおばあちゃんの代わりに十字架にかかってくださったこと、そしてそれを信じたら天国へ行けることを話し、「わかったか?」と確認すると、うなづいて一緒にお祈りしました。
 翌日からすごく元気になり、足を上げたり、笑い声を出したりして嬉しそうな様子を見せました。しかし、その日の夕方、血圧が急に下がって、私たちが駆けつけると天に召されました。
 神様は天国への切符を手にした母を招いてくださいました。「やっぱり」と思いました。実は決断を迫ると母は天に召されてしまうのではないか、私は母を取られるのが嫌で、なかなか信仰の決断を迫れなかったのです。しかし主は今までの命の危険があった交通事故などの数回の危機を越えさせて、待っていてくれたのです。そして、最後に主は私に母の決断を迫るよう、背中を押してくれました。母は信仰を持って天に召されたと信じます。
 聖書の言葉、伝道者の書3:2「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」 ヨブ記1:21「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
 最後に、労をとってくださった高橋先生をはじめ教会の皆様、本当にありがとうございました。

■「証し 2015年8月25日」   M.D.

 私が義母と最後に福音教会に礼拝出席したのは6月28日でした。その日のメッセージは、「イエス様がペテロのしゅうとめの熱病を癒し、しゅうとめは起きてイエスをもてなした」という内容のマタイの福音書8章14節以降の聖書箇所からでした。イエス様に従う決意表明をするということは、そのすぐ後の箇所にある自分の父親を葬ることもできなくなるのか、いやそうではない。現在の生活から抜け出さず、結局は主に従うことをあいまいにする態度が問題なのだ。だから主に従っていくと決意表明して歩み続けるなら、ペテロのしゅうとめの熱病をいやしてくださったイエス様が、私たちの生活の中で日々起きてくるすべての問題を解決してくださる。だから、安心して従い続けよう。と語られ、そのように私は受け止めたと記憶しています。その日、高橋先生に帰り際「今日のメッセージほんとうにありがとうございました」と、私の決意表明という気持ちをこめて、あいさつをしました。
 それからの日々、義母の救いのことも、その他の問題も必ずイエス様は最善に導いてくださるのだから、あたふたせずに必要なときに必要な言葉を語れるよう、祈りながら時を待とうと思っていました。そのときは2ヶ月も経たずにやってきました。夫が24時間管理のICU病室で語りかけると、うなずいて応答する義母。声は聞こえないけれど、お祈りの最後に酸素マスクの中の口がアーメンと動くのを私は見ていました。その後ICUからHCUに移り、驚くほど元気になりました。両足を一緒に上げて、ミトンをはめられて固定されている手の代わりに、まるで万歳をしているように見えました。そんなに足を上げちゃ駄目駄目とみんなで言うと、酸素マスクの中で声を出してクックと笑いました。これから元気になって回復していくのだと勘違いしたその日の15時半、「血圧が下がり始めました。すぐ来てください」と病院から電話があり、その日3回目の病院へ駆けつけて、義母は亡くなりました。
 8月24日、葬儀での高橋先生のメッセージで、「Nさんはイエス様が仕える姿勢をとられ、給仕する者のようにされたそのように、人々に、料理を作って給仕されてきたのですね」と語られたとき、義母がいやされてイエス様をもてなすペテロのしゅうとめと重なり、胸が一杯になりました。義母は天国へ行ったと思いました。
 この一週間、すべての事が主にコントロールされていたことがわかりました。前もってとってあった私の2日間の仕事の休みで入院の3日間を過ごし、その後も毎日ICU・HCUに通うことができ、寝たきりになりたくないと熱望していた義母の願いをお聞きくださっただけでなく、1週間の私たちの心の準備期間と、義母の信仰の確認のときも与えてくださいました。高橋先生にはお手数をおかけしましたが、丁寧に丁寧に、親族に関わっていただき、教会の皆様に助けられて、葬儀を行うことができました。完璧な神様のスケジュールでした。義母が50年間お世話になったお寺の住職ご夫妻が葬儀・斎場・しのぶ会に出席され、別れ際に、奥様が「よいお葬式でしたね」と話してくださいました。その後何人もの方々から出席して本当に良かったとうかがいました。「神様のなさることは時にかなって美しい」という23日の家庭礼拝での聖書箇所が真実であることを今心にかみしめています。

■「K.O.さんを偲んで」   T.T.

 Oさんが10月6日、天に召されました。私とOさんのお付き合いは創立40周年記念誌編集委員会が再編された1998年に遡り、17年のお付き合いになります。この間、Oさんからは長野県の林業をはじめ農業経済、長野市の歴史について数多く学ぶ機会をいただき、感謝な日々を過ごしていました。Oさんと私との最後の電話は、9月18日でしたが、その時はいつもと変わりなく元気に話されておりましたので、体調も良いものとばかり思っておりました。召される前日まで自転車に乗り、愛大と散歩をしていたというから全く自分の耳を疑うばかりの驚きでありました。
 Oさんは、長野師範学校を卒業され旧上水内郡、下水内郡地域をはじめ下伊那、松本市、長野市の小中学校に奉職され、1958年6月29日イエス・キリストに出会い、洗礼を受けられました。また教壇を去られてからも自宅を開放し、ご夫妻で家庭集会を行い、若槻自治会館では浅川、若槻地域の子どもたちにみ言葉を教え、福音宣教に力を注いで来られました。そして浅川西条の地での教会建設に役員として携わり、教会の予定地及び資金の確保に奔走されたことは誰もが知るところです。
 特に大きな思い出は、二人で愛犬アニーと一緒に虫倉山(1378m)に登山しながら、旧中条村の歴史を学び、その広い知識には感服した所です。また虫倉山の麓では300坪の畑で耕運機、刈り払い機を駆使し野菜を作り、Oさん所有の山林からはチェーンソーでならの木を切り出し、しいたけの栽培を教わり、とても楽しい時期を過ごさせていただきました。
 そして、今ここに90年の長い人生を雄雄しく戦い抜かれ、立派に凱旋され、勇ましい高尚な生涯を私たちに残してくださったOさんに心からお礼申し上げます。Oさん長い間ご苦労様でした。どうか私たちも、あなたのような生涯を送ることが出来ますように願っています。今でもOさんの謙虚な感謝と喜びと賛美に満ちた祈りがいつものように聞こえてくるように感じます。私たちは再びOさんが歩んだ生涯を顧みつつ、その気高く美しい足跡を少しでもたどることの出来る者とさせてくださいますようにと思うしだいです。

■「信州クリスチャン修養会」   K.M.

 『諏訪の信仰とキリスト教信仰』をテーマに開催された今年の修養会は、初日夜の第1集会から会場いっぱいの参加者が与えられ、関心の高さにびっくりしました。講師の大和昌平先生には、①諏訪の御柱祭と仏壇・位牌、②信州善光寺と阿弥陀如来、③日本の祖先崇拝についてお話しいただきましたが、この社会に生きているキリスト者として、避けては通れないことばかり。実際の場面でどう対処していけばよいのか、切実な問題です。
 お話しの中で、父なる神の被造物である人間には、人を超えた存在を感じ、おそれる性質が備わっていること、そしてそのおそれが、どこから来るものなのかわからないまま、禍(わざわい)が起きないように様々な策を講じていく訳ですが、根本的な解決は、本当の神に立ち帰る以外にないこと。大和先生が高校生の時に教会で得ることのできた本当の平安がよくわかりました。私たちも確かにこの平安をいただいて、神の子とされたのでした。
 そもそもは理由なきおそれから始まった在来宗教ではあっても、現代の日本でなお法事が営まれ、墓や位牌が守られ続けているのは、信心からというより、親戚の手前・世間体や風習といった人間社会の無言の圧力なのかもしれません。それが、近年、葬式にしても結婚式にしても、自分で考える風潮が広まってきました。今こそ、人々が本当の救いに近づくチャンスなのかもしれない・・・。他の宗教と向き合わなければならないときに、つい、堅い姿勢で信仰を守らなくては・・・と構えてしまいがちでしたが、大切な人を大切に思う人の心に寄り添いながら、しかし、拝むべきでないものは拝まない、その線引きが重要なこと。そういう愛のある配慮ができたら、私たちは、まだ主を知らないひとびとを主の前に、理由なきおそれの本当の解決に導けるのかもしれません。

■「新約聖書の書かれた時代とポンペイ遺跡」   K.K.

 新約聖書が書かれたのは、A.D.50年頃(パウロ書簡)からA.D.90年頃(ヨハネの黙示録)だそうです。今から1900年以上も昔のことになり、日本では、弥生時代、卑弥呼(ひみこ)がいた邪馬台国(2~3世紀)よりも古い時代です。聖書はこんな昔に書かれたのだから、創作や想像、神話的な要素が多少入っているのではないかと思っていました。
 ところが、昨年3月、1900年以上前に繁栄していたイタリアのポンペイ遺跡に行ってみて驚きました。その驚いたことを10ほど書いてみます。
 1.歩道と車道が完全分離してあり、両方とも石の舗装がしてあった。車道には、当時の馬車の往来が激しかったことを示す轍(わだち)の跡があった。また歩道は、歩行者保護のため、車道よりも20cmほど高くしてあり、横断歩道のところには、歩行者のために大きな踏み石が配置されていた。道路排水路も整備されていた。(※長野市で歩車道分離方式の道路が整備されだしたのは、おそらく昭和の初期以降ではないだろうか。)
 なお、ポンペイからローマまでは、2百数十キロメートルあり(ほぼ長野から東京間の距離)、有名なアッピア街道を通って行くが、その道路舗装の厚さは、深さ1m以上も掘って路盤の入れ替えがしてあり、表面は堅い石を平らに敷き詰めて、馬車が高速で走れるようにしてあった。軍用道路として作られ、できるだけ真っ直ぐにまた平らに作られた。舗装の厚さについていえば、現代の高速道路や国道とほぼ同じ仕様である。日本の高速道路総延長は約9000kmだが、アッピア街道幹線延長は85000km以上あったという。
 2.上下水道が完備されていた。水道管は、錆(さ)びない鉛の管が使われていた。私が水道局に入った40年ほど前までは、長野市でも各家庭の引き込み管に鉛管が使われていた。鉛は鉄のようには錆びず、加工がしやすいので便利だが、からだに良くないとのことで計画的に少しずつポリエチレン管やステンレス管に取り換えられ、今は使われなくなった。長野市の水道整備が始まったのは、大正時代以降のことだ。
 また、下水道管についていえば、私が水道局に入った頃はまだ陶管を使用していた。現在も陶管が腐食に対しては一番良いのだが、車の荷重や地盤沈下に対しては、割れやすいことから、硬質塩化ビニール管や鉄筋コンクリート管に代わってきている。ポンペイの下水道は石および陶管で整備されていた。当時のポンペイの上下水道は、私が長野市水道局に入った40年前とほぼ同じ材質の物で整備されていた。ちなみに東京で下水道が本格的に整備され出したのは明治以降、長野市で整備されだしたのは昭和28年以降で完成したのは最近だ。
 3.さびない鉄が使われていた。旅人が水を飲めるようにと、街中の道路沿いに泉水が設置してあった。その石積みの縁石が動かないようにと、鉄製のかすがいで固定してあった。錆びていないので、ガイドさんに本当に2000年前の物か尋ねたところ、鉛のコーティングがしてあるとのことで、当時の技術の高さを感じた。
 4.食文化がグルメであった。肉、魚、パン、どれもおいしいものを食べていたようだ。今でも、おいしいそばは、石臼で挽いて手でこねて作り、おいしいピザは石がまで焼く。ポンペイでは、現代とほとんど同じ石臼と、石がまを使いパンを焼いていた。パン屋も、肉屋も魚屋も、居酒屋さんもあった。ちなみにポンペイの街中にはパン屋が34軒、居酒屋は100軒以上あったそうだ。
 5.公衆浴場が発達していた。サウナもあり、お湯が冷めない工夫、天井のしずくが落ちて来ない工夫、大理石の湯船、湧き出るお湯、明かり取りのガラス天窓、床のタイル張り、壁の彫刻、どれを見ても現代の人が作ったと錯覚しそうなすばらしさだ。まさに映画の「テルマエロマエ」の世界だ。
 6.ある家の部屋の内壁には、素晴らしいフレスコ画が描かれていた。2000年も前に書いたのに色がほとんであせていない。ルネサンス時代の絵画とくらべても遜色ないできばえだと思った。廊下の床には、モザイクタイルが敷かれていた。またブロンズの像があちこちにあり、その芸術性と製造技術は、現代のものと少しも変わらないと感じた。
 7.墓地地区にある墓石がすばらしいものだった。福音教会の墓石に比べて数段立派にできていた。きれいに磨かれた大きな石に、ローマ字で埋葬者名などが刻まれ、その下には生前の様子がレリーフで描かれていた。
 8.水道の水は、遠くの水源からひいていた。その痕跡が墓地地区の近くの水道橋施設に一部残されていた。文献によれば、土地の低いところはアーチ型水道橋で、山はトンネルで、長い距離を一定勾配を保ちながら水を引いていた。
 9.街の周囲は城壁で囲まれていた。現在わかっている範囲だけでも、街の面積は66万平方メートル、城壁は厚いレンガ積みの上に固いモルタルが塗られていた。東京ドームグラウンドの約50倍の広さだ。城壁があるおかげで外敵や猛獣に襲われる心配はないが、それでも街の中に泥棒はいたようで、玄関の入り口の床に「番犬注意」と書かれ、犬の絵のモザイクタイルが敷いてある家があった。
 10.ローマのコロッセウムのような円形闘技場がポンペイにもあった。ローマのものは5万人収容、ポンペイのものは2万人収容(別の本によると1万2千人、固定席と立見席の関係か)。そのほかに馬蹄形の野外劇場(5千人収容)もあった。野外劇場には、オーケストラボックスや貴賓席も備わっていた。また、隣接して2千人収容の劇場もあった。
 ちなみに、今年3月完成した長野パルセイロのホーム球場は収容人数1万5千人(改修整備費79億円)。またホクト文化ホール(県民文化会館)の大ホールの観客席数は2千人余だ。
以上、私の驚いたこと10個でした。
 ポンペイ遺跡のことを、日本の時代にあてはめて考えると、弥生時代ではなく、明治から大正、昭和にかけての時代とほぼ同レベルの文明・文化があったと考えざるを得ない。この時代に生きたパウロは、ポンペイよりも大都市であったローマの市民権を持つ者であり博学であったことから、彼の書いたものは、正確で精度の高いものと思われる。これらのことから、新約聖書は、現代に書かれたものとほぼ同じ正確さで当時の出来事を記録し伝えていると考えざるを得ないようになりました。

 新約聖書書簡の多くを書いたパウロについて、改めて調べてみました。
 ① ローマ帝国キリキヤ州のタルソ生まれ(今のトルコのタルスス)。生まれつきのローマ市民。ローマ市民には特別な市民権があり、千人隊長でさえ、パウロを鎖につないだことを恐れた。(使徒22:22~30)
 ② 育ちは、エルサレム。旧約聖書をガマリエルから学んだ。ガマリエルは当時すべての人に尊敬されていた律法学者でありパリサイ人であった。(使徒5:34、22:3)
 ③ 博学なことは、ローマから遣わされたユダヤ州総督のフェストも認めていた。(使徒26:24)
 ④ ギリシャ語、ヘブル語が流暢に話せた。(使徒21:37、22:2) そのほかに、ローマ市民であったことから公用語のラテン語も話せたと思われる。また、イスラエル北部地域で使われていたアラム語と、生まれ故郷のことば(現在のトルコのタルスス)も話せたのではないかと思われる。私は外国語がひとつも話せず、私にとっては非常に尊敬できることです。
 ⑤ 航海術についても、プロ並みの知識があったと思われる。(使徒27:9~44)
 ⑥ 本来の職業は、天幕作りであった。(使徒18:3)
 ⑦ 真実を語り、うそを言わない性格。(Ⅱコリント11:31、12:6)

 また、ポンペイについても少し調べてみました。
 ベスビオ火山の大噴火によって埋もれ、その後1748年に発掘され、現在も少しずつ発掘が続けられている。当時の人口については、諸説あるが、ウィキペディアによると約2万人だった。
 港町ポンペイは、商業都市として栄え、交易物資はアッピア街道を通ってローマに運ばれていた。
 ところがA.D.62年2月5日に、大地震が発生し、甚大な被害にあってしまった。ポンペイの住民は、以前よりも立派な街にしようと、すぐに頑丈な街づくりに着手しほぼ復興が終わった、A.D.79年8月24日午後1時頃ベスビオ火山が大噴火した。火山灰はその後も降り続いた。
 実は噴火の1週間程前から大きな地震が続いていたため、すでに多くの住民は気味悪がって、街から逃げ出していて、噴火の時には人口約2万人の1にあたる約2千人が残っていた。
 最初の噴火から約12時間後に大火砕流が発生し、火口から約10キロ離れていたポンペイの街を、一瞬の内にのみつくし、ほとんどの人は即死状態、わずかに地下室に逃げていた人たちのところにも火山ガスが流れ込んできて皆死んでしまった。(ちなみに飯綱山頂から長野福音教会まで約10キロ。)
 火山灰はその後も降り続け、厚さ数メートルにもなり、また、地盤の隆起も重なり、ポンペイはいつしか所在不明の地となってしまった。歴史の記録にはあったが、井戸を掘っていた人に偶然発見される1748年まで、その所在はわからなかった。
 現在では、当時の城壁内の街の3分の2ほどが発掘されている。
 ポンペイ遺跡の様子はだいたいこのようですが、聖書の黙示録が書かれる10年以上前に火山灰の中に埋まり、それが、現在、手つかずの状態で発掘され、目の前に出現するわけですから、まるでタイムマシンに乗って、聖書の書かれた時代に行き、当時の文化、習慣、生活様式などを目の当たりにするようでわくわくしました。
 新約聖書が書かれたローマ帝国時代の文化は、日本の弥生時代ではなく、現代とほぼ同じ生活レベルだったと考えるようになりました。神話ではなく、新聞記者が見た事、聞いたことを正確に記したレポートに近いものだと考えるようになりました。アポロ計画により有人月面着陸したのが46年前、東京オリンピック開催が50年前、私が水道局に入ったのが40年前、その時と同じ材質で上下水道がすでに完備されていたのがポンペイの街でした。

 2015年7月30日に思い出しながら書きました。

■「神様の設計図」   M.H.

 保険会社を辞めた時、医療系に就職しようと思ったのは、75歳で亡くなられた契約者がきっかけでした。「入院したから手続きしたい」というよくある電話から、「誰さんは元気か?」などと話すようになり。しかし病がすすみ、ご家族から死亡の連絡を受けました。お会いしたこともないのに、契約者宅を弔問したのは、後にも先にもこの方だけでした。ご家族からも温かい言葉を頂いてかえって恐縮しました。
 保険の手続き以外にも接点を持ちたいと思いはじめ、年月を経てようやく薬局に採用された。そして待ち構えていたのが「登録販売者」資格。(自治体に登録された一般医薬品販売従事者)「えっ、50歳近くになって勉強するの!」と思ったけれど、人参をぶら下げて勉強を始めました。薬事関係の法規やら取り扱い方などは睡魔との闘いでした。そのなかで、人体の仕組みは、神様の設計図の一部を見ている気がしました。内臓では、食べ物の消化や、消化酵素の分泌、果ては老廃物の排出まで考えられています。テキストの知識は、改めて認識することもあるし、初めて知ることも多い。神様がご自身の姿に似せて創られたヒト。その設計図は全て解明されてはいない。しかし、一部を見ただけでも、体を維持するためにこんなところまで考えられている!という驚きと感謝の連続です。お祈りに覚えていただきありがとうございました。なんとか合格しました。さらに、体の仕組みを学び、薬の役割を学んでいきたいと思います。
そして、この文章を書いていて、私がいかに高慢で思い上がりであったか示されました。特定の人に対して「私はこんなにもいろいろやってあげられた」と実感することはないのです。むしろ、もっと何かできたのではないかと自問する人のほうが多いのです。この仕事に就けば、相手に何かしてあげられるということはなく、けれども、その仕事なりにできることがあります。
 私も今与えられている場所で、できることを精一杯やっていこうと思います。

「前島常郎師の特別集会に出席して」   礎会(いしずえかい)

 11月8日、ホテルメトロポリタン長野内の中華料理店、皇華(ファンファー)にて、前島常郎師をお招きし「父の学校で学んだことなど」と関連し、「父の学校の紹介」、「家族の自死」、「里親会」についてのお話があり、9名が参加しましたので、その内容を要約して紹介いたします。
 「父の学校の紹介」では、父親として、夫としてあるべき姿とはなんなのかを中心に、今の社会が抱えている様々な問題は家庭から始まることが多くなっている。家庭の問題は父親に原因があるという認識の元、家庭のあり方と大切さを理解し、本来の家庭を蘇らせることを支援する活動ですと話されました。
 以下、前島師のお話しを抜粋したものです。
 今回、「父の学校で学んだことなど」というテーマで集会をお願いいたしましたが、まず私が信仰をどのようにもったかをお話ししましょう。1953年生まれの私は、現在62歳になりますけれども、高校3年生の時に近くの教会で宣教師がバイブルクラスを行っていることを聞きつけ、訪ねて行ったのがきっかけで信仰を持ちました。東京の大学に行き、1年生の時から教会のいろいろな諸集会に出席している時に、自分自身、神学校に行って聖書の勉強をしたいという気持ちが強くなってきたのを覚えております。神様は、そのような勉強をする機会を与えてくださいました。
 そして26歳のときに、同じ教会で奉仕していた北川晴美さんと出会い、1982年に結婚をいたしました。そして三人の娘に恵まれました。
 私は、8年前ですが、ファミリーフォーラムジャパンという団体で編集、翻訳等の仕事をしていましたが、内容的には宣教師のご指導のもとで家庭の問題について勉強させていただきました。「父の学校」に行ったきっかけは、編集の中の一つのテーマとして横浜にユニークな学校があるので、そこに取材に行ってくれないかとの依頼を受け興味を持って出かけました。そこには35名くらいのお父さんの受講生が参加しており、そのうち20数名が縦じまのユニホームを着て奉仕をしていました。これくらいの人数の壮年が教会に集まることは珍しいことです。研修は講義を聞いたり、グループでの分かち合いすることでした。
 この集会は神様を信じて家庭を築き、子どもを愛し妻を愛するということは、どういうことかを共に考える仲間であるとも思いました。その雰囲気は、ただ録音したり、記事を書いたり、それで終わりというには、あまりにも勿体無いと思いました。3日間の研修を終わって奥さん方の足を洗う洗足式があるということで、妻にも連絡を取って来ていただき、足を洗わせてもらいました。
 その中で、「あなたの奥さんの良いところを20個挙げてください。」・・・との問いかけがあり、「二つくらいは」との声・・・。あとは沈黙。私は、家族のことについてこんなに3日間考えたことはなかったとの思いで妻に対しても改めて感謝を持って20何年、一緒にいたことを恥ずかしがらないで言うことができました。仕事のために来た3日間であったが、自分はこの期間を通して素晴らしいプレゼントをいただいたと思いました。
 次に「自死」のことについてふれてみたいと思います。わたしが翻訳した一番新しい本『ミッチ-隠れた贈りもの-』ですが、クリスチャンカウンセラーであって、20歳の息子さんを自死で亡くされた。家庭の問題で子どもが家出したとか、死にたいとか、薬物にまきこまれたとか、家庭の相談を受ける立場の専門家が自分の子どもを助けられなかったと言う、ピストル自殺の体験、自分がどれほど苦しみ、そこからどのようにして立ち上がってきたかを書かれた本です。
私が、なぜ翻訳することになったかというと先ほど私自身の家庭に三人の娘が誕生したと言いましたがその内の一人を6年前に自死で失いました。皆さん長野市内でもクリスチャンで家族を自死で失った人は何人もいます。自死で失った娘は6年前看護師でした。駒ヶ根の看護大学を卒業すると大阪のキリスト教病院に勤務しましたが、病状が大変な方々が入院している所でした。そして上司との摩擦もあり、長野市に帰り、自宅で一緒に暮していました。時には夜眠れなくなり睡眠薬を服用していたようです。結局、死を自分で選ぶことになってしまった。私は、埼玉県で牧師をしていた時にそういう経験はあったが、いざ自分の娘に死なれてしまって、どうしてよいか分からない。何で、このような思いを父親にさせるのか怒りを感じました。自分がこのような病気を治したりする立場にいたにも関わらず自分の人生を破滅してしまうことに、この自分のどうしようもない気持ちをどこへもっていったらよいのか、どこにももっていきようがなかった。
 「11月初めの日曜日に、松本市中央公民館を会場にして、家族を自死で失った方々の分かち合いの集まりをしませんか」との記事を新聞に出しましたら、全く知らない人が大人19人、子ども1人が集まり、それ以来6年間、2ヶ月に一度、自助グループとして続けています。この会は簡単な規則があって、自死で家族を失ったものだけが来られる。そして、ここで聞いたことは、ここに留めておいて他では言わない。誰かにアドバイスすることはあっても、アドバイスは逆に人を傷つけてしまうことがあるから、ほどほどにして、とにかく自分の言いたいことを自由に言う。人の話は最後まで聞くという会です。今は涙が出なくなりましたが、時々胸が痛くなることがあります。現在、全国で自死遺族会連絡協議会という名前で東京と地方で行っています。
 次に、長野県の「里親の会」ですが、短く紹介させていただくと、私がなぜ里親をしているのか。それは大学時代に遡りますが、下宿をさせていただいたお宅が里親をしていました。下は幼児から上は中学生でした。私も教会学校の中学科の先生をしていましたが、世間知らずで自分の親と暮らせない子どもがこんなにいるんだということを知りませんでした。毎日、下宿でその子どもたちと食事をしていて、その里子たちのことを人ごととは思えなくなり、将来自分も結婚して家庭を持ったら、家庭のない子どもさんたちを預かる決心ができ、5年前、長野県知事の許可を得、最初は親と暮らせない子どもを1年くらい預かりましたが、一番長い子どもが長野児童擁護施設から、また5歳の子どもを短いときで1泊2日、2泊3日と、長い時で夏休み、冬休みを利用して、お預かりをしていいます。5歳の子どもも今では14歳になり、日程が合えば先日の長野福音教会の飯山のハイキングに参加させていただいております。日曜日は家庭で一緒に礼拝をさせています。暗唱聖句はよく覚えています。イエス様を信じて、このまま真っ直ぐ成長してもらいたいと思っています。

以上、先日おこなわれました前島常郎師の特別集会の内容を要約し3つに分け併記させていただきました。
 最後に、心に感じたこととして「父の学校の紹介」からは、父のあるべき姿とは、父が生きると家庭が生きること、家庭での父親の存在の大きさと奉仕へ参加することの大切さを知り、「家族の自死」については冊子『ミッチ-隠れた贈りもの-』の中から、自死遺族が抱える悩みや苦しみと苦悩に満ちた日々から新しい人生を歩みだす日々を知り、私たちの回りにも悲しみと苦悩の中にいる家族が大勢おられることをお聞きし胸が痛む思いでした。「里親会」についても両親、家族に会いたくても会えない幼児から中学生までを対象にした子どもたちを里親にお預けする親と子どもたちの切ない気持ちを体験談の中でお話してくださいました。里子にならざるを得ない子どもたちがその境遇を乗り越えて成長し、信仰を持って生活できることを願うものです。

2015年8月号

■巻頭言 「平和を祈る務め」  牧師 高橋宣広

 約二千年前、イエス様は天から降って来られました。神であられるお方が人となって、この地上を生きてくださいました。そして30歳になられてから3年半、弟子たちと共に国中を回られました。弟子たちをそばに置き、彼らが福音を宣べ伝える使徒となるように、教え導いてくださいました。マタイの福音書10章は、イエス様が弟子たちを各地に遣わされた出来事が記されています。実地訓練・伝道の実習を弟子たちにさせたのです。
 弟子たちは、行った先々でホームステイをさせてもらいながら、町や村で伝道をしました。
 そして「その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」(10:12)とイエス様は弟子たちに教えます。
 「泊まらせていただいて、どうもありがとうございます。お世話になります」という挨拶もしたでしょうが、イエス様は、まずその家の平安、平和を祈りなさいとおっしゃるのです。
 「平安・平和」=ヘブル語では「シャローム」です。イスラエルの人たちにとって、「シャローム」は、「おはよう」、「こんにちは」のような一日中使うあいさつの言葉、祝福の言葉です。平和がありますように、主の平和がありますように、という意味です。
 このシャロームを、ただの挨拶として言うだけでなく、「祈りなさい」とおっしゃっています。イエス様の弟子であるという理由で、自分たちを受け入れてくれたこの人、この家庭に、神様の完全な平和がありますように。心から、心を込めて、そう祈りなさいと、主は求めています。
 昔も今も、私たちの周りの多くの方たちが、安心や平安を求めています。我が家に平和があるようにと祈り、私たちの夫婦関係に、親子関係に、職場の人間関係や学校の仲間たちとの間に、平和がありますようにと、祈らざるを得ません。そんな切なる願いや祈りをしなくてはいけないほど、傷ついた人たちがいて、傷ついた関係があります。
 また何よりも私の心に平安があるようにと、多くの人たちが祈り求めています。
 そして本当の安心、本当の平和は神様からしか来ないのです。 
  「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」エペソ2:14、15
 「あなたのために祈っています」、「あなたに神様の平和が来るように」、「あなたの家庭に神様の平安があるように心から祈っています」、そんな祈りを互いにささげていきましょう。

■「信州宣教区信徒セミナー(4月29日)―バビロン捕囚の70年と日本の教会―」   M.K.

 今年日本は戦後70年目を迎えた。バビロン捕囚も70年、ソビエト崩壊も70年、―この70年という年月にとても重いものを感じて、セミナーに参加した。
 山口陽一先生は、まず、戦中、聖書に従わず、国家神道体制に組み込まれて加担していった日本のキリスト教会の有り様を語られた。そしてダニエル書9章1節~19節より、バビロン捕囚の70年の終わりに近くなった頃のダニエルの行動をひも解いてくださった。ダニエルは、エレミヤ書を読み、バビロン捕囚の70年が満ちることを知る。普通ならそこで「もう少しで終わりだ。ハレルヤ!」と叫ぶところだが、ダニエルは父祖たちが犯した罪を深く示され、父祖たちの罪を自分の罪として悔い改めた。70年近い歳月を経ても、神の裁きを覚え、悔い改めを忘れなかった。そしてダニエルと3人の仲間の信仰を貫いた行動には、同じ罪を2度と犯してはならないという自覚と悔い改めがあった。
 日本の教会も戦時中の背きのために滅ぼされてもしかたがなかった。が、戦後も存続が許され、多くの宣教師が来日し、伝道が展開されたのは、神の憐みのゆえである。
 しかし、今この70年を迎えた時、日本は非常に危うい状態になって来ている。昨年の信徒セミナーの講師水草先生のお話も、やはりダニエル書から、現在の日本を大変危惧されたものだった。
 知らないうちに大きな渦に巻き込まれていくような怖さを感じる。もっと真剣に祈らなければいけないと思った矢先、新聞に『歴史に終止符ない』という見出しで、ドイツのメルケル首相の戦後70年で、過去と向き合う決意の記事が載っていた。
 ・・・・ナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)等を念頭に「われわれには注意深く敏感に対応する責務がある。歴史に終止符はない」。メルケル首相は、ドイツにあるユダヤ系の学校や幼稚園を警官が警備しなければならない現状は「恥」だと指摘。「歴史の知識は学校や社会で広めなければならない」と、歴史教育の重要性を強調した。戦後に移り住んだ移民に対しても、ドイツの「過去を共有する」よう求めた。(信毎5月3日第7面)・・・・・
 移民してドイツ人になった人にまで、過去の過ちをしっかり共有するとは、何と視点の定まったメッセージかと胸が熱くなった。
 同じことを繰り返さないためには、深い悔い改めと、目を覚まして、主であるキリストの言葉に聴き従うことが大事だと、あらためてダニエルの信仰から思わされた。

■「第二次大戦、70年前を追想して」   K.O.

 学徒出陣といえば明治神宮外苑のような広い場所を行進していく姿を想像しますが、その頃はもう、一人ひとり個々で入隊していきました。長野師範学校(信大教育学部の前身)は教員になる学校として徴兵延期になっていましたが。日本の敗戦の色が濃くなり2年の終わり頃の2月、陸・海軍の将校を募集していました。私は高所恐怖症なのにどういう弾みか航空隊へ志願してしまいました。高所恐怖症が気になりその試験日に欠席しました。軍のおとがめが来ると思いびくびくしておりました。なにもなく4ヶ月が過ぎ、遂にその年(終戦の年)7月1日に赤紙の通知が来て、金沢の九四部隊へ入隊しました。
 部隊は歩兵部隊で私の所属は連隊砲で長さ180センチ、太さ16センチくらいの大砲でした。歩兵部隊の後ろにいて、敵の戦車や、機関銃などをねらいました。この砲に1ヶ月の訓練を受け、その後、戦場へ送る計画でした。訓練は厳しく毎日軍服の袖まで汗でぬれ、夕方には毎日洗濯をしました。夜になって点呼があり、あつまり方が悪いとビンタをくらいました。我が班はよいほうで、隣の速射砲班は若い指導者だったので、毎晩のように全員にビンタをくらわせ、その音が聞こえました、その凄惨(せいさん)さはすごいものでした。
 部隊の中には3種類の人の血を吸う虫がいました。ノミ、シラミ、南京虫。今の人たちは、なじまない虫なので、説明しておきます。当時はD.D.T.等の殺虫剤はありません。取ってつぶすより仕方がありません。 
  1. ノミ、戦前はどこの家にもいました。黒褐色をしていて、下着の縫い目のところに住み、表にでるとぴょんぴょんと30cmくらい飛び逃げました。卵を産み繁殖しました。卵は地中へも産みすごい繁殖力でした。
  2. シラミ、下着の継ぎ目のところに隠れていて白色でした。そこに卵をたくさん産みました。動作がにぶく、簡単に捕まえることができました。女の子の頭にも付き頭の毛に鈴なりに卵を産みました。着物の場合は縫い目のところにおり、どんどん増えました。
  3. 南京虫、体長3~4ミリくらいで、マットの裏または隅に群がり、人が眠ると出てきて血を吸いました。逃げるのが速く捕まえることはできません。
 軍隊にはこの3つがおり、夜中に血を吸いに出てきました。しかし、日中の激しい訓練のため気にする事なく皆眠っていました。
 連隊砲の訓練は8月1日に終わりました。いよいよ本土決戦です。「私どもの部隊は千葉県あたりで戦うのであろう」とのうわさが流れました。国のため死ぬのはしかたがない。死ぬのなら故郷をもう一度見て死にたいなと思いました。  
 8月6日に新型爆弾(原爆)が広島に落ちました。私たちはそれに備え、タコつぼを営庭(えいてい) に掘りました。ソ連が8月9日、満州国の関東軍に参戦してきました。日本は弱くなり連戦連敗となり、8月15日終戦となりました。日本は既に慢性的な食料不足に陥り、皆やせ衰えて豆の入ったご飯軽く一杯で過ごしました。
 今、テレビを見ていると栄養たっぷりの美味しい料理の番組が毎日続いています。日本は平和な豊かな国になりました。この状態が長く続くとは限りません。中東から来る石油も戦いのため絶たれれば、すぐに日本に影響します。この豊かな国をお与えくださった神に感謝しなければなりません。世界には平和を愛する国々ばかりではりません、お互いに殺し合っている国があります。その国の人々に平和の尊さを教えるのでなく、伝えなければなりません。私たちは教会に来た外国人と話す機会があります。しかし、何人かの教会員に平和をいわれればその人はいやになってしまいます。

■「70年前の記憶の中の情景」   N.K.

 1945年8月15日、この日の情景は鮮明に今でも蘇ってくる。空は雲一つなく晴れ渡り、ジリジリと太陽が照りつけ暑い日だった。いつも最敬礼で奉安殿を通って登校していた天皇陛下の重大放送、皆ラジオの前に集まっていた。「耐え難きを耐え」だけで後は良く分からなかったが、大人たちは皆泣いていた。“戦争に負けた”大本営発表を信じ婦人会の母たちは消防団の法被を着て、本土決戦に備え竹やりの訓練に駆り出されていた。最後には神風が吹くと願っていた人々に、敗戦は受け入れ難い現実だった。
 幼かった私には、唯「戦争が終わって嬉しい。もうB29爆撃機も飛んでこない」という安堵感で一杯だった。生まれた時には日中戦争、2年後には真珠湾攻撃と戦時の毎日だったが、小学校以前の記憶はおぼろげだ。1年生に入学した頃には既に戦争も終わりに近かったが、長野にも空襲が有り警報は頻繁に出され、そのたび貯水池を急遽作り替えた防空壕に避難し、時には1年生だけ高等科の生徒に手を引かれ裏山の松林に逃げていた。体育館は軍の工場にするため床は剥ぎとられ、機械が運び込まれたが、稼働することなく暫く放置されていた。食糧事情は悪くなる一方で、校庭は硬い土が掘り起こされ、大豆やさつま芋、南瓜等が植えられていた。
 家では女子挺身隊から帰った叔母や、満州から引き揚げてきた叔父夫婦、東京から疎開してきた大伯父家族等で17人に増え、雑穀やさつま芋、南瓜の入ったご飯、時にはさつま芋だけの食事やすいとん、アカザ等の野草も食卓に上った。近くの家に身を寄せていたある姉妹が、栄養失調で亡くなった。
 国内外に多大な犠牲を強いて終わったこの戦争も体験者が減り、今この国の国是が変えられようとしている。国の指導者が間違った選択をしないよう主の導きをお祈りします。
「私の戦時体験」
髙桑 弘

 私達は、終戦前後の狭間に学生時代を送りました。そのため、体験も断片的でいろいろありました。学校では旧学制度。小学六年生と中学一年生のときでした。当時、北方の島々を望む北海道の東端、根室に住んでおりました。町は防備体制下、陸軍の兵隊が駐留し、夜は、灯火管制のもと街は全く行政の機能を失っておりました。
当時の北方海域は、アメリカとロシアの軍隊が蝟集(いしゅう) 。根室空爆の寸前にありました。私は、根室支庁管内西春別の軍馬補充部の園農従事を命じられ、十二名一組が長屋に起居し、毎日が馬の食糧である草刈り作業でした。日々、日本か、敵機か、わからないまま、戦闘機の爆音に脅えた自炊生活でした。眼の前で幾人もの労働者が銃弾に討たれ、死に絶えるのを見ました。
或る日のこと、宿舎が空爆のあらしにさらされ、山裾に掘られた防空壕に避難することになりました。壕は十メートル程の長さで、子供が五名程寝られる幅、真っ暗闇の中、敷物もなく、懐中電灯と土の匂いだけで三十余名が起居を共にしました。小便も壁の土を掘ったり、各自が工夫して用を足しました。着替えもなく、食べ物もお握り一個の日が続きました。壕の中は、炎熱のような形容しがたいもので、入り口近くの者と交代をして凌(しの)ぎました。
壕生活十日程。根室の街が空襲で全滅したとの報により帰根することになりました。が、辿(たど)り着いた街は火の海と化していました。私は、難を逃れた郊外の親戚の家に一時避難したのですが、燃え盛る町は、昼のない世界。このような世もあるのかと思いました。その後、北見町の農業をしていた親戚の家に疎開し、終戦を迎えることになったのです。

■「菜の花公園日帰りピクニック(飯山市)」   S.I. 

 薫風の5月5日(火)、サタデークラブで中高生を対象にした日帰りピクニックを企画して行ってまいりました。3人の中学生の乙女たちが参加してくれました。お昼は、北竜湖でポットラック形式で、持ち寄ったおいしいご馳走を食べました。湖の水は澄んでいて、乙女たちが入ってみたいというので、いっしょに裸足になって湖に入ってみました。とても気持ち良かったです。そのあと、バイブルストーリータイムをもちました。自然の中で神様と向き合うことのできる、いい時間だったと思います。
 それから文化北竜館という温泉に行きました。館内の休憩所でまったりしてから、菜の花公園に行きました。乙女たちは「花より団子」でかき氷に夢中でした(笑)(^○^)。サタデークラブの対象年齢は、小学6年生までですが、卒業して教会と縁が切れてしまうのはあまりにももったいないと思っています。これからも月1のペースで、中高生たちを対象にした行事を企画して、彼らとコンタクトをとっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

■「信州宣教区連合婦人会」   M.Y.

 5月19日(火)、新緑に囲まれた松原湖のチャペル。小鳥の囀(さえず)りを聞きながら、日常から切り離たれた恵みの時を喜びました。12教会69名の方たちが集まり、私たちの教会からは7人が参加しました。講師のベドウ路得子先生の賛美とみことばの講演会「いてくれてありがとう」がテーマでした。
  神はわれらの避け所、また力。
  苦しむとき、そこにある助け。
  それゆえ、われらは恐れない。
  たとい、地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも。
  たとい、その水が立ち騒ぎあわだっても。
  その水かさが増して山々が揺れ動いても。詩篇46:1―3
 未曽有の東日本大震災から4年が過ぎ、東北の被災地へ数十回にわたり物資支援とコンサートで慰問を続けておられ、その様子をお話しくださいました。「生きていてくれて良かった」といって会いに来てくれる友人を待つおばあさんの心境など、東北弁で対話の様子を一人芝居で上手に話されます。被災で生きがいを失った人に寄り添い励ましてくれる人の存在の大切さを知りました。また被災直後の映像を見ながら歌って下さった歌に、山本真理子先生(旧姓:布山)作詞による「悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜ぶ、そのような人になりたい」旨の曲も披露されました。 
 一番の圧巻は、映画の一部からイエス様が十字架を負って、ゴルゴタの丘へ行かれる様子や、釘づけられる槌(つち)の音などの映像は涙なくして見られませんでした。路得子先生ご夫妻の働きは神様が用いてくださっていて、ゴスペルコンサートと謳(うた)っても断られることがなく、教会を訪ねる人も起こされているそうです。お食事を共にしながらの親睦会は松原湖キャンプのシェフ方によるおいしいご馳走で豊かな交わりをしました。路得子先生に、昨年の地震の折に頂いたパンのお礼も申し上げることが出来ました。長距離を運転して下さった高橋先生、又、往復の車の中での交わり、S君も一緒に賑わしてくれて、とても楽しいひと時でした。有難うございました。

■「妙高キャンプの恵み」

 ユース(中学生以上)

  キャンプが楽しかった。水遊びが楽しみだ。人の欲はまちがった方向へいかせやすいということを知った。S.F.

  何事もチャレンジすれば成功につながると思った。王より家来のほうがえらい。王は「○○やれ」など命令できるが、それに従う家来のほうがえらい。A.Y.

  初めて聖書の詳しい話を聞いたり、読んだりしたけど、どれも考えると奥が広くてすごいためになった。どんな苦しい時でも神は助けてくれる。と聞いて、苦しい時でも前を向いてがんばろうと思った。M.A.

  「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者」にならないように、また、24節「神が彼らを(鳥)を養ってくださいます。」とある通りに、主に信頼して歩みたいと思いました。暑い熱いうまい楽しいキャンプでした。O.E.

  初めて聖書についてやったけど、最初よくわからなくて困ったけど、いい経験をしたと思う。また、聖書を勉強をするときはしっかりメモをとる。学校のキャンプとちがって、テレビも見れるしジュースも買えるし、おそくまでおきてられて、そういう解放感がよかった。S.T.

  聖書の話を聞いて神様や人のために役立つ夢を実現させたいと思った。部屋でトランプの大貧民をやったのが楽しかった。これたらまた来たい。Y.H.

  キャンプで途中で気持ちが悪くなって、はいて気持ちよかった。S.K.

  「来年はあの友達を連れて来よう!」との声が今年も聞こえました。今年は中高生の部も備えられて初参加の中学生も与えられ、聖書のことばを共に味わい、楽しく過ごすことができ感謝します。廣田信之先生(中野キリスト教会)

  廣田先生のメッセージとてもわかりやすかったです。基本的なことのお話でしたが、人に仕えることや人間社会の中で理不尽なことなどから心傷ついたり、イライラが止まらなかったり、また、自分の失敗に自分を責めたり人に当たったりとありますが、その気持ちもイエス様がわかってくださり、祈ることによって心鎮めてくださる、自分が変えられることを改めて教えてくださり感謝です。ありがとうございました。N.E.

  野の花は美しいけど、神様はそれ以上に私のことを心配してくださっていること、希望を捨ててはいけないことを強く思わされました。S.I.

  天に宝を積む生き方をしていきたいと思いました。今年も全ての事が守られ感謝いっぱいのキャンプでした。M.K.

  久しぶりのCamp参加でした。Youthのみんなのまじめな態度とてもよかったです。人のため、神様のため、これからの歩む道を考える良いチャンスになったと思います。みなさんのご奉仕、感謝します。Y.S.

  自分から神様に求め、また声をかけられたら(立ち上がりなさい。)すぐに応じられるよう、準備もしていきたい。「神様がやるべきことをあたえてくださってる。」神様から何を求められているか考えていきたい。神様の前で生きていることを意識し、神様の前で富む人でありたい。M.H.

  今回のキャンプのメッセージなどを通して、私が様々なことにおいてどれだけ自分中心に考えているのかということを知りました。いつも、人によく思われたいと人の目を気にしてばかりの私自身のおろかさを知りました。人にどう思われるかではなく神様がいつも私を見ていてくれていて、神様が喜んでくださることをしていきたいと思いました。M.E.

  日々の生活の中で、時々イエス様を忘れてしまうことがあったので、いつも神様のことを覚え、一緒に歩んでいきたいなあと思いました。今回のキャンプでダンスを通して参加することができ本当に良かったです。M.S.

 キッズ(幼・小学科)

  BIBLE TIME WAS FUN! FOOD WAS YUMMY!(聖書の時間は楽しみだった!食事が美味しかった!)(栗太(クリフト)先生:飯山聖書センター)

  子どもと話し合うこと。子どもの劇の返答を聞くこと。りっぱなスタッフにお会いできること。メアリー先生(飯山聖書センター)

  げきがうまくて話がよくわかった。また、話で新たなことがわかるようになった。話の最後のまとめで話し合っていろんなことを考えることができた。H.Y.

  お話のげきがとても上手でした。よくわかりました。キャンプでイエス様のことがよくわかったのでよかったです。楽しかったのはまくら投げでした。S.H.

  クリフト先生ご夫妻の3回のお話はよく準備されていてとてもわかりやすかったです。バアルの神と主のお話は、神は主しかいない、他の神はいないことがよくわかった。(エキストラ、楽しかった。)H.T.

  先生の劇がとても楽しくてわかりやすかったです。参加させてもらえてよかったです。M.Y.

  お泊りが楽しかった。お友達といっぱい遊んで楽しかったです。川遊びも楽しいといいな。Y.S.

  クリフト先生ご夫妻の劇がとても上手でおもしろく、子どもも大人もわかりやすかったです。罪人の私たちを愛して下さっている神様の愛をもう一度知ることができました。1年経ち、心も体も成長した子どもたちとまた再会でき一緒に過ごせて楽しかったです。R.T.

  げきがおもしろかった。げきを手伝うのもおもしろかった。M.K.

  イエス様のことがよく分かって楽しかったです。A.K.

  ねるのがたのしい。N.S. 

  しょくどうのくまちゃんにさわるのがたのしかった。M.S.

  クリフト先生ご夫妻のすばらしいドラマ(演劇)にひきこまれました。大道具や衣装も手がこんでいて子どもたちにもわかりやすかったです。N.S. 

  クリフト先生ご夫妻の劇がとてもわかりやすくて楽しかったです。みんながお手伝いをして劇を作り上げているのがよかったです。みんなお話をよく聞いていて、よくわかってうれしかったです。S.K.

  クリフト先生とメアリー先生による聖書劇が大変すばらしく、みんなひきこまれました。英語の賛美歌や聖書クイズなどもあり、イエス様の愛を自らのこととして覚えることができました。高橋宣広

2015年4月号

■巻頭言 「人は新しく生まれなければ」  牧師 高橋宣広

 ヨハネの福音書3章に登場するニコデモは、パリサイという派に属する宗教家でした。「パリサイ」という言葉は、「分離された者」という意味です。この世の汚れから自らを分離し、聖く正しく歩もうと真剣に生きて来ました。またニコデモはユダヤ人の指導者=国の最高議会の議員でした。人々から信頼され、尊敬され、地位も名誉も得ていました。そのニコデモが、ある晩、イエス様のもとを訪ねます。 
 ニコデモは、「人は、老年になっていて」(3:4)と語っています。年齢を重ね、身体の弱さも覚えるようになり、自らの死がそう遠くないことを感じていました。聖書や様々な知識に秀で、人生経験豊かなニコデモでしたが、死後どうなるのか分からず、平安を見出せずにいました。天国に入れる確信がなく、不安を抱えていました。イエス様は、そんなニコデモの心の内にあった本当の求めに目を留めてくださいました。そして語りかけてくださいます。
 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)
 ここでの「新しく」という言葉には「上から」という意味もあります。上から生まれなければ、つまり神様によって生まれるということです。ニコデモのこれまでの生き方は、努力して神様に認められようとしてきた歩みでした。これまでの価値観は、一生懸命がんばって、神の国に入って行こうというものでした。
 しかし私たち人間の救いは、そういった下から上へのアプローチ、人間の側から神様の側へという方向ではないのです。反対に、上から生まれる、神様によって新生させられることを通してでなければ、あなたは神の国を見ることができないと言われるのです。
 それは、「水と御霊によって生まれ」ることだと、イエス様は教えてくださいます(3:5)。水とは、私たちがクリスチャンとされた時のバプテスマ・洗礼です。頭に水の滴をかけられたり、身体全体を水に浸されたりする。それは古い自分=罪に染まった自分が、溺死させられていくことを意味しています。そして、十字架で私たちの罪の身代わりに死んでくださったイエス様につなげられ、水の中から出されて、私たちは、イエス様と共に新しい人生・新しいいのちを生きるのです。
 この新生=私たちの救いのすべての場面に、御霊なる神が伴っていてくださいます。御霊が私たちの心に働きかけてくださっています。
 この時まで、ニコデモにとっての宗教は、外面をとりつくろうものでした。熱心に律法を守り、良い行いに励み、立派な宗教家となって、神様に喜ばれようと心がけていました。けれどもニコデモには、救いの確信がありませんでした。イエス様はニコデモに、「あなたが何をしたかではなく、あなたの内側に働いてくださる聖霊の働きが大事なのだ。その聖霊の働きに対して、あなたがどのように応答していくかが大事なのだ」と語っておられるのです。
 キリストの十字架の贖いの死によって、私たちの救いが成就しました。神様からの一方的な恵みにとして与えられる救いが用意されています。ただ主の憐れみによって、私たちには永遠のいのちが与えられます。この上からの救い、上からの新生を、御霊によって知らされる時、私たちが、どのように応答していくのか? それを信じて、「ください」と手をさし伸ばすのか、それとも、「そんなことありえない」と拒絶したり、無視したりするのか。そのどちらかです。永遠のいのちにつながる大事な選択です。良き選択をしていきましょう。

■「証し」   H.T.

 謹むで天の神様を讃美いたします。
 私は、北海道根室市で旅館業を営む父の長男として生まれ、姉が六人の末っ子。小学生の時に大空襲があり、家を焼かれ、北見市に疎開、幾多の変遷を経て再び根室に戻り、高校卒業後、海上保安庁の事務職員として入庁、小樽等を転勤し、退職。札幌市に居住しました。家は代代仏教徒でしたが、拝み、頼み、法要等の一切は、世間の慣習に従って営み続けて参りました。果たして、このことが本当の信仰と云えるのだろうか。ふと考える時がしばしばあり、今考えると真の信心とは云えず、形骸的、世襲性の強いものだと思ってをります。
 退職後、七十才を過ぎた頃から、数々の病を得、中でも心臓病を患い、死と向き合い、その際に信仰心の気持ちが芽生え、永遠にして不死なる生命は、キリスト教の神のうちにしか見出せないことを知りました。
 そのことを知ってから、書架にキリスト教の冊子があったので、改めて眼を通しました。神様を知り、イエス様がキリスト(救い主)だと信じたのは、この時でした。
 そうした或る日、妻に促され、札幌の教会であるグレース・コミニティや、その中の家の教会に通い始め、聖書を学ぶようになりました。
 また吾が家では、週に一度、家のリーダー二名による学びが始まり、三冊のテキストを学び終えることができました。学びは楽しく、病気のことも忘れることができたように思います。教会では、日曜礼拝のほか、夫婦で学ぶアルファ・コースもあり、これにも参加、牧師夫人が、吾が家に来て一刻の学びをする等、毎日が感謝の心で満たされるようになりました。
 私は、生来、神経質な性格で、悩むでもしようがないことをあれこれと考え、眠れぬ日が多くありました。こんな私を慰めてくれた御言葉が、マタイの福音書6章34節「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」また、ヤベツの祈りを知り、私の朝の祈りとしてをりました。歴代誌第一の4章10節「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が、私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことがないようにしてくださいますように。」
 長野市に転住後は、縁があって、長野福音教会に通うことができ、皆さんの面倒を頂きながら、楽しい日々を過ごしております。
 今後は、聖書の最も確かな証言の集成である使徒信条を目途に生きようと願ってをります。皆さんに厚く感謝申し上げます。

■「救いの証し」   Y.T.

 4年前の2011年暮に、私と夫は住み慣れた札幌を離れ、長野市に引越して参りました。高齢の私たちにとって、大きな重い決断でしたが、この長野の地に骨を埋める覚悟でおります。8年程前、夫が狭心症を患い、病後の不安定な精神状態が続いておりましたが、そんな夫の心を励ましてくれたのが、姪のYさんでした。北見めぐみ教会のクリスチャンです。ある日、Yさんの紹介で同じ教会のM.Y.さんが我家を訪ねて下さいました。
 その頃の私達は、2人の息子がそれぞれ独立して、東京と長野に暮すようになっており、夫の退職後は、旅行をしたり、それぞれに趣味を楽しみながら、穏やかな老後生活を送っておりました。私はサークルやカルチャー教室に入り、結構打ち込んで、趣味活動中心の生活になっていました。家事も手を抜いてはならないと思い、忙しい毎日でした。はじめは理解してくれていた夫でしたが、病後は家に居ることが多くなり、次第に私が外出することを快く思わない様子でした。それでも私は趣味活動はやめられませんでした。自分らしく生きたい。もっと自由に好きなことをしたい、と思っていました。夫の気持ちも考えず、自己中心の行動がエスカレートして行く中で、心の中はいつも虚しく、ただひとりで生きている様に感じていました。 
 そんな時に出逢ったのがM.Y.さんでした。彼女は親身になって話を聞いて下さり、「二人の間の問題は、イエス・キリストによってのみ解決されます。」と言われ、二人で教会に行くことを勧めて下さいました。それぞれに、不安や淋しさで心ふさがれていた私たちは「グレースコミュニティ」という教会に導かれました。M.Y.さんはその後3年間、月に1度我家に来て下さり、親しく交わり聖書の学びをして下さいました。私は、毎週礼拝に出席し、「家の教会」の集まりに集うことを通して、神様がおられることを感じ、聖書の神様がただひとりの神様であることを確信致しました。聖書を学ぶことで、この神様がすべてを造られ、罪を持って生まれた私達を救うためにイエス様を地上に送って下さったこと、イエス様が十字架にかけられ、死んで三日目に復活し、弟子や人々と共に暮らし、天に昇られたこと、そして現在聖霊によって私達を励まして下さっていること、イエス様が再び地上に来られるという約束があることを知り、歴史的にも矛盾のない真実として受け入れることができました。
 数ヶ月後、礼拝堂で聖餐式があり、イエス様から招かれていることを感じ、パンとぶどう液を受け取ることができました。ローマ人への手紙10章9節、10節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」このみことばによります。
 半年程経って夫が教会に行かなくなりました。家の教会の集りではいつも私たちのことが熱心に祈られていました。私自身は夫のことはなかなか祈ることができませんでした。親から受け継いだ慣習のことで意見が対立し、口論になることもあり、相手を憎んだり荒い言葉に対して、更に強い言葉を返したり、夫に従えない私でした。
 祈れない私にS牧師は、「神様に自分の重荷をあけ渡し、もっと神に拠り頼むこと、問題点が問題なのではなく、自分が変わることが大切。相手は変えられない。」と教えて下さいました。
 みことばを通して神様は一番大切なことは、主を愛すること、二番目は隣人を愛することであると教えておられます。又、人を裁いてはいけません。自分が裁かれないためであると戒めておられます。
 自分は本当に冷たく、愛がない罪深い者だと気づかされました。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」(ペテロの手紙第Ⅰ3:1)、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16:31)
 まだ私はほとんど変わっていませんが、神様は私の中に少しずつ変化を与えて下さっています。約束のみことばに希望を持って歩んで行きたいと思います。
 今でも祈り続けて下さっているグレースコミュニティの皆さん、北見のM.Y.さん、Yさん、そして私達をたちかく受け入れて下さっている長野福音教会の皆様に心から感謝申し上げます。

■「背中に主の視線を感じながら」   S.Y.

 この度、礎会(旧アダム会)の会長を仰せつかりました。私はまだ長野福音教会に加わってから日は浅く、会衆の歴史や諸先輩方にもまだ疎く、さらには仕事の関係で礼拝に出席できない日も多い者ですが、皆様方にご指導ご援助いただきながら役割を勤めさせていただきたいと思います。宜しくお願いいたします。
 諸先輩方が当然のようにして日々の信仰生活で示して来られたことだと思いますが、礎会の壮年男性の立つ位置に関して、新人として改めて考えてみます。礎会の壮年男性の多くは、外に仕事を持っている、あるいは持っていた方々です。日々の生活のうち多くの時間を、教会外の人々、お金やモノ、作物や作品といった「この世」と共に過ごしております。良くも悪くも、それが主に与えられた私達の持ち場です。そうした「この世」において、私達はどちらを向いて日々過ごしているでしょう。ひたすら主の方を向く? そして「この世」の人々に背を向ける? いいえ、そういうものでもないでしょう。だいたい「この世」だって、主に造られ主に愛されている被造物なのですから。
 おそらく私達は、主の視線を背中に意識しながら、「この世」に対峙するものなのでしょう。主に救われていることを確信し、主に支えられていることを確信して、この世に真正面から向かい合うものなのでしょう。この世の方々の側から見れば、私達の姿越しに、後ろにおられる主が見えるかもしれません。そうであれば、私達の姿は、あまり重厚ではなく、ほどほどに透けて、後ろの主が見える方がよろしい。そのような者として、主を背中に、人々の側を向いて、この世におけるそれぞれの持ち場にありたいと思います。日々の姿が、主が居られることを証ししているものでありたいと思います。
 それでも教会では、ちょっと向きを変えて、兄弟姉妹と共に主を見上げ、共にみことばから学び、共に主を賛美して過ごしたいものです。いいえ、実は向きをクルクル変えているのでも何でもなく、この世に向かうことも主を見上げることも、こうしたこと全体が、主に付き従うことなのだろうと思います。
 共に主に従い歩んで行きたいと思います。皆様宜しくお願い申し上げます。

■「泉会の会長を承って」   N.E.                       

 今年度、泉会の会長を務めさせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。私は、役員等々があったので、ここしばらくほとんど泉会には出席していませんでした。「今年は負担の軽い奉仕をやらせてもらい、少しずつ復帰していこうかな」などと考えていた矢先、ご指名いただいた3人の話し合いの場でなかなか会長が決まらず、そのときに「じゃあ、私やります。」と、うっかり口をすべらせてしまいました。後になって”お二人のどちらかにやっていただけばよかった。私には荷が重過ぎる・・”と、とても後悔しましたが、あとの祭りでした(笑)。
 泉会には、年齢に関係なくお若い方が多くおられます。私よりもずっと年上なのに、”年齢不詳”と思えるほどはつらつとしていて、いろいろなことに興味を持ち、チャレンジ精神も旺盛な方々もおられます。そして、みなさまが多才でいらっしゃることに驚くことがあります。私は今のところ、特に趣味もなく、これといって得意なこともありませんが、神様に祈りつつ、みなさまにお支えいただきアイデアをいただきながら、役員3人で力を合わせて乗り切りたいと思っています。

■「新役員に選ばれて」   R.T.

 この教会で礼拝を守っていくなら、いつか役員に選ばれる日が来るのかなあと、うっすらと感じていたのですが、まさかこんなにも早くその日がやって来るとは思いませんでした。何の取り柄もないこの私がなぜ選ばれたのでしょう。もし今、適任の方が現れたらすぐにでも喜んでその方にお譲りしたい気持ちで一杯です。いつでもお待ちしています!
 まだ役員に選ばれたからといってなんのお手伝いもできていませんし、全く実感もありません。一体私に何ができるのかわかりませんが、このような者をお選びになった神様に全てを委ねて、自分なりに一生懸命仕えていけたらと思います。教会員の皆様には忍耐強く見守っていただくことになるかもしれません。すみません。このような者のためにもお祈りしていただけたら幸いです。

■「22億回の鼓動」   T.K.

 私は60歳となり、35間務めた盲学校を退職しました。ちょっぴりおセンチになり、静まっていたら、やけに心臓の鼓動が気になりました。そこで、心臓の働きを計算してみました。
 心臓は1日に約10万回拍動しています。1年で3650万回、60歳だとなんと22億回にもなります。そこには、色々な思い出が詰まっています。嬉しかったときも、悲しかったときも、怒ったときも、笑ったときも、そして恋してときめいたときも、その場面場面で心臓は鼓動の仕方を変えつつも、心拍数を重ねてきました。心臓は目が見えても見えなくても、それは有頂天のときも絶望のどん底にいても、生きろ生きろとばかりに60兆個の細胞に血液を供給しているのです。その血液量は、1日6000リットル(ドラム缶30本分)におよぶのです。この命の営みを愛おしく思いませんか!命を大切にして下さい!(川崎市の少年事件を思いつつ)自分の命を大切にするように隣人の命をも大切にして下さい。(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。マタイ19:19) 
 今後の歩みとして按摩・はり・灸の「くらし三療院」を開きます。場所は長野運動公園の北側です。よろしかったら一度お越しください。

■詩とエッセイの投稿  『Quiet Fire (静かなる炎) 』 K.I.1986年

 よどみの中に沈むほど
 色こく映る黒い影
 闇のなかまでに
 さらに深い孤独があったとは…

 それでも私は
 信じていました
 たとえ絶望のなかに
 立ちすくみ
 弱々しい心を
 ふるわせていても…

 あなたを知る前に
 私はどれほどのものに
 すがってきたのでしょう
 どれも私が手を伸ばすだけ
 私を引き抜いて
 ささえてくれる手を
 それらのものは持ち合わせない

 あなたを知ってから
 ほんとうのあなたを
 受け止めた時から
 すべてが生まれ変わりました
 私の心に巣くっていた
 孤独は洗い流され
 光が差し込んできたのです

 空白の大地は
 輝けるものとなり
 空白の空には
 青さがよみがえる

 空白の心は
 光に満ち
 空白の愛には
 灯が燃えはじめる

 すべてを感謝し
 讃美いたします
 アーメン


 この詩は聖書を読むようになり、教会に通い始めた高1の頃に、はじめての信仰告白のような詩として書いたものです。
 詩作は中2ぐらいから自ら始めていた気がします。夢うつつ、孤独に悩み、まどろんでいた若き日々の幻影のような詩から、全く変わって、イエス様にめぐり逢えた希望、まだ洗礼を受けていなくても、心の目が開かれた喜びの詩となっています。
 あるフランスの映画俳優が、孤独を好み、話すのは一対一がよいという文学青年でしたが、「神は苦しんだ者の前に現れる。孤独を知らなければ、神の愛は分からない」という意味の言葉を述べています。
 何が一番至福の時かといえば、お祈りもそうですが、作曲をした(ゴチャゴチャと頭を悩ませつつ)作品を、好きな音楽を聴きながら、清書をする時です。
 「文字好きの君」と友人は認定してくれました。紙とペンがあれば、何かしらコチョコチョと書いてしまいます。
 作曲の清書はかなり数学的な頭を使います。小学生の算数も分からない私が、多少なりとも音楽の中では頭を使って、何とかこなしています。5分ぐらいの曲でも3時間ぐらいかかる時もあり、苦心して作ると半日以上かかります。
 今は録音物もたくさんあり、使いこなすのも簡単になってきました。だけど私は、「ベートーヴェンの自筆原稿、オークションで2億円」、なんという話がとても好きです。あのエルヴィス・プレスリーの愛用のバイブルも、オークションされたそうですね。
 私は「リードシート」というもの(メロディにコードネームを付けたもの)に - ジャズなどはあんなに複雑なのに、リードシートの場合は、4分音符を一つひとつ(1小節に4個)として、簡単に記し、タイム感やアドリブは、それを基にして、自己流でよいという、なんというか優しいのか、意地が悪いのか?分からないのですが - 訓練として書いています。
 讃美歌や聖歌のように詞の付いている作品は、本当に四苦八苦です。ポピュラーにしたり、男声・女声に分けたりするのは、うちの旦那に歌ってもらって、またゴチョゴチョと書き改めたりします。私はノンクリスチャンにもクリスチャンにも響く中間の音楽を目指しています。
 頭の中で書けず、楽器を基にしないとできないのですが、産みの苦しみの後には、ひとつのことを達成できたよろこびがありますよ。
(-ただ捕えようとして、追求している-ピリピ3:12)

2015年2月号

■巻頭言 「たとい山々が移っても」  牧師 高橋宣広

 2015年、長野福音教会に与えられた主題聖句はイザヤ書54章10節です。このみことばは、美しい対句になっています。
  たとい 山々が移っても  ―  神様の変わらない愛は、あなたから移らない
  丘 が動いても  ―  神様の平和の契約は、動かない
 神様の「愛」は、神様の誠実さ、真実さと結び付いています。永遠に変わることのないお方が、ご自身の契約を守り通してくださるのです。この世界に何が起ころうとも、私たちに対する主の愛は変わることなく、主は私たちに平和を与えてくださるのです!私たちが生きている世界は、驚くほどのスピードで変化し続けています。しかし、神様の救いのご計画は永遠に変わることがありません。
 ローマ人への手紙8:32には、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」とあります。父なる神様は、一番大切なひとり子イエス様を、私たちに与えてくださいました。しかも、安心して任せられる人にではなく、危険極まりない世界とそこに住む人々に対してです。その命を、むごたらしく奪い取る(十字架に付けて殺すような)この世界に向けて、ひとり子をお与えになったのです!
 神様のこの愛を見失うことなく、信じて歩んで行きましょう!神様からの語りかけ=みことばに集中して歩んで行きましょう!神様が私たちになしてくださること=主の御業を敏感に感じ取って行きましょう!
 そして、誠実なるお方に、私たちも精一杯の誠実さをもってお応えしていきたいと思います。私たちを愛してくださるお方が喜んでくださるように 真心から主を礼拝し、仕えていきたいと思います。
 昨年、私たちの周りで起きた天変地異を思い出す時、この国は、いつどんな恐ろしい災いが起こってもおかしくないと実感させられます。ゲリラ豪雨、スーパー台風、スーパー低気圧、土砂災害、大雪、火山噴火、地震などなど…これまでも、この国はそうした天災と向き合ってきたのでしょうが、それでも私たちが経験してこなかったようなことが次々に起きています。
 山々が移り、丘が動くようなことが、今年は起こらないとは言えません。油断はできません。また、私たちの日常においても、山々が動かされ、丘が動くような試練が、今年も待っているかもしれません。不動の山・丘と思っていたものが、揺さぶられたり、奪われたりするかもしれません。
 それでも、- 山々が移るような辛い現実の中にあっても、神の変わらない愛はあなたから移らない。丘が動くような信じられない出来事の中にいても、神の平和の契約は動かない ―神様のこの約束を信じ、握りしめ、今年も歩んで行きましょう。そして、このみことばが真実であることを、今年も体験していきましょう。
 今年も長野福音教会の皆さんが、「この教会に集っていて良かった」と、教会の中で 神様の変わらない愛を体験し、神様の変わらない平和を味わってほしいと心から願っています。互いを思い、互いに祈り、互いに仕えていく、真実な交わりを築いていきましょう。

■「心温まるクリスマスコンサート~泉会役員として~」  R.A.

 昨年11月の終わりに、泉会主催のクリスマス会が行われました。今年は、中野市在住のチェロ奏者・原香恋さんと、長野市浅川のピアニスト・武井純子さんをお招きしてのコンサートになりました。原さんは幼い頃から聖公会の会員であり、5月の教会バザーに来会された時に、高橋先生にご自分のコンサートのお知らせをしていかれたこと、また武井さんのお嬢さんがサタデークラブに参加した経験があることなど、お二人とも教会とつながりがあり、今回のコンサートはそこからすでに神様の導きの中にあったように感じます。そんなわけで、午前の部はコンサート、午後の部は軽食での交わりということに決まりました。会長のKさんを中心に、祈りつつ準備を進めました。
 当日も、泉会のみなさんがそれぞれの賜物で協力してくださり、嬉しかったです。お二人に渡す花束や、昼食のサンドイッチが届くたびに、気持ちがどんどん温まり、ワクワクしてきました。私はプログラムを作成する係だったので、原稿の中に大好きな「You raise me up」を見つけたときは、「この曲をチェロで演奏すると、どんな感じになるのだろう。」と、とても楽しみでした。原さんと武井さんは、会堂のピアノの音の状態から、それにふさわしい演目を選んでくださったり、入念にリハーサルを重ねてくださったり、そのプロ意識はさすがだなと思います。チェロの音色は、耳に優しく、ふんわりと包まれるようでした。ピアノとの調和もすばらしく、その響きはとても心地よいものでした。教会員を含めて52名の方が与えられ、午後の交わりも和やかに行うことができました。初めから終わりまで神様に守られたことに感謝します。

■「NaECクリスマスパーティーに参加して-聖歌隊とともに-」  E.Y.

 2014年12月7日(日)、ホテル国際21(藤の間)にて、2014年のNaECクリスマスパーティーが開催されました。私にとって、前年に続く2度目の参加でした。2度とも、このパーティーの場において、わが長野福音教会の聖歌隊が賛美するという役割があり、聖歌隊の一員としての参加でした。とはいえ、2年目になると、見た事のある顔が増えており、親しみを感じます。
 今年も北村喜彦先生(長野聖書教会)が開会の挨拶をされ、全員で「もろびとこぞりて」を賛美しました。クリフト・ピーター先生(飯山聖書センター)の聖書のことばを引いてのお祈りに一同心をあわせて祈りました。その後、食事としばしの歓談の時を持ちました。食事の後すぐに、私たちの賛美です。今年は、「若葉の里」と「光りあれ」の2曲を賛美しました。その後、有志によるさんびフラダンス、長野めぐみ教会によるコカリナ演奏と発表があり、安海靖郎先生のメッセ-ジ、最後に「きよしこの夜」を全員で賛美し、北村会長の挨拶をもって散会となりました。
 聖歌隊あってのNaECクリスマスパーティー参加でしたが、聖歌隊は2015年度に活動を縮小することになりました。私は、水曜日の練習には参加できず、毎月の第四主日礼拝後の練習にも欠席せざるを得ない時もあるような隊員ですが、聖歌隊の活動では大切なことを多々教えていただきました。その中でもっとも印象に残っているのは、常に歌詞からどういう情景を詠っているのか想像すること、その情景に合うような歌い方はどうか、どうすればそのように歌えるか、を教えていただき練習したことです。
 「礼拝音楽をどうするかは、そのことで教会が分裂するくらい重要なことだ」と滞米中に通っていた教会の長老に教えられたことかあります。そんなことばを思い出すことになった2014年のクリスマスでした。

■「楽しかった!ゴスペルコンサート」  N.S.

 4年目になるゴスペルコンサート! 
 6月からの半年間、月1回の藤崎恵美子先生ことエミ先生のきびしく、おっかなく?でも、笑いありのレッスンに耐え?クワイヤーは12月のコンサートに向け歌を覚えます。私の場合ボケ気味の頭に英語の歌詞と曲をたたきこむのに毎回ヘロヘロですが、脳の活性化にはよいことかな?と思い頑張りました。6~7曲ぐらい英語で歌うのですが、日本語の訳があるのでその意味をかみしめながら歌います。でも、意味を知れば知るほど涙があふれだします。神さまの私たちに対する愛の深さ、神さまが私たちの罪のために十字架上でどれほどの苦しみをしてくださったか。
   I’ll never Know how much it cost  わたしには決してわからないだろう。
   To see my sin upon that cross.   十字架の上で 私の罪のために
   I’ll never know how much it cost   どれほどの代価が支払われたのかを
   To see my sin upon that cross   私の罪のために主が払われた犠牲がどれほどのものかを私は理解出来ないでしょう
 もう、感謝しかありません。前回から、ピアノ、ドラム、ベースも加わりバージョンアップ!少々声がずれても大丈夫、一流のバンドが補ってくれました。何よりもクリスチャンではない人達と共に神様を力一杯賛美できるのが楽しいです。やみつきになるゴスペル。今年は、あなたも一緒に歌いませんか?

■「子どもクリスマス会」  K.T.

 12月20日にウィングスとサタデークラブ主催の子どもクリスマス会が行われました。当日は27人の子どもたちと、8人の大人が付き添って参加されました。近隣の子どもたちの他に、豊野や中野からも来てくれたり、「週刊長野」のお知らせ欄を見て知ったと、初めて来られた親子もいて、感謝でした。
 まず2階の礼拝堂でクリスマスの賛美をし、クリスマス物語のDVD「おめでとうイエスさま」を鑑賞しました。小学生未満の小さな子どもたちも何人かいたのですが、アニメーションだったので、まるで人気アニメのテレビ番組を見ているかのように、みんな真剣に見ていました。続いて、高橋先生が「今日は、みんなはどうやってこの教会に来てくれたのかな?船や飛行機で来たってお友だちはいるかな?」と、おもしろい質問から始まって、神であられるお方がどのようにしてこの地上に来てくださったか、またイエス様ってどんなお方かを分かりやすく話してくださり、子どもたちも一緒に来ていた大人たちも静かに真剣に耳を傾け、聴いていました。
 高橋先生のお祈りの後、全員で1階に下りて、万年カレンダーづくりをしました。大人にも参加してもらい、御言葉の書かれたカレンダーのボードに、シールやマスキングテープ、リボンなどを使って、思い思いに飾り付けをしてもらい、一人ひとりがオリジナルのカレンダーを作り、家に持ち帰りました。
 工作の後は、子どもたち待望のくじ引きでした。今年こそは「当たるといいな!」と期待して来ている子どもたちにとっては、ドキドキの瞬間です。最後は、リズ先生がアメリカから持って来た杖の形をしたキャンディを見せながら、その作られた意味(キリストの贖罪を表している)を説明して、一人ひとりに手渡ししました。
 この福音の種が蒔かれた方たちのために、皆さんのお祈りのサポートをよろしくお願いします!

■信仰書から  『みことばを生きる - 聖書的霊性の理解-』(遠藤勝信、いのちのことば社、2012年、15~18ページ)

 イエスは、私たち人間が経験するあらゆる悪魔の誘惑を受けるために、荒野に出て行かれました。それは、何よりも人として来られたお方として、私たち人間が直面する内面の様々な葛藤(かっとう)と向き合うためでした。そのために、ひとり荒野に退(しりぞ)かれたのです。イエスの公(こう)生涯(しょうがい)の第一歩が、まずそこから歩み出されていることに目を向けましょう。
 ヘルムート・ティーリケというドイツの神学者が、私たち人間の内面の問題について、次のように洞察(どうさつ)しています。
  「(人間は)神に対して不真実になろうという気持ちをいつも持っていることです。今にも神から自由になろうと、絶えず身構えていることです。別な言い方をすれば、絶えず神に対する疑いをもって生きていることです。」 (『神と悪魔の間』ヨルダン社、5ページ)
この本性、すなわち「神から自由になろうというこの願望は、人間の最も深い憧(あこが)れであり、これは神を慕い求める憧れよりも大きいのです」(同書、21ページ)と。
 この神学者の洞察に、はっとさせられました。私たちが、これまであまりに軽く考え過ぎてきた何かについて、またしっかりと向き合ってこなかった点について、ティーリケは向き合おうとしています。私たちの心の中には、神に対して誠実でありたい、神に信頼し神の導きに委ねて歩みたいという願いが確かにあります。そして、その願いこそが自分の本心であるという前提に立って、そこからそれを妨げる様々な要因を見つめようとしています。-
 本当は、自分のうちには良いものがあるのだけれど、それが不本意な形で妨(さまた)げを受けているという理解です。そして、そのような理解に立つとき、私たちは自分自身の問題と向き合うよりは、私たちを罪へと誘(さそ)ったもの、また私たちの妨げとなったものに関心を向けているのです。あたかも私は、「悪魔の被害者」であるかのように装(よそお)います。罪へと誘った者に対して、「よくも、私を見事に欺(あざむ)いたものだ」と敵意をあらわにすることで、その罪責感から逃れようとしてきたのではないか。そのように本来、しっかりと向き合い、真に悔い改めをもって神と和解し、解決しなければならないたましいの問題を見過ごしにしてきたのではないでしょうか。
 しかし、私たちが向き合わなければならないものは、外側のことではなく、私たちの内側です。私たちの心には、神が語りかけてくださったみことばの種が植えられています。イエス・キリストを信じ、救いをいただいた者には聖霊が注がれ、私たちの心のうちに神の贖(あがな)いのみわざが続けられています。そのような意味で、確かに神を慕(した)い、神を求める聖なる願いが、私たちのうちに宿っています。
 けれども、私たち人間の本性は、なおも神のみわざを必要としているのです。依然として、私たちの内側には、神に対して不真実であろうとする傾向が残っています。今にも神から自由になろうとして、絶えず身構えている私がいるのです。自らが神になろうとして、絶えず身構えている私です。神に対して疑いを抱いて生きようとする私がいる。この深刻な現状を、もしも見落とし、それを安易に考え始めるならば、私たちは絶えず身構えている古い自分にまんまととらえられ、やがて神を見失うことにならないとも限りません。ティーリケの洞察は、その部分を浮き彫りにし、取り組むべき課題を改めて明確にすることに役立っています。
 神の贖いのみわざは、そのような現実を抱えている私たち人間に対して、丹念(たんねん)に施(ほどこ)されるものです。人間の罪の問題は根深く、また複雑であるがゆえに、神は私たち一人一人の信仰者の内面を懇(ねんご)ろにお取り扱いになります。それが単純な病であれば、治療にさほど時間は要りません。けれども、それが深刻な病であり、病巣が深い所にまで広がっており、しかもありとあらゆる部分に、からだ全体に、私たちの信仰生活に影響を及ぼしている場合、治療には時間とともに、その扱いにおいて忍耐深さと慎重さが求められます。そして、神は私たちを愛するゆえに、また良いものとするために、ご自身のものとするために、私たちの人生に深く関わろうとしておられます。
 それゆえ、私たちも、自らのたましいのうちに潜(ひそ)む深刻な罪という現状に目を向けながら、そこに、癒(いや)しのみわざがなお進められてゆくことを期待し、期待するゆえに、癒し主であられる神に信頼し、神のみわざに従順(じゅうじゅん)であるという信仰の歩みを通して、神ご自身のみわざに参与(さんよ)させていただくのです。私たちの心を、神ご自身から引き離そうとする古き自我(じが)の声、またそれを助長して神を疑わせ、神のみことばに従うことをやめさせようとする悪しき存在に対する認識。そして、その戦いは私たちの外側にではなく、内側にあるという自覚。

2014年10月号

■巻頭言 「新しい名で呼ばれる」  牧師 高橋 宣広

 父親になるに際し、子どもに名前を付けるというという経験をしました。生まれて来る子どものことを思いながら、愛と期待をもって名前を考えます。聖書から、また賛美歌の歌詞から、そして祈りつつ。漢字の意味も辞典を引いて調べます。そして人間である私は、最後は勢いで付けてしまいました。
 聖書は、「あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」(イザヤ書62:2)と、神様が私たち一人ひとりに新しい名=新しい立場・いのち・使命を与えてくださり、その新しい名であなたのことを呼ぶと約束してくださっています。神様は、どのような名前をあなたに付けてくださっているのでしょうか!?
 イザヤがこの預言を語ってから約100年後、都エルサレムとその住人は、惨めで凄まじい体験をさせられます。強大なバビロン軍によって、町は徹底的に破壊し尽くされ、大切な家族は殺され、生き残った者も捕虜として、遠くバビロンに連行されていくという悲劇を味わいました。もうこの町は、「見捨てられている」、「荒れ果てている」(62:4)と誰もが思いました。しかし、神様の御思いは違っていました。
 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
 そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。(イザヤ62:1-5)
 神様がエルサレムの民に、そして私たちに付けてくださる新しい名は、「わたしの喜びは、彼女にある」、「あなたの神はあなたを喜ぶ」です。さらに「聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる」(62:12)のです。
 神様は、私たち一人ひとりの存在を喜んでおられます。その存在自体が喜びである。それは、周りの人たちが、赤ちゃんを喜ぶことに似ています。赤ちゃんは人を笑わせるような面白い話をしません。皆から注目されるような特技だって、まだ身に着けていません。それでも、ただそこにいるというだけで、その存在だけで、通りすがりの人をも笑顔にしてしまうのです。その人の存在そのものが大きな喜びである。この思いは、まさに神様が私たち一人ひとりに持っていてくださる思いではないでしょうか!私たち一人ひとりを創造され、いのちを与え、守り育んでくださっている神様の思いです。
 神様に反発してばかりで、罪多き私たちです。神様を悲しませるしかできないような私たち。それでも神様は、イエス様の十字架の贖いという眼鏡を通して、私たちを「聖なる民、主に贖われた者」だと見てくださるのです。神様のこの大きな御愛を忘れずに歩んで行きたいと思います。

■宣教区信徒セミナーに出席して  K.S.

 「暴走する為政者に対するキリスト者の責任…特定秘密保護法をめぐって」というちょっと難しそうなタイトルのセミナーが、4月29日(休日)に教団副理事長である水草修治先生によって行われました。為政者の暴走ととらえられているのは、特定秘密保護法に限定したものではなく、現在の日本の政治リーダーたちによって、憲法改正に照準を合わせて次々と繰り出される一連の政策や言動を含むものと理解した方が良いでしょう。
 多くの日本人は、日々の生活の中で目の前の税制度や福祉制度などに不平を感じていたとしても、大局的には自由経済の恩恵を喜び、戦争のない平和な日々に満足と幸福を感じているのではないかと思います。しかし、国を取り巻く諸外国による挑発的な言動に対して、あらかじめ対策を講じておかなければならないと考える人も少なくはないようです。前回の選挙の結果、一強多弱国会をつくったのは他ならぬ国民ということですから、為政者たちの暴走の一因は自分たちにあると言えなくもないということになります。現在、圧倒的に多数をしめる国政与党が、数の優勢に乗じて、このタイミングに最終結論を出してしまおうと目論んでいることは、誰の目にも明らかです。表面的には合法的な手続きを踏んでいるように見せつつ、巧妙に仕組まれた詭弁的で誘導的な根拠づけや超法規的な解釈などが議論の中心に据えられているような情況そのものが、すでに民主主義を歪めていると言えるのではないかと思います。
 聖書の教える愛に基づいて平和を強く願うキリスト者としては、再び戦争が起こらないことが大きな祈りの課題です。特定秘密保護法によって情報がコントロールされ、集団的自衛権の発動などによって、じわじわと戦争に巻き込まれていくシナリオを合法化させることは許されません。戦場に出かけていくのは為政者自身ではなく、私たちの愛する子どもたちなのです。国家権力の増大に伴って、国民の宗教や思想や言論に関する自由が制限されたり、戦争の不安に震えて暮らすような国に逆戻りしてはなりません。
 今日の情勢は、政治的な法制度整備という単純な問題ではありません。日本人の歴史観・宗教観・価値観・民族意識といった精神構造、国民の権利、人間の自由などの多くのテーマが絡み合った非常に複雑な内容をはらんでいます。私たちは政治的野党という立場ではありませんが、日本国民として、また主の教えに従う者として、為政者の言動の裏に潜んだ目論みをしっかりと見極めていかなければなりません。
私たちはこの問題について一体いつ祈ればいいの? 今でしょ!

■ゴスペルワークショップに参加して  T.T.

  さわやかな6月第二土曜日の午後、ゴスペルワークショップに藤崎恵美子先生と37名のクワイヤ―の皆さんが集まり、スタートしました。早いもので4年目を迎えることができました。
 昨年12月のコンサート近くになった頃は、もう私には無理かなと思っていました。コンサート当日、仲間の皆さんの不安そうな会話が聞こえてきました。私も、今日で最後の賛美になるかもしれないと思いながら本番に臨みました。
歌い始めると先程までの不安は消え、エミ先生の吸引力に引き込まれるように、皆が心を合わせて、楽しく賛美することができたのです。そして皆さんが輝いているようでした。
 コンサート後のティータイムや、同窓会では、仲間の皆さんの話をゆっくりお聞きすることができ、絆が深まったような気がしました。笑いあり、涙ありのお話を聞きながら、いろいろな状況の中からゴスペルに参加されていたことや、ゴスペルが心の支えになっていることを知りました。もう無理かなと思っていた私も、もう少し皆さんと一緒に賛美したいと思い、今年も参加させていただくことにしました。
 ワークショップ初日恒例の自己紹介では、参加したきっかけ等もお聞きすることができ、お互いの距離が近くなったように感じました。今年も笑いと緊張感をもってスタートしました。
いつでもゴスペルワークショップを導いてくださる神様に感謝します。そして、ゴスペルのために、教会の皆様が奉仕してくださり、祈り、支えてくださっていることを感謝します。

■レディスランチョンで学んだこと  K.I.

 去る6月25日にホテル国際21の芙蓉の間にて、毎年恒例のレディスランチョンが開かれました。祈りに始まり、小島美穂子さんらによる特別賛美のあと、守部喜雅氏の講演がありました。
 演題は「新島八重と黒田官兵衛 ― その愛と赦しの生涯 ― 」というものでした。氏は、NHK大河ドラマに描かれた二人の人物像を、もっと深く掘り下げてくださいました。流暢な講演をお聞きして、八重と官兵衛が共にクリスチャンとして、愛と赦しの生涯を送ったことがよくわかりました。
 八重は、会津戦争の時には、味方の前線で敵に砲射し戦い抜きました。しかし後に、兄である覚馬を訪ねた先の京都で、兄の影響から聖書を学び始めました。そして新島襄との出会いにより、彼と共にクリスチャンとしての人生を歩み出しました。病に倒れた襄を献身的に介護したことに、八重の彼への愛が溢れていると思います。
 一方、官兵衛は、信長・秀吉・家康の三大武将に軍師として仕えました。戦国の世にあって、本能寺の変で信長亡き後、主君秀吉のために智力を働かせて、毛利氏や北条氏との和平交渉に成功しました。各地の武将が群雄割拠する中で、軍師官兵衛の主君への愛と、敵に対する赦しの精神は特筆すべき点だと思います。
 常日頃、聖書を学び、キリストの思いを身に付けたいと願っている私にとって、守部氏の講演は大変有意義なものでした。また普段は、あまりお会いする機会のない市内の教会の皆様と交流できることを嬉しく思います。今後もこのレディスランチョンが引き継がれていくことを願ってやみません。

■妙高ファミリーキャンプ3年を終えて  H.E.

 7月20日~21日、妙高青少年自然の家で妙高ファミリーキャンプがありました。今回は大勢の未信者の子どもたちも含め74名のご参加でした。感謝です。皆様のお祈りに支えられた2日間でした。
 子どもたちは集会、ゲーム、キャンプファイヤー、川遊び等で、大人は3回のワークショップで楽しみました。妙高でのキャンプは長年続けられてきましたが、時代や、集う子どもたちのニーズに応じてスタイルを変えてきました。子どもと大人一緒の「ファミリーキャンプ」も、そんな工夫をしたキャンプです。 
 3年間を簡単に振り返りますと次の通りです。
  【1年目】ヤングチャペルは任意の外部キャンプに送る方針にしました。ウィングスは妙高継続ですが、大人の参加者を募り、キャンプファイヤー等の支援をしました。併せて信仰色を抑えた交わり中心のワークショップを設けました。(0歳児~高校生まで:14名、大人:36名参加)
  【2年目】大人とウィングス を切り離し、大人はワークショップ中心に進めました。大人の未信者の方が3名参加。(0歳児~高校生まで:15名、大人32名参加)
  【3年目(今回)】今回の様子を見て大人キャンプは存続も含めて見直すことを決めました。初めての参加者をイメージし、内容とスケジュールが分かるカラーチラシを用意しました。中野キリスト教会の「子ども会」のご縁の子どもたちの参加が多かった。(0歳児~高校生まで:33名、大人41名参加)
 今年は子どもも大人も参加者が最多で宿泊室が足りなくなる程になりました。勿論、参加人数というのは波の様なものなので、一喜一憂することはできません。
 この3年を振り返ってみますと、このキャンプ、実は昨今の様々なニーズに合っていたのかもしれません。それは次の様な理由です。
  ① 安い!・・1泊3食で2,000円前後です。キリスト教系のキャンプは2,000円前後が多いことを考えると費用は十分の一です。
  ② はやい!・・妙高は1泊2日のキャンプです。通常のキャンプは3~4泊であることを考えると、奉仕者の負担は少なくなります。また未信者家庭のお気持ちを考えると、このような短めのキャンプには安心して送っていただけると思います。 
  ③うまい!・・食事はキャンプの満足度を上げる大きな要素です。妙高のバイキングは本当においしくて評判がいいです。食堂の居心地も良く、特に大人は、食後のワークショップになかなか集まらなくて苦笑でした。(-“-)
 この「安い」「はやい」「うまい」というのは、外食産業に限らず、一般に受け入れていただくための必須要素だと思います。とすれば、この言葉を地でいく妙高キャンプは、地方の教会の自前キャンプの最先端、それも未信者の方に福音を伝えるに一番戦略的なキャンプのように思います。
 キャンプの今後についても検討しています。
 妙高キャンプ次期3ヶ年の方針(案)
  (1)次世代伝道、信仰継承の場としてキャンプを続ける。特に未信者の子にとっての貴重な種まきの機会として重視する。ウィングスとのつながりを拙速に求めない。
  (2)奉仕内容を明確化し、希望者による単発的な奉仕でできるキャンプにする。参加人数も減らす。大人の交わりを趣旨にしたワークショップは見直し、子ども支援または子どもを守る趣旨のワークショップにする。
  (3)センターチャーチとして他教会との宣教協力の場と考え、参加を希望する教会内外の次世代の子どもたちにみ言葉の種まきをする。福音を必要としている子どもたちの99%は教会外にいることを覚え、サタデークラブ、ウィングスを中心にして、外部との接点や関係づくりを行っていく。 
 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」Ⅱテモテ4:2

■「これはあなたの属しているところ」  S.K.

 私の人生について知りたいという人々がいるので、文章を書くようにと頼まれました。私はアメリカの中西部で育ち、リベラルの教会に通いました。教会で神様は正義を望んでいるという教えを聞き、不正義に苦しむ人々のための言動や犠牲的な献身を見ました。でも個人の救いの話は聞きませんでした。大学生になってすぐ福音的な信仰を持つ学生と会って、救いに導かれました。生きておられる神様の愛を経験してから、聖書の学び、大学での弟子訓練、伝道活動に集中するようになりました。少しずつ、キリスト者が少ないところで私の人生を用いてほしいと考えるようになりました。日本からの女子留学生と友達になり、日本社会に関する授業を受けたり、日本の霊的状況を聞いたりしてから日本へ行くことに関心を持つようになりました。まずはアメリカで大学伝道・弟子訓練の仕事をしました。日本への短期宣教旅行の機会が与えられ、東京で2ヶ月間大学生とかかわって過ごしました。ある日、商店街を歩いていると聖霊様の声が頭の中に聞こえました。 “This is where you belong.” (「これはあなたの属しているところ」)という言葉でした。
 1988年に宣教師として来日し、15年間、東京都と名古屋市の多くの大学生と関係を作り、イエス様のことを話し、弟子訓練をしました。愛情を注ぎ、祈りで満ちた生活でした。しかし、大学生と私の年齢や文化のギャップが大きくなってくると、仕事は事務が中心になってきました。そのような仕事が合わなかったので、キャリアを変えました。そのとき、ミッション系の高校の仕事に導かれ、言語教育学の勉強もできました。聖書学者になろうとしている友達と小さな部屋に住んでいたので、長野県短期大学の公募を見たときに、もっと人間らしい生活が想像できました。今年7年目で、英語コミュニケーションと異文化理解の授業を教える専任教員をやっています。一人前の教員になることと学生が人生をレベルアップするのを助けるために頑張っています。今、私はどのように神様に仕えるべきかはっきりわかりませんが、直接宣教している人々を支えています。

■世界宣教大会に参加して  So.S.

 8月14日から、神奈川県川崎市で開催された世界宣教大会に参加させていただきました。最初は、「世界宣教」なんて、この私が考えるのは、とてもおこがましい気持ちでした。しかし、「牛に引かれて善光寺参り」ではありませんが、「積極的な妻に引かれて宣教大会へ」というような感じでした。
 宣教大会には、1,000人を超える方々が参加されていました。「世界宣教」なんて、私には大それたことだと参加に躊躇していた気持ちは、この参加者の人数を見て、一気に吹き飛んだ感じでした。
 世界宣教大会には当然ながら、世界のあちらこちらで、イエス様の教えを述べ伝えている先生方が沢山いらっしゃいました。その中でも、齋藤五十三先生のお話がとても印象に残りました。齋藤先生は、台湾で宣教活動をされていらっしゃる先生ですが、「言葉の壁」が、宣教を妨げる最も大きなものであるとおっしゃっていました。これは、遠く昔人間が、バベルの塔を建設し、神に近づこうとした時に、神様が、言葉をばらばらにされて、人間をあちこちの地に散らされた時から始まるといいます。齋藤先生も、初めて中国語で説教をされたときに、「言葉に深みがない」と笑われ、自暴自棄におちいられたそうです。「もう宣教はやめたい!」という気持ちになり、一度日本に帰国され、診療内科を受診され、「適応障害」と診断されるまでに追い込まれたというお話をお聞きし、精神的病に苦しんでいたころの自分を思い出しました。私も、学校での仕事に行き詰まり、「もう学校には行きたくない!」とまで思うようになった経験がありますので、とても人ごとではありませんでした。ましてや、言葉の壁のある異郷の地での宣教というのは、想像以上に大変なことだろうと思いました。先生は、悩み苦しむ中で、「神」の奇跡を見たとおっしゃっていました。それは、病気から立ち上がり、再び台湾宣教に向かうことができたという奇跡でした。ここでも私と共通な部分があると思いました。私も、精神的病はまだ克服されてはいませんが、学校に再び復帰することができたという「神様の奇跡」を見せていただくことができました。でも先生はおっしゃいました。「今では、宣教は楽しいと思えるようになったが、あの時のどん底の状態であったころのことは、けっして笑っては振り返ることはできない」と。しかし、そのどん底の状態があったからこそ今の私があるともおっしゃっていました。私自身もそのように思いました。バベルの呪いの向こう側に、奇跡を見た。それは、言葉の壁を越えて、異郷の地で、異文化を伝えることが再びできた」ということ。それこそが、奇跡だということでした。
 私は、先生のお話をお聞きして、自分も全き福音を宣べ伝える証人の一人になりたいと思いました。そのためには、もっとイエス様・神様のことを知らなければならないと感じました。
 他にも沢山の宣教師の先生のお話を聞く機会に恵まれ、この宣教大会に参加させていただいてよかったと思いました。これからも、全き福音を宣べ伝える証人になるために、神様と共に、イエス様と共に歩んで参りたいと思います。

■世界宣教大会に参加して  Sa.S.

 日本同盟基督教団の世界宣教大会に参加しました。特に印象深かったことを書きます。
 齋藤五十三先生の「再び一つに」というメッセージでは、創世記11章と使徒の働き2章の出来事を通して、人は技術を高めるとそれを誇示して高ぶり、神から離れて人の大きな力に頼ろうとすること、しかしそれは混乱や隔たりしか招かないのにバベルの塔の時代からずっとそれを繰り返していること、人々を一つにするには、大きな力で押さえつける方法と神様が教えてくださっている道を歩む方法があり、真の平和をもたらすのは後者であることをお話されました。
 多様な言語は、多様な文化や学問を発展させたという恵みもあるが、神は高ぶってしまう人々がどうしたら一つになることができるか考えさせようとしてそうされたのではないか、多様性はいろいろな価値観や考え方を持つが、神様の福音はそれらを超えて分かちあうことができ、一つになったときの喜びはとても大きいことを学びました。
なぜクリスチャンがまだ少ない日本からも国外宣教にいくのかが分かりました。宣教についてのディスカッションでは、国外・国内被災地での宣教の様子を各先生から聞きました。共通していたことは、仕える対象を探すのではなく、キリストの心を持って隣人の必要に答えて仕えていくということだと感じました。
 一つ目の分科会では、家庭や地域のことを教会で取り扱うことが伝道につながるという「ファミリーミニストリー」の学びに参加しました。その中で一番驚いたのは、親子の集まりを、礼拝形式からフリースペースにして学び会を別にしたところ、それまで以上に学びの時間が豊かになったという恵みについてです。目標は伝道でも、いろいろなやり方が考え出されていることが新鮮でした。
 二つ目の分科会では、聞くことによって宣教する「聞きやボランティア」という活動の学びに行きました。街中に座ってやって来る人の悩みに傾聴する若者が始めた奉仕で、過酷な状況にあっても人とつながり寄り添ってくれる人がいることは、状況は変えにくくても心を暖かくすることができる愛の働きだと思いました。
 今回の宣教大会参加によって、神様は思わぬ導きを備えてくださいました。大会へは里帰り先からいきましたが、クリスチャンになったことをやっと家族に話すことができたのです。今までも少しずつ話してきていましたが、心配なことがあって夫の家族にはっきり伝えられていないことが、ずっと気になって祈っていました。思わぬタイミングでそれは訪れ、夫は自らの言葉で伝え、それを後から聞いた私は、その翌日、自分のことを話すことができ、言えなかったことを謝りました。母は察していたようですが、言わなかったことにショックを受けていましたが赦してくれました。父は初め、神様を信仰する私たちに対し苛立ち批判をしていましたが、話しているうちにその言葉の中に知ろうという気持ちが込められていくのに気付きました。母の怒りを超えた赦しはとても衝撃でした。父の正直な応答はクリスチャンばかりの中にいると分からなくなっていく未信者の初めの姿ではないでしょうか。神様の福音をまだ知らない両親の対応から、クリスチャンである自分の姿勢を悔い改めるように、神様の語りかけを聞いたようでした。伝道には程遠い私たちの言葉は、神様の御業によって両親の心に少しずつ届けられていたのだと感じました。家族への告白から神様に鎮まされて大会当日を迎えることになりましたが、宣教や伝道を少しでも身近に考えることができたように思います。

■信仰書から  『牧会相談の実際 カウンセラーと共に考える』(藤掛明・小渕朝子・村上純子編、あめんどう選書、2014年、40~43ページ) ※悲しみへの対処(グリーフケア)藤掛明

(1) 嘆き悲しむことを大切にする
 大切な人との死による別れ。この悲しみは、人が経験し得る中でもっとも大きなダメージの一つである。ほかにも人はいろいろな別れを経験し、悲しみにさらされる。このダメージから回復するためには多くの時間が必要となるのだが、私たちは、当然の思いではあるが、できるだけ短期間でそのダメージから回復したいと願い、時に過去のことを無理に忘れようとする。周囲も本人に向かって、過去はもう忘れようと、つい励ましてしまう。信仰者の場合、死に勝利する信仰を持つがゆえに、この傾向が強くなりやすい。
 しかし、それは順番が逆で、先に進めない。本当に回復するために必要なことは、まず大切な人を失ったことを嘆き悲しむことである。ある意味、その時々にふさわしい方法で故人を忘れずに嘆き悲しみ続けることで、回復が実現するのである。
(2) 社会の用意する節目や儀式
 故人を思い、嘆き悲しむことが大切とはいえ、喪失した直後を除けば、日常生活を放棄するわけではない。ほどよいタイミングと方法で嘆き悲しむことが必要になる。そのため様々な節目に儀式が用意されている。まず葬儀があり、喪に服する期間があり、納骨や記念礼拝、墓前礼拝などがある。これらは、遺族にとって非常に意味があるものとなっている。平素の雑事を忘れ、集中して故人を思い起こし、嘆き悲しみ、語り合い、心を癒す良い機会となるからである。これらの機会を内面的な必要を取り扱う機会として尊びたい。
(3) 個人の心の儀式
 社会や教会の儀式以外にも、個人的な心の儀式と呼べるものがある。回復のためには時間が必要だと先に述べたが、時間自体に力があるわけではない。時間の経過のなかで、本人が自覚していなくとも、悲嘆を乗り越えていく心の整理と作業を行っているのである。そのなかで、個人的な心の儀式が生まれてくることがある。例えば、故人の写真を飾ること、故人の愛した花を飾ること、故人を偲ぶ会や記念する会を開くこと。故人の文集を編纂することなど、いろいろである。
 遺族を面接するときには、遺族が自分たちのオーダーメイドの心の儀式を見いだせるようにすることは大切なことである。なぜなら、人の心も魂も、儀式のような体験に助けられながら、そして象徴的な体験に心を潤わせながら、死別の悲しみを消化していくからである。
 なお故人を偲ぶ写真や遺品を大切にしたり、飾ったりすることは、けっして偶像礼拝ではない。故人への思いに心を集中させ記憶を自然に引き出すための記念であり、その背後に神の働きを見るなら、尊い信仰的行為だといえよう。
また、儀式というと、内容や手順を固定させ、何も考えずに続けるというイメージがあるが、個人の心の儀式はもう少し自然体でかまわない。死別の悲しみが癒えていくプロセスのなかで、儀式の内容も変化したり、新たな儀式が誕生したりすることは自然なことである。
 なお個人の儀式は、何もないところから新たにひねり出す必要はないということも強調しておきたい。故人を思い、悲しむ心に素直に従うなかで、やってみたいと自然に思いついたことや、すでにある習慣や試みを積極的に取り組むことが肝心なのである。

2014年3月号

■巻頭詩 

みんなもよびな

さて
あかんぼは
なぜに あん あん あん あん なくんだろうか
ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつっこくよびな

子供の眼

桃子の眼はすんで
まっすぐにものを視る
羨(うらやま)しくってしかたが無い

※八木重吉詩集「神を呼ぼう」他より
【八木重吉】
早世の詩人。1898年(明治31)、東京府南多摩郡堺村(現在の町田市)に生まれ、東京高等師範学校に進む。師範学校時代から日本メソジスト鎌倉教会に通い、駒込教会で受洗。卒業後、兵庫県御影師範の英語教師となる。、このころから詩作に専念し、詩と信仰の合一をめざす。24歳で島田とみと結婚。結核と診断され入院し、その後自宅療養に入るが、1927年(昭和2)敬虔なクリスチャンとして、29歳の短い生涯を終えた。死後「貧しき信徒」や「八木重吉詩集」「神を呼ぼう」が刊行され、信仰の詩人としての声価を高めた。

■受洗にあたっての証し  M.M.

 心身ともに疲れ、58才で退職して、もうすぐ5年になる。「退職したら、母に農業を教えてもらって、ゆっくり生活していこう」と考えていたが、まず、経済的な面で困窮がはじまった、農業だけでは生活ができなくなり、幾つかアルバイトもしたが、体の弱い私は、続けることができなかった。とりかえすことのできない過去への後悔、自分の健康面での心配、経済面での心配、そして家族の将来への心配、その他、さまざまな問題で、悩み、苦しむようになった。
 こんな私を、慰め、励ましてくれ、自分の罪に気付かせてくれたのが、三浦綾子さんの小説でした。人としての生き方、キリスト教の聖書のみことばを、こんな私にも、わかるように、教え気付かせてくださっています。長野三浦綾子読書会へ通い、そして、長野福音教会の聖書入門講座にも通えるようになりました。
 「聖書というものは、醜く罪のある、どうしようもない悪習慣が続く自分の生きざまを引っ提げて読むことが、最も肝要である。」ということが、少しずつ、わかってきました。
 マタイ福音書のイエスのみ言葉に、「心の貧しい人たちは、さいわいである。悲しんでいる人たちは、さいわいである。」は、今のような自分にとって、どれくらい慰め、励まし、生きる力を与えてくれるみ言葉か、このごろようやく、わかりかけてきました。
 「心の貧しい人」とは、人に誇るべき何ものをも持っていない人、金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、己にたのむ何もないがゆえに、「ああ、神様」と、ひたすら神に祈り、神の前に頭を垂れなければならない、まさに、今の自分そのものだということに気付きました。「悲しんでいる人」とは、「肉親の次々の死、病気、障害、不和、非行、自分の直らない悪習慣等々」あまりにも多すぎる。さらに、「自分の不真実、自分の罪、自分のみにくさ、弱さ、不貞、狭量、嫉妬、ねたみ等々」、悲しむべき事は、自分の心のうちにも充満している。これも、「ああ、神様」と、神の前に頭を垂れなければならないことだ。
 洗礼の意味は、「聖霊が心の中に住んで下さる。そして、これからの人生、聖霊とともに二人三脚で歩む。」と、教えてもらいました。
イエスのお名前によって祈ります。アーメン。

■救いの証し K.I.

 神様、私は、今日洗礼を受けさせて頂きます。私は下伊那郡の山村で生まれ、一歳の頃に父の転勤で、長野市に移転したとのことでした。父は戦時中胸を患い、伊豆の療養所生活中に、牧師さんの見舞いによって洗礼を受け、クリスチャンになったと話してくれました。今から四十年程前に病死した父は、生前聖書を開いてみ言葉を語ることはありませんでした。しかし私は、温和な人柄から、クリスチャン人格を肌で感じて成長しました。両親のお陰で暖かな家庭でした。
 四年前に精神科医院の外来にあった「ポプラ便り」を見て、その英会話教室に参加しました。講師のリズ先生との出会いが、私を長野福音教会へと導くことになりました。一昨年、先生に誘われて教会へゴスペルコンサートを聴きに出かけ、数日後のイブ礼拝、昨年の元旦礼拝にも出席しました。この二年間、日曜礼拝や水曜日の祈り会を通して真理を学べるようになりました。この教会はアットホームでおいしいお昼を頂きながらの交わりは、とても楽しい一時です。
 私を受洗へと促すきっかけとなったのは、水野源三さんと、星野富弘さんの厚い信仰にふれる機会があったからです。それぞれに逆境を乗り越えて、クリスチャンとなったお二人の深い信仰に倣い、アドベントの十二月に、ぜひ受洗したいという気持ちが高まっていきました。今、私はキリストによる救いの喜びと、感謝の思いでいっぱいです。
 今までの二十年余り私の心を支え、また励まし慰めを与えてくれたみ言葉は、次に述べる通りです。一つ目には、ヨハネ3章16節です。このみ言葉からは、神様の無償の愛を感じます。キリストが人類の罪のために死んで下さったのは、私の罪を許すためだと信じます。二つ目には、詩篇119編105節です。今までもこれからも、み言葉は私の足のともしび、私の通り道の光となってくれるものと確信しています。
 ―亡き父のあとに従い歩みたし 神様のみ手に抱かれながら―

■エッセイ 「囲いに属さない羊」 正村八重子

 「この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。」(ヨハネ10:16)
 主の教会は、忠実なキリスト者一人ひとりが、多忙な中でも多くの奉仕を捧げ、献げものをして下さることによって支えられ、成長していく。教会というこの囲いの中で毎週みことばを聴き、神を礼拝することの平安、兄弟姉妹互いにことばを交わすことの何と幸せなことでしょうか。
  しかし、この平安で幸せな囲いに入ろうと思わない異邦人がいたり、せっかくこの囲いに入ったのにはみ出してしまう人がいる。
 この教会でも、忠実な教会生活といえないとしても、人の目からはこの囲いから出てしまったように見えても、長い牧会生活の経験から見ると、何とか教会に結びついていきたいと願っている方々がいる。一年に一度、忘れずにまとめて献金して下さる方、汗水流して作られた作物を届けて下さる方、仕事の合間や休み時間に作られたご自分で大切にしている品々をお持ち下さる方等々。その献金、献品をいただく度に思うこと、それは、この方々が、これらを通して主の教会につながっているのだということ。そのことを思うと希望が湧く。
 先日も久しく教会に集っていなかったTさんが天に帰られた。まだはっきりと神様を信じていなかったTさんは、その日、病床ではっきり主イエス様の救いを信じると告白した。次に病床洗礼の約束をしたその日の未明に、再度倒れた。意識が戻ることはなかったが、彼は天に帰られたと信じる。その葬儀の席でご遺族の方々から、自分たちも昔長野福音教会に行って楽しかったことを聞いた。その当時幼かった子供たちが今はすっかり大人になり、日曜学校で聞いた紙芝居や聖書の話をしてくれた。
 イエス様は「この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。」(ヨハネ10:16)と言われた。
 囲いの中の人々も、周りにおられる人々も主イエス様の一つの群れであり、牧者である主の声に聴き従いたいと願っている。

2014年1月号

■巻頭言 「苦しみから平安へ - 回復の希望 - 」   高橋宣広

 今年、長野福音教会に与えられた主題聖句は、旧約聖書のイザヤ書 38章17節です。
  「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。
  あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。
  あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」
 まだまだこれからという四十前の若いヒゼキヤは、ある日、「あなたは死ぬ。直らない」と余命宣告を下されます。しかし、ヒゼキヤは諦めませんでした。必死になって癒されること、生かされることを祈り求めます。主なる神様は、ヒゼキヤの祈りを聞いてくださり、彼の死を15年先延ばしにしてくださいます。
 今年与えられた主題聖句は、死の淵から救い出され、新しい命を頂いたヒゼキヤの祈りであり賛美です。私たちはこの年、苦しみを平安に変えてくださる主を信頼し、祈りつつ歩んで行きたいと思います。
  天の父なる神様
   新しい年、2014年をお与えくださり、ありがとうございます。
   神様は、この年どのようなことをこの世界になしてくださるのでしょうか?
   神様は、私たちにどのようなご計画を持っておられるのでしょうか?
   「平穏無事で、幸せな生活を」と誰もが願います。
   しかし、きっと今年も喜びとともに悲しみが、安らぎとともに苦しみも待っている
   ことを、私たちは覚悟しなければなりません。
   私たちは、今年初めに与えられたみことばを通して、
   1. 主なる神様は、私たちの苦しさ、悲しさ、嘆きに寄り添ってくださるお方だということ。この主により頼み、祈ることが、本当の幸せであることを知ってきたいと思います。 
   2. また、主は無意味に苦しみを与えるお方ではなく、私たちのために、私たちの成長のために、意味のある苦しみを与えてくださることを信じて歩めますように。
   3. そして主は、苦しみを平安に変えてくださるという約束を待ち望めますように。
   私たちの今年一年間の歩み、信仰、そして健康を守り導いてください。
   長野福音教会の歩みを支え、導いてください。
   教会の頭なるイエス・キリストのお名前によってお祈りします。 アーメン

■盲信徒会40周年感謝会  S.S.

 私たち長野県視覚障害者キリスト信徒会(盲信徒会)は創立40周年を迎え、11月4日に感謝会を開くことができました。会員と顧問牧師、それぞれの所属教会や会の活動を支援してくださっている教会から合わせて58名の方にきていただき、会場のホテル信濃路の部屋はいっぱいになりました。
 午前は、開会礼拝と会員9名の証しと讃美です。私の御救い体験、私を励ましてくれた讃美歌・聖歌、私を支えてくれた御言葉、私の信仰書といったテーマで、それぞれ証しをしました。新興宗教から離れたいことがきっかけでキリスト教会に飛び込み信徒となった戸惑いとそれを通って気付いたたくさんの恵み、壮絶な生涯を神様の恵と思い強められていった姉妹の証しは心に残った方が多かったようでした。
 午後はコンサートと主題講演です。歌ってくださったのは、バッハ国際コンクール1位になられドイツや日本で活躍されている今仲幸雄氏です。声楽家となるまでの苦労やバッハの音楽との出合い、クリスチャンになったときのこと、お子さんを通してたくさんの盲信徒の友人があたえられたこと、ドイツによく似た富士見町に移住されたことなどお話を交えながら、事前にリクエストした聖歌・讃美歌を中心に歌ってくださいました。主題講演は、「御言葉を述べ伝える」というテーマで、メッセージしてくださったのは富士見高原教会牧師寺島昭二氏です。いくつかの教会で牧会されてこられた中で、下関や甲府の教会で被差別地区に暮らす人たちや障害者・被爆者と出会い、さまざまな境遇にある人たちに御言葉を伝えるにはどのようにしたらよいか悩まれながら寄り添ってこられたお話が印象に残っています。伝道したい気持ちだけで語るのでなく、伝えたい人のことを知りその人を愛し共にいることが大切であることを改めて感じました。最後に、全国の盲信徒会をまとめる盲人伝道協議会の理事から団体の紹介をしていただきました。
 交わり、讃美し、とても祝福されたときとなりました。ありがとうございました。

■星野富弘美術館への旅行に参加して  S.S.

 11月16日(土)に、福祉委員会主催の星野富弘美術館への日帰り旅行に参加しました。私自身、星野富弘さんについての知識はあまり無く、中学か高校の時の国語の教科書に載っていたエッセーを読んだ程度でした。むろん、頸椎を損傷されて、手足の自由が利かず、口で絵を書いて、その絵を題材にした詩を書かれるということは知っていました。ですから、星野富弘さんの世界にどっぷりと浸かれるこの機会は、とてもわくわくするものでした。
 群馬県のみどり市に富弘美術館はありましたが、「みどり」という地名にふさわしく、山の奥にその美術館はありました。
 美術館には、音声ガイドがあり、富弘さんの実際の肉声で朗読された詩や絵の解説が聞けるようになっていました。花を題材にした詩や絵が多く、小さな命や何気ない日常の事柄も大事にされる富弘さんの生き方に感動しました。花は花でも、折れてしまった花に注目して、それを詩や絵として描いているところが、とても印象的でした。また、自分の介護を必死にやってくれる母を題材にしたものも沢山ありました。ぺんぺん草という詩が、その中でも、とても印象に残りました。「もし神様が、たった一度だけこの腕を動かしてくれるならば、母の肩を叩きたい」というような詩でした。手足の自由がままならない自分へのもどかしさと、母親に対する感謝の気持ちが、この短い詩の中に、深く織り込まれているような気がしました。その他にも、「弱さ」に視点を置いた作品もありました。「母は、弱かったからこそ、私のこの姿を見て、うろたえ、私の傍から離れることができなかった。もし母親が強い人であれば、私の傍を離れ、家に帰ることができただろう」というニュアンスの作品もありました。弱いことは、決して恥ずべきことではなく、弱さこそ強さであり、愛であると言うことを、富弘さんは、表現したかったのではないかと思いました。
 他にも、言い尽くせないほど沢山印象に残った作品がありましたが、どれをとっても、富弘さんの優しさや、無限大に深い感性の豊かさを知ることができました。これは、水野源三さんにも相通じるところがあるような気がしました。水野源三さんも、重い障がいを抱えながら、母を題材にした感性豊かな詩を沢山書かれています。弱さを強さや愛に変える生き様こそ、この二人に共通することではないかと思いました。
 今回この旅行に参加して、本当に良かったと思います。様々な事があるこの現代社会において、富弘さんの詩や絵に描かれていることは、生きる上での一つの指針になったと思います。帰りのバスの中で、この旅行に参加された一人一人に感想をうかがう時がもたれましたが、一人一人が違った角度から富弘さんの詩を読み、絵を見ていらっしゃるなあと改めて勉強になりました。本当に有意義な旅行となりました。運営・準備をしてくださった全ての方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。

■泉会クリスマス会  J.S.  

 11月30日(土)の11時から、泉会のクリスマス会を開きました。今年は特別に、長野県視覚障がい者キリスト信徒会の皆様も加わってくださり、36名が集うにぎやかな交わりの会となりました。会の進行は、第1部お話と交わり、第2部食事と朗読の二部構成で行いまた。
 第1部では、H姉が、知恵をしぼって考えてくれた楽しいゲームを行なったり、皆で賛美をしたりしました。高橋先生からは、「My Wayを捨てて」(ピリピ2章6節~11節)というメッセージをしていただきました。イエス様は、神のあり方に執着せず、2000年前に地上にお生まれになってくださいました。私たちのために、神の特権をお捨てになられたのです。私たちも自分のやり方を捨てて、神様に従って生きていく道を選んでいく人生が最良最高なのだと、改めて理解し受け入れることができ、感謝することができました。
 第2部は、おいしい食事とデザートを前にして和やかな交わりのひと時となりました。T兄の朗読とK兄の賛美も大変すばらしいものでした。自己紹介の中で語られた盲信徒のお一人のお話が深く私の耳に残りました。「自分の目が見えなくなったことについて、長いこと親や兄弟を恨んできましたが、今は神様への感謝の思いしかありません。」という言葉は、とても感動的で、クリスマス会にふさわしい一言だったと思います。
 終わりに、準備から最後までこの会を支えてこられた全ての姉妹にも感謝します。

■ゴスペルコンサートの恵み  K.M.

 コンサート当日の朝、約束はなかったのに何となく落ち着かないのか、早くからクワイヤーメンバーが到着。1人が歌い始め、音をとるために前日の練習の録音を流しますと、そこに1人2人と加わって、やがて、音源が聴きとれないほどのボリュームになりアンプに接続。さらにメンバーが増えて、とうとう1階ホールは、割れんばかりの歌声の渦。主を賛美する歌声が次の声を呼んで広がっていく、そしてこの一体感。こんな経験は、初めてじゃないかと思いました。
 午後のコンサートには、驚くほど大勢のお客様にご来場いただきました。準備が不十分で、係の皆さんには目の回るようなご苦労を強いることになってしまいました。手際よく対応していただけて本当に感謝しております。
 ついつい目がいってしまうような迫力あるバンドも加わった今年のコンサート。歌っている私たち自身も音の海の中に柔らかく包まれているような不思議な感覚にありました。歌の善し悪しはともかく、一生懸命な姿勢と歌う喜びだけはご来場の方々にも受け止めていただけたようで、アンケートの中に、「来年は、是非クワイヤーとして参加したい」というお声をかなりいただき、こちらもまた、ゴスペルの力だなと思わされました。
 Emi先生には、教会のお財布事情までご心配いただき、バンドの皆様には、出演料の一部に献品のリンゴを充てさせていただき、教会の皆様には、祈りと時間と労力と資金をお捧げいただき、3年目のコンサートを無事に終えることができました。歌うことが好きで集まったクワイヤーの皆さんですが、礼拝堂で、主を賛美する歌を全身全霊で歌うことは、いずれ大きな祝福へとつながっていくことと信じます。この先、どこまでいくのか、主のお導きに大いに期待していきましょう。

■子どもクリスマス会2013 R.T.

 12月14日(土)に毎年恒例の子どもクリスマス会がありました。秋からサタデークラブとウイングスのスタッフであれこれ話し合いながら準備を進めてきました。
 去年はものすごい数の子どもが一気に押し寄せてきて嬉しい悲鳴でしたが、受付が回らず開始時間を遅らせるほどでした。今年はポツポツとやって来る感じだったので、余裕を持って受付できて時間通りに開始できました。
 まず第一部として2階で礼拝をしました。キャンドルの灯りの中で、K姉にクリスマスのお話を読み聞かせしていただきました。クリスマスの本当の意味は何なのか子どもたち一人一人が静かに聞いていました。イエス様の誕生がどのようなものだったのか、どうして生まれてきてくれたのかを少しでも知ってもらえたなら嬉しいです。それから「きよしこの夜」や「もろびとこぞりて」のクリスマス賛美歌をみんなで歌いました。最後に高橋先生にお祈りをしていただきました。きっとお祈りをすることも初めての子が多かったと思いますが、静かにお祈りに心を合わせてくれていました。
 第二部は1階でマイク先生とリズ先生に楽しいゲーム大会をしていただきました。チームに分かれて「人間知恵の輪」に挑戦したり、新聞を使ったゲームを楽しみました。仲良しの友だち以外の友だちとも関われる楽しいゲーム大会だったと思います。
 最後に子どもたちが楽しみにしていたおもちゃが当たるクジ引き大会をしました。今年は少しプレゼントを増やして、少しでも多くの子に当たるようにしました。
 今年は子ども47人、大人19人が来てくれて、とても賑やかで楽しい一時となりました。反省点もありましたが、それを生かして来年も素敵な子どもクリスマス会にしたいと思います。

■教育部の働き  S.K.

 教会教育は乳幼児から成人までの全員が員が対象です。聖書に基づいて教えられ、教えられたことを実行していくことは生涯にわたり大切です。そのために、教育部として主に次のような活動を行っています。
  ・各会の時に「病める社会の病める教会」(勝本正寛著)の学びを行っています。
  ・乳幼児から高校生までの教会学校関係、大人の講座、音楽関係の働きがあります。
  ・今年度行った行事として、7月の第3主日と月曜日の海の日にかけて、乳幼児から大人までを対象としたサマーキャンプを妙高少年自然の家で実施しました。
  ・福祉委員会企画の「高齢者・障害者と共に行く日帰り旅行」では、星野富弘美術館へ18名で行ってきました。
 世の中、少子高齢化が進んでいます。教会も例外ではありません。少子化ということで教会のウイングスやヤングチャペルへ来る子供達も目で見える形では減っています。一人も来ないなんていう日もたまにあります。そんな時、これからの教会学校はどうなってしまうのだろうと不安に思います。しかし、教会学校の働きは続けていこうとスタッフで話し合っています。子ども達への種まきは大事ですし、信仰の継承をしていくという意味でも教会学校の働きは止めてはいけないと思っています。また、時には子どもが成長していく過程である時期、教会を離れてしまうことがあるかもしれません。そんな時は教会員がその魂のために祈り続けることが大事なのだと思います。教育の働きはすぐ目に見えて成果がでるものではありません。しかし、とても大事な働きです。
 また、高齢者のための教会における福祉の働きについても、何ができるのか今後神様の導きを求めつつ前進していけたらと願っています。年を重ね肉体は衰えても神様にあってその人らしく輝けるような教会福祉を進めていきたいです。

2013年12月号

■私の足を洗って下さるイエス様・・・信州クリスチャン修養会の恵み   O.E.

 もし、天皇陛下が毎日私の家に来て足を洗って下さるとしたら、私はどうなるでしょうか。血の気を失って遠からず入院すると思います。しかし、それと比べ物にならない畏れ多い事が日々行われているという事実を今回改めて知りました。私の足を今日もイエス様が洗って下さる、などと言うと、とんでもないことだとお叱りを受けると思いますが、これは事実なのです。勿論、皆様のためにも行われている事実です。そしてそのことについてイエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 と言っておられます(ヨハネ13:8)。
 10月13日(日)・14日(祝)の両日、鎌田善三師をお迎えして信州クリスチャン修養会がもたれました。いつもながら牧師先生方はじめ大勢の皆様のご奉仕あっての修養会で、本当に感謝です。
 鎌田師を通して語られたメッセージに、私は反省の連続でした。お話の内容を少しでもお分かちできればいいのですが、私の文章とこの紙面では到底お伝えできません。ですので、いくつか印象に残ったフレーズを以下にご紹介し、あとはCDを聞いていただくことをお勧めします。
 「洗足の記事は四福音書中、ヨハネの福音書にしか記されていない」、「聖餐式の記事は四福音書中、ヨハネの福音書だけ記していない」、「ヨハネは弟子の中で一番若かった。」、「洗足は自分がやるべきだと知っていたし、周りの目もヨハネに注がれたはず。」、「しかしヨハネはそこで誰が一番偉いかという議論に参加していった。イエス様が弟子たちの足を洗い始められたのはちょうどその時だった。」、「そこには裏切りを決めていたイスカリオテのユダも含まれていた。」、「イエス様が残るところなく示された愛は、敵を愛する愛、自分を裏切る者さえも愛する愛。」、「愛することは楽なことではない。身近な人であっても困難。」「3年間一緒にいて育ててあげながら、それでもまだ『誰が一番偉いか』と議論しているようなそんな弟子たちの足をイエス様は洗われた」、「私たちは十字架の贖いによって聖なるものとされた。しかし、わたしたちが生きていく時、いやがおうでも罪にまみれ、足が汚れる。しかしそんな私たちのために、イエス様は今も足を洗っておられる」、「もしわたし(イエス様)が洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません(ヨハネ13:8)。」、「私たちのすべきことは、常に汚れた足をイエス様に差し出し、洗っていただくこと。」
 私は、毎日イエス様に足を洗っていただかなくてはならない者なのだとしみじみと思いました。本当に申し訳ない、畏れ多い、かたじけない、顔から火が出る、もったいない、顔向けができない、申し開きできない、面目ない、遺憾、恐縮、痛みいる、一言(いちごん)もない、穴があったら入りたい、すみません、ごめんなさい、という思いです。でも、これからも洗っていただきます。なぜなら、それが主の御心だからです。

■「三浦綾子読書会全国大会」2013に思うこと   T.T.

 三浦綾子全国大会が皆さんの祈りに支えられ10月18日から19日の2日間、長野県坂城栄光教会を中心に行われ、講師の方々の素晴らしい講演やコンサートで恵あふれる大会となりました。地元実行委員会の記録によれば、無言館、坂城町での水野源三文学散歩に32名、戸倉創造館で行われた平和を願う講演会・コンサートに210名、坂城栄光教会で行われた記念講演会に102名、延べ344名の方々が参加し、三浦綾子読書会を大勢の人々にアピールできたことを感謝いたします。
 全国大会は、2013年4月に水野源三精選詩集が出版されたのを記念し、三浦綾子全国大会を長野県の坂城町を中心に計画されました。初日に行われた文学散歩は坂城小学校、宮尾牧師の足跡、水野家でのインタビュー、赤痢に感染した用水池跡、水野源三歌碑、水野家墓地、千曲川まで心が和む散歩となりました。そして、戸倉創造館では平和を願う講演とコンサートが開かれ、浜田盟子さんの歌と阪井和夫さんのピアノで昨年シリアで亡くなられた山本美香さんに捧げる追悼歌「風の中に」を歌い涙を誘いました。
 最終日は聖教団上田教会福島晶子牧師他、多くの方々からお話をいただきました。アシュラムセンター主幹榎本恵先生からは「タラントは埋めてはならない-榎本保郎と水野源三について」と題し、水野源三と三浦綾子さんのエピソードについて紹介があり、この二人の背後に神様の愛を感じていただいたら幸せだと水野源三精選詩集「わが恵み汝に足れり」に触れてくださいました。ある日、水野源三さんは高熱のため手足が麻痺し動けなくなった。宮尾牧師に出会って聖書を読むことによって聖書を愛していった。多くの方は彼を愛され、一生懸命短歌を書きとめていった家族の心のこもった賜物を埋めてはならない。私たちは皆それぞれに与えられているタラントを持っています。それを、それぞれの手で、力で、持っているわざを出し合っていく。それが神様からの贈り物です。と語られました。
 最後に、長野の北信地域に、長野三浦綾子読書会、三浦綾子読書会「千曲」、今回の大会を記念して三浦綾子読書会「坂城」が11月16日に坂城栄光教会で発足します。神様のこの雄大なご計画に感謝いたします。

■窪島 誠一郎氏の講演を聞いて   H.T.

 2013年10月18、19日と、千曲市創造館、坂城にて三浦綾子読書会全国大会が行われ、その中の文学散歩で「無言館」を訪れました。夜の集会では、館主、窪島氏の講演を聞き感動しました。
 「無言館」は、第二次世界大戦で没した画学生の慰霊を掲げて、16年前につくられた美術館です。窪島氏は東京で「スナック」を経営していた頃、画家で自らも出征経験を持つ野見山暁治氏と出会い、「戦地で亡くなった友の無名の絵がこの世から消える」との声を聞いた。初めは感動しなかったが、画学生の家族は、その人を天才だと思い「未熟な絵を並べるも、もっと絵が書きたい」と言っているようだと話す。
 野見山氏と全国を回って遺族を訪問し、戦没画学生の遺作を集めた。絵は沢山集まった。美術館をつくろう。「無言館」と名付けた。彼らの絵の前に言葉はなかった。戦争を直視していなかった「スナック」経営の自分に無言の絵は語りかけてきた。この絵は夫々に何かを語りかけていると教えられた。彼らの絵が僕を見つけた。画学生の一人は「小生は生きて帰ります。未完成なこの絵の為に。」と言い残して戦地へ、しかし、帰って来なかった。絵は戦地から検閲なしに届いた。彼らの心が届いた。そんな思いで絵を見て欲しいと今日の「無言館」はある。
 窪島誠一郎氏は、作家水上勉氏の息子だそうです。貧しい家庭の事情から2才の時養子に出され、思春期の頃、実の親を探し続け、35才の時、実父水上勉氏と再会と書かれていた。思えば風ぼうも体形も良く似ていると思った。以前、K.H.さんから兄さんの絵を無言館に持って行ったとお聞きした。次回訪れる時には旧姓をお聞きし、又戦争を知らない子供や孫たちと共に行けたらと願っています。

■ベトナムに行ってきました!   K.S.

 大学に入ったらやりたいことであった海外旅行に長い夏休みを利用して行ってきました。成田空港からベトナムのタンソンニャット空港に降り立ってからも海外に来たのだという実感がわかず、翌日の朝ベトナムの道路を見てバイクの量の多さに驚き、ひっきりなしになるクラクションの音でここはもう日本じゃないんだ!と実感しました。ベトナムに流れる大きな川であるメコン川クルーズで新鮮な果物を食べたり、現地の人が利用するスーパーに行ってみたり、バイクタクシーとよばれるものに二人乗りして少し遠くの観光地に連れて行ってもらったり、市内を歩いて観光名所をたくさんまわりました。
 また、ベトナム料理はとてもおいしくて、いろいろなものを食べてまわりました。物価が日本に比べて安いのでおなかいっぱい食べてもこの値段なのか!っていう感じで驚きました。特に私がお気に入りだったのはバインセオというベトナム風お好み焼きと呼ばれるものです。
 コーヒーの名産地ということでカフェも多くいたるところにカフェがありました。ベトナムのブラックコーヒーは基本甘いもので、苦いのを飲みたくて頼んでみても毎回甘いものが出てきて、そういうものなのだと悟りました(笑)。最初はバイクだらけでうまく渡ることのできなかった道路も5日間の滞在でコツを覚え、上手にわたることもできるようになり、ベトナムの通貨であるベトナムドンの価値感覚もようやくわかるようになってきたところで帰国日になってしまいました。5日間は本当にあっという間でした。
 今回は観光を楽しむことができましたが、実際に日本の外に出てみてそれぞれの土地に住む人の生活に密着して触れ合うことができるようになれたらいいいました。

■サタデークラブ(英語であそぼう!!)への神様の祝福   S.I.

 いつもサタデークラブのことをお祈りにおぼえてくださり、感謝です。
 サタデークラブも、今年はいろいろなところを通されました。3月には、メイン講師のリズさんが心臓の病気でアメリカでの入院を余儀なくされました。リズさんの病気が一日も早くいやされるように祈り、また一日も早く日本に帰ってきて、宣教のわざを行えるようにと祈りました。そしてリズさんが留守の間は、飯山聖書センターのマイク宣教師が私たちを助けてくれました。いっしょにプログラムを考え、祈りながら準備しました。マイクさんはすごくアイディアが豊富で、楽しいプログラムを考えてくださいました。ほんとうに感謝でした。
 私はリズさんがいない間、いろいろなことを考えました。サタデークラブは、リズさんに負担をかけすぎていなかっただろうかと申し訳なく思いました。
 11月16日のサタデークラブには、元気になって帰国したリズさんも参加してくださいました。サタデークラブへの神様の祝福は変わることはありませんが、それをあたりまえとして受け取るのではなく、感謝の気持ちを忘れないようにしたいです。これからのサタデークラブを神様がどう用いてくださるのか、またどうなっていくのか、とても楽しみなわたしです(^_-)-☆

2013年10月号

■巻頭言 「希望をもって自らの葬儀の準備を」  高橋宣弘

 これまで一年間かけて、水曜日の祈り会では、葬儀について学んで来ました。聖書に登場する信仰者たちの最期を見、遺族の悲しみに思いを馳せ、当時の葬儀・埋葬の様子を知りました。そして土浦めぐみ教会の清野勝男子牧師が著された『キリスト教葬制文化を求めて ー 聖書的通過儀礼の理論と実践』を読み、感想や互いの体験などを分かち合いました。
 創世記の最後に登場するヨセフは、自らの死が間近に迫って来た時、家族を呼び寄せて、こう言い残します。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。 ― そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」(創世記50章24-25)ヨセフの遺言であり、自らの埋葬についての明確な指示でした。
 これは父ヤコブが残した埋葬の希望と全く同じでした(創世記47章29―31、49章29-33)。ヨセフの遺言は、信仰から出たものでした。異教の地エジプトから、神様は必ず約束の地カナンに帰らせてくださる。その日には、私の遺体を必ず運んでほしいと言い残したのです(ヘブル11章22)。
ヨセフの遺言は、400年以上経った後、果たされます。「モーセはヨセフの遺骸を携えて来た」(出エジプト記13章19)と、エジプト脱出の際に運び出され、そしてヨシュア記の最後には、ヨセフの遺骨がカナンの地に埋葬されたと記録されています(ヨシュア記24章32)。一人の信仰者の埋葬までの壮大な道のりであり、イスラエルの民の信仰の旅路でした。
 クリスチャンは、死が終わりではなく、天国へ続く希望だと信じています。イエス様の十字架の救いにあずかり、神の子とされ、永遠のいのちを約束されています。だから私たちは、最期に向かって行く準備を明るくしていきたいのです。ちまたでは「エンディング・ノート」が流行っています。教会でも今回、総務部の役員さんがご尽力くださって「葬儀に関する希望」を書き残すための書式が出来ました。
 葬儀に参列してくれる家族・友人への信仰の証しとして、また遺していく家族・友人たちのために、あなたらしい良き葬儀を準備しておきましょう。「キリスト教式の葬儀をしてほしい、教会墓地に納骨してほしい」など意志を書き残しておきましょう。
 葬儀の際に歌ってほしい愛唱聖歌、読んでほしい愛誦聖句、そして自らの証しなど自由にお書きください。それを家族に知らせ、また牧師にコピーしてご提出ください。教会で大切に保管しておき、葬儀の際にはその希望に沿って心を込めて司式させていただきます。
 生きている時にも福音を証しし、そして死に際してもイエス様を証ししていきましょう。

■大きな船に乗って~キャンプの恵み~  N.S.

   大きな船が出て行くよ 僕らを乗せて 聖霊の風を受けながら 世界中まわるよ
 娘二人と一緒にウイングスに出ていると、子ども向けのすばらしい賛美に出会います。その中でも「大きな船に乗って」は私の好きな賛美の一つで、今年のキャンプの中でも歌われました。
サマーキャンプに初めて娘を連れて参加したのは一昨年の夏、今年で3回目になりました。神様と教会の皆さん、特にウイングスの先生たちに支えられて全日程参加できて、本当に感謝です。今年のキャンプでは特に2つの大きな恵みがありました。
 1つ目は私の兄が参加したことです。兄は日曜日仕事だったにもかかわらず、「小学生で将棋できる子いるかな?」と将棋盤を用意して参加し、2日目にはたくさんの子どもたちと将棋盤を囲んでいました。兄の話好き・子ども好きな性格(神様からの賜物?)が見事に発揮されたと思います。
 2つ目は娘たちの成長を感じたことです。4才のNは今回のキャンプでお祈りができるようになりました。1才のMは去年はほとんどおんぶしていたのに、今年はしっかり歩いて参加できました。
 教会に娘を連れて行くと、いつも皆さんからあたたかい言葉をかけていただいて本当にうれしいです。ありがとうございます。子育てをしているとあれもできてない、これもできてない・・・と自分のいたらなさに目が行ってばかりの私。でも娘たちを育ててくれるのは神様、そして教会の皆さんのあたたかい見守りと励ましの目です。私はもう大きな乗ってるのだから大丈夫、と安心して過ごしていきたいです。

■妙高ファミリーキャンプ空中散歩  M.H.

 空中散歩は妙高山のふもとからゴンドラに乗って中腹へ行くこと。
 週間予報では7月15日は雨の確率が高く、天候によってはあきらめようかと思っていた。朝食を終えて、見上げると青空が少し見えた。雲も結構あったけれど、雨雲ではなさそう。よし、決行だあ。
 参加者は当初2人だったのが、T姉の心がけがよくて6名になっていた。自然の家から2台に分乗して、妙高高原スカイケーブルへ向かう。
 ゴンドラは6人乗りで、一列3人で、前後に背中合わせで乗り込む。霧が出ていて、妙高山の頂上付近は見えない。ターミナルを出発し、5~6分したころ、遠くに野尻湖が見えた。遠景を望めたのはここまで。あとは霧の中に隠されてしまった。
 11分のゴンドラの空中散歩を終えて、終点に着く。終点は標高1300m。妙高山が2454mなので、五合目ぐらい。ひんやりとして、長そでで正解だった。あじさいやコオニユリなどを眺めた後、ブナの林へ入っていった。木材や樹木に詳しい高橋兄の案内もあって、「ブナ林散策コース」をじっくり味わいながら回ることができた。ブナの木を見上げれば、葉と葉の隙間から空が見える。霧が濃くなってくると、上空がかすんできて、ちょっと幻想的な雰囲気にもなる。林の中の植物も楽しみながら、ゴンドラの山頂駅に戻る。
 帰りの空中散歩に、少し期待していた。半分くらい降りればまた遠景を楽しめるのではないかと。しかし、山の天気は変わりやすい。霧がどんどん下に降りていて、ターミナルに着くまで霧があった。残念。野尻湖は幻になってしまった。
 自然の家にもどる途中、時間があったので、赤倉温泉近くの足湯公園に立ち寄った。熱めの湯とぬるま湯とあり、交互に入るといいらしい。空中散歩で冷えた足、散策で上り坂をがんばった足の疲れがとれた。
 ゴンドラに乗ることが目的だったけれど、ブナの木を覚えたり、広葉樹と針葉樹の成長や強度の違いを学ぶことができ、有意義なワークショップとなった。

■夜のお茶会と証し会(キャンプにて)  H.T.

 キャンプの夜の時間に、M姉の提案で集った方々にお抹茶をお出しする事になりました。お茶の道具(抹茶、お菓子、茶碗、茶杓、茶筅等)を二人で用意して行きました。集った方々は12名、お茶席の簡単なお作法(お抹茶の飲み方やお茶碗の拝見等)も覚えて頂きました。初めての方が多く初体験だと言って下さった方もいました。
 一通りお茶がすんだ後は、救いの証し会になりました。我家の受洗の時の写真を見て頂きながら、夫々の証しを聞く事になりました。Tさん(Eさんのご主人)も初めて来たときの事等、お話して下さり感謝でした。一泊二日の短いキャンプの日程の中で、クリスチャンの集会として何か有意義なプログラムがあればと思いつつ、今年はこんな形で証し会になりました。
 キャンプを楽しく又多くの方々が参加出来るように、来年のキャンプのためにお祈りします。

■温泉について  K.K.

 今年の妙高ファミリーキャンプでは、Tさん(Eさんの御主人)から温泉について教えていただきました。温泉ソムリエの資格を持っているTさんから、テキストを使い、温泉の法律上の温泉とは何か、効能は、温泉の種類は、などていねいに教えていただきました。12名がスバルホールの和室でお話を聞いたり質問をしたりして、時間がすぐに経ってしまいました。
 そのあと4名で温泉ソムリエ発祥の地といわれる赤倉温泉街に行き、「ホテル秀山」の温泉に入りました。海の日の3連休のせいか、お客さんが大勢いましたが、男湯には数人しかいなくて、洗い場も広く、露天風呂もあって、とてもよかったです。 湯上り後は、大広間の休憩室でゆっくり涼み、無料の冷水サービスもありました。日帰り入浴500円でとてもお得な感じでした。さすがは、温泉ソムリエさんが教えて下さった素晴らしい温泉でした。(ちなみにTさんの一押しは「赤倉ホテル」。今回日帰り入浴は宿泊客が多くできませんでした。)
 温泉ソムリエとは、温泉ソムリエ協会が「温泉の知識」と「正しい入浴法」を身につけた方に認定する資格とのことです。温泉法の法律でいう温泉とは、25度以上の温水、または、冷水でも鉱物等の物質を含んでいればよい等、初めて知りました。温泉の効能のうち、一般的適応症といわれる「神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進」は、温熱作用による血行促進効果によるとしての全温泉に共通のものだそうです。自宅の風呂でも同じ効果はあるとのことです。自宅の風呂でゆっくりとリラックスして入れば、血行促進効果が期待できそうです。

■参加者の声

 神様が導いてくださり、毎年妙高でウイングスのキャンプが開かれていることを感謝しています。いつも子ども達が集まるのだろうかと心配しますが、神様は不思議な方法で導いてくださり、子ども達を集めてくださいます。そして子ども達が真剣に神様のお話を聞いている姿を見、自然の中で楽しんでいる姿を見るとうれしく思います。小さな働きですが、来年もひき続きキャンプが行えるようお祈りください。(S.H.)

 今年は、子ども会に来たことのある子どもたちから、参加したいという声がたくさん聞こえてきて、とてもうれしく思いました。こんなに大勢の参加者を迎えてもらえるかという心配は、福音教会の宣教協力の熱意に消し去られ、よく準備されたキャンプに子どもたちは大喜びでした。聖書のメッセージにもよく応答していた子どもたちがこれからも主に向かって歩んでいけるように、帰ってからも祈りつつフォローしていきたいと思います。主にある協力に感謝しつつ(広田信之)

 子どもたちがキャンプを心から楽しんでいる姿を見て神様が一緒にいてくれていることを感じました。神様と初めて出会う子どもたちが素直に自分の罪を言い表す姿を見て私も自分の罪と向き合い、神様にゆるして頂きたいと思いました。(M.K.)

 川遊びでは皆でワイワイはしゃげて楽しかったです。高橋先生のお話では、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられたことを知りました。罪を自覚したらすぐイエス様に謝るようにしたい。(E.T.)

 ナイトウォークでホタルがたくさん見つけられて楽しかった。十字架にかかった理由の説明がわかりやすかった。十字架の上でイエスキリストが苦しんでるのに下で兵隊が下着をくじ引きをしてるのがヒドイと思った。(中1 M.H.)

 今日のことで、イエスが私たちのつみをゆるしてくれることをすばらしいと思いました。今日、みんなのつみをゆるしてくれてすごくありがたい。(6年 A.M.)

 男子と女子でまくらなげをした。とても楽しかった。(5年 Y.K.)

 川あそびの時、おたまじゃくしをつかまえるのが楽しかった。(5年 Y.H.)

 川遊びとキャンドルサービスが、友だちと遊べて楽しかった。(5年 H.K.)

 川遊びに行った時、おたまじゃくしがいたり、みんなと水遊びができて楽しかった。(5年 I.S.)

 川あそびの時、川でこけたことが自分ではおもいでにのこっています。(5年 T.I)

 川あそびのときの水がつめたくて楽しかった。ビンゴがさいしょの方でビンゴになれてよかった。スペースシャトルのゲームでいんせきをまもるのがたのしかった。同じへやのAちゃんとお友だちになれてよかった。(3年 M.K.)

 はじめてのキャンプでしたが、キャンプって楽しくて、おもしろくて、いちばん楽しかったことは川遊びです。川の水はすごくつめたくて、かたまでは入れるけど顔まではむりだと思います。2だんベッドの上はすごくあつくて、したのほうがすずしいと思いました。1にちでしたが、すごくたのしいきゃんぷでした。(3年 G.S.)

 せいしょのはなしをしていたけど、はなしかたがわかりやすかった。いままでいち番楽しかったのは今回だった。一番楽しかったのは川あそびだった。(3年 S.H.)

 川あそび、まくらなげ、きもだめし、キャンドルサービスが楽しかった。(3年 S.F.)

 キャンプのぎょうじではぜんぶ楽しかったです。たけみ君は川あそびがいちばん楽しかったといっていました。あと1回川あそびがあるのでたけみ君はおたまじゃくしをつかまえたいいってうるさかったです。おいのりをたくさんしたので、やりかたをおぼえました。らい年もキャンプにいきたいです。(H.Y.)

 びんごとかわあそびがたのしかったです。たかはしせんせいのげーむがたのしかったです。おんせんのおゆがあつくてきもちよかったです。(1年 A.K.)

■オンギジャンイ・コンサート  M.Y.

 “世界中に主の愛を伝えたい”愛の熱血漢オンギジャンイを今年もお迎えできました。5週間のコンサート計画で来日し、各地を巡り、4週目に入った8月28日(水)に長野に着きました。明日からは南信方面に向かう予定という多忙の中を当教会に寄って下さりNaEC(北信伝道協力会)主催のコンサートでした。今回はバイオリンとチェロ奏者も加わり13名で、メンバーは仕事をお休みしたり、神学校の学生さんなど途中交代しながら、コンサートを開いているそうです。リーダーのN.K.さんは3年連続で長野に来られ、お顔なじみとなりました。最初の1、2曲は韓国語での賛美、あとは日本語で美しいハーモニー、楽器も加わって、重厚な賛美を聴かせて下さいました。どの曲もスクリーンに歌詞が写されて分かりやすく、沢山の曲を日本語で憶えて歌うのは、さぞ大変だったと思います。賛美の中でリーダーの指導で手を叩いたり、席を離れて参加者同士「主はあなたを愛しています。」と握手したり、ハグしたり、会場内を巡りました。久しぶりの方に会えたり、皆さんも雰囲気に乗り乗りでした。賛美の歌詞に心さぐられ、聖められたい思い、励ましと平安、元気を頂けたひと時でした。
 一品持ち寄りの昼食会も賑やかに、ちらし寿し、赤飯、カレー、サラダ数種、激辛のキムチ他数えきれない程、皆様のお気持ちの十分あらわれたお食事を頂きました。お客様も美味しかったと喜んでおられました。
最後に、お礼にと賛美を一曲、伴奏なしで身近に聴けたこの曲が一番良かったとのお声も。私たちも感謝の贈り物をしました。7、8月の祈り会のあと、ラベンダーのスティック、匂い袋、押し花の栞など手作りで準備しました。喜んで頂けてよかったです。
 今回のコンサートへは、13名の賛美チームの他に60数名の参加者でした。次の再会を約束し、旅路の平安をお祈りし、車が出るまでお見送りしました。

■会計部の働き  K.S.

 会計部の働きは地味なもので、全く変化のあるものではありません。毎主日にささげられる献金の出納を正しく管理し、年度末に予算・決算をまとめることが主たる任務です。
 しかし、教会の日常的な歩みを地道に経済面から支えていくという働きは、教会にとって必要なことではあるのだろうが十分なことではないのではないかという思いも感じています。教会というところは民間企業のように利潤を追求するという大目標を掲げるものではありませんが、教会の働きが、クリスチャンとしての霊的な成長を保ち高めるという側面にとどまらず、神様のご命令に従って未信者への伝道や社会への宣教のために働くことであるということを改めて思い起こせば、教会の会計のあるべき姿や大きな目標がおのずと明らかになってくるように思います。つまり、教会がどのような計画をもって地域社会への伝道や宣教に取り組んでいくのかといった教会全体としての具体的なビジョンを掲げ共有することによって、献金の目標も漠然としたものから明確なものに変わってくるのだろうという気がします。誰しも自分はいただく恵みの中から精一杯献金していると思っていますが、目先の決算や予算といった小さな目標を見て安堵していて良いというものでもありません。将来に向けて祈りながら感謝と期待をもって神様の御用のためにささげていくという思いが大切だと思います。
 教会のビジョンは私たち一人ひとりが祈るなかから徐々にはっきりと示されてくるものなのだろうと思います。祈りは共有されなくてはなりませんから、祈り合うことは大切なことだと思います。21世紀ビジョンという名はなくなりましたが、教会が実体として成長していくためには、掲げられていた課題も大きな目標となり得るのだろうと思います。敷地や施設の拡充も伝道の一部として位置づけ、真剣に祈っていかなくてはならないものだと思います。教会には蓄えができてきましたが、いざ大きな計画の実現となった場合には全く十分ではありません。私たちは、神様のご命令があった時にいつでも動けるように準備をして待っていなくてはならないのだと思います。

■信仰告白(受洗の証し)  H.I.

 自分の力、努力ではどうしようもない苦しみ、悲しみ、絶望、そんな時、聖書の言葉に光を感じました。
 私が好きなみことばは、いくつかあるのですが、なかでも、一番最初に心に入ってきたみことばは
  「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23章42~43節)
 これはイエスさまと共にはりつけにされた罪人のうちのひとりに、おおせられた言葉で、「あなたは今、わたしとともにパラダイスにいます」です。
 はりつけにされるほど罪人ですから、恐らく、重い罪を犯したのでありましょうが、最後にイエスさまを受け入れたことにより、イエスさまは「あなたはわたしとともにパラダイスにいる」とおっしゃってくれたのです。
 私の中には、その罪人ともうひとりのやけくそになってイエスさまに罵った罪人と、両方が存在している気がします。私はいつも、イエス様と共に楽園にいる方の、罪人でありたいとその時、強く思いました。
 私が犯してきた罪は、消せることのできるものではないでしょう。でも、イエスさまを受け入れ、信じ、イエスさまにも受け入れてもらいたいと強く願っています。洗礼を受け、イエスさまと共に楽園にいたいと思っています。

■図書コーナー新設記念児童文学への誘いその6(最終回) ヨハンナ・シュピーリ 『ハイジ』  K.Y.        

 この児童文学紹介コーナーも最後となりました。今回は皆様よく御存じの『ハイジ』を取り上げたいと思います。
 ハイジがデーテおばさんに連れられてやって来たおじいさんの小屋は、はるか谷を見渡せるアルプスのアルムの山の頂にあった。ここで、おじいさんは神にも人にも背を向け一人で暮らしていたのだった。利発で純粋なハイジは、おじいさんとの山の生活に自然に溶け込み、夏はヤギ番のペーターと牧場へ行き、冬はペーターの家の目の見えないおばあに楽しい話を聞かせ、おばあの心の慰めとなっていた。アルムの山で二度目の春を迎えハイジが八つになろうとしていた頃、フランクフルトのゼーゼマン氏が娘クララの勉強相手を探しているという話を聞き、デーテおばさんがハイジを連れ戻しに来た。壁と窓しか見えない屋敷で退屈な日々を送っていた足の不自由なクララは、ハイジが来てからは、次々と起こる愉快な出来事をたいそう楽しんでいた。一方ハイジは、屋敷を切り盛りしているロッテンマイヤさんの厳しい躾や、文字の勉強に疲れ果て、山への恋しさをつのらせていく。そんなハイジを、クララのおばあ様は励まし、苦しい時は神に祈ることを教えてくれる。
 ――「神さまはわたしたちみんなのお父さまで、何がわたしたちのためになるか、ちゃんとごぞんじなのよ――。おねがいしたって、それがわたしたちのためにならないことなら、かなえてはくださらないの。でもだからといってすぐ逃げ出したり、神さまにあいそづかししたりせずに、心からお祈りすることをつづけていれば、きっと、もっといいことをさずけてくださるのよ・・・・」――
 ハイジは優しいおばあ様の期待に応えようと一生懸命勉強し、「山へ帰してください」と祈るが、ついに心の負担から夢遊病になってしまう。ハイジの悲しみを理解したお医者様は、すぐにハイジを山へ帰すようゼーゼマン氏に強く勧める。アルムの山は一年前と少しも変わらず、黄金色の夕日がハイジを優しく迎えてくれる。ハイジはおじいさんのもとへと山をかけ登り、うれしさで胸がはちきれそうだった。ただひたすら神を信じで待ち、本を読んでおばあを喜ばせてあげられるというお土産まで持って帰ってこられたハイジは、神が最良の時を選んで自分を山へ帰してくれたと、心から感謝する。
 ――「わたしがあんなにいっしょうけんめい、心の中でおねがいしたことを、もし神さまがあのとき、すぐかなえてくださったんだったら、こんなに何もかもうまくいかなかったはずだわ。あのときすぐ帰ってきちゃったら、おばあには、ほんのちゃっぴりしかパンをあげられなかったし、本を読んできかせてあげて、あんなによろこばせてあげることもできなかったんだわ。神さまはやっぱり、何でも、わたしの考えてたよりか、ずうっとうまくいくようにとりはからっていてくださったのね。・・・さあ、これからは、おばあさまに教えていただいたように、いつもお祈りをかかさないようにして、すぐにかなえていただけないからって、神さまをうらんだりはしないわ。・・・おじいさん、これから毎日お祈りして、神さまのことわすれないようにしましょうね。神さまの方でも、わたしたちのことをわすれずにいてくださるように。」――
 そんなハイジの信仰に打たれ、安心しきった寝顔を見ている時、おじいさん自身、こんな自分でも、もう一度神の御前に迎えられることができるだろうか・・・と祈る。
 ――「父よ、わたしは天にそむき、あなたにも罪をおかして、もはや、あなたのむすこと呼ばれるにあたいしません!」大つぶの涙が一しずく二しずく、老人のほおを伝って、転がり落ちました。――
 そしてあくる朝、おじいさんはハイジを連れて教会へ出かける。最初は驚いた村人たちも、牧師と和解したおじいさんを見て、口々に歓迎の言葉を述べた。おじいさんも冬場は村で過ごすと約束し、ハイジはここで学校に通った。冬の間ハイジは勉強嫌いのペーターにも、なぜ勉強しなくてはならないのか自分が教わったように教え、おかげでペーターはハイジが雪で来れない時におばあに本を読んであげられるまでに上達した。その前の秋に、娘を亡くし傷心したお医者様が、しばやくアルムの山に滞在し、ハイジの信仰に励まされてフランクフルトに戻ったのだったが、クララに山の様子を毎日のように語ってきかせ、山はクララの体にもよいと判断したことから、夏になると、クララ自身が山にやってくることになる。クララは青空の下のテーブルでヤギの乳をおかわりし、ハイジと一緒に星の見える屋根裏部屋のベッドで眠った。おじいさんの配慮のもと、すっかり健康になったクララは歩く練習をはじめる。折しもペーターはハイジがクララにかかりきりなのが面白くなく、クララの車いすを山の上から落として壊してしまう。クララは山の生活の中で、自分も人に助けられるばかりではなく、人を助ける立場になりたいと考えるようになり、はじめはハイジとペーターの肩を借りてだったが、一歩ずつ、やがてしっかりと歩き出す。アルムの山を訪れたゼーゼマン氏は、すっかり健康になりバラ色の頬をしたクララが、ハイジに肩を借り、しっかりと歩いているのを見て涙を流して喜ぶ。そして感謝のしるしに、ハイジとペーターの家の面倒を一生見ることを約束する。ハイジを取り囲むすべての人が、神の恵みを心から感謝した。
 ――「ハイジ、賛美歌を読んでおくれな!何だかもう、わたしには、天の神さまをほめたたえ、ありがたいお恵みのお礼を申し上げるほかに、何もすることがなくなっちまったみたいだよ。」――
 ヨハンナ・シュピーリ(1827-1901)はスイスのヒルツェルという村に生まれます。7人兄弟の真中で、灰色がった目にとび色髪の毛の持ち主だったそうです。『ハイジ』の舞台そのもので育ち、ハイジはヨハンナがモデルとして描かれているようです。父は医師として山村で開業し、すべての人の病気を診て、病人と共に生活していました(クララの描写につながる)。母は牧師の娘で宗教詩を書く作家でした(ハイジの厚い信仰)。
 ヨハンナはゲーテを愛読し、その影響で、ことに“しつけ”を重視する作品を書くようになります。またルソーを尊敬していて、“愛情のこもった自然な教育”を提唱しています。『ハイジ』の中にも垣間見られる要素です。
 『ハイジ』においては、美しい自然とそこで育まれる健全で思いやりのある理想的な人間像がテーマになっています。特に自然―アルムの山・モミの木・野に咲く花々・夕焼けのアルプスの描写・・・は素晴らしく、読者が容易に想像できるほど詳細に描かれています。また、泡立つヤギの乳・焼きたてのパン・黄金色のチーズ・・・は子供の憧れを呼んで、今でも『ハイジ』は子供たちに強い人気となっています。
 でもなんといっても、『ハイジ』といえば、一言で、“子供の天真の純粋さ、無邪気さというものが持つ無言の力‘永遠に子供的なもの’への賞賛”であると思います。その純粋な瞳・姿・信仰に、物語の中だけでも、どれだけの大人が改心させられたことでしょう。ハイジの周りにいる人、みんなが神に感謝し、幸せになって物語は終わっています。
 日本では何十年が前にアニメになったことで、知名度は高いですが、ヨハンナが一番伝えたかった“神さまの働き”が削られてしまっているので、ぜひ完訳版をお読みいただきたいと思います。おじいさんだけではなく、ハイジの純粋な信仰の前に、自分の罪を思い知らされ、感激で涙があふれてくること間違いなしです。
 ハイジのように、またヨハンナのように、純粋に神にゆだねて感謝して祈りながら歩んでいく人生でありたいと強く思いました。
 ヨハンナ・シュピーリの墓石「主よ、われ今何をか待たん わが望みはなんじにあり」(詩篇39:7)

2013年7月号

■巻頭言 「聖書の暑さ対策」  高橋宣弘

 梅雨が明けるやいなや、夏しかも猛暑が押し寄せて来ました。小さな子どもたちやご高齢者、心身の調子をくずしている方々のために、共に祈っていきましょう。暑い夏に、さらに暑くなってしまうような話題ですが・・・、聖書の中で「暑さや汗」がどのように取り上げられているか、見てみましょう。
 1. 暑さも神様からのプレゼント
 創世記3:19には、人が罪を犯したその報いとして、「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」との神様の宣言があります。暑くて辛くても、私たちは健康が許す限り、働かなくてはいけないのでしょう。
 またノアの時代、大洪水が過ぎ去った後、神様は「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」(創世記8:22)と仰せになりました。神様は、寒さも暑さも必要なもの・善きものとして、私たちに与えてくださっています。四季折々の恵みがあり、暑い中ぐんぐん伸びていく植物があります。
 2. 暑さを避けて、休もう!
 聖書の登場人物たちも、あまりの暑さにあっては、日陰に涼を求め休みました。「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。」(創世記18:1)この時アブラハムは、風が通る場所でうつらうつら昼寝をしていたと思われます。祭司の服装についても、「亜麻布の服」を着て、「汗の出るような物を身に着けてはならない。」(エゼキエル書44:17,18)と、神様は細やかな配慮を示してくださいました。
 3. 主なる神様が暑さを避ける陰に
 イザヤ書25:4には、主よ「あなたは・・・暑さを避ける陰となられたからです。」とあり、エレミヤ書17:7,8には、「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、― 暑さが来ても暑さを知らず、― いつまでも実をみのらせる。」との神様の祝福が約束されています。厳しい暑さの中でも、神様から新しい力を頂いて、一歩一歩進んで行きたいと思います。
 4. 人を生かす福音を分かち合おう!
 イエス様は十字架に架けられる前夜、ゲツセマネの園で「汗が血のしずくのように地に落ち」る(ルカ22:44)壮絶な祈りをささげ、「みこころのとおりに」と十字架へ進んでくださいました。私たちは、イエス様の御苦しみと身代わりゆえに、罪赦され、救われた者たちです。
 箴言25:13には、「忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。」とあります。人を生かすイエス様の素晴らしい福音を、私たちは使者として、喜んで分かち合っていきたいと思います。そしてまことの主人なる神様の御前にあって、私たちの歩みが、暑い日の雪のように喜ばれるものとなっていけたら幸いです。

■信徒セミナーに参加して  M.K.

 3・11東日本大震災から2年余りが過ぎたこの4月29日(月)、盛岡みなみ教会の大塚史明先生をお招きして、セミナーが開かれました。現地で日々生活されている先生のお話をお聞きしたく、参加しました。震災直後、そして現在の映像を示しながらのお話でした。
 岩手県といっても、高速道路や新幹線の通る内陸、今回大きな被害にあった沿岸は、人口面でも内陸は95万、沿岸は27万と大きな差があるとのこと。そしてこの内陸と沿岸を結ぶ道は、かつて日本のチベットと言われたほどの山間地。そこを走る貴重な線路も流され、まずは道の確保、そして被害状況を把握しながら家屋の泥出し、避難所、物資の供給、行政の届かない人への支援、限りない支援の日々の積み重ね。その中で、被災地の皆さんはよくしてもらった事、助けていただいた事は決して忘れない。又、支援者側の高ぶった行動には、いけない事にはいけないと注意する等、そこに日々信頼関係が出来、協力が生まれていったとのことでした。教団、教派を超えて、自然発生的にボランティアチームが送られ、すべて献金による運営。現在、沿岸の岩泉、宮古、山田、釜石、大船渡、一関の6ケ所の教会が地域ベースとして動いているとのこと。
これら多くの経験を通して「人には人が必要」との先生のコメントでした。伴に歩む人仕える心でより添ってくれる仲間、分かり合える人です。
 今、2年を経た現地では、各団体が沿岸から撤退を決め、引き上げはじめた団体もあります。支援と宣教を分けることなく、あせることなく、地道に、住む人々にふさわしい協力をして、共に歩む人としての支援を続けていくとのこと。とかく忘れっぽい私です。いつも被災地のことを心にとめ、祈れる人でありたいと思いました。

■信州宣教区 連合婦人会  M.N.

 今年の連合婦人会では、伊那聖書教会牧師の大杉至師が「放射能汚染時代に生きる~放射線と病気と健康~」について語って下さいました。
 チェルノブイリ原発による健康被害。放射線が病気を引き起こすメカニズム。放射線によるガン死リスクについて。福島第一原発事故の汚染状況。放射線と老化。放射能と健康被害についてお聞きすることができました。あのチェルノブイリ原発問題でさえ解決がむずかしいと言われて来たのに、福島はいったいどうなってしまうのだろう。もし浜岡原発や柏崎刈羽原発が事故を起こしたとしたら、信州はかなり深刻な汚染地帯になるということ。山間部に積もった放射性物質は雪解けと共に徐々に里に下りてきて除染は事実上無利だということ。今私たちが住んでいるこの場所は、半径100km、250km圏内に入るということに私はたいへんおどろきました。

■バザーの恵み  M.K.

 天候が心配される中でしたが、今年も多くの方が教会へと足を運んでくださり、無事にバザーが行われました。
私にとってバザーはとても楽しい日であるとともに、神様から信仰を試される大切な一日でもあります。日々、神様を知らない家族や友人の前で何を証しし、どう生きているのか。私が不誠実な生き方をしていれば、周りの人々は、神様を教会を信用のおけない足を踏み入れたくない所だと思うでしょう。
 ですから一つも自信のない私は、ただただ神様に祈りながら毎年バザーの日を迎えます。
 そして今年は両親と友人がバザーに来てくれました。両親にバザーの話をすると母は「いつも教会の皆様にお世話になっているのだから」と手芸品を用意してくれ、父は値札の値札の付け方にまで口を出しはじめ、家族でこれはいくらだ、それは売れないよ(笑)などと教会の話をノンクリスチャンの家庭ですることができました。そして、バザー当日は、教会の皆様が声を掛けて下さり、楽しい買い物もでき、帰宅後も教会の話題が上がりました。そして小学生の頃からの友人も私がいるから、と教会へ足を運んでくれました。
 全てに神様が働いてくださいました。私が思っていた事、願っていた事以上の事を神様がしてくれました。本当に感謝です。
 世の中のバザーは楽しいお祭りのようなものだけど、教会のバザーは家族や友人、地域の方に教会や神様のことを知ってもらうとても大切な機会だと改めて感じました。
 このバザーで数多くの恵みを与えてくださった神様に心から感謝いたします。

■人間関係にとって大事なこと  M.K.

 恵みの雨が降る中、今年のレディス・ランチョンが行われました。賛美と講演とおいしい食事、そして久しぶりに中尾姉や小学校の同級生にも会えて、うれしいひと時でした。最初にピアノとチェロの伴奏で美しい歌声。とてもぜいたくな、満たされた時をいただきました。音楽を聴くのも心のケアに大事とのことです。
 堀肇先生は「心の部屋を空けて」との題名で、人の感情や人間関係における大切なことを、順を追って話してくださり、心にずしんと響きました。
 人間は、知覚思考と感情と記憶がちゃんと整って心が維持されていて、それは奇跡のようなこと、感謝なことである。人間関係とは、心の状態が違う人が、上手にすり合わせて生きて行くことであって、「うまくいっている」と思っても片方は『身を削っている』場合もある。(うーん、我が家の場合はどうだろう・・) 
 《人間関係について》
 ①まず自分を良く知ること。そして、自己受容すること。(弱い所も強い所も、ありのままの自分を受け入れる。これ以上でもこれ以下でもない、そのままの自分を受け入れる)
 ②傾聴(人の話を心と目を傾けて聴く。聴くというのは愛の一つの行動)
 ③受容(話について自分の判断をしない。存在そのものを受け入れる。意見が違っても・・)
 ④共感(同感ではなく、自分を失わないで、相手の感情を理解する)
 その他、肯定的な言葉を使う(例:付き合い悪いね。→ちゃんと断れていいね。)、相手をほめる、というちょっとの一言で人間関係が変わってくることを話されました。
 せっかちでパッパッと判断しがちの私にとって、日常を振り返る貴重な機会となりました。

■伝道部の働き  K.M. 

 福音宣教こそが教会固有の使命であり、私たちキリスト者の他にこの働きを担うものはありません・・役員会での担当が変わるたびに、教会の一つ一つの働きについてあらためて考えさせられることを感謝します。
 伝道というと、イベントのイメージでしょうか?事実今年も、バザーとゴスペルワークショップ&コンサートが伝道部の活動の大きな柱です。恒例となった教会バザーは、近隣の方々、教会員のご家族・ご友人にお越しいただき、皆様の創意工夫と日頃の研鑽の賜物で、本当に祝福された時間でした。
 ゴスペルワークショップも魅力的な講師・Emi先生にリードしていただきながら3年目を迎え、好調にスタートしました。教会外の方々が、毎月定期的に通ってこられるという嬉しい光景が、日常になりつつあります。
 どちらも、これからの継続と発展を思い描きながら、祈って育てていきたい活動です。
 しかし、伝道はこうしたイベントにとどまりません。着々と更新されているホームページ、そっと張り替えられている各所の案内看板、サタデークラブやそのためのチラシ配布。新しく来られた方・教会になれていない方に寄り添ってくださったり、教会から離れている方を訪ねたりお便りくださったり、開拓伝道等のためにお献げくださったり・・・。これらすべてが尊い伝道の働きです。さらに言えば、キリスト者である私たちが、この社会の中で生かされていることを通して、様々な形で福音の種はまかれていくのだと思います。伝道部を担うのはおこがましい限りですが、祈りつつ学びつつ、伝道計画を練っていきたいと思います。皆様と共に、置かれた場所で咲くことができるように、主がここに福音教会を置いてよかったと喜ばれるように、励んで参りましょう。

■“祈り”余聞  H.T.

 札幌でのこと。所用のため家の教会リーダーのYさんが教会に行ったところ、一人の老人が玄関横の駐車場にうずくまっているのに気付いたそうです。身体の具合でも悪いのではと思って声をかけた処、老人は、宝くじ(三億円)が当たるように祈りをささげているのだと言う返事。
 この話しを聞いて私は考えました。教会と宝くじの祈り、この方は、キリスト教の天地創造の神を知ってのことかと・・・。日本では、神道や仏教そのほか沢山の宗教があり、私の知るところ神棚と仏壇が同居している実態が多いのではないかと思うのです。日本人の宗教感覚は非常に複雑で、自分の家は代々仏教で、どこそこの檀家という人も、お正月には神社に初詣に出かけて行きます。日本人は、日本人固有の感性で「かみ」を考える。独得の宗教心を持っている。私もそのような宗教心に支配されていた一人だと思っています。私は、家を新築してから或る宗教家の啓発を受け、神棚を備えず、仏教一筋の信仰生活でした。自分の宗教を知らなければと思い、定年退職後に西本願寺派の講習を受けました。残ったものは、やはり強い慣習だったような気がいたします。キリスト教とのかかわりは、家に投げ込まれたパワー・フォー・リビングでした。この本を読んで感銘を受け教会に妻と通い始めました。
私達にとって「お祈り」は、緊張と戸惑いの時です。祈りに一番欠けていることは、賛美だとも言われているようです。
 稿の終わりに私自身の祈りを記させて頂きます。「神様、私は今まで自分自身のやり方で人生を生きてきました。今、私はあなたの方法で生きて行きたいのです。私にはあなたが必要です。今、私の人生の支配権を喜んで明け渡します。あなたの御子であるイエス・キリストを私の救い主として、私の主として受け入れます。私は、イエス様が私の罪のために死んでくださり、死からよみがえられたことを信じます。私をあなたが望まれる人間にしてください。」

皆様に感謝の花束を  K.I.

 4月の日曜礼拝のあと、食堂で新人歓迎会をして頂きました。一人一人の自己紹介を聞いて、さらにその人となりがよくわかりました。そして改めてアットホームな教会だと思いました。私が教会の皆様と交わるようになったきっかけは、一昨年、現在療養中のリズ先生が、英会話教室のあと、ゴスペルコンサートに誘って下さったからです。私は、神様を賛美するゴスペルを初めて聴いて、とても感動しました。そして昨年は、クワイヤーの一員に加わらせて頂き、恵美先生のご指導のもと、半年間の練習の後、12月に発表することができました。恵美先生のように、1フレーズごとに祈りながら歌ったところ、英語の歌詞がすらすらでてきたので、最後まで何とか暗譜で歌うことができ、達成感を味わいました。
 さて、私事ですが、今から43年前に病死した父は、クリスチャンでした。娘の頃、父の穏やかな人柄から知らず知らずのうちに、クリスチャン人格を肌で感じながら過ごしました。病弱な父は、気管支が弱く、よく風邪を引き、激しい咳をしていました。それでも父は、弱音を吐くことはありませんでした。本当に辛抱強い人でした。生前父からみ言葉を聞くことはありませんでしたが、30代半ば頃にその機会が開かれてから今日まで私は、神様の存在を信じ、頼りながら生活をしてきました。この1年半、高橋先生がご夫妻初め他のクリスチャンの皆様に支えられて歩むことができて、心から感謝しています。神様のご意志ならば洗礼を受けたいという思いでいっぱいです。今後共どうかよろしくお願いいたします。
-亡き父のあとに従い歩みたし神様のみ手に抱かれながら-

■給食のお姉さんになりました  Y.M.

 長野福音教会のみなさま、お久しぶりです。あの小さかったYちゃんがついにこの春、社会人になりました。神奈川県で一人暮らしをしながら、高齢者福祉施設の栄養士として働いています。ママ大好きの泣き虫Yちゃんからは、想像できない姿です。
 親元を離れ4年間、私は、ただ美味しいだけではなく、楽しくて健康的なご飯を作りたいと、栄養学を勉強してきました。家族も友だちも、そして私が働く中でも、私が作るごはんでみんなに笑顔になってほしいというのが、私の夢です。大きいような、小さいような夢ですが、ぴちぴち新社会人Y.M.は、叶える気満々、全力スタートダッシュなうです。
 今は研修中で、毎日厨房で先輩栄養士さんや、調理師さんにたくさんのことを教えていただいています。調理師さんの技術の高さに感動し、料理のおいしさに感激し、自分の未熟さに撃沈しながらも頑張っています。先輩方は、一つ一つ丁寧に教えてくださいますし、早く職場に馴染めるようにと話しかけてくださる優しい方ばかりで、恵まれた職場環境だなぁと日々感謝です。利用者さんも、素敵な方がいっぱいです。遠くから手を振ってくださったり、厨房をのぞきにいらしたり、私はほとんど厨房にこもりっきりなのにもかかわらず気がついて「あの若い子はだれ?新人さん?」と尋ねてくださったりと、思っていた以上に利用者さんと関わるチャンスがあり、楽しい毎日です。
 それでもやっぱり社会人。いつかは荒波にもまれることもあるでしょう。楽しい時も苦しい時も神様と一緒に、それと持ち前の負けん気と明るさで乗り越えていきたいと思います。
 なかなか長野に帰ることができない現状ですが、いつかひょっこり帰省してみなさんと一緒に礼拝を捧げたいと思います。以上、新社会人レポートでした~!!ちゃんちゃん♪

■近況報告 Y.K.

 長野を出て、東京での生活が早くも6年目となりました。皆様には、お祈りに覚えていただき、帰省した時に声をかけてくださり、心から感謝申し上げます。
 現在私は大学院で学びを続けながら、小学校での非常勤講師と学童保育でのアルバイトをしています。近況報告とのことなので、それぞれのことについて簡単に報告させていただきたいと思います。
 大学院では学部時代に比べて学ぶ内容が深くなりました。授業や研究を通して、とにかく本や文章を読むようになりましたし、色々な方(教授や研究の協力者など)と深く話をする機会も与えられ、世界がぐっと広げられています。また、授業や研究の合間をぬって、大学でクリスチャンの友人と聖書を学んだり、祈ったり、話したり、遊んだりする時間も与えられ、この時間は大学生活の支えだと感じています。
 小学校では今年は2年生に算数を、5年生に理科を教えています。昨年度から学校の中でも大変と言われる学年の配当になることが多いのですが、小学校の先生方に支えられ、子どもたちに元気をもらい頑張っています。
学童保育は最初にテレビを通して知った場所でした。1年半ぐらいそこで働いてみたいと願っており、今年度から働かせていただくことになりました。働き始めて2か月が過ぎましたが、本当に楽しく、たくさんの刺激を受けながら働いています。
 教会も国分寺バプテスト教会に通うようになり6年目です。今年から中学生のための居場所づくりに力を入れていて、月に1回か2回、カフェスタイルのスペースを開放しています。「子どもたちに寄り添い、地域に仕える教会とは…」ということを問いながら進めています。
 あれもしたい、これもしたいとよくばりな性格で、ついつい自分のしたいことが中心になってしまいやすい私ですが、神さまが「またゆりはわかってないなぁ…」と思いながらも引っ張ってくださり、神を愛し、人を愛する豊かさに招き入れてくださっていると感じています。大変~と思うこともありますが、神さまの御手の中に置かれ、神さまとともに日々を歩めていることがただただ感謝です。
 今年度は、6年間の学びのまとめの年となります。修士論文を書くこと、今後の仕事のことなど、大きなこともある年ですが、小さなことを大切に生活していきたいと思っています。

■1年間の学びを終えて  A.K.

 いつも、お祈りくださりありがとうございます。 
 私が長野から離れ東京基督教大学(以降からTCUと略す)に入学して早一年が経過しました。私にとっては長いようであっという間の一年間でした。そして、神様の恵みと愛にはぐくまれ、充実一年間でもありました。
 しかしながら、最初からTCUでの生活が順風満帆であったかというとそうではありませんでした。まず、TCUに入る一カ月前に高橋先生から福祉科に入学する生徒が自分一人と聞いたときはとても不安で仕方がありませんでした。「自分一人で福祉の学びをしていくことができるのだろうか?また、自分の年齢が入学当時24歳の奴が、ストレートで入ってきた18、19の学生と一緒に勉強する。さらには、一人暮らしは経験したことがあるのですが、初めての2人でのルームシェアなど、本当に不安なことばかりで入学しました。
 入学してからも大変なことはたくさんありました。右も左もわからない新しい土地での生活で勉強についても今まで理系の学校にしか行ったことがなく、レポートなどで文章をたくさん書くことが苦痛であった時も多々ありました。
 さらには、長野福音教会を離れ、土浦めぐみ教会に奉仕神学生として礼拝を守らせていただくことになり、また、長野福音教会では味わったことのない多くの信者さんたちがいて多くの奉仕があり、精神的にも肉体的にも疲れてしまっていました。 
 そのような中でも、神様は私によき計画を与えておいてくださりました。
 まず、福祉科が1人だけということで、1人で授業を受けないと思っていましたが、1年次はどの専攻もほぼ一緒の授業を受けるので、先生と私の1対1の授業がありませんでした。次に不安だった2人1つの部屋の問題ですが、とても信仰に熱く、よき同室者と同じ部屋にさせていただき、私の生活、また信教生活をサポートしていただけました。特に私はなかなか自分から神様と交わる時間をとるのができていなかった人間でしたが、同室者と一緒に毎日祈りの時間を持て、とても信仰の助けになりました。勉強についてもその同室者にいろいろと教わったり、祈ってもらったりして無事に支えられました。それだけではなく同室者とは園芸同好会を立ち上げ、他の友達とも協力しながら楽しく農作業を行い、収穫の時期にはとても多くの恵みをいただけました。
 また、土浦めぐみ教会での教会生活もCS教師の奉仕をしていて、最初はなれないことで疲れることも多々ありましたが、多くの子供たちの笑顔や、他の先生方のサポートにより、だんだんに慣れていき、むしろ子供たちと一緒に学び遊ぶことでとても充実し、また疲れを癒されるようになりました。そのほかにも、土浦めぐみ教会の青年たちにとてもよくしてもらい、多くの信仰の友を与えていただきました。
 そして、TCUに入学して一番変わったともうことは、失敗することや大変なことがあってもネガティブな方へメンタルを持って行かれなくなったという点です。社会人で働いていたころは少し自分の思い通りにいかなかったり、つらいことがあるとネガティブな思考になってしまい苦労していました。しかし、今は苦しいことやつらいことがあっても、それは神様がご計画してくださっていることで、この苦しさも試練の一環で、絶対に神様は私に耐えられない試練を与えないという確信があります。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」第一コリント10章13節
 また、今年から奉仕させていただくことになりました、藤代聖書教会でも多くの恵みをいただくことができました。その中でも特に恵だったことを挙げます。私は藤代聖書教会に奉仕することになり、おもな奉仕内容として教会の近くの藤代南地区という最近開発されて多くの新居が立っている地区の子供をターゲットにした伝道チームを組み伝道活動を行っています。天候が良い場合は毎週朝の9時30分ごろからその場所に向かい、教会のチラシなどを配っておりますが、なかなか朝の時間ですと子供が外に出ておらず、遭遇することがままならない状況となっています。しかしながら、初めてチラシを配った時に当初予定していた藤代南地区の公園では1人にしか遭遇できなかったのですが、その帰り道に教会の近くの空き地で遊んでいたお友達がおり、その子たちにチラシを渡すことができ、当初予定していたチラシをすべて配ることができました。また別の日ですが、私がファミリータイムという藤代聖書教会の子供集会の担当になった時のことですが。その日もチラシ配りに公園に行ったのですが公園にはお友達がおず、帰り道に出会った数名の子供にしかチラシを配れませんでした。しかし、その日のファミリータイムには偶然ゴールデンウィークで藤代聖書教会に訪れてくださっていた竹内さんの家族と、私が来る前から藤代聖書教会で行っていた公園伝道の子供たちが来てくれ、また、いつも藤代聖書教会のCSに参加してくれているお友達も残っていてくれて、合計10名の子供たちと一緒に空気砲を作ったり、一緒にゲームをしたりと楽しい時間を持つことができ、それと同時に神様は備えてくださっていると思わされました。
 ここで挙げることができためぐみはほんの一部ですが、さらにここには書ききれないほどの多くの恵みを神様は与えてくださいました。聖書に書かれている「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3章11節 を身を持って実感できる一年間となりました。
 残り三年間も神様の恵みに常に感謝し、TCUで学べることを喜びとしつつすべてを神様にゆだねて、そのうえで自分ができる精いっぱいの努力をしながら過ごしていきたいと思わされています。

2013年4月号

■巻頭言 「ずくなしは幸せ?!」  高橋宣弘

 信州に移り住み、初めて聞いた言葉の一つに「ずく」や「ずくなし」があります。「ずく」には、精を出してする気力・根気・がんばり・こまめに働く熱心さなどの意味があり、「ずくなし」は、怠け者、活力・根気がないことと、『長野県方言辞典』に説明されていました。
 そんなマイナスの意味のずくなしが幸せと書かれた文章に最近、目が留まりました。
 『イエスの言葉ケセン語訳』(文春新書)の中の一節です。この本は、岩手県大船渡市で医師として働きながら、ふるさと気仙地方の方言=ケセン語に聖書を翻訳された山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)さんが書かれたものです。
 イエス様が山の上から語られたみことば、「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐから。」(マタイの福音書5:5、新改訳 第3版)を、山浦先生はこう訳されました。
  意気地(ずグ)なしの甲斐性(けアしょ)なしァ幸(しあわ)せだ。その人(ひ)達(たぢ)ァ神(かみ)さまの跡式(あどしギ)ィ(遺産を)受(う)げる。
 山浦さんはこう訳された理由を、次のように説明されます。―イエス様がここで語られた「柔和」という単語は、へブル語では「アナヴ」といいます。アナヴは日本語の「おだやかな」とは反対です。常にいじめられ続けている貧乏人のうちでも意気地のあるやつは猛烈な反抗をするのですが、結局は圧倒的な軍事力の前に制圧されてしまいます。生き残っているのは、ひたすら地に這いつくばって服従を誓う、情けない奴隷根性の貧乏人なのでした。為政者の立場から見れば、こういう連中こそ善良でおだやかな民、アナヴです。ですからケセン語でこれを「意気地(ず グ)なしの甲斐性(けアしょ)なし」と訳しました。―
 「ずく」という言葉の語源は、諸説あるようですが、山浦さんはケセン語の「ズク」をこう説明します。― 昔、東北地方が大和朝廷に征服される前、我々の祖先は蝦夷(えみし)と呼ばれていました。一万年余の長い縄文文化の伝統を持ち、日本列島のまことのあるじでした。すぐれた製鉄技術で武器を作り、数世紀に渡る朝廷の侵略と戦いましたが、彼らが征服されると、蝦夷を一所に置くのは危険だとして、朝廷はこれを全国各地に流しました。彼らは山奥で砂鉄をすくい、炭を焼いて、製鉄業に従事します。この時に産出される銑鉄(せんてつ)が「ズク」です。しかし、敗亡の蝦夷への圧迫は厳しく、反乱が全国に飛び火します。彼らは各個攻撃され、やがて山岳をさまよう流浪の民となります。ズクを奪われた蝦夷、「ズクなし」にはもはや何の力もない。こうしてこの言葉は、「意気地なし、無能力者、無気力者」の意味になりました。―
 そのような「ずくなしこそ幸いだ。神様から多くの恵みを頂けるから」とイエス様は約束してくださいます。自分がずくなしだと思う時、そんな私を大きな愛で受け容れてくださり、励ましてくださる神様がおられます。イエス様のこのみことばに、慰めと救いを見出していきましょう。

■新年度役員就任にあたって  S.K.

 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58) 
 執事に任命され、あれから2年。先日の教会総会で今度は長老に任命されました。この私が長老?大丈夫でしょうか?子ども達に電話でその話をすると、「喜んで仕えなくちゃ。」とのこと。言うのは簡単ですけれど、果たしてできるのでしょうか。自分の力でやろうとしたら答えはNOです。神様により頼んで、神様に自分を明け渡していく時にきっと導いてくださることでしょう。(この自分を明け渡すというのも自我の強い私にとって難しいのですが。)是非お祈りください。
 ところで、長野福音教会のCSの奉仕をさせていただくようになって十数年がたちますが、年々子どもの数が減少し、これからどうなってしまうのだろうと不安に思うこともあります。しかし、人数ではなく、神様は神様を求めて集う子どもたちを与えて下っています。お話を真剣に聞いてくれている子ども達の顔を見ると、この神様の御言葉を伝えていきたいという思いが湧いてきます。今年度も子ども達だけでなくファミリーキャンプを妙高で予定しています。是非皆さんでご参加ください。
また、福祉の活動も一歩踏み出せたらと考えています。
教会教育のためにお祈りください。

■~まずこの私から~  S.T.

 「神様はどのような人でも、主の使命を全うするようになさる。どんな方法にせよ足りないものを補い、必ずや神さまの御旨を実現される方だ」(「天の糧食(かて)」イム ボクマン牧師)
 この度、神様は、総会で投票権のある方々をお選びになり、私のようなものを役員に任命なさいました。「神様どうして私なのですか、私は年もしているし、心も昔のように柔らかくはなくなってきていますが」戸惑って自問しつつ、神様のみこころを尋ねる日々です。
 イム ボクマン先生はさらに続けて「神様の計画において妨げになることは、私たちの能力の不足ではなくて不信仰、不従順。この態度が反って妨げになる」「重要なのは「(神様に仕える上で)足りないのは能力ではなく、どこまでも従っていこうと決心するその勇気だ」と言われます。
 私も尻込みばかりしていないで、神さまからのメッセージをしっかり捉え、“霊的いのちの回復を神様から与えられていきたい”(祈りの友2013年1月号高橋先生巻頭言)と思いました。なるほど能力は足りないものですし、どういう役割を担うべきか、未だ覚束ないのですが、まずこの私から主に整えられて、与えられたところへ遣わされ働きたいと願います。
 どうぞ皆さまよろしくお願いします。

■湧き出す泉のように  M.H.

 春がきましたねえ。今年の桜は早いらしい。でも長野の桜はこれからですね。咲きはじめの桜、満開の桜、散りはじめの桜、若葉の桜、楽しみです。そして忘れてはいけない桜餅・・・そう、私は花より団子です。
 改めまして、今年度泉会の会長になりました。ついに会長を受けてしまいました。どきどき。初めてだよねえ。どうしよう。私でいいのかなあ。泉会がつぶれたらどうしよう。態度と図体はでかいけれど、知恵も経験もとぼしく、性格にも難あり、おまけに自分勝手に判断してしまうこの私ですが。
 そんな不安を払しょくしてくれる心強い方がいます。副会長のT姉とS姉です。三人で今年の泉会役員をお受けしますので、よろしくおねがいします。(すでに私は大船に乗ったつもりでいます。)
 長野福音教会のみなさんは、アイデア、知識、技術といった賜物をいろいろ持っておられるので、バザーにしても食事づくりにしても大掃除にしても、とても手際がよくて、あっという間に事を成してしまいます。
 そういうわけですから、私たち役員三人が引っ張っていくというよりは、とりあえず先頭を歩ませていただいて、きっかけをつくっていこうと思います。話の流れは会員のみなさまの舵取り次第・・・
 活動予定は昨年とあまりかわりません。けれども、今年これをやりたい、あれをやりたい、ということがあれば、お気軽にお知らせください
 今年も、楽しく、にぎやかで、さんびや祈りが湧き出す泉会になりますように。そして神様がいつでも、どこでも、どんなときもフォローしてくれることを期待しつつ。

■世界祈祷日の礼拝  S.S.

 今年の世界祈祷日はカトリック長野教会で行われました。この礼拝は世界中で持たれ、キリストを信じ神に繋がる人たちが教派を超えて困難の中にある女性たちのために祈りあいます。
 今回は「私が旅人だったときあなたは暖かく迎えてくれた」というテーマでフランスの女性たちを通して学びました。式文の朗読には、フランスに住むさまざまな立場の女性と移住してきた女性と、どちらでもなく全体に語りかける女性が登場します。それぞれの証言と聖書から教えられました。フランスには仕事や結婚で外国から移住してきた人たちの他に、部族間の争いや貧困などによる難民をたくさん受け入れてきたようです。外国人だけでなく私たちは、この地上においてみんな旅人で、レビ記19章33~36節で、共に住む外国人をしいたげないで自分たちの仲間と同じように扱い自分自身のように愛するよう神様は教えておられます。またフランスのキリスト者たちは、神の性質に似たものに作られた私たちにある多様性を受け止め、違いを超えて一つになり神様が迎えてくださる恵みを感謝しています。その一方で、神の教えを忘れ尊厳を傷つけるような言動をしたこと・無関心でいたことを悔み、移住者たちの尊厳と自由のために祈ったのです。メッセージは、長野で暮らすフィリピンの人たちをサポートする働きをしているフィリピン人シスターのお話でした。フィリピンの人たちが日本の人と暮らし共に働き同じものを食べる中で、日本を愛してくださっていることを知りました。
 今回の礼拝テーマになっている聖書箇所のマタイの福音書25章31~40節に「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」というイエス様の言葉があります。私たちはさまざまな人に出会うとき、助け・助けられるときに、このような気持ちで隣人を大切にしていけたらどんなに平和になるだろうと思います。悔い改めを繰り返しながらそうなっていきたいと思いました。

■総務部の働きについて  K.K.

 今年度、総務部をI姉と担当します。私は総務部は初めてですが、教会運営がスムーズに行くように努めてまいります。
 総務部の担当事項は、総会資料では次の6つです。
 1 天災、人災等に対する教会の危機管理を点検
 2 教会墓地の今後を検討する
 3 太陽光発電設備を教会屋根に設置し、脱原発と環境問題への取り組みを進める
 4 次世代の教会リーダーを発掘し、育成する
 5 みなが喜んで教会で奉仕できるように、奉仕の配分を整えていく
 6 教団の機構改革(教憲・教規改正)に合わせて教会規則等の見直しを行う
 これらの中で、ぜひとも教会員のみなさまのお力をお借りしたいことは、清掃関係をはじめ、いろいろな奉仕活動です。教会堂が大きくなったということは、うれしいことですが、それに伴い清掃や管理をする場所が多くなったということでもあります。できる限り多くの方に奉仕活動に参加していただき、新来会者をはじめ、教会に来てみなさまを気持ちよく、きれいな状態の教会堂で、楽しい気持ちでお迎えしたいと思います。奉仕は喜んでするのが基本と思いますが、自分はまだ清掃等を喜んでやっていないと反省しています。進んで主の宮をきれいにするよう心がけたいと思います。当番表についてお気付きの点がありましたらなんなりと総務までお知らせください。
 奉仕も献金と同じように、いやいやながらするのではなく、感謝をもってすることが大切と思います。もし、大きな負担を感じるようでしたら早めにご相談をお願いします。

■図書コーナー新設記念児童文学への誘いその5 ローラ・インガルス・ワイルダー「小さな家シリーズ」『長い冬』  K.Y.

 この信州にもようやく春がやってきました。この冬は雪がよく降り、寒さの厳しい冬でした。しかしこんなものじゃない、もっと厳しい“寒さと暗さと飢え”とを体験し、それを自伝的物語に残した人がいます。みなさんご存知の『大草原の小さな家』のローラことローラ・インガルス・ワイルダーです。
 ローラは1867年にアメリカのウィスコンシン州に生まれ、家族と共にアメリカ大陸を移動しながら、自由と独立の開拓時代を生き抜いた人でした。「わたしは大草原で体験したことをどうしても語り継ぎたいと思いました。消えてしまうのはもったいないほど、すばらしい物語だからです。」と、自ら語り、65歳になってから自伝的物語を9冊の本に著しました。今回話題にしたい『長い冬』はその第6巻目の作品です。
 この物語は1880年~81年(ローラ13歳)に、9月から始まって、延々と九か月も続いた、長い長い冬の出来事が物語の形をとって記録されています。そのころサウス・ダコタ州で開拓生活をしていたインガルス一家は、自給自足はもちろん、草原の草を干し草にして新しい移住者に売ったりしていました。姉のメアリーが失明してからは、「とうさんの手伝いができるのは自分だけだ」と、ローラは男の子がするような作業でも進んで手伝います。暑い夏の日、とうさんと二人で干し草を固めていたローラはジャコウネズミの巣を見つけます。それを見たとうさんが、「どうも厳しい冬になりそうだ。くる冬が寒ければ寒いほど、ジャコウネズミは巣の壁を頑丈に作るんだ。今までこんなに頑丈な巣を見たことがないよ。」と言います。その通り、この年は9月には霜が下り、十分育っていないのに早めに作物の収穫をしなくてはならず、ストーブに火が入り、10月には最初の吹雪がやってきます。とうさんが町に買い物に行ったとき、インディアンがやってきて、「積もる、すごい雪、くる、いくつもの月」と警告します。7年ごとに厳しい冬が来て、とくに7年間が三回続いた後の最後の年(つまりこの年)が一番厳しい冬になると教えてくれます。とうさんは冬の間、草原から町に移住することを決意します。その後、吹雪が何度となくローラたちを襲います。吹雪は何の前触れもなくやってきて3~4日荒れ狂い、2~3日晴れたかと思えばまた突然やってくる・・・といったことの繰り返しでした。そのうち雪が線路をふさぎ、汽車が埋もれたままこの町にやってこれなくなり、町中から食べ物や燃料がなくなっていきます。温める部屋を一つにするために、ローラたちは全員一日中台所で過ごします。それでもローラの家の石炭が底をついてしまいます。その時とうさんは、夏に刈った干し草を固くよって棒を作り、それを燃やすことを考えます。干し草は吹雪の合間をぬって、とうさんが草原の家から運んできます。一日に何本も必要なので、ローラはより方を教えてもらい、一日中もっぱら干し草をよることになります。ランプの灯油が無くなった時は、とうさんがどこからか持ってきた車軸油で、かあさんがボタンランプを作ります。食物も減ってきます。ローラたちは1日の食事を2食にし、早めにベッドへ入ってしまうようになりました。秋に収穫したジャガイモを毎日毎日大事に食べます。どうにか手に入れた種小麦は、コーヒー引きでひいて粉にすることをかあさんが思いつき、その粉でパンを焼きます。コーヒー引きで粉を引くにはとても時間がかかるので、目が見えないメアリーと妹のキャリーが交代で引きます。吹雪の間中、インガルス一家はこうして過ごすのでした。
 どんなにつらく厳しい状況であっても、とうさんは、家族を愛し、前向きで、フロンティアスピリットあふれる、何事にも一生懸命な人でした。暗く寒い夜は、とうさんがバイオリンを弾き、みんなで民謡や賛美歌を歌って元気を出しました。とうさんの指がこわばって腫れ、バイオリンが弾けなくなってしまってからは、「歌えばいい!」とみんなで心合わせて歌いました。
 かあさんは創意工夫が上手で、どんな貧弱な材料でも、おいしい料理に変身させることのできる腕前の持ち主でした。また、決して弱音を吐いたり、不平不満を言ったりしない賢く強い人でした。家に閉じこもりっきりの日々は、みんなに聖句を暗唱させたり、勉強をさせたり、イライラさせないよう気を遣いながら、時には教会新聞を読んでくれたりするとても優しい人でした。ピンチが訪れても、みんなの知恵で何とか乗り切り、まさに家族一丸となって、助け合いながら、吹雪と戦ったのでした。
 しかし3月になっても吹雪はおさまりません。―――『勉強はもうしなかった。この世にあるのはただ、寒さと暗闇と家事とぱさぱさの黒パンと吹きまくる風だけだった。嵐はとぎれることなく襲ってきて、壁の外で荒れ狂い、ときにはじっと様子をうかがっていたかと思うと、いきなりとびかかってきて、家を激しくゆすり、わめきちらし、歯をむきだし、怒って大声をあげた。朝、ベッドを出るとあわてて下へかけおり、ストーブのそばで着替えをする。それから一日働いて、夜になると、冷えきったベッドにもぐりこみ、温かくなったとたんに、眠ってしまう。こんな冬がえんえんと続いているのだ。長すぎる。決して終わりそうもない。』
4月になってようやく吹雪が息切れし始め、5月になってようやく待ちに待った汽車がやってきます。そしてその汽車がクリスマスの樽を運んできました。その樽の中から、こちこちに凍った七面鳥が出てきます。インガルス一家は5月にクリスマスをお祝いすることになりました。―――『ごちそうが山盛りになったテーブルに、みんながそろってつくと、かあさんがとうさんを見た。みんなは頭をたれて、お祈りをした。「神よ、あなたのあふれるお恵みに感謝いたします。」とうさんはそれしかいわなかったけど、それだけですべてをいいあらわしているようだった。』
 日本も東日本大震災を通して、助け合うことの大切さや、家族の大切さなど、“寒く暗く貧しい”状況に置かれなくては気付かない大切なことをたくさん体験しました。この物語を読むと、豊かになりすぎて失われてしまったものが、たくさんあるように思わされます。
 思えば、イエス様の降誕こそ“寒さと暗さと貧しさ”の中での象徴的な出来事ではないでしょうか?「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(コリントⅡ8・9)
 待ちに待った春がきました。主からあふれんばかりに与えられている恵みに感謝したいと思います。

■星野富弘花の詩画展に行って来て  S.T.

 2013年4月10日、伊那文化会館へ詩画展を見に、Iさんと行って来ました。当初私の目的と言えばオープニングセレモニーに招かれていた星野富弘さんにお会いすることでした。しかし直前になり体調を崩され、キャンセルに、、。それでも列車、バス、タクシーを乗りつぎ、なんと高遠の桜まで見物してきました。
 富弘さんには会えませんでしたが、DVDと詩画はとても印象的でした。DVDでは富弘さんの詩画を描くに至るまでの半生と謙虚なお人柄が感じられました。詩画は、本で見るのとは違い、実物が持つリアリティで訴えかけてくるものがありました。ベットで横になったまま、筆を口にくわえ創作する姿には感動しました。百点余りの作品が展示されていました。
 DVDの中で小学生の頃の富弘さんの作品が紹介されました。山々の紅葉を描いたもので、その当時賞を取ったものだそうです。私はそれを見て思いました。これ程の素晴らしい作品を残す人は、やはり小さなときから神様の賜物があったのだと。全く才能のない人だったら不可能だっただろう。学生時代から山に登ったり、自然を愛する心があったから出来たのだろうと。その神様からの賜物をコツコツと積み重ねたlことが、これらの作品として実を結んだと感じました。
 そこで振り返ってみて私自身にも神様からの賜物があるだろうか。答えは確かにあります。とすればその賜物を飽くことなくコツコツと積み重ねていけば神様のみ技がなされていくのではないかと思います。
 富弘さんの詩画は、一つ一つ本当にいろいろなことを考えさせられます。皆さんも是非一つ一つにひたってみて下さい。そして神様からの賜物を大切にしていきたいものですね。

2013年1月号

■巻頭言 「信仰のリバイバル-まずこの私から-」  高橋宣弘

 今年、長野福音教会に与えられた主題聖句は、旧約聖書のエゼキエル書37章14節です。

 「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。― このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。」 

 このみことばから、今年の歩みの目標を「信仰のリバイバル-まずこの私から-」としました。リバイバルという言葉を耳にしますと、教会が大きくなるとか、集まる人数が増えるといったイメージが先行してしまいます。しかし、本来リバイバルとは「再び生きる、よみがえる」という意味の言葉です。キリスト教の用語では、リバイバルを「信仰復興」と訳しています。信仰的に眠っていたクリスチャンが目覚め、神様に立ち返り、キリスト者としての意識を明確にし、その使命を世にあって実行していくことです。
 エゼキエル書37章には、無数の人間の骨が野ざらしにされているという恐ろしい幻が出てきます。これらの骨は、当時のイスラエル人たちを表していました。国敗れて、遠くバビロンへと連行されていったイスラエル人たちは、母国とあのエルサレム神殿が破壊し尽くされるのを目撃しました。悲しく辛い体験でした。生きる意欲も、故郷に帰還できる希望も失い、「俺たちは神様から見捨てられたんだ・・・」と思い込んでいました。
 彼らの姿は、まるで私たち自身のようです。私たちも時に、自分自身がまるで干からびた骨のようだと感じてしまうことがあります。自信を失い、力も湧いてこず、自分が空っぽのように感じてしまうこともあります。霊的・信仰的なことで、たましい・心が、渇ききっていると感じます。
 しかし、あのがい骨は、全能なる神様の力によってよみがえったのです。預言者エゼキエルを通して語られた神様の言葉によって、新しい体を回復し、そして神様の息吹=聖霊に満たされて、いのちを回復します。私たちも主なる神様によって、新しく生かされていきたいのです。霊的いのちの回復を、今年、神様から与えられていきたいのです。そう祈り求めていく一年としていきましょう。
 そして、新しく生かされていく私たちが、それぞれの場所に遣わされて行きます。この厳しい世の中にあって、生きる希望や力を失っている人たちに、私たちを通して、神様のいのちのことばが証しされますように。そこに主の御霊が、豊かに注がれますように。  アーメン

■泉会のクリスマス  H.T.

 2012年12月8日、泉会のクリスマスが行われました。
   音楽ゲスト:Y.K.さん
   メッセージ:高橋宣広先生
   出席者:37名(内4人に1人は未信者)
 Y.K.さんのギター演奏は、「ロマンス」、「月光」等9曲、又自作の曲や詩篇23篇の朗読に合わせての演奏等とても素晴らしいものでした。Y.K.さんは大きな体にしては、凄く緊張して汗びっしょり。始めに高橋先生と共に祈ってからの出演でしたが、久しぶりの教会出席で緊張したのでしょうか?
 「私待つわ、いつまでも待つわ」で、先生のメッセージが始まりました。聖書箇所はルカ2:25ー33。エルサレムにて、シメオンは正しい敬虔な人でした。イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。宮で幼子イエスを腕に抱き神をほめたたえました。現代の世の中は待てない人が多く、すぐに結論を出したがる人が多いが、待つことの大切さ又待ち望みつつ日々主にあって生かされたいと思います。
 ランチタイムは、オードブル、おにぎり、K.Y.さん手作りの豪華なケーキ等、身も心も豊かになりました。
 音楽ゲストのY.K.さんは1年程前に、現在、三輪公民館で行われている三浦綾子読書会のチラシが、当時自宅新築中で仮住まいのYさん宅ポストに入りました。それから毎回読書会に出席されていましたが、教会には少し敷居が高かったのでしょうか?Y.K.さんの賜物が生かされる場があったらと祈っている頃に、泉会のクリスマス会の計画が立てられていました。音楽ゲストにY.K.さんをと、泉会役員と先生にお話しし、とりあえず先生に会っていただきました。そして当日の出演となりました。どうぞY.K.さんの信仰の回復のためにお祈りをお願いいたします。

■とにかくすごかった子どもクリスマス会  S.I.

 12月8日(土)、子どもクリスマス会が行われました。当日のプログラムは、1部が礼拝堂でのクリスマス礼拝とDVD鑑賞、2部が1階ホールでクリスマスシュガークッキーづくり(星やツリーの形をしたクッキーに、アイシングやトッピングをしました(^_-)-☆)。
 当日、教会の玄関は次から次へとやってくる子どもたちであふれていました。すごくうれしい、けどプレゼントは60個しか用意してありませんでした。(ああ、神さま、どうしましょう?)と、不安になったわたしは心の中で思いました。60人以上が確定したので、スタッフがプレゼントを急遽、買いに行くことになりました。そして、買ってきたプレゼントを袋へ詰め込み作業。これは時間との戦いでした。もうすぐ2部のプログラムが終わってしまいそうだったからです。でも、なんとか間に合って、子どもたち全員にプレゼントを渡すことができました!(^^)!
 このように、裏方はバタバタでしたが、何より子どもたちが本当に楽しそうだったことが、うれしかったです。そして、イエス様がこの世に生れてくださった本当の意味が少しでも伝わればいいなと思いました。それは、参加した子どもたちの数の多さよりも大事なことだと思いました。ウィングスとサタデークラブの働きのために、そしてスタッフが子どもたちにイエス様のことをもっと伝えることができるようにお祈りください。
  参加者  子ども 73名 ・  大人  13名

■ゴスペルワークショップに参加して  R.A.

 12月16日(日)、6月から月に1度のワークショップで練習してきたゴスペルコンサートが開かれました。エミ先生と40人のクワイヤーが心をひとつに賛美することができた、感謝と喜びに溢れた体験でした。ただ1つの後悔は、昨年のワークショップに参加しなかったことです。エミ先生は、はっきりと物をおっしゃる方ですが、決して人を傷つけることなく、愛のある指導をしてくださるので、メンバーはみんなエミ先生が大好きで、毎月のワークショップが楽しみでした。11月には、この仲間たちと、東京・阿佐ヶ谷の教会まで、エミ先生が出演するコンサートを聴きに行ったことも、楽しい思い出の1つになりました。往復の車中の盛り上がりは、かなりのものでした(!)
 このワークショップ体験は、自分自身の信仰生活を見直すものにもなりました。今まで、礼拝でシャロンとして奉仕をさせていただくときも、「私のような信仰の弱い者が、神さまの前に出て賛美をしてもいいのか。」という迷いがいつもありました。その悩みをある姉妹に打ち明けたとき、「賛美は、サタンに勝利する一番の力だと聞いたことがあるよ。」という言葉で励ましてもらい、弱い私だけれど、全て神さまに委ねて、喜んで賛美していこうという気持ちになりました。今年の後半は、試煉の時でもありましたが、ワークショップがあったから、そしてその仲間がいたから、乗り切れたような気がします。
 考えてみれば、クリスチャンの人もまだそうでない人も、ともにゴスペルが歌えるなんて不思議です。来年のワークショップには、この中からひとりでも救われる方が出ることを期待したいです。これを読んでくださっているみなさんも、来年はぜひ一緒に歌いましょう!

■図書コーナー新設記念児童文学への誘いその4 『フランダースの犬』  K.Y.

 クリスマスの時期になると思い出す、一つの物語があります。ウィーダという女性が書いた『フランダースの犬』です。
 ベルギー、アントワープ近くの小さな村に住む、老人とその孫。牛乳運搬で生計を立てているが、その生活は苦しい。ある時、飼い主の酷使に耐えかねて道端に死にかけていたフランダース犬を助ける。手厚い看護で元気になった犬は、彼らの温情に報いようと牛乳運搬の荷車を自ら引き、パトラッシェと名付けられ家族の一員となる。
 少年ネルロは、絵を描くことが好きな15歳。アントワープ出身の偉大な画家ルーベンスを敬愛している。村一番の金持ち、コゼツの娘アロアと仲良し。だが、コゼツはネルロの誠実で純粋な人柄には目もくれず、ただ彼の貧しさゆえに二人が会うことを禁ずる。ネルロは「いつか偉い画家になって認めてもらおう」と自分の将来を賭けてアントワープ絵画コンクールに応募する。しかしネルロを立て続けに不運が襲う。コゼツによって放火の濡れ衣を着せられたため、村での顧客を失って仕事はなくなり、小屋のような粗末な家さえ立ち退きを迫られ、祖父は老衰のため天国に召され、コンクールの絵は落選する・・・・。クリスマスなのに食べるものもなく、絶望したネルロだったが、たまたま雪の中から財布を拾う。それがコゼツのものだとわかったネルロは、財布をアロア届け、老衰したパトラッシェの世話を託して姿を消す。コゼツがネルロの真情を知り、それまでの彼へのひどい仕打ちを後悔していたころ、ネルロはアントワープの教会で飢えと寒さのため死にかけていた。そこへアロアの家を抜け出してきたパトラッシェが駆けつけ、ネルロは唯一の家族であり友である愛犬とともに眠りにつく。意識がなくなる前に、以前からずっと見たくてあこがれていたルーベンスの『十字架を建てる』『十字架から降ろす』の絵を一目見られたことで、ネルロの心は安らかだった。
 翌朝、一人の高名な画家によって、ネルロこそがコンクールに入選するべき才能の持ち主だったことが明らかになり、遺体の前で人々は涙にくれるのだった。
 作者のウィーダ(本名マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー)はフランス人の父とイギリス人の母の間にイギリスで生まれ、読書好きの少女でした。パリに移り住み、その地で父を亡くし、20歳のころロンドンに戻って作家となります。30歳を過ぎたころからはイタリアのフィレンツェに居を定め、社交界で華やかに活躍したようです。教養ある父の影響で芸術に対する情熱があり、物語の描写はとても絵画的です。また特に17世紀バロックの画家であるルーベンスを敬愛していて、『フランダースの犬』の中でもその思いをネルロに重ねていて、ところどころにルーベンス讃歌がつづられているほどです。また動植物を愛し、動物実験に反対し、弱者に対する差別や不合理に対する怒りを訴え、貧しいものへ愛情を注いだ人でした。生涯独身で、晩年はたくさんの犬や猫とともに暮らしていたそうです。
 なぜウィーダはそんなにルーベンスを敬愛していたのでしょう。ルーベンスは16-17世紀バロックの代表的画家で、23歳で宮廷画家になり、外交官としても活躍した、とても恵まれた人でした。様々な分野に及ぶテーマを題材としていますが、とても信仰心の篤い画家で、宗教画もたくさん手掛けたようです。ザビエルと共に中立派としての立場を主張していたと言われています。その画風は『フランダースの犬』に登場する『キリスト昇架』『キリスト降架』を例にとると、‘生々しく痛ましい姿でもあくまでも尊厳を失わないキリストの遺骸’を表現している、といった感じです。豊かな中にもしっかりとした揺るがない思い=信仰を表す・・・という点でルーベンスに憧れを見出していたのでしょうか。
 『フランダースの犬』の中でネルロのおじいさんがこう言います。「わしらは貧乏人じゃ。わしらは神さまのくださるものを、何でもお受けしなくちゃならん―善いことも、悪いこともな。貧乏人はえり好みすることができんのじゃ」と。ネルロはおじいさんを心から尊敬していました。でも、どんな絶望感の中にあっても、絵やルーベンスに対する憧れを捨てませんでした。だからこそネルロは最後に「おお、神さま、十分でございます!」と叫んでその生涯を閉じることができたのです。イエス様も十字架上で「完了した。(成し遂げられた)」と言われました。「人間の憧れは、命に向けられていて、この人の最後がいっさいの憧れの終結となります。」とスイスの神学者ルードルフ・ボーレン先生が言っていますが、イエス様もネルロも、まさにそんな人生を全うしたと言えるのではないでしょうか。そんな人生を歩んでいきたいと思わされます。
 子供のころに読んだ物語を、大人になってから読み返してみると、また違った視点で新しい発見をすることができたりします。昔、アニメで見た‘悲しい物語’という印象で終わってしまっている人は、もう一度読んでみると、違った印象を受け取ることができるかもしれませんよ。 
 ※岩波少年文庫の『フランダースの犬』貸出いたします。
 ※ルーベンスの『キリスト昇架』『キリスト降架』(ただしカラーコピー)が見てみたい方はお申し出ください。 

■結婚にいたるまで  E.T.

 「将来の結婚のために祈りなさい」と、学生時代から言われてきました。その頃の祈り方としては、「具体的に理想の項目をあげて祈るといい」という方法が一般的だったようでした。しかし、学生時代はあまり興味もなく、真剣に結婚について祈ることはしませんでした。祈り始めたのは、就職して、友人達が結婚し始めてからです。「自分も考えなきゃいけないんだなあ」と感じて、祈り始めました。確か、理想の項目をあげて・・・<私を大切にする人><爽やかな人><クリスチャン><背は高い方がいい><リーダーシップをとれる人がいい>つらつらと、こんな人という理想をあげて祈り始めました。
 祈り始めて5年ほどたちましたが、それらしい人とは会いません。27歳頃には、一人でいることに不安も強くなってきて、いち早く結婚したいという気持ちになりました。しかし項目にあてはまる人は見当たりませんでした。おかしい、項目を減らしてみよう。<私を大切にする人><クリスチャン><背は高い方がいい>の3つの項目にしぼって祈りました。紹介していただいたり、出会いもありました。しかし、食事に誘われて行ってみたら保険の勧誘だったり、健康食品の販売だったり・・・もう私のことを好きになってくれる人はいないんだ、結婚もしないんだろうなあ、とも思いました。どんなに自分は魅力がないんだろう、なんでこんな性格なんだろうと自己嫌悪に陥ったり。しかし、考えていたらだんだん神さまに腹がたってくるのです。「私をつくったのが神さまなら、責任とってくださいよ!」。30歳頃は、結婚相手の祈りというよりは神さまに対する怒りをぶつけるような祈りでした。
 そんな時、友人の紹介で夫に会いました。食事の誘いを受けて会ってみたら、保険の勧誘もなく、健康食品の販売もなく、普通の会話ができました。何度かデートを重ね、付き合うことになりました。自分はクリスチャンで、教会にも毎週行っているし、そのうち別れを言われるだろうと思いながら付き合っていました。御心でないなら別れさせてくださいと祈りました。しかし1年近くたっても「別れ」の言葉は出ず、プロポーズらしき言葉をいただきました。結果的には、10年前の祈りの項目であげた人とほぼ違う人と結婚にいたりました。神さまに新しい挑戦をいただいた気がします。
 結婚を通して人として成長していけたらと思います。これからもよろしくお願いします。

■2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公「新島八重」とは!どんな人? 

 1846年、会津藩士の三女として生まれる。幕末戊辰戦争における最大の激戦、会津戦争(白虎隊の悲劇が有名)において、会津若松城に最後まで立て籠もり、大砲隊を指揮、自ら洋式銃を取って戦った。多くの死傷者を出した敗戦後、兄を頼って京都に行く。この戦いの奮戦ぶりから後年「幕末のジャンヌダルク」と言われた。
 京都では、キリスト教主義学校の設立に奔走していた新島襄と出会い、洗礼を受けた後、宣教師デビスの司式で結婚式を挙げる。受洗は京都初のプロテスタント教会での洗礼式、結婚式は、京都で初となるプロテスタント式だった。 
 キリスト教に対する反発が根強い中で洗礼を受けることも、キリスト者との結婚も勇気のいる時代であり、自ら正しいと思うことは、こだわりなく実行する八重の気質を物語る象徴的な出来事である。
 同志社(後の同志社大学)設立後は、キリスト教主義の学校を快く思わない寺社の反発や妨害を受ける襄を支え、「洋装のクリスチャンレディ」として男女を問わず同志社の学生たちに愛情を注いだ。
 夫襄の没後は、日清・日露戦争の際、日本赤十字の篤志看護婦として活躍、看護婦の地位向上に貢献し、一般女性として初の勲章を受けた。

■新島八重の夫「新島襄」とは!どんな人?

 キリスト教伝道師であり明治六大教育家の一人。同志社大学を興したことでも知られる。
 幕末の1864年、国禁を犯して脱国、10年にわたって欧米で学び、キリスト教の洗礼を受けて帰国した。留学中、新島は、しだいにひとつの夢を膨らませた。「自由」と「良心」に立つ人間を養成するキリスト教主義教育を日本でも、という夢である。
 その後、国内外の協力を得て、1875(明治8)年、京都に同志社大学の前身となる同志社英学校を設立した。新島襄は、学問の探求とともにキリスト教を徳育の基本として人格を陶冶する教育をめざした。

 キリスト教出版社から出されている関連本としては、次のようなものがある。
 ●「牧師夫人 新島八重」  雜賀信行著  雜賀編集工房
 ●「八重のことば」  坂本優二著  新教出版社
 ●「新島八重ものがたり」  山下智子著  日本キリスト教団出版局

■『レ・ミゼラブル』―公開中の映画からー

 原作は、フランスの文豪ビクトル・ユーゴーの大河小説。「ああ無情」として知られる。これをミュージカル化した舞台は、世界43ヶ国で27年間上演され、6千万人を動員した。この映画は、そのミュージカルの映画化である。
 登場人物の人生は皆、苦難に満ちている。改心してからのジャン・バルジャンは人として正しくありたいと願いながら、いつも難しい選択を強いられる。女工ファンティーヌもまた、娘コゼットのため、娼婦へと身を落とし極貧生活の末に死んでいく。それら個人の悲しみが、格差と貧困にあえぐ19世紀フランスで、自由を渇望する時代の空気に重なり、大きなうねりとなってバルジャンらを呑みこんでいく。
 この映画の最大の特徴は、感情の高まりや劇的な展開を歌だけで表現し、ダンスは全くないという点だ。「英国王のスピーチ」でオスカーを受賞したトム・フーパー監督は、通常のミュージカル映画製作の常識を覆し、演技と歌を同時に収録するという撮影スタイルをとった。メインキャストには有名スターがひしめくが、みな情感豊かなのはそのためだ。音楽そのものがこれほど観客の感情を揺さぶる作品はめったにない。(映画評論家 渡まちこ氏の評から抜粋)

 一切れのパンを盗んで19年間投獄されたジャン・ヴァルジャンが、司教に盗みを許されて宗教的改心を遂げ、薄幸の少女コゼットや、パリ6月暴動の青年革命家マリウスと結びつきながら愛と贖罪の人生をまっとうしていく。  
 ただ、この傑作を真に味わうために、どうしても欠かせないことがあります。それは、ストーリーの背後でいつも通奏低音のように奏でられ主人公たちを導いている「神」への思いを、理解することです。
 ジャン・ヴァルジャンが心から悔い改めたのは、司教から罪を許され、自分も神の前にふさわしい人生を送ることに命を捧げようと魂の底から誓うことで、別の人間に生まれ変わったからです。その誓いのシーンは、主人公を上空から捉えていて圧倒的な迫力。
 彼は神に祈り、導きを求めますが、決していわゆる「神頼み」ではなく、神の前に恥ずかしくない自分であろうとするからこそ、築き上げた名声を投げ打って「自分が脱走者ジャン・ヴァルジャンだ」と告白したり、傷ついたマリウスを背負って下水道の汚水にまみれながら助けたりする。そしてラストでは、見事に人生を生き切り、神のもとへと導かれていく。人は神を信じればこそ、罪を悔い改め、愛する者のために自己犠牲を払い、名声も命も投げ打って善を行う。
 原作が発表されたのはちょうど150年前です。この映画は、原作の命であるその点を、俳優たちの歌と演技と映像の力で見事に再創造していると思います。(yahooレビュー ガーディアンさんの評から抜粋)

2012年9月号

■巻頭言 宝とされている私たち  高橋宣弘

 祈り会では、これまで一年間かけて、ヨハネの黙示録を学んできました。用いたテキストは、岡山英雄先生が書かれた『小羊の王国―黙示録は終末について何を語っているのか』(いのちのことば社)です。黙示録自体、ヨハネが見た幻を記したもので、内容も象徴的表現が使われています。さらにテキストは、岡山先生の博士論文をまとめたものでした。毎週、学び終えると、皆で「難しいねぇ・・・」と頭を抱えていました。
 そんな中、最後に天国の素晴らしい約束を確認しました。悪が全てを覆いつくすかのような終わりの世に、再臨の主イエス様が来てくださり、すべての悪を打ち破ってくださること。そして忍耐し信仰を守り抜いた者に、主は栄光の体と永遠の命を与えてくださり、私たちを新しい天と新しい地に引き上げてくださること。そこに大きな慰めと希望があることを教えられました。
 黙示録21章に記されている天の都の情景は、地上の私たちには想像もつかないような、壮大できらびやかな世界です。都の城壁には12の土台石(21章14節)があって、それは高価な色とりどりの12の宝石でできています。碧玉(へきぎょく)、サファイヤ・・・青(せい)玉(ぎょく)、紫水晶などなど(21章19、20節)です。
私は、この箇所から、「あなたの神、主は、・・・あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(申命記7章6節)とのみことばと、出エジプト記39章に記されている、祭司の衣装エポデには、イスラエル12部族を表す12の宝石がはめ込まれたことに思いが及びました。
 もしかしたら天の都の12の宝石とは、私たちのことではないだろうか?多種多様な宝石のように、天国には世界中から集められた数え切れない人たちがいます。イエス様の十字架の血潮によって贖われ、聖徒とされた者たちは、それぞれ神様の目に麗しい宝・美しい宝石と見ていただけるのです。
 宝石は、自分の力だけでは輝けません。光に照らされた時に、宝石の持っている美しさが輝き出ます。天でも地でも、神様の栄光に包まれて初めて、私たちは輝かされ、本当の意味で生きていくことができるのです。また宝石は、刻まれ削られ、形を整えられて、宝石となっていきます。私たちの人生も、ときに刻まれるような経験、削られるようなでき事を通して、神様は、私たちを整え、信仰を与え、私たちを主のものとしてくださるのではないでしょうか。
 「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(Ⅰペテロ1章7節)
 今は、厳しく苦しい歩みかもしれません。しかし、この試練を尊いものとし、神の栄光で包んでくださるお方が、私たちと共にいてくださることを信じて、歩んでいきましょう。

■キャンプに参加して  S.S.

 散策では小川の水や植物に触れ、滝を見に行ったときは水の轟音とひんやりした空気や山の匂いを感じたり岩屋苔の感触・スリリングな吊り橋を体感したりすることができました。風景を教えていただいていて、目に見えなくてもとても美しいのだろうなと思ったのは、いもり池の羊草の花と水面に映り込む妙高山の光景でした。
 一番印象に残ったのは夜の語らいです。1日の日程が終わって談話コーナーに集まった8人で、進路や職場での悩みや、どんな夢を持っていて今実際どんな仕事をしているかなど、まじめな話題からおもしろい話題まで、お互いを知る良い時間でした。
 初めてキャンプに参加しましたが、たくさんの方にいっしょにいていただきながらそれぞれの活動を楽しむことができました。でも、礼拝や近場への外出に比べ長い時間だったこともありお互い戸惑うこともありました。いろいろなことで気持ちがいっぱいになって、夫は夜に帰ってしまいました。見える人と見えない人の感覚やリズムの違いから起きてしまうことがそのほとんどなので、お互い聞いたり言ったりしながら良い感じのところを見つけられたらいいなと思います。
 教会にはいろいろな年代やさまざまな状況の人が集います。総て慮ることは無理だし、それをしようとすればどちらかに辛抱を強いることになりますからそれを望むわけでもありません。ただ、共感しあったり助け合ったり支えあったりしていくには、お互いを知り少しずつでも理解し合っていくことが大切に思います。私自身ぜんぜんできてないなと今回反省させられました。お互い相手の立場になって自分だったらどうかなと考えることがもっとできたら絆がより強められて、そうすれば楽しいことをもっと楽しむことができる気がします。
 神と自分との信頼関係の次に大切な教会に集まる人どおしの信頼関係やお互いを心配し思う気持ちが、交わりを豊かにし信仰を成長させていくのかなと思いました。

■参加者の感想

M.S.
 2つの集会とも「友だち」というテーマで子どもたちにわかりやすく教えて下さってありがとうございました。
N.S.
 たのしかったこと たいそうとキャンプファイヤー
M.H.
 キャンプファイヤーで火をつけるのがこわかったけど、うまくできてよかった。いっしょにねとまりしたことで、またみんなと仲良くなれてよかった。ぜひ、来年もきかくしてほしい。
S.H.
 たのしい川あそび
Y.H.
 キャンプファイヤーのさいごのマシュマロやくのがたのしかった。
M.K.
 たのしい1日だった。
H.K.
 寝る前夜遊で少し遊んでねたのがいっしゅんだったので、おもしろかった。とわちゃんからきいた話でひなたがとわちゃんとまひるにあそばれちゃったのがおもしろかった。
R.H.
 キャンプファイヤーのマシュマロやきがとてもたのしかったです。それにマシュマロもおいしかったです。きのうのひつじとやぎのことも勉強になりました。夜あそびもたのしかったです。外でもバスケットボールやサッカーをして楽しかったです。
T.K.
よあそびが楽しくてひなたちゃんはいっしゅんでねて1つのベッドで3人ねました。
S.K.
 今年はKさんとMさんにお話をしていただきました。新鮮でとてもすばらしく子どもたちも真剣に話を聞いていました。恵まれた集会になりました。大人の方々にもたくさん手伝っていただき感謝でした。
K.M.
 子どもたちのはしゃぐ声がひびきわたっているっていいなと思いました。教会全体で自由に活動しながら親睦を深める機会はあまりなかったので、大切に育てたい企画だと思いました。
K.E.
 M先生のお話がとてもわかりやすくて良かったです。水遊びも楽しい時となると思います。
M.K.
 短い期間でしたが、とても充実したキャンプでした。子どもたちがとても元気で楽しんでいる姿が沢山見られ、嬉しかったです。
R.T.
 今年は講師の先生をお迎えせず、K兄、M姉にお話をしていただきました。とっても新鮮な感じで楽しく聞かせていただき、次回も期待してしまいます(笑)。キャンプファイヤーや美味しいお食事に大満足の2日間でした。

■妙高ファミリーキャンプ  キャンプ委員会

 7月15日、16日、妙高青少年自然の家で妙高ファミリーキャンプが開かれました。約20名のアンケートをいただきましたのでかいつまんで結果をご紹介します。全てのご意見はまとめてありますのでいつでもご覧いただけます。
 1趣旨(「主にあるファミリーのキャンプ。誰でも参加可能。内容・出入り自由。ウィングスとの並行開催で一部合同」について
  →初の試みとしてよかった。しばりのない参加形態に賛成×多。大人がいることでウィングスは助かった。門戸が広がり多様な方が参加できた。教会外の家族を誘ったが友達がいないことで参加しなかった。
 2期日日程(日曜+祝日で1泊2日)について
  →良かった×多。3連休で逆に行けない人もいた。
 3場所・費用(青少年教育施設、安い、セルフサービス、暑いこともある)について
  →良かった×多。安くて良い×多。施設も良い×多。施設内広すぎて移動が大変。たまには恵みシャレーでどうか。ゆったり集える場所と夜の時間があるといい。
 4内容(自主的で自由な活動、3~4の既成の活動からお好きなところを選んでいただいた)
  →やりたいことができてよかった。自由なところと全員参加のところのバランスがとれていて良かった。最初に自己紹介タイムがあってもよかった。苗名滝、温泉、松代大本営、ナイトウォーク、三代川先生のテープと交わり等よかった。ナビ用に自然の家の電話番号があるとよい。御言葉の学びをするならばそれなりの準備をしたい。下調べがされていて安心できた。
 5その他(何でも)
  →暑いので水分補給の場所があるといい。集会的なものを企画するなら、分科会や座談会等能動的にかかわれるものを希望する。回を重ねる中でよいスタイルができていくとよい。朝の集いの前に布団を整えておくとよい。
 キャンプ参加の有無にかかわらず建設的なご意見を沢山お寄せ下さりありがとうございました。反省点は沢山出てきますが、これらは改善のヒントにしたいと思います。ビジョンの有無が問われるのです。

■楽しかったオンギジャンイコンサート  N.S.

 2年ぶりのオンギジャンイのコンサート。毎回メンバーの構成が違うのでどんな人たちが来られるのかも楽しみのひとつです。元気なリーダーは今回も来日され、日本語も少しは上手になった様な気がしました。ひそかに期待していた前回来られた若いお兄さん(長男に似ている・・・と勝手に思っている)は来られなかったのが少し残念ではあったけれど・・・。
 オンギジャンイ独特のパフォーマンスで私たちを楽しませながら、神さまの事をストレートに心に語りかけてくる力強さは日々神様と繋がり、力を受けている証拠なんだなと思いました。人に聞かせる賛美ではなく神様に向かって賛美する姿勢を改めて教えれられる思いがしました。今回教会に始めて来られた方やゴスペルを通してコンサートに来られた方の中には涙を流して聴いておられた方もいらっしゃったと聞きました。
 オンギジャンイのコンサートを通して、神様が一人一人を見つめ、気にかけて下さっているのだと思うと嬉しくて私自身も元気になり、神様の事を伝えるって、先に救われた私たちクリスチャンが心から神様を喜んでいないとできないんじゃないかなーって思いました。
 今回はオンギジャンイのノリに積極的に参加したので、私に神様からCDのプレゼントがありました。ありがとう!
 新しく来られた方が神様につながることを祈りつつ。

■入会にあたって  S.Y.

 長野福音教会の会衆に加えていただき、感謝いたします。私が信仰を持つに至った時のことを記します。
 妻と私が聖書を読むようになったのは、1992年です。知人から誘われ、英語の勉強のために松本の「豊かな命教会」にて行われていた英語のクラスに参加しました。外国からの出稼ぎや留学生など、当時松本に集っていた英語圏のキリスト教徒が、賛美、聖書勉強、祈りのために集うものでした。
 始めは、反論のために聖書を学んでいました。しかし、ガーナから出稼ぎに来ていたAさん・Jさんが、明らかに苦境にいながらも、常に幸せそうであること等、不思議に思っていました。彼らが去る時、我々のために祈ってくれていたことに、特に触発されました。彼らから渡された何かを受け取る意味で、いつしか聖書の読み方が、「どうすれば受け入れられるようになるか」と変化していました。
 そして年末、米国からの音楽留学生Bさん・Tさん夫妻が帰国にあたり証しを語った時、私はBさんの方の証しに、妻はTさんの方の証しに、それぞれ考えさせられました。Bさんの話は、どこに行っても、偶然のように常に聖書を語る人がそこにいて、主から逃れられないと感じて信仰を持ったというもので、決して壮大な話というものではありませんでした。Tさんの話も同等のもので、実際ずっと後に再会した彼らは、その時の内容を忘れていた程でした。しかしながら私は、「それで信仰を持てるのなら、私もそうなれるのだ」と思いました。妻も別の理由でTさんの話を考えていました。同夜、我々二人は帰り道、互いに信仰の確信を持ったことを告白しました。
 別々の話を聞きながら同時に信仰に導かれたという経緯に、当初、召命なのかと思ったこともあります。ただ、その後の自分たちの歩みを恥ずかしさと共に振り返りますと、こうして時間差なく支え合える形をいただいてなければ、つらい中を通り抜けて来られなかっただろうと思っています。
 どうぞ皆様これからもよろしくお願いします。

■連合婦人会に参加して  S.S.

 5月22日、伊那聖書教会でおこなわれた同盟教団連合婦人会に長野福音教会からは10人でいきました。講演者は正村八重子先生、演題は「盛大な宴会に招かれた人々」で、ルカの福音書第14章12節~24節からのお話でした。これは、イエス様がパリサイ派の指導者の家で食事のときにされたお話です。この話に出てくる主人は神様を、招待客はパリサイ人を例えたのだそうです。聖書の知識がとても豊富で神様の教えを忠実に守っていたと言われるパリサイ人に例えられた招待客は、なぜ宴会への招待を断ったのでしょう。私たちはどうするでしょうか。神様は私たちみんなを神の国で催される宴会に招いてくださっているのです。その招きに応じた人たちは誰でも、その食卓につくことができるのだと学びました。
 私はまだ未熟でお話のごく一端しか分かっていないと思いますが、印象に残った部分を書きました。宴会に関連して正村先生が経験された祝宴や町内会旅行でのエピソードなども織り交ぜながらの講演でした。
 昼食は、違う教会の人どおしで一つのテーブルを囲むシステムでした。私は慣れないので同じ教会の方もいっしょにしていただきました。伊那や松本・小海の方と6人で食事をしました。誰からも話し始めなかったのでどうしようかと思いましたが、目の見えない私は名札が読めないのでお名前を尋ねるところから始め、自己紹介を機に交わることができました。知らない人どおしの交わりは、講演で聞いたとおり食事をともにすることでより深くなるのだなと思いました。連合婦人会は今回が初めてでしたが、同じ信仰を持つ者どうしの集まりゆえの温かさがありました。

■図書コーナー新設記念その3 『バンビ―森の生活の物語』  K.Y.

 今後は、いくつかの児童文学を取り上げていこうと思います。
 まず始めに、今回はフェリックス・ザルテンの『バンビ』を紹介します。「え?『バンビ』ってディズニーの作じゃないの?」と思われた方、いらっしゃると思います。本当は1923年に一人のユダヤ人によって書かれた正統派の“動物物語”です。
 ディズニーの映画の中でも、生まれたばかりのバンビがふらつく足でしっかり立った時の感動や、幼いバンビが見て感じる自然の美しさや驚き、親子の鹿とそれを取り巻く小動物たちとの楽しさ、かわいさ・・・などが感じられたことでしょう。映画では、クライマックスに、森で大火事が起こり、命からがら逃げ切った動物たちの様子が描かれ、その試練を乗り切って成長したバンビが王様になってめでたしめでたし・・・というストーリーだったと思います。ところが原作には火事はなく、ストーリーはもっとシリアスです。 
 四季折々の自然の森の美しさが、詩のように全編にわたって描写され、植物も動物も生きる喜びがあふれている、という点だけではなく、同時にその森の中で常に起こる、弱肉強食や共存のための争闘、“あれ”とよばれている人間の、狩りや鉄砲による情け容赦もない暴力、死の脅威、その中で懸命に生きている動物たちの命がけの姿…などがリアルに描かれています。そしてそんな動物たちの生活を通して、作者の最も訴えたい思いが語られているのです。
 物語を少し追ってみましょう。
 初夏にバンビが生まれた時は母鹿と二人。鹿の世界では父鹿はめったに姿を見せません。(ここぞ、という時に登場する大殿様が実はバンビの父だったのですが・・・)そして同じ年に生まれた牡鹿のゴボー・牝鹿のファリーネという友達と仲良く育ちます。バンビは幼いうちから母鹿に、草原への出方、森の歩き方(夜行性なので夜か明け方に動く)などを学びます。そして母鹿たちが時々口にする“危険”と“あれ”とは何か、いつも考えています。
初めての冬、食べものを探す困難を知り、それだけでも生きていくことが大変な時に、恐ろしい狩猟が始まります。バンビはこの狩猟で“危険”を体験し、怪我して動けなくなったゴボーを見捨てて逃げなくてはならない不条理さを味わいます。またこの狩猟で母鹿を殺され、一人で生きていかなくてはならない孤独と試練にあわされます。
時がたち、バンビに角が生えてきます。久しぶりに会ったファリーネは美しくなっていて、バンビは他の若鹿2頭と決闘して、みごとにファリーネを射止めます。(物語の最後にはファリーネと結婚しめでたしめでたし・・・となる)
 一方、殺されたと思っていたゴボーが人間に飼育されていると知ります。ところがゴボーはすっかり野生感を失っていて、ふたたび森の生活に戻るのですが、無条件に人間を信じていたため、人間の鉄砲で撃ち殺されてしまいます。
 バンビが足を鉄砲で撃たれ、怪我して動けなくなった時、大殿様がやっていきます。血が出ている間は同じところをグルグル歩き回らせて、“あれ”に居場所がばれないようにすることを教え、血の止まる草を食べさせて安全なところに導いてくれます。
 ある時、バンビは隠れ家の目の前で、鉄砲で撃たれ傷ついたキツネと、人間が飼っている狩猟の犬のやり取りを目撃します。キツネは家族の元で死にたいから見逃してくれ、と犬に頼みますが、犬は冷酷に拒否します。「はずかしくないのか・・・この裏切りものめ!」とキツネが叫ぶと、犬は「―何も知らないくせに、何を言っているのだ?おまえたちはみな、おれと同様、あの方のものだ!―あの方は全能だ。おれたちの上に立っていらっしゃる!おまえたちの持っているものはみな、あの方から出ているのだ!はえているもの、生きているものは、みなあの方からでているのだ!」と言い返します。
 これを聞いて、大殿様は、「一ばんおそろしいのは、犬がさっき言ったことを、動物たちが信じていることだ。彼らはそれを信じ、不安に満ちた生活を送り、“あれ”を憎み、お互いを憎み・・・“あれ”のために殺し合うのだ」とバンビに語ります。
 しばらくたって、森の中で密猟者の死体を大殿様が見つけた時、バンビにしっかり見せながらこう教えます。「見たかい、バンビ。“あれ”がわれわれのだれかと同じように倒れているのを見たかい?お聞き、バンビ、“あれ”はみんなの言うように全能じゃない。はえているものや、生きているもののすべてが“あれ”から出るわけじゃない。“あれ”はわれわれの上にいはしない!“あれ”はわれわれと同等で変わらないのだ。―“あれ”もわれわれと同じように、やっつけられることがあるんだ。そして、われわれのように、みじめに地面に倒れるんだ。今おまえが目の前に見るとおりだ。」・・・
 最後に大殿様はバンビに問います。「『わしの言うことがわかるかい、バンビ?』と年よりの鹿はたずねました。バンビはささやき声で、『と思います・・・』とこたえました。年よりの鹿は、『じゃ、言いなさい!』ときっぱり言いわたします。バンビは胸を熱くして、ふるえながら言いました。『別なひとがわたしたちみんなの上にいるのです・・・わたしたちの上に、“あれ”の上に』・・・
 フェリックス・ザルテンは子供の文学を書くときの筆名で、本名はズークムント・ザルツマンといいます。1869年当時のオーストリア・ハンガリー帝国の首都ブタペストで、ユダヤ人の家庭に生まれました。父が事業に失敗し、一家はウィーンに移って貧しい生活を続けます。家が貧しい上に病弱で、学校ではよくいじめられたそうです。休みの日には、ウィーンの郊外の森で小鳥やリスなどの小動物を眺めて過ごすのが好きでした。十代の終わりころから独学で文筆家をめざし、そのうち小説や劇作、演劇批評で頭角を現し、新聞記者としても活躍するまでになりました。子供のための動物文学もいくつか書いていて、中でも『バンビ』は、ドイツ語圏・英語圏でも広く読まれるようになります。ところが1933年にヒトラーがドイツで政権を取ると、その影響がオーストリアにも及び、ザルテンはアメリカに亡命を余儀なくされます。そして第二次世界大戦終息の後、スイスに移り、そこで1945年に亡くなっています。
 『バンビ』の中でザルテンは、ゴボーの死や、狩猟犬とキツネのやりとり、を通して、ヒトラーによるユダヤ人迫害を、予言的に語っています。(優れた児童文学の作品は、子供向けの物語であっても、時代を反映し、時には批判し、作者の深い思いを読み取ることができる点で、非常に重要な役割を担っている、といえる。)
 『バンビ』は幼児向けの物語ではありません。無理に無難な幼児向けの筋に作り替え、ひたすらかわいく表現したのでは、作者のかけがえのいないメッセージが無意味になってしまいます。
 ザルテンは、 生と死 ― この二つのものにしっかりと目を注ぎながら、生きていくとはどういうことなのかを表現しつつ‘人間は万能のものではない。人も動物もひとしく神の御手の中にある’との強いメッセージを語っているのです。興味おありの方は是非、ディズニーの『バンビ』を頭から一掃して、原作『バンビ』を読んでみてください。

■母と息子の富士登山  T.S.

 昨夏、息子(次男)と富士山に登った。八合目までは元気だった息子が、仮眠から覚めると、高山病になっていて、そのまま八合目でご来光を見て下山した。
 今年、リベンジのため、再び富士山に登った。富士登山には4つの登山ルートがあるが、昨年は初めてということもあり、ツアーに入り、一番人気があり、観光地化されたルートで登った。今年は息子の希望により、一番長く、故に一番人が少ないルートで登った。本当に、登山者は少なく、数える程しかいなかった。近年、山ガールと呼ばれる人々が増え、華やかな装いの登山者が多い中、母は子供のおさがりの中学校ジャージにウインドブレーカーという山おばさんであった。
 砂が厚いこのルートは本当に歩きづらく、かつ、遮るものが何もないため、暑く大変だった。ちょうど良い所に山小屋もなく、母の読みの甘さで、塩おにぎり1個ときゅうり半本で七合目の山小屋まで6時間歩いた。昨年の山小屋は汁のようなカレーだったが、今年は具がたくさん入っていて、おかわり自由だったので、たっぷりエネルギーを補給させてもらった。眠ると呼吸が浅くなり、高山病になりやすいため、鬼のような母は息子に寝てはいけない宣言をしたが、少しうとうとしたようだ。午前1時に山小屋を出発。息子は眠気と薄い空気にフラフラしながら登った。そして頂上に到着。日の出を見るのに良い場所で太陽が上ってくるのを待つ。この日の出前が寒くてホッカイロを持ってくるべきであったと思った。そして雲海の中から太陽が顔を出す。ほんとうに美しく主の御業を誉め讃える。富士山の頂上は広いがその中で最高峰にも立った。昨年のリベンジができて本当に良かった。この厳しいルートは下山にご褒美があり、7合目からはふかふかの砂を一歩3メートル進む程に下りていける。砂が靴にはいりやすい難点はあるが。クッションが良く、膝に優しく痛くならずに下山することができた。
 今回の一番の心配は登山で体力を使いかつ寝不足状態で運転する母の体力がもつのかということであったが、天候も、行き帰りの道も守られ、すばらしい体験をすることができ、ほんとうに感謝な時だった。

2012年7月号

■巻頭言 満ち足りる心  高橋宣弘

 夏野菜が美味しい季節になりました。信州に来て、新鮮で豊かな野菜に恵まれているおかげで、我が家は野菜中心の食生活になりました(料理は、ほぼ妻に任せきりですが…)。そのため旅先でも、地元の名物を食べることに疲れを感じてしまい、生野菜を求めてスーパーに駆け込んでしまいます。トマトやきゅうりをそのままかじりながら、「やっぱり、これだよね」と言うようになりました。
 恵まれた環境にいるため、出エジプトを経て荒野に置かれたイスラエルの民の不平不満が、大変身近に感じられます。旧約聖書の民数記11:4-6には、その様子がこう記されています。
   また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」
 水も緑もほとんどない荒野での40年間、神様はずっとイスラエルの民を養い続けてくださいます。安息日以外の毎朝、天からマナが降りて来て、壮年男性だけで60万を超す大群衆の胃袋を満たしたのです。マナは、「白く、その味は蜜を入れたせんべいのよう」(出エジプト記16:31)、また「これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。」(民数記11:8)と表現されています。甘くてこうばしい、神様がくださる栄養満点の主食でした。しかし、こんなにも素晴らしいマナが与えられていたのに、人々は、「毎日同じものばかりじゃ嫌だ、もう飽きた、もっと美味しいものが食べたい」と、不平不満を口にしたのです。
 私たちは、このイスラエルの人々を批判できません。私たちも同じような者です。今、与えられているものを喜び感謝するよりも、無いものねだりをしやすい私たちです。
 現在、各会で学びのテキストとして用いられている『病める社会の病める教会』(勝本正實著、いのちのことば社)の中に、「世界中で最も強欲なのはクリスチャン?」というショッキングなタイトルの章があり、そこにはこう指摘されています。
   キリストは私たちのために貧しくなり、命すら与えてくださったのに、信仰者はキリストの名によって、自分の欲望をかなえようとする。しかも、「これで十分」と思わず、次々にもっともな理由をつけて、祈るようになってしまう。(15ページ)
 耳が痛い指摘です。自己中心な信仰生活に陥りやすい私たち、神様の御手の中にいる自分というよりも、自分の「神様」としやすい私たちです。だからこそ、私たちは、いつもイエス様のお姿を思いながら、「満ち足りる心を伴う敬虔」(Ⅰテモテ6:6)、「衣食があればそれで満足」(Ⅰテモテ6:8)という、感謝の信仰へと導かれていきたいのです。

■一途に焼きそば H.E.

 5月20日、天候にも恵まれてバザーが行われました。ヤングとたこ焼きをやっていて焼きそばには指一本触れなかった私がこの原稿を書いていますがお許しください。
 焼きそばは、前日から当日が勝負です。前日は買い出しと野菜きざみ、きざんだ野菜の分量分けと肉の火入れがあります。何時間もかけて準備くださった兄方に感謝です。当日は、テント設営、火おこし、調理。商売が終わったら鉄板の洗浄と灰片づけ、テント片付け等々があります。日に焼けながら汗だくで焼いて下さった壮年の皆様に本当に感謝です。また毎年応援に来てくださるご主人様にも心から感謝申し上げます。
 年々人数が少なくなり、上げおろしの鉄板も重く感じられるようになってきました。“来年は別メニューにしよう”と毎年話題になるのですが、バザーの時期が来ると、そんな邪念はかなぐり捨てて一途に焼きそばに専念します。めらめらと燃える炎、もうもうと上がる煙、ジュ―ジュ―音をたててはねとぶ油と香ばしい香り・・何か本能に目覚めるようなひと時です。
 来年はドラム缶を新しくしていただけそうです。現在、使い込んで穴のあき始めたドラム缶が二つありますが、もしお入り用の方はご連絡ください。
 バザーのきめ細かな計画と調整をして下さった伝道部さんに感謝します。
 焼きそばの作り方を忘れないように以下に今回の準備等を記します。
  ・あらかじめ用意するもの・・ドラム缶、波板、鉄板、鉄板を動かすためのカギ手、大きなへら2本、薪ほか燃やすための準備、テント設営、ステージ、パッケージ100ぐらい、輪ゴム、割り箸
  ・前日に用意するもの・・サラダ油1本、ウスターソース、ソース付き焼きそば72食(3食入り×24袋)、モヤシ(24袋)、キャベツ(8玉)人参(24本)、こま切れ豚肉(2000~2500グラム)。野菜は大ビニール袋8袋に入れる。・紅ショウガ、青のり、材料は倉庫内冷蔵庫へ。
  ・(「モヤシ3袋、キャベツ1玉、人参3本」+「火を通した肉250~300g」+「そば9袋」)×8回焼く。一回毎にパック11~12個に入れ、紅ショウガ、青のりをかけ、割り箸を添えて売る。250円。
  ・余ったものは台所へ。
  ・今年の純益13255円。
  ・にこやかに売る (^O^)/。

■祝福されたバザー S.K.

 今年のバザーは暑かった。毎年天候も守られますようにとお祈りはするけれど、とっても天候に恵まれた。休息する人たちも結構駐車場にいて、中にはブルーシートを広げる人もいた。木陰がほしいと思うほどだった。
 鉢物コーナー担当者としては毎年帰りにみてもらうので、ケーキが売り切れる頃まだ客は0人という状態だが、気にしてる客は来年はモッコウバラがほしいという注文も頂いた。ゼラニウムなどは売り切れたが、毎年のことながら残った物は教会の庭の空きをみつけては植えて片づけるので、私にとってはバザーが終了するのはその時である。今年はバラが少し残ったので、ひとまわり大きい鉢に植替え、来年のバザーまでとっておこうと思う。来年用に教会の剪定したモッコウバラの枝をさし木にし、来年の準備がすでに始まっている。手芸品をせっせと作っていた頃もバザーは一年計画だった。でもどのような物が売れるのか?どのような売り方がいいのか?毎年?のまま行っているのが現状だ。
 神様はそんな私のバザーに対する行動も思いも全てわかってくださる方で、完売しても売れ残っても益としてくださる。天候が良くても悪くても、益としてくださる。(たしか去年は寒くて、皆室内で休憩しておでんの売れ行きが良かったと思う。)今年の暑さを見越してか、一麦会は冷たいデザートを用意していたとか。(私の口には入っていないが。)お気楽な私は神様にまかせきりだが(鉢物なんて特にそうだ)益としてくださり、感謝感謝のバザーだった。

■バザー、一麦会の苦悩 E.T.

 バザー前の一麦会は、いつになく真剣に悩んでいました。毎年、「喫茶一麦」(勝手に)でクレープを出して、お客様のニーズにきちんと答えているのか・・・。もしかしたら、クレープ以外のものを求められているのかもしれない!一麦会としては、毎年クレープを出すのが恒例です。今までも少し変化をつけてきました。バナナだけでなく、イチゴや桃(缶)、みかん(缶)を入れてみたり、Sさんによる冷えデザートを出してみたり。今年はどうするか・・・。悩みぬいた結果、いつものバナナクレープ、Sさんによる大人のパンナコッタ、Mちゃんの絶品ヨーグルトムースになりました。
 前日に会場入り、手作り感満載のポップをつくり、あちらこちらにチラホラと花をつけました。冷えデザートはSさん、Mちゃんにおまかせし・・・(^_^;)Rちゃんとクレープ生地を準備しました。(Mちゃんは、いつの間にかおやき作りに参加していて、浅川の嫁になっていました)
 当日、大人のパンナコッタ、絶品ヨーグルトムース、バナナクレープは好評を得て完売しました。定番のクレープも、意外に期待している方がいることを確認しました。また、他のブースでも楽しく、美味しく、素晴らしい時間を過ごすことができました。バーベキュー付近は熱かったですが、お肉・お豆すごく美味しかった。バザーを祝福してくださった神さまに感謝します。

■レディスランチョン - ビョン・ホギルさんのトーク&コンサート - に参加して M.T.

 レディスランチョンのために、お祈りとご奉仕を感謝いたします。今年のランチョンは、200人近い方々が参加してくださいました。ランチョンの宣伝またお誘い、ありがとうございました。
 今まで私は、クリスチャンのテノール歌手ビョン・ホギルさんの存在を知りませんでした。ランチョン委員会で、ビョン・ホギルさんのことを聞いた時、「あの劇団四季にクリスチャンがいたのか!?」と驚き、嬉しくなりました。
 ランチョン当日は、ビョン・ホギルさんの優しい歌声に身も心も癒されました。力強く素晴らしい賛美でした。そして歌の合間のユーモアあふれるお話が印象的でした。ホギルさんは、「心筋梗塞になり入院したとき、毎日お見舞いに来てくれた女性と結婚することがきました!病気を通して、無理だと思っていた結婚に導かれました!」と話されていました。「人間にとってのピンチが、神様のチャンスだ。神様は、病気を益としてくださった」と。
 韓国の方なので、通訳が付くかと思っていましたが、ホギルさんは、たどたどしい日本語で一生懸命に神様のお話をされていました。そのお姿に心打たれました。
 今回のレディスランチョンでは、微力ながらお手伝いをさせていただきました。本当はおめかしをして、ランチョンに参加したかったのですが、ホテルで会場案内の役割があったので、スーツを着て行きました。ホテルの従業員さんに間違えられたり、ホテルの方からも「ご苦労様です」と声をかけていただいたり、ちょっとだけホテルマンの体験もできました(笑)
 ホギルさんは、「生涯、神様を賛美して生きていきたい!」と願って活動されています。私は、「何のために生きていくのか」と問われ、「小さな者ですが、神様に奉仕をしていきたいです」と、心から願わされました。

■ひと休み ジョークのコーナー

その1
 聖地旅行にやって来ました。
 エルサレムの一角にある遺跡にて
 ガイド:「……ここは、ダビデ王が建設したとされる町の遺跡で、今から、3003年前のものです。」
 客:「??」
 客:「あのお、3003年前って、どうして分ったんですか?」
 ガイド:「ええ、3年前、研修で習ったとき、3000年前の遺跡って習いましたから。」

その2
 日曜学校である先生が「良きサマリヤ人」について教えていた。先生は言った。
 「もし、道端で人が血を流して倒れているのを見たら、皆さんはどうしますか?」
 ある生徒がさっと立ち上がって言った。
 「先生、私なら気絶します。」

その3
 日本語検定試験
 「もし○○なら」を使って短文を作りなさい。
 (解答)
 もしもし、あなたは奈良県の方ですか。

(必笑ジョーク202(いのちのことば社)より一部改変して引用)

■図書コーナー新設記念その2 『ペレのあたらしいふく』 K.Y.

 前回はモノクロの絵本を紹介しましたが、今回は北欧の美しい自然をそのまま絵本に映し出したような絵を描く、スウェーデンの女性作家 エルサ・ベスコフ(1874-1953) の 『ペレのあたらしいふく』を紹介したいと思います。
 エルサ・ベスコフはスウェーデンのストックホルム生まれ。6人兄弟の2番目で、何でも作れる器用なお父さん、優しいお母さん、お話が上手なおばあちゃん、そして北欧の大自然の中でのびのび育ち、絵を描くことやお話を作ることが大好きな少女でした。小学校の後、教育熱心な両親により、進歩的な女学校へ入学することになり、そこで教師のエレン・ケイ(後の世界的な女性思想家)と出会い、“母性愛”や“子供のしつけ”といった面で大変な影響を受けます。
 (―何よりも大切なのは、後で捨てるような物を子供に与えないことであって、むしろ、物を与えるのには常に、労働とか犠牲とか何か個人的な意味を含ませるべきである。物を与える喜び、小さな楽しみや満足を自分で作り出す可能性、同様に自分のものでも他人のものでも壊したら自分で償う方法などを会得させるためには、なるべく早い時期から子供に一定の家事労働をまじめに実行させ、それに対してささやかな報酬が得られるように習慣づけることが必要である―エレン・ケイ『児童の世紀』より)
 お父さんが亡くなると、経済的に苦しくなり、大学進学をあきらめて専門学校で美術を学びます。そこで後の夫、ナタナエル・ベスコフ氏と出会います。卒業するとエルサは母校の女学校で美術の先生として働きます。ナタナエル氏は画家を選ばずに神学校へ進学し牧師となります。二人は結婚すると、ストックホルム近郊の教会で牧会生活を始めます。二人には6人の男の子が与えられるのですが、6人それぞれをモデルとして描いた絵本がある、と言われています。6人の息子たちはそれぞれ、自分がモデルとなった絵本があることを、とても誇りにしていたそうです。
 エルサは50年間、牧師夫人として夫の伝道を支えながら、子育てをし、亡くなるまでに33冊もの本を描きました。日本でも25冊出版されたそうです。
 エルサの絵本には、北欧独特の文化・・・針葉樹林、フィヨルド、湖、白夜、寒さ、暗さ、美しさ・・・の中から生まれる小人や妖精、が登場する非現実なファンタジーといわれる物語を描いたものも多くあります。一方で、『ペレのあたらしいふく』のように生活感のある、現実の生活を描いた、写実的な物語もあります。そして、エルサ・ベスコフはエレン・ケイの言う“母性愛”を絵本に形象した芸術家と言われています。
『ペレのあたらしいふく』を見てみましょう。(たぶんモデルは長男)
  ・表紙は水色にキンポウゲの黄色で、スウェーデンの国旗を思わせる色使いです。
  ・健康そうな男の子と、彼が自分で世話しているひつじが出てきます。素朴な生活が感じられ、読者の子供にも親しみが持てます。男の子は大きくなって、服が小さくなってきたので、自分でひつじの毛を刈り取ります。(子供は大人のすることを見よう見まねでできるようになるものである・・・)
  ・その毛をおばあちゃんにすいてもらい、糸に紡いでもらいます。(できないことは人にお願いするが、タダでやってもらうのではなく、子供でもできる範囲での“労働”を交換条件としている・・・)
  ・ペンキ屋さんとの交渉で染粉を手に入れます。(ペンキ屋は身内の人ではないので、ペレはちゃんと帽子を取って挨拶をしている。ペンキ屋に染粉はないが、子供の考えを尊重し、染粉を得るための提案をしてくれる。近所の人とも助け合いながら生活している・・・)
  ・毛糸を自分で染めます。(自分でできることは自分で・・・)
  ・お母さんに布に織ってもらいます。(代わりに妹の世話をする、いつもやっているので慣れた手つきである。素朴な家族像が描かれている・・・)
  ・仕立て屋さんに布を持って行って、服を作ってくれるようお願いします。(ここでも帽子を取って挨拶。仕立て屋は「しょうのないこだよ」と言いつつも、子供だからとなおざりにせず、理解してくれている。ここにも小さな子供がいて、ペレは面倒を見ながら交換条件の“労働”をこなしている・・・)
そして仕立て屋さんは土曜日の夕方きっかりに、洋服を仕立ててくれます。(どうして土曜日の夕方なのか・・・ここの場面の絵をよく見ると・・・)
  ・ペレは日曜日に新しい服を着て、まずひつじにお礼を言います。ここの場面では服にかかわった人が勢ぞろいしています。(ものは多くの人の手を得て作られる、そして“労働”によって何かを一つ一つ得ていく、ということ・・・)
みんな勢ぞろいして、どうするのでしょうか。そうです。教会へ行くのです。ひつじに感謝、人に感謝、何よりすべてのよきものを与えてくださる神様に感謝。
 エルサ・ベスコフは、牧師である夫と培ってきた信仰と、先生であったエレン・ケイの思想の強い影響と、北欧の大自然とを糧として、絵と文で絵本に表現していった作家でした。エルサ・ベスコフの描く美しい絵と、そこに込められている思いを楽しんでみてください。
※「すぐに読みたい!」という方のために、
 『ペレのあたらしいふく』・『おひさまのたまご』エルサ・ベスコフ
 『もりのなか』・『またもりへ』・『わたしとあそんで』マリー・ホール・エッツ

■伝道部の働き O.T.

 2012年の暦もちょうど半分、折り返し点を過ぎました。日頃の皆さまのご協力に感謝します。
 伝道部としての働きには、1.伝道会等の企画・運営 2.フォローアップ 3.バザー 4.塩尻開拓伝道献金取扱い 5.他団体との協力伝道窓口 6.放送設備の管理・録音などがあげられますが、昨今は各種イベントの遂行などに傾きがちで、大切なフォローアップというミッションの観点における働きが弱い現況があり、大きな反省点です。一体に、見える形にとりかかり易いものですが、神さまに列なって生きるために、逸れて行く魂の救いに力を注ぐべきだと思います。とはいえ神さまに近づく手立てとしてはさまざまな形があります。イエス様のおこころに触れるための導線としては、例えば2年目を迎えたゴスペル企画などは大きな力となっています。
 従来の、言ってみれば受容型のコンサートから舵を切って、このワークショップレッスンを通じ積極的に神様を賛美するというフォームは自らの日常の軋轢・くびきなどしばりから、また屈託や閉塞感からの解放という展開をみせ、昨年は12月の感涙コンサートとして結実しました。
 ただこういった大きなうねりだけでなく、きめ細かにお一人びとりに合った形で私たちは主イエス様の愛を地道に伝えて行きたいものです。そのような働きはさらに重要です。7月からは新たな形で入門講座もスタートしました。これから若い人たちに神さまのみこころを、その愛の無窮であることをしかと継承していかなければと考えます。
 期待をもってこの年の後半の航路をともに渡って参りましょう。

■エッセイ 父の日・母の日に思うこと 正村八重子

 6月に父の日があった。お父さん方がズラリと礼拝堂前に並んだ。見たところあまり若いお父さんは見当たらない。多くは40歳台以上か。それに対して、今回プレゼントをあげようとする子供は、幼児が二人だった。ウイングスのやさしい先生方に導かれて、お父さん方にプレゼントを渡している。この二人に対して、感謝なことにお父さん方は大勢いる。
 ここ何年かで子供の数とお父さん方の数が逆転している。昔は子供が大勢でおとうさん(それも若い)は3人くらい、プレゼントを持った子供たちはひとりのお父さんに何個も渡していた頃を思い出した。これは父の日だけではなく母の日も同じであった。
 学校が隔週で土曜休みになった頃から教会ではサタデークラブを始めた。当時からあらゆる工夫をこらして(?)、フットサル、ソリ教室、ホッケー、タンバリン等、また、クレープ、ピザ、おやき、お好み焼き、クッキー作りを行った。M姉はサタデークラブの旗やエプロンを作ってくださった。その頃は、遊びが高学年向けだったせいか、高学年が集まったのは嬉しかったが、すぐに中学生になってしまい、ウイングスの継続につながりにくい面もあった。
 少子高齢化と言われている日本の現状がそのまま教会にもあてはまるようになってきたのかもしれない。しかし、公立小学校や保育園、幼稚園に子供たちがいなくなったわけではない。ウイングスに生徒が来てほしい。子供たちが、若い人が救われてほしい、と願うばかりである。
 次世代に向けて新しい幻を見る。教会の21世紀ビジョンを思う。子供たちよ、集まれ。青年の兄姉よ、クリスチャンホームを作ってください。クリスチャンホームの子供たちと外から来るお友だちでいっぱいのウイングスとサタデークラブを夢見ています。

■異論反論OBJECTIONコーナー きみは愛されるため生まれた!

 「きみは愛されるため生まれた」という有名な歌がある。クリスチャンだけでなく、TVでも使われたり韓流ファン以外にも知られているようだ。
 きみの生涯は愛で満ちているという歌詞が続くこの歌は、メロディも美しく、歌詞も素晴らしい。
 しかし、この曲を聴くとき(歌う時)、微かな違和感(あるいは落ち着かなさ、居心地の悪さ)とでもいう感覚に時々とらわれる。あるときその原因?の一端に気づかされた。それは、偶々見たワールド・ビジョン・ジャパン(キリスト教精神に基づく国際NGO)のHPの次の文章である。
 「特に強く思わされていることの一つは、いのちの尊さ、それも子どもたちのいのちの大切さということです。 先だって訪問したタンザニアでは、両親をHIV/エイズで失った男の子に会いました。その厳しい現実とこの子の将来を考えると、私は話すことも、抱きしめることもできず、ただ黙って話を聞くことしかできませんでした。昔ルワンダを訪問した時に出会った少女は、両親が目の前で殺されてしまい、それが大きなトラウマになり、その日以来、心の目と肉体的な目の両方を閉ざしていました。彼女と会った時、私は彼女の手を握りしめて何時間か話し合うことができました。そして別れる時、何と彼女は目を開けて、「ルワンダに来てくれてありがとう」と言ったのです。彼女は肉体的な目と心の目の両方を開いてくれたのです。心と心が繋がった経験でした。
 『きみは愛されるため生まれた』という賛美があります。しかし、この言葉をアフリカの子どもたちを目の前にして語れるでしょうか? 両親をエイズや紛争で失った子どもに、貧困の故に学校に通えない子どもに、栄養失調や、日本では予防可能な病気で死の危機に直面している子どもに向かって「きみは愛されるため生まれた」と語れるでしょうか?ただ語るだけでなく、子どもたちが本当に「自分は愛されるために生まれた」と思えるための助けを、何かすべきではないかと思うのです。(片山信彦師の文章を抜粋要約)」
 上の引用文の主旨は、日本にもあてはまるだろう。
 物質的には一見豊かな日本においても、連日のように悲惨な出来事が報道される。児童虐待、ネグレクト、それによって命を落とす子どもたち(厚労省発表では2009年度の虐待死は49人)。いじめや自殺の問題。これらは今に始まったことではないし、個人の力でどうこうできない大きな困難な問題ではある。この歌に感じた違和感とは、歌詞と現実世界とのあまりの乖離の大きさによるものにほかならない。

2012年4月号

■巻頭言 問題があって当たり前  高橋宣弘

 聖書日課に従って妻とディボーションをしている中で、旧約聖書の「哀歌」に入りました。哀しみの歌という名の通り、読むだけで気持ちが重くなってしまうみことばでした。バビロン捕囚の時代を生きた預言者エレミヤが記した書物です。都エルサレムが包囲され、焼失させられ、廃墟と化す・・・つらすぎる現実を目の当たりにし、涙ながらにつづった言葉です。
 哀歌の3章に入ったある朝、私は「このみことばは机上の空論ではない。つらく悲しい現実を生き、それを必死に受け止めようとした信仰者の真実な言葉だ!」と感動し、胸が熱くなってきました。神様が共にいてくだされば、人生すべてうまく行くと、聖書は語っていません。かえって生きていくことには、苦しみが付きもの、問題があって当たり前だと語っています。
 「人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。」(哀歌3章27-28節)
 苦しみの原因は、私たち自身の罪とこの世の悪のゆえかもしれません。しかし、原因を突き止められないことや、原因を追究してもどうしようもないこともあるでしょう。そうであっても、それらを「受け止めなさい」と哀歌は語っているのではないでしょうか。
 私たちは生きている限り、問題に直面させられます。だからこそ、「大変なことが待っていて当たり前」という姿勢で生きていく方が良いのかもしれません。(マイナス思考だとお叱りを受けるかもしれませんが・・・)その方が、ささやかな幸せを、大きな喜びと感じられるでしょう。
 そして、哀歌は絶望的と思われる状況の中で、主なる神様による希望を提示しています。
 「主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌3章31-33節)
 つらい試練を前にして、神様に不平不満を並べ立てるのではなく、主により頼む者となりたいと思います。神様は、あわれみと恵みのまなざしで、悩む私たちを見守り、私たちに寄り添っていてくださるお方です。

■慰撫と鼓舞~ レーナ・マリア ゴスペル&トーク ~そして・・・ O.T.

 あの冬の夜、私はコンサート開演を待つ長蛇の列の整理に当たっていた。善光寺境内。するうちレーナ・マリアさんがぞろりと長いコートの出でたちで、何人かのお付きの人たちを従えて、しずしずと外陣へ向かう(まさにそういう感じ)のだった。辺りを払う気高さ、そのオーラ。やがて、「アメイジンググレイス」の歌声が外に漏れ出し、凍てついた夜空に吸い込まれて行った。ため息が白く光った。
 前後して福音教会を会場に、レーナさんの合同コンサートが催されたそうだが、当時まだ私は教会に戻っていなかったので、これには携わることはなかった。レーナさんはこの時、確か長野アートパラリンピックの招聘で来長されたのだった。
 今回、JR長野駅へは高橋先生が教会車で、K兄の運転する車に私も便乗させてもらい一行を迎えに東口へ向かった。別動夫君の車から降りられたベドウ路得子師と駅で落ち合った。改札口からレーナさんが車椅子で現われた。
 こちらとしては一方的に懐かしく、思わず―nestled my cheek on her (役得)・・・レーナさんはずいぶん庶民的になられたよう。そして冬のま中にしてはいささか薄着。「こちらは寒くないですか」高橋先生のいたわりのお尋ねに「私たち、どこからやって来たとお思い?」で皆一挙に和やかムード。さらに高橋先生は気を利かして(?)「降車しないまでも、善光寺を経由して教会へ参りましょうか?」と提案。教会車はそちらへ向かう。
 それにしても、地方の一教会に神様はそのみ業を現してくださったものだ。〈ホンマに実現させてくださるの?〉訝ったことも事実。主は、レーナさんのとき経てかわらぬ澄んだ歌声とともに邪な私の心を慰撫する。冷や汗もの。〈イブトコブ、イブトコブ・・・〉。心のうちにつぶやく。コンサートもそろそろ終演に近づいた。路得子師は今回は黒子に徹して通訳のみ。余分なことはおっしゃらない。
 折りしも昨年から始まったゴスペルワークショップを想う。同じここでひと月余り前までクワイアが精一杯主を賛美していたんだっけ。神様の憎い演出だ。主の鼓舞だ。
 Come,Come let us adore Him ♪(Emmanuel by Norman Hutchins)
 表は細かい氷雨が舞っていた。マーク師・路得子師の、中のお嬢さんがまだ教会の玄関周りの雪片付けに余念がない。顔は上気して薄っすら汗ばんでいる。「また来てね」。彼女はにっこりするとこっくり頷いた。

■レーナ・マリアコンサートに参加して E.Y.

 昨年2月に長野福音教会の礼拝に出席するようになってからそろそろ1年が経過しようとしています。まだわからないことも多い新参者ですが、過日のコンサート(2012年1月21日)について思うところを綴ってみたいと思います。
 この教会に初めて足を運んだ翌週に、礼拝の中で「レーナ・マリアコンサートのために」という祈りの時が持たれました。少し驚きました。しかも、レーナさんが有名な方だからこそ、あえて大々的な宣伝をせず、教会に集う者たちがそれぞれに周囲に声を掛け合い、結果としてこの礼拝堂を一杯にするという方針でコンサートを開くつもりであると伺い、続けてこの教会に来てみようという気持ちになりました。
 このコンサートは、震災の影響を受け、当初の計画と違ったときに実現しました。私は詳細を存じませんが、関係の方々の心中をお察しします。しかしながら、きっとそれが神様の御心だったのでしょう。
 私自身は善光寺で歌われたレーナさんを知りません。「クリスチャンヒロイン」の一人としてキリスト教関係の雑誌や新聞でよく見かけていたレーナさんがリアルな大人の女性として、私の目の前に立たれました。レーナさんの伸びやかな賛美を聴きながら、今、この時、神がここにおられ、レーナさんの声を含めた全身を用いて私たちに語りかけておられることを実感しました。賛美とはそういうものであること、つまり、私たちが全身を神に明け渡し、神に自在に用いてもらうことなのだとしみじみ感じました。20年近い信仰生活の中で、一つ大切なことがストーンと胸に落ちていったような感覚でした。
 日頃、何をするにも、賛美をするにも他者の「評価」を気にしてしまいがちですが、私たちを造られた主は全部ご存知なのだとレーナさんの姿を通して教えられました。

■Potluck Party(^_-)-☆ S.I.

 「えいごであそぼう!!」(サタデークラブ)も、最近ではかなり地域に定着してきた。新聞に募集の記事を載せてもらったり、チラシを小学校前で配ったり、地味な奉仕をしてくださっている兄弟姉妹方に、本当に感謝している。
 3月10日(土)には、子供向けの「えいごであそぼう!!」のプログラムが終った後に、保護者を対象としたPotluck Party(持ち寄りパーティ)を企画した。誰が何を持ってくるのかは、運しだいなので闇なべみたいなものか?(ちょっとちがうかも・・・(~_~;)
 目的は、おいしいごはん、だけではなく(笑)、「~リズさんを囲んで~聖書に載ってる子育て術」の話をリズさんからお聞きすることだった。リズさんが、聖書を開きながら自分の子育ての経験を話してくれた。「子どもを批判するのではなく、ほめる」ということや、「子どもの人格を傷つけるようなことは言ってはならない」ということ、「子どもが悪いことをしても、その悪いことが悪いのであって、その子自身が悪いわけではない」ということなど、本当に考えさせられる内容だった。これは、子育てだけではなく、すべての人間関係において大切なことだと教わった。
 参加者は1組の親子とスタッフだけだったが、とてもいい会だった。
 お話のあとは、おいしい夕食タイム♪
 お腹いっぱい、ごちそうを食べた。(*^_^*)参加した男の子が「他の人も来ればよかったのにねー」とか「またPotluck Partyやる?」とか、言ってくれたのがうれしかった。また企画するから、次も来てね!!!(^^)!
 (サタデークラブでは、随時、奉仕者を募集しています。単発でもOKなのでお気軽にスタッフに声をかけてくださいね(^_-)-☆)

■役員就任にあたって N.E.

 2月に行われた総会で今年度の役員に選出されました。名前が呼ばれた時は“エー、うそでしょ、この私が?”と思い、頭の中が混乱して真っ白になっていくのがわかりました。“私には出来っこない!”と心の中で叫んでいました。
 役員としての任期を終えて今年お休みに入った私の夫は、任期中、家にいるとき多くの時間をパソコンの前で費やしていました。「仕事?」と私が聞くと、「うん。教会の仕事・・・」と眉間にしわを寄せてパソコンを打ちながら答えるのです。「役員さんて大変ね~。私はそんな気力も体力もないわ。じゃあ、先に寝るわね~。」とよく言ったものでした。
 日頃の役員さん方を見ていても、教会運営の細かいところまで目が行き届き、教会のために惜しみなく仕えておられる姿を見ていて、「いつも、すごいなー、やっぱり役員をされる方は違うなぁ」と思っていました。
 ところが、私はというと、病気がちで医者通いをし、仕事と家庭の両立で頭がいっぱい。日々自分と子ども達を守ることが精いっぱいなので、ほかの事ごとから逃れたい、心穏やかに過ごしたいと思っているのです。そして、自分の意見というものをあまり持てず、人の意見に左右されやすく、また、人前で話すのが苦手なのです。
 このような理由から、私は役員にはなりたくない・・・というか、私はそのような器ではないし、そんな大役は私には務まらないことは私自身よくわかっています。しかし、選ばれた以上、責任を持ってできる限りのことはやらせていただこうと思っていますし、知恵の足りない者ですが、素晴らしい先輩役員さん方に助けていただきつつ、少しでも高橋先生の牧会にお役に立てればと願っています。こんな私ですが、よろしくお願いいたします。

■教育部の働き K.K.

 今年度、教育部の担当になりました。E兄のあとを引き継いで、総会で決められたことを中心に活動していきたいと思います。実際には、それぞれの部署で自主的に活動されておられるので、とりまとめ、調整役が主になると思いますが、皆様の御意見をお聞きしながら役割を果たしたいと思います。
 教育部担当としては、ウィングス、ヤングチャペル、サタデークラブ、図書委員会、信徒講座、聖歌隊、賛美チーム、福祉委員会、そして、事務上のとりまとめ役ですが、一麦会(青年会)、泉会(婦人会)、アダムの会(壮年会)があります。
 教育は、幼子から成人まで大切とのことから各会の中で、10分間の学びをお願いし、そのテキストのコピーを用意しています。
 また、今年の大きな取組の一つに、ファミリーキャンプが計画されています。キャンプといっても、テントを張るわけではありません。自然豊かな妙高高原に建つ鉄筋コンクリート造りの国営宿泊研修施設『妙高青少年自然の家』で、7月15日(日)、16日(月・祝日)の1泊2日の予定で行います。詳細については、これからですが、おいしい食事と風呂とベッド(2段ベッド)がついて非常に格安で利用できます。聖書の学び、自然の中での遊び、兄姉との交流など、楽しい時にしたいと思います。ご都合のつく方は今から予定に入れてくださるようお願いします。
 今年の主題聖句は、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」(ルカ8:22)です。向こう岸には、悪霊につかれた男の人がいました。イエス様は、その人を助けるために、12弟子と共に湖へこぎ出し、2千頭の豚を犠牲にし、地元の人に追い出されてまでも助けました。教育部の働きも、効率ではなく、隣人を愛して1人の魂の救いのために労を惜しまない働きができたら幸せだと思います。

■図書コーナー新設記念その1 児童文学への誘い K.Y.

 この度、1階図書棚に、皆様からの寄贈本を中心に、貸出図書コーナーを新設いたしました。この機会に、“児童文学の話を書いてほしい”との依頼を受けましたので、かつてS家の家庭集会でしていた児童文学の話を少しまとめて紹介していきたいと思います。
 今回は絵本を取り上げます。絵本は、字の読めない小さな子供が、絵からストーリーを読み取ることができるほど、その絵が語る力を持っていることが重要です。
 マリー・ホール・エッツという人の『もりのなか』という絵本があります。この絵本はモノクロです。でも昔から子供にとても人気のある、ベストセラー本の一つです。
 実は、絵本にはきらびやかな色彩は必要ないのです。それよりも、描いた人が子供とどれだけ共感できるものを描いているか、のほうが大事なのです。
 『もりのなか』を開いてみましょう。「ぼくは、かみの ぼうしを かぶり、あたらしい らっぱを もって、もりへ、さんぽに でかけました。」とはじまります。子供が何かを身にまとい、手にすると、そこはたちまち空想の世界になります。森に入っていくと、主人公の“ぼく”は次々と動物たちに出会います。「どこへ いくんだい?・・・ぼくもついていって いいかい?」この空想の世界で、動物たちはしゃべり、何かを身に着けるか、小道具を手に持って、“ぼく”についてきます。やがて行列ができあがります。行列は子供の大好きな遊びの一つです。それから“ぴくにっく”をしておかしを食べ、“はんかちおとし”や“ろんどんばし おちた”もやります。どれも普段子供がよくやる遊びです。そして最後に“かくれんぼ”をします。“ぼく”が鬼になり、目をつぶり、動物たちがかくれます。「もういいかい!」といって目をあけると、そこには・・・ 
「「もういいかい!」と、ぼくは いって、めを あけました。すると、どうぶつは、1ぴきも いなくなっていて、そのかわりに、ぼくの おとうさんが いました。おとうさんは、ぼくを さがしていたのです。」お父さんの登場で“ぼく”も読者も、現実の世界に引き戻されます。「いったい だれと はなしてたんだい?」とのお父さんの問いに、「どうぶつたちとだよ。みんな、かくれてるの」と“ぼく”は答えます。「だけど、もう おそいよ。うちへ かえらなくっちゃ」と現実的にお父さんは続けますが、最後に意外な一言を発します。「きっと、こんどまで まっててくれるよ」・・・・。
 この絵本では、お母さんではなくお父さんが出てくるのがポイントです。このお父さんは、自分もかつては子供で、同じように森で遊び、“ぼく”の空想の世界を十分理解できている大人なのです。
 “ぼく”は安心して、お父さんの肩車に乗って空想の世界を後にします。そしてこのお父さんと“ぼく”の帰る先には、温かい食事を用意して待っている、お母さんの姿が想像できると思いませんか? 
 作者のマリー・ホール・エッツは、1895年にアメリカのウィスコンシン州に生まれました。お父さんは医者でしたが、後に牧師になった人です。ですからマリーは、いつも神様に見守られているという安心感を持ち、いろんな試練に遭いながらも前向きに生きていくことができた人でした。
 「私の子ども時代の一番楽しい思い出は、ウィスコンシン州のノースウッドの夏です。私はひとりで暗い森の中へ駆けてゆき、何時間もすわって、松の梢を渡る風の音を聞きながら、森の生きものたちが現れるのを待っているのが好きでした。子ジカを連れたシカや、ヤマアラシや、アナグマや、カメや、カエルばかりでなく、時にはクマや、スカンクや、毒ヘビなども現れました。」- とマリーは語っています。(このころの体験を『わたしとあそんで』という絵本に描いています)小さい時から、森で見たものを家に帰ってノートに描き写すほど、絵を描くことも好きだったそうです。
 大人になって、美術学校で学んだり、社会福祉の勉強をしたりしますが、そんな中で出会った、ロヨラ大学医学部教授のハロルド・エッツ士と、33歳の時に結婚します。(人類の誕生をテーマにした『あかちゃんのはなし』という絵本を夫婦共同で作成しています)
 ところが、13年の幸せな結婚生活の後、エッツ士がガンで、余命いくばくもないことがわかります。二人は最後の日々を、静かに過ごすために、シカゴ郊外の森の中の家に移り住みます。
 「限りある二人の日々を生きていくために、私たちは肉体的な死をもってしても壊れることのない自然のなかに、一体となって融けこむ境地に達し、森のなかにやってくる動物たちや、遊びにくる子どもたちの姿を、心から二人で楽しんで眺めたのでした」といった暮らしの中で、マリーは新しい絵本の構想を得て、絵を描き続けました。ここに出てくる動物たちは、森に遊びに来ていた子どもたちをモデルにして描かれた、と言われています。それが『もりのなか』です。しかし、その作品を描き終える前にエッツ士は天に召されます。『もりのなか』はエッツ士との幸せな生活の思い出の結晶といえる作品なのです。
 マリーは『もりのなか』から10年後に『またもりへ』という絵本を描いています。この絵本のテーマは‘笑い’です。人間と動物は違う、‘笑い’は人間特有のもので、笑っている“ぼく”をみて動物たちが驚きます。ここでもやっぱり最後にお父さんが迎えに来ますが、「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえの ように わらってみたいよ」とお父さんは言います。現実そのもののお父さんです。ここに、いつまでも思い出に浸ってはいられない、現実を見つめることも大事、と、自分の気持ちを完結させる必要があったマリーの姿がうかがえます。
 親子は手をつないで帰ります。ここに成長した“ぼく”と、成長しなくてはならないマリー自身を重ねています。
 絵本を読むとき、文字だけを追うのではなく、ぜひ絵が語っているストーリーをも楽しんでみてください。

■エッセイ 「時の流れとともにある「週報」」 正村八重子

 4月から週報の表紙が新しくなった。美しい画と長い間文語で馴染んできた主の祈りと使徒信条も口語文となり、変化を感じる。これを見ながら、遠い昔からの週報の歴史に思いを馳せた。週報ほど歴史の流れを教えてくれるものはない。これは世の移り変わりをよく表し、同時に教会の歴史も思い出させてくれる。
 長野福音教会の週報は1961年春から始まったように思う。当時の牧師が下手な字でコリコリと鉄筆で週報を作っていたのを、高校生たちが見兼ねて、字の上手な彼らが代わって週報を作り始めた。当時の高校生たちは、朝な夕な毎日のように学校の往復時、教会に寄った。彼らが卒業した頃、新しい奉仕者それもプロ並みにガリ版用の字を勉強していたM兄とT姉が与えられた。その後も字の上手か否か関係なく、数えきれない数の人々の奉仕によって作られ、主日の朝、受付台に準備されてきた。印刷面でも謄写版から始まり、青焼きコピーの時代、鮮明に写らなかった印刷機の時代があった。長い間お世話になったのはコンビニとスーパーマーケットのコピー機。土曜日ごとに通ってコピー機で人数分の週報を印刷した。教会が現在地に移転して、スーパー、コンビニも遠くなり、役員会にお願いして、事務室にコピー機が置けるようになった。感謝。FAXで奉仕者に元原稿を送り、出来上がった週報を教会に速達で送っていただき、それから印刷に取り掛かった。
 いろいろな時代を経てきた週報。これらの週報を眺めながら、ここまで来るのに何人の陰の奉仕者がいたことか。思い出すと、あの人この人、のべ総人数は数えきれない。表には出ない奉仕、顔の見えない奉仕を主は喜んでいてくださるに違いない。時代とともに成長し変化してきたこの週報、これからも時代とともに変化してくことでしょう。今までそして今も奉仕してくださる主にある兄姉に心から感謝したい。

2012年1月号

■巻頭言 向こう岸に渡ろう  高橋宣弘

 今年、長野福音教会に与えられた主題聖句は、ルカの福音書8章22節です。
     イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
 イエス様は、私たちにも「向こう岸に渡ろう」と、新たな信仰のチャレンジ(挑戦)を与えてくださいます。私たち一人ひとりに、家族に、教会に、主が示してくださる「向こう岸」を目指して、新たな一歩を踏み出して行きましょう。
 まだ見たことも経験したこともない「向こう岸」。そこへと踏み出そうとする時、私たちの心には、「自分にできるだろうか・・・」という不安や恐れが生じます。そして、ガリラヤ湖へ舟出した弟子たちのように、私たちの歩みにも激しい暴風 ― 思いがけない災い・試練・苦しみ ― が、襲いかかって来るかもしれません。
 しかし、その舟の中にイエス様が共にいてくださるのです。「黙れ、静まれ」(マルコ4:39)と一言で嵐を静めてくださる全能のお方が、私たちを助け、導いてくださっています。私たちは、このお方を信じ続けて行きましょう。
 弟子たちの中には、ガリラヤ湖で漁をしていた者たちもいました。「大丈夫、慣れたものだよ」という油断が、弟子たちの心にあったかもしれません。けれども、高波にのまれ、大量の水が舟に入り込んでくると、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と弟子たちは、右往左往してしまいます。全き平安のうちに、舟上で眠っておられたイエス様とは、正反対でした。
 暴風を静められたイエス様は、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と弟子たちを叱ってくださいます。私たちも、自らの罪と不信仰をイエス様に叱っていただき、歩みを正されて ー そうしていただけることを感謝し、喜びながら ー 向こう岸を目指して進んで行きたいと思います。
 主の大いなる御業を体験した弟子たちは、「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と驚き恐れて、互いに語り合いました。私たちもこの世の現実を見て恐れるのではなく、それら全てを支配しておられるお方を恐れ、信頼しましょう。御心のままに、私たちのために最善をなしてくださる主の御業に感動し、主をほめたたえる2012年とさせていただきましょう。

■信州クリスチャン修養会の恵み J.S.

 今年で27回を数える信州クリスチャン修養会のテーマは、『「うめき」から生まれる「望み」』というものでした。高橋秀典先生を通して語られたメッセージは、長い標題がつけられていて何だか少し難しそうな印象だったのですが、いざ聞き終わってみると、とても励まされる内容だったと感じました。
 「神様は私たちの祈りを聞いて下さいます」といつも学んでいても、私たちが痛みや苦しみを感じて神様にすがるように祈った際に、神様が沈黙して何も答えて下さらないと感じ、救いようのない無力感にさらに落ち込んでしまったり、「なぜ?」「どうして?」と叫んでしまったりするようなことがあります。今年3月に発生した東日本大震災のような大きな災害に対しても、同じような思いを抱いてしまうこともあります。しかし、それはわがままで弱い人間の勝手な思い込みであって、実はそのとき神様は私たちと共にじっと苦しんでいて下さり、後で振り返ってみた時にようやくそのことがわかり、苦しみが望みに変えられるというようなお話を聞き、心のなかに光がともされたような明るい気持になりました。取り上げられた聖書箇所から、ダビデやパウロも同じであったことを学ぶことができて感謝です。神様がいつも、私たちを見ていて下さり、祈りを聞いていて下さり、守っていて下さるということを改めて確信することができました。
 神様はクリスチャンである私たちに試練を与えられますが、それでもなお神様を信じ、うめきながら救いを求めて祈ることによって、その先の大きな望みや勝利をそなえていて下さるお方です。今年のテーマに込められた意味の深さが理解できたように思われ、豊かな恵みのひと時となりました。
 賛美をして下さった米田ひろし先生も、ご自身の体験をあかししながら歌って下さいました。そのやさしい歌声も今回の修養会の恵みの一つでした。

■秋の講演会 「道ありき」を聞いて S.K.

 「道ありき」とは道があったという事。まじめに軍国主義を愛し大切にしていた子供達に行っていた事が全てまちがっていたのだと知った時、生きることも嫌になり、二人の男性と婚約をし、最初に結納を持ってきた人と結婚すればいいと考えていた。しかし、結納の日にめまいで倒れ肺病となる。病状が安定した時、結納金を返しに行くが彼は「結婚するために十万ためた。結婚できないならその10万も結納金もいらないから持って帰ってくれ。」と言う。その夜は彼の家に泊まり、夜の10時にこっそり抜け出し、海に入り死のうとしたが、気づいた彼に戻される。「海が見たかった。」と言ううそに「海ならここからでも見える。」と綾子を背負い、海からあがり砂の丘の上で一緒に腰をおろし、そばについていてくれた。背負われていた時に綾子は自分から死神が出て行ったと感じた。
 「私はあなたが一番つらい時、死にたいと思った時、一緒に海に入りあなたを背負って歩いた者だよ。」イエス様の声がわかった。           
 彼、西中一郎は、クリスチャンではなかった。
 旭川で待っていた前川正は、綾子が自殺未遂をしたと聞き、「まじめに生きてください。」と頼むが、「まじめに生きることはどういう事、まじめに教えて傷ついただけだ。」と言われる。前川正は石を持ち自分の足を打ちはじめ、「信仰の薄い自分には綾子さんを助けられないから自分を罰するのだ。」と言う。綾子はこの人は私を女としてではない、人として愛してくれる。この人の愛の中にはキリストがあるのではないか。もう何かを信じて傷つくのはイヤだ。でもこの前川正は信じてみようと思い、前川からもらった聖書を読みだす。綾子が一番気に入ったのは伝道者の書だった。何もかもむなしい。しかし、最後に書かれている御言葉は、だから「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」なのだ。
 綾子は教会にも通うがまじめな信徒ではなかった。綾子が病床洗礼を受けた12月と翌年1月に、前川正は札幌で肋骨を4本ずつ計8本取る手術を受ける。術後は順調そうだったのに亡くなってしまう。前川正が亡くなった時、綾子はギプスベッドの中だった。頭も固定され、涙は耳の中に入っていったという。誰にも会いたくなくなった。心も体もボロボロだった。悪魔はあざける「親は療養代で借金まみれ、恋人も死んだ。師である西村牧師も死んだ。早く死ね。」と。この頃の綾子を見舞った五十嵐老人(初代白羊舎社長)は「この人はもう長くないだろう。」と思ったという。
 しかし、この年のクリスマス、綾子は一番満たされたクリスマスだったという。いつも前川が座っていたイス、誰もいないが、イエス様がそのイスに座っておられた。健康も経済も乏しい。しかし、「貧しい人は幸いです。」だった。
 三浦光世は、綾子とは同人誌仲間であった。結核療養者と死刑囚の俳句の同人誌で、綾子は名前から光世さんの親はクリスチャンだろう。なのに、どうして死刑囚になるようなひどい事をしたのかしらと思っていた。光世は名前から女性と間違われ、綾子を見舞うよう頼まれた。綾子は、光世を見ると「前川さん。」と間違うほど光世は前川さんに似ていた。何度か見舞ううち、光世はある日綾子の死ぬ夢を見た。一時間ほどいやしを祈った時、声が聞こえた。『愛するか。』「どういう意味ですか?結婚するかという意味なら、私にはないから、その愛をください。」
 光世は綾子にプロポーズするが、「綾子は病気だからできない。」と言う。「病気が治ったら結婚しましょう。」「私は前川正を忘れられない。」「あなたは正さんに導かれてクリスチャンになったのだから忘れてはいけない。私達は前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょう。」
結婚とはすでに働かれている神様のみわざがなるように助ける事、認める事、働く事。

■クリスマスの豊かな恵み  M.K.

 昨年のクリスマスに、神様は私の想像をはるかに超える祝福を与えてくださいました。2011年の教会の主題聖句は、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使徒18章9-10節)でした。このみことば通り、この町にいる「神様の民」をたくさん教会に送ってくださいました。
 ゴスペルライブコンサートやクリスマスの諸集会に参加された地域の方々の中には、教会の礼拝につながっている方々もおられます。本当にうれしいです。お話しをお聞きする中で、ずっと神様を求めておられた方、教会を探しておられた方、ポストに入った教会のチラシを見て教会の扉を叩いてくださった方がおられたことを知り、神様に感謝しました。
 2011年のクリスマス、何よりも思い出に残ったことは、12月11日に行われたゴスペルライブコンサートです。歌ったメンバーも含めて160人を超える方々が教会に足を運んでくださいました。会堂の椅子は満席で、立ち見の方もいました。その内90~100人がノンクリスチャンであったというのは、本当に驚きでした。私は、ゴスペルクワイアとして半年間、皆さんと楽しく練習をして来ましたが、いざコンサート開始が近づくと、緊張で体中から変な汗が出て来ました・・・。でも、歌っていくにつれ、喜びをもって賛美をささげることができました。
他にも、私が参加したクリスマス諸集会としては、
・12月4日 NaECクリスマスパーティ&コンサート  「ホテルにて、素敵な賛美と豪華な食事を楽しみました!」
・12月7日 豊野りんごの里クリスマス会   「K.H.姉が入居されているホームを訪問し、おじいちゃん・おばあちゃんたちと温かな交わりをもてました」
・12月11日 S.S.さんの洗礼式  「本当にうれしかったです!!」
・12月11日 ゴスペルライブコンサート  「鍛えられたソプラノの美声(!?)で賛美できました♪」
・12月14日 クリスマスコンサート  「奈良献児先生の力強い賛美と、婦人の皆さんの美味しいたくさんの手料理を頂きました☆」
・12月17日 こどもクリスマス会
・12月24日 イブ礼拝   「雪が舞う中、キャンドルの灯りに照らされて、主イエス様を礼拝しました。優雅なケーキバイキングもありました!!」
・12月25日 クリスマス礼拝
 思いだすだけでも恵みいっぱいのクリスマスでした。クリスマス中、体力のない私は、忙しさに耐えられず休んでばかりでした。でも、心もお腹も一杯になりました。教会の皆さんのたくさんのご奉仕、神様の御業、イエス様の御救い、本当に感謝です。クリスマスの恵みに感謝しながら、新しい年も歩みたいと思います。

■子どもクリスマス会を終えて  R.T.

 12月17日(土)にウイングスとサタデークラブの共同企画で子どもクリスマス会が催されました。当日は雪が降り、とても寒い日でしたが、ポツリポツリと子どもたちがやって来ました。37名もの子どもたちが集まってくれて、とても賑やかになりました。
 今年は第一部に礼拝堂でクリスマス礼拝を行いました。リズ先生に英語でクリスマスのショートメッセージをして頂きました。パワーポイントで絵を出してもらったり、T姉に通訳をしてもらいながらのメッセージだったのでとてもわかりやすく、子どもたちもよく聞いていたと思います。みんなでおなじみの「HAPPY BIRTHDAY」や「きよしこの夜」を歌ったりもしました。
 それから第2部に移り、1階でアドベントカレンダー作りをしました。もみの木の台紙に星やハートなどを抜いたものやキラキラのシール、リボンなどを自由に貼りつけて、仕上げは御言葉の上に美味しいお菓子を貼りつけます。一応、一日一つ御言葉を読んでからお菓子を食べてね!と声をかけましたが、どうなったことやら・・・(笑)
 楽しい工作の後は、みんなが楽しみにしていたおもちゃが当たるくじ引き大会がありました。今年もKパパサンタとチャールズサンタが教会にやってきてくれて大盛り上がりでした。ウイングスのお友だちにも地域の子どもたちにも等しくプレゼントが当たりました。神様はさすがです!粋ですね♪
 帰りに一人ずつにお土産のプレゼントを渡して、元気に帰っていく姿を見守りました。教会での楽しい思い出をいつか思い出し、教会へもう一度足を運ぶきっかけになればと思いました。子どもたちのクリスマス会が祝福されて良かったです。感謝でした。

■エッセイ クリスマスの祝食  正村八重子

 今年のクリスマスも、イブ礼拝後のケーキとクリスマス礼拝後の赤飯で祝うことができた。食べることの大好きな私は、大満足している。それにしても今年のケーキも素晴らしかった。見目美しく、食べて美味しく、香り良く、まさに芸術品に思えた。しかもあんなに大量に。みんなが満腹した。このケーキの魅力につられてイブ礼拝に来た人がいたとかいなかったとか。心を込めて三日間かけて作ってくださったY姉に感謝します。
 その昔教会がまだ貧しかった頃、クリスマスのお祝いに何を作るかというとき、当時のケーキは防腐剤の入ったバタークリームの飾りケーキだった。それでも買えそうもないと話し合っていたとき、信仰厚いH姉が言った。ここは日本だから和風ケーキの赤飯で祝いましょう。日本ではめでたいときは、いつも赤飯を炊いて祝うものだからと。この名案に一同大喜び。早速彼女はクリスマスの赤飯を作って、風呂敷に包んで、背負ってバスに乗って持って来てくださった。その美味しかったこと忘れられない。
 その後だんだん量が増して最高に多くなり、一斗四升(斗という単位お分かりでしょうか 一斗=約20kg)になった。寒い朝4時頃から大きなかまどで蒸して、教会に朝9時に届けていただいた。 
 50年という長い間、親の代から子の代まで和風クリスマスケーキを届けてくださったY家に感謝しています。ここ数年はお米だけ頂戴して、教会で炊くようにしています。お米はクリスマスに使い切れなかったので、また墓前礼拝のお弁当にできたらと考えています。
 ケーキと赤飯で祝うクリスマスは、広い日本でもこの教会だけかもしれない。神様に感謝。Y姉に感謝。天国のH姉に感謝。
 創世記から黙示録まで、赦しのあるところでは食事を共にしている。「彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)」

役員会各部の働き その2 会計部  K.S.

 会計部の働きを一言で言えば、献金の出納を管理することと、予算・決算をまとめることとなります。
 毎週の礼拝献金の確認作業は、表面的には地味な単純作業の繰り返しですが、教会員の一人ひとりから神様に献げられた尊い献金ですので、ミスの許されない緊張する作業でもあります。集計や記録については、二人の会計執事さんが行ってくださる体制が整っており、いつも正確に処理してくださっているので心配はありません。かつてK長老が作成してくださったパソコンソフトが、姿なき会計執事として働いてくれています。
 毎年の総会前に予算を組む作業は、少し重荷を感じながらの取り組みとなります。教会の収入というのは、根拠となる数字を積み上げて算出されるものではありません。前年度の予算や決算から推測しながら組んでいくのが現実的な方法ですが、近年は縮小傾向にありますので、教会自体が試されていると感じる重い瞬間でもあります。少子高齢化や不景気が影を落としているのは間違いありませんが、数字と信仰が天秤に乗っているような思いです。支出は、特別なことがない限り、毎年そう大きく変わることはありませんから、収支のバランスがとれるように祈っています。
 それでも毎年結果的に会計が守られているのは、神様の御業としか思えない奇跡的な現実です。担当者としてはホッとするところですが、私たちはそうした結果に安堵して良いというわけではありません。詰まるところ、教会の会計は、教会の成長にかかっているように思います。一人ひとりの祈りが深められ、神様を信じる群が一人でも増やされることが、教会の会計を支えていくもっとも重要な礎なのだと思います。教会の会計は、単に教会を維持するための費用ではないはずです。“神様の御用”とは、目先の必要額のことではなく、教会のビジョンそのものだということができるのだろうと思います。この先どんな歩みをしていくのか。私たちは常に試練の中に置かれていると感じます。最終的には、やはり祈りが大切なのだと思います。

2011年10月号

■巻頭言 祈られ、育てられ  高橋宣弘

 子どもの頃、私の家は小さな開拓教会でした。和室二つを開いて作った礼拝堂の前方には、必ず白髪のおじさんの姿がありました。その方は毎週日曜日、静岡市から電車に乗って、開拓教会を応援するために藤枝の教会に来てくださいました。物静かな方で、礼拝後はいつも断食をされ、午後2時からの伝道会開始までずっと祈っておられました。後々、母から聞かされて知ったのですが、その方は私の信仰決心と献身のためにずっと祈り続けてくださっていました。「この子が将来、牧師として召されるように」と、祈っておられました。その後、私は主の道から逸れそうになったり紆余曲折ありましたが、それでも祈られた通り、今牧師として立たせていただいています。
 みなさんの人生にも、そのような方との出会いがあるのではないでしょうか。背後でずっと祈ってくれていた友の存在。何があっても支え、育ててくれた方がおられたはずです。信仰の決心へと導かれるために、また信仰者として成長していくために、大きな影響を与えてくれた方との出会いがありませんでしたか。神様が、私たち一人ひとりのために、そのような人を備えてくださるのだと思います。
 最後の晩餐の席上、イエス様はペテロに「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と語りかけてくださいます。この後、イエス様が捕らえられ裁判にかけられることになると、ペテロは恐くなり、「そんな人は知らない」とイエス様を見捨てて逃げ出してしまいます。そんなペテロのために、イエス様は祈り続けてくださったのです。
 私たち一人ひとりのためにも、イエス様は今も、とりなしの祈りをささげてくださっています(ヘブル7:25)。そして私たち自身も、家族や友のために、特に若者たちのために祈り続けていきたいと思います。未来を担う青年・大学生・中高生・小学生・幼子たちのために、一人ひとりの名前を挙げて、彼らの信仰と成長とその歩みのために、祈り続けていきましょう。

■福祉の集いに参加して  S.K.

 教会でデイサービスができたら、、、グループホームができた、、、お茶飲みのサロンができたら、、、と希望を持っていましたが、自分なりに介護保険について学び、むずかしいものだと思っていました。一人暮らしの高齢者の家への訪問や交通がなくて教会にへ通うのが困難な方の送迎など介護保険に関係なくできることもいっぱいあります。教会内だけでなく、教会の近隣の方のための働きをしたいです。
 井上先生のお話を聞いて、バイステックの7原則が聖書に基づいている事をはじめて知りました。 
  1.個別化(ユニークな個人として捉える詩編139:13-16)
  2.意図的な感情表出(感情表現を大切にするヨハネ11:35、ローマ12:15) 
  3.統制された情緒的関与(自分の感情をコントロールする(ガラ5:23、テト1:8)
  4.受容(ありのままを受け止めるイザヤ43:4、ルカ15:20)
  5.非審判的態度一方的に非難しない 
  6.自己決定
  7.秘密保持
 やりたいことはいっぱいあるけれど、まずは目の前の人に対して、この7原則に基づいてよりそいたいです。そしてこの目の前の人が一人でも多くなればと思います。
 サタデークラブやヤングライフのように、月に一度でも定期的に訪問したり、いっしょにお茶を飲んで話を聞く時間を持つことができれば、、、それを発展させることができれば、と思います。在宅介護の大変さは身をもってわかっているつもりです。要介護者のための働きもしたいけど介護者の話し(グチ)を黙って聞く時間も持てたら、、、今回の集会で、初めて教会に来られた方も来やすいのではと思いました。

■2011サマーキャンプの証し、感想

(会場:国立妙高少年自然の家 講師:三川献児師  長野福音教会、中野キリスト教会合同)

かわあそび、キャンプファイヤーがたのしかった←小学1年 S.H.

イエスさまをしんじなきゃいけないなと思いました←小学1年 M.K.

いろいろなゲームであそべてよかったです←小学2年 T.K.

ゲームとかキャンプファイヤーをやったのがたのしかった←小学3年 H.K.

キャンプでイエスさまがとってもだいじな天国へいくみちだと、イエスさまのきらいなものがよくわかりました。←小学3年 A.I.

川へ行って遊んだことが楽しかった←小学3年 Y.H.

よくわからないところもあったけど楽しかった←小学4年 S.F.

みんなで楽しくできたり、仲よくできてよかったです。イエス様のことはあまりわかっていないけどこれからもがんばってイエス様のことをもっと知り、これからも教会にかよいたいです←小学5年 T.I.

キャンプファイヤーのとき、雨がふりそうでドキドキしました。でも雨がふらずに無事にできてよかったです。集会では三川先生の話がとてもわかりやすくておもしろかったです!時々話がそれていくのもおもしろかったです。集会1の「いのちのパン」のお話がわかりやすかった。昔の人がパン五分の一しか食べれてなかったというところがすごく心に残りました。また、来年もキャンプがあったら来たいです←小学5年 M.H.

今年で4回目のキャンプでした。前よりももっと色々なことがわかったし、ずっと神様を信じていこうと改めて思いました。これからもできるだけ礼拝に出て、もっともっと神様のことを知っていきたいと思いました。またこういう機会があったら出たいです。とにかく、この3日間すごく楽しかったです。友達ともさらに仲良くなりました←小学6年 M.Y.

三川先生にイエス様のことを教えてもらいましたが、あまり知らないところもありました。ぼくは聖書を持っていないのですが、聖書を買って毎日聖書を読みたいと思います。キャンプフィヤーでは、みんなでおどったり楽しくゲームができました。マシュマロおいしかったです。とてもいい思い出ができました←小学6年 S.S.

このキャンプで学んだことはたくさんありました。三川先生のお話でとくに心に残ったのは、ヨハネの福音書14章6節です。私たちがほんとはこの苦しくて痛い十字架にかからなくてはいけないのに、神様が私たちのみがわりに十字架にかかってくださった。本当に感謝してるし、そのために神様を礼拝し、お祈りし、神さまにたよっていきたい。中学生になってたいへんなこともあるからそれものりこえてイエス様についていきたい←小学6年 M.E.

たくさんの友達と仲良くなって、一緒にアスレチックや川で遊んで楽しかったです。同じ部屋の男子たちと元気に過ごすことができてよかったです。また、キャンプに来たいです←K.I.

三川先生のお話は本当にどの回も楽しくて、笑いながら聞くことができました。罪のこと、イエス様の救いのこと、そしてどんな時も私達を愛してくださるイエス様の愛のことがわかり、たくさんの恵みをいただくことができ感謝です。かげで支えてくださった方、祈ってくださった方、ありがとうございました←S.K.

三川先生が講師として来て下さるということで、すごく楽しみにしていました。お話はどれもとてもわかりやすく、楽しく聞くことができ感謝でした。私を何度でも赦して愛して下さるイエス様の深くて広~い愛を改めて感じました。子どもたちがかわいくて、もっともっと一緒にいたいと思える本当に楽しいキャンプでした。キャンプに参加して下さった全ての方、祈って下さっていた方、ありがとうございました←R.T.

楽しくあっという間の3日間でした、三川先生の罪についてのお話が心に残りました←E.T.

帰省した時に会う子どもたち、1年ぶりに会う子どもたち、初めて会う子どもたち、みんなと楽しく3日間過ごすことができて嬉しかったです。教会でキャンプを行うことの恵みを改めて感じました。神様に感謝です←Y.K.

神様が造られた自然の中で、楽しい聖書のお話を聞けたり、遊んだり、おいしい食事を食べれたり・・神さま、あなたが下さったたくさんのプレゼントをありがとうございます。涼しい~のもとっても気持ちよかったな♪←K.T.

久しぶりに三川先生にお会いできお話が聞けて、本当に感謝でした。子どもたちの素直に罪をみとめくいあらためる姿を見て、私自身ももう一度信仰について考えることができました。全てが守られ良かったです←M.K.

C.S.主催となる最後のキャンプに参加させていただいて感謝でした。久しぶりに三川献児先生の賛美とオヤジギャグを聞かせてもらい、楽しいキャンプとなりました。キャンプのもち方スタイルなどについても、神様からの知恵を与えられて、信仰継承の観点からも継続していくことの大切さを感じました←K.E.

蝉の声が聞こえ、涼しい高原ですべてのことが楽しく過ごせました。三川先生の4回のメッセージでは、恥ずかしいと思われるご自分の経験を語られ、その上大切なことをたくさん教えていただきました←K.M.

集会3のメッセージで、子供達の姿を見ながら、改めて素直な気持ちで神様にお従いしたいと思いました。そのためにはまだまだ告白されていない私の罪や弱さを日々祈り悔い改めていけたら本当に幸いであると思いました。今年のキャンプファイヤーも雨が止んで神様はおられる!と再確認←R.K.

隣り合う教会の協力に感謝。主にある家族が、主の為に多くの奉仕を心から献げている姿にはげまされました。続けて参加している子供たちが、霊的にぐんぐんと成長しているのは毎年同じスタッフに愛され、主へと導かれているからだと思い、小さな集まりだからこそ良いキャンプになったと思いました←T.H.

今年は涼しくさわやかな風の中、妙高で良いキャンプを行うことができました。子どもも大人も皆、三川先生のお話に引き込まれ、罪の悔い改めと信仰の再確認に導かれました。アスレチックや川遊びなどで子どもたちと同じようにまだ遊ぶことができるのだ!!と発見できたことがうれしかったです←高橋宣広

初めて会ったお友だちとすぐに仲良くなれて、家族のような雰囲気でキャンプを過ごすことができました。プログラムに余裕があって、のんびりできたのは良かったです。イエスさまのことについても、沢山お話できました←三川献児

■証し  K.F.

 私は、妻が通うこの教会に時々同行して来ておりましたが、神を信ずるまでには至っていませんでした。しかし、教会の人々が、その都度声をかけてくださることを、嬉しく感じていました。
昨年、妻が病気をし、看病する中で、体も心も疲弊した時に、自分ではどうにもできないことに思い至りました。その時、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)の聖書の言葉に出会い、この言葉が、体と心の中に浸み込むように入ってきました。
 今までは、自分自身で、すべて背負って解決しなければと必死におこなって来ましたが、自分の力の非力さを思い知り、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味を知り、神を信じるに至りました。
 「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。」(ローマ5:3‐5)
 今後は神の家族の一員として、妻と心を一つにして祈り、神から安心と力を頂いて、楽しく人々の中に入っていきたいと思います。神に感謝して。アーメン。  

■役員会各部の働き その1 総務部  K.M.

 近いところでは、9月の奉仕の日の諸活動と草の持ち帰り。10月の避難訓練。ご協力ありがとうございました。そして、日々の各持ち場でのご奉仕に感謝いたします。
 総務部は、会堂・墓地・駐車場等の管理営繕、聖礼典・礼拝での奉仕、その他の奉仕、教会総会の資料作成・文書管理など、実に広範な働きを担当しています。役員としては、当番表等を作成して円滑に奉仕活動が進められるように配慮することが主で、他に、夏の昼食提供休止期間中の代替食の手配や、愛の基金の見直し、緊急連絡網の整備などを手がけています。当番表を組み、計画を立てはしますが、実際にその働きを担っていてくださるのは、いうまでもなく教会員の皆様です。この奉仕は、「教会」という神様の御体の、自律神経系の働きにも似て、意志による指令を待たずとも休みなく営まれ、教会の命を支えています。心臓が鼓動し、血が行きめぐり、呼吸が繰り返される様に、皆様の奉仕が行き届いている。どれほど多くの皆さんが、教会のために、黙々と人知れずご奉仕くださっていることでしょうか。けっして当たり前でないことが静かに続けられていることを、あらためて驚きと感謝の思いで振り返っています。祈りを捧げ、時間を捧げ、賜物を捧げ、いつも主に心を向けている、そのことが、教会を健康に維持していける基盤になっていると思います。皆様の奉仕が、主に受け入れられ、何よりも、主にお仕えできることの喜びを味わいつつ捧げられるものでありますよう、心からお祈りいたします。この世的な賞賛や見返りが得られなくとも、主が、その信仰の純粋さを喜んでいてくださいますように。あと、もう一回、草取りを中心とする奉仕の日を組む予定です。大掃除・クリスマス諸集会・年をあらためて教会総会と続きますが、励まし合って臨みましょう。

■パピルスのかごの働きについて K.I.

 私が子どもだった昭和30年頃は、大都会以外の町には水道、ガスが普及しておらず、井戸から水を汲み、薪で煮炊きをしていました。子供の仕事は井戸から水を汲んで炊事用の瓶に貯める、米を磨いでご飯を炊く、風呂の水を運んで風呂を沸かす、家で作った野菜を畑に行って収穫する、ニワトリに餌をやる、子守をする。子どもの仕事は山ほどあり、それをしなければ家族の生活が成り立ちませんでした。家庭にとって子どもは大事な労働力でした。
 「パピルスのかご」が支援している3人のお子さんの生活は水を汲み、薪で煮炊きをする生活です。大事な労働力である子どもを学校に通わせると言う理解を得るには大変な努力が必要です。支援金は先ず里子の学用品、学費に当てられ、村の衛生の普及、食糧生産の指導普及、貯蓄の重要性とそのお金を使って儲け、村に必要な物資を買って全体的に豊かになる。そのためにはFH(飢餓機構)のスタッフが村人の理解を得る活動を行っています。私たちの支援金1人4000円/月はそれらの費用に使われます。

・チャールズ・ムジシ・カウジ(16才)  ウガンダ共和国・ミソンバ村
 野生動物の多いケニア、タンザニアに接している国。首都カンパラの北東32km。ミソンバ地区の人口は1300人、18才以下は680人。小学校は1校のみで、中、高校はありません。保健衛生水準が低く、病院、薬局もありません。他にも、早期結婚や、父母の子供の養育放棄などの問題があります。FHのスタッフは、スイー、朝夷、ジョセフの3人と補助スタッフのベンです。彼らの生活は8割を村に住み、村の変革の核となる子供たちとその家族、村の指導者と共に過ごします。継続して行っている家庭訪問やその他の活動の積み重ねを経て村の指導者、家族、教会の方々の意識が変えられて行く姿を見させて頂いています。各家では屋根に降った雨水をタンクに貯めて飲料水として使っています。チャールズは両親と3人の兄弟、2人の姉妹と暮らしており家での役割は、炊事用の木材運び、好きな遊びはサッカーです。

・チャンソレア・カオ(17才)  カンボジア王国・エカピアップ&サンタピアップ村
 首都プノンペンから北320km、タイ国境の高地の村。18才までの子供は450人。小学校へは80%通っていますが、中学校へ通うのはたった11人です。子供たちはテング熱やマラリヤに罹る事も多く、家庭も衛生知識が低く、トイレを自宅に持っているのは全体の15%以下です。
チャンソレアさんは両親と生活して、定期的に学校に通っています。50m離れた井戸から水を汲み使っています。家にトイレがありません。家庭にとって子どもは大事な労働力です。水汲み、食事作り、ニワトリ、家畜の飼育、作物作りが重要で学校へ行くのはそれが終わってからです。
 FHスタッフは家族にFHの支援が受けられることを説明し、通学につなげます。貯蓄する習慣がないため、村のリーダー達に貯蓄グループを作り、貯金を勧めました。資金を使って商売をするようになりました。他団体の支援は、物質的な支援を行っただけで去っていきました。「外からやって来る援助団体は、村の問題を解決するために物質的な援助をしてくれる」という思い込みは、村の人々が主体的に問題解決を図っていくことを阻んでいました。FHはミッション・ムービングマウンテンという団体に「能力開発プログラム」という連続の勉強会を行ってもらいました。当初、今までの援助団体とは異なるFHのアプローチを聞いて、ほとんどの村人から同意を得られませんでした。しかし、FHの考えを熱心に学ぼうとする一部の人々と定期的に関わるうちに、村の指導者達も「村の開発計画」を受け入れるようになりました。チャンソレアは両親と2人の兄弟と暮らしており家での役割は、水運び、好きな遊びは縄跳びです。

・ニィノ・タガス(10才)  フィリピン共和国・バリバラ地区
 首都マニラの郊外にあり、仕事を求めて農村から集まった貧しい人々が住んでいる。世界里親会(CDP)としてFHスタッフ、里子の親、学校、幼稚園、地域教会、地域指導者が地区として自立できるように各種活動をしている。
 1.CDPスタッフ、地域指導者、教会牧師が協力して将来構想を立案
 2.給食プログラム・・CDPは協力教会を通して栄養状態の改善を年上の里子がリーダーになる活動をしています。
 3.CDPは里子家族に野菜栽培などの指導。病気や緊急支出の為、低収入でも毎日少しずつ貯金を奨励。家計の安定をアドバイス。
 4.5才以下の子供を対象に地域教会と協力し、子供たちの栄養状態の改善、保護者には栄養バランスの大切さを理解してもらう。
 ニィノは両親と1人の姉妹と暮らしており家での役割は、掃き掃除、好きな遊びはサッカーです。FHは経済的困難から学校へ行けない子供を里子に認定して学校へ行けるようにします。字が読めなくては福音が理解できないからです。FHスタッフは地域の問題解決の為に多くの活動をしています。私たち支援者は、お金の支援をしていますが、里子から日本が無くしてきた物を教えられます。子供が家庭の仕事を担うのは家族間の人間関係が蜜になります。子供は家族に自分の働きを通して自分が認められ、自分に自信を持つことができます。家の仕事をして来なかった子供が自分に自信を持つことが出来るようになるには、就職して仕事を通して会社から認められる必要があります。
 教会は子供たちにも出来る奉仕を与え、子供たちを褒め、励ます必要があります。また、就職できない若者に対して、教会が自信を与える活動が日本には必要とされているように思います。

2011年7月号

■巻頭言 それぞれの力に応じて  高橋宣弘

 3月11日の東日本大震災発生以来、私たちは激しい悲しみと痛み、不安を経験し、激動の日々を過ごしています。皆さんの中にも、お仕事やボランティアで実際に東北の被災地や栄村へ行かれた方もいらっしゃいます。今回、私はわずか2日間ですが、福島市の布山先生がおられる所を訪問することができました。そこには被災地のつらい現実がありました。
 約二千年前、ユダヤのエルサレム教会も迫害と貧しさ、さらに大飢饉の苦しみに直面していました。500キロほど離れた所にあったシリヤのアンテオケ教会は、仲間の惨状を聞くと、すぐに救援物資や義援金を集め、バルナバとサウロに託して運んでもらいます(使徒の働き11:27―30)。
 その時の飢饉は、世界中に被害をもたらしていました。アンテオケ教会自身も、苦しい状況に置かれていたはずです。それなのに、アンテオケ教会は乏しい中から精一杯ささげました。「そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた」(使徒11:29)のです。
 アンテオケの教会員は、歴史上初めて「キリスト者=クリスチャン」と呼ばれるようになった人たちでした。いつもイエス・キリストを見上げ、イエス様に従おうと歩んでいた信仰者だったと思います。 ― 惜しみなく与えてくださるイエス様の愛。弟子たちの汚れた足を自ら洗われる愛。十字架でご自分の命をお捨てになるまでして私たちを救い出してくださる愛 ― このようなイエス様の愛に心触れられ、イエス様の愛に倣いたいと願っていた教会だったと思います。
 3月11日以降、私は長野福音教会の皆さんの深い愛と行動力を、力強く感じています。被災地の方々のために、皆で心合わせて、多くものをおささげすることができました。祈り、励ましの寄せ書き、義援金、救援物資、教会バザーの売上げ、レディスランチョンを通しての義援金などなどです。それぞれの力に応じてささげられています。大震災からの復興への道のりは、長い長い戦いになりそうです。私たち長野福音教会は、二千年前のアンテオケ教会のように、被災地のことをいつも覚えて祈り、その悲しみに寄り添いながら励まし、それぞれの力に応じて、できる限りのことをし続ける群れとなっていきたいと思います。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」ローマ12:15

■“NICE RAIN!”~バザーの恵み~  K.Y.

 3月11日の、東日本大震災の影響で、全国的に娯楽や行事が自粛・延期となる中、恒例の『教会バザー』は『チャリティーバザー』と銘打って、売上収益の大半を復興支援に献げることを目的とし、予定通り開催された。
 春にバザーが行われるようになって、今年で3度目。今年はアメリカテキサス州のアンテオケ・コミュニティー・チャーチのメンバーを迎えての『テキサスバーベキュー』と合同開催ということで、一味違ったバザーを演出できるのでは・・・と期待された。
 当日の朝は、今にも雨を落としそうなそうな重たい雲が空を埋め尽くしていた。案の定、礼拝が始まるころには土砂降りの雨。強風のおまけ付き。「こんな雨じゃ、客足が遠のいちゃうなあ・・・」なんとなく・・・こちらのテンションも・・・(*_*;  
 その時、テキサスチームの4人を乗せた車が到着した。一人の方が車から降りるなり、にこやかに言った。「NICE RAIN!!」
 私は正直びっくりした。なんて前向きなんだろう!見習わなくては、、、と反省させられた。
 例年、バザーは外だけのイベントで、室内にもいろいろあることを知らないお客さんがいたようだが、この雨のおかげで、今年はみなさんゆっくり室内で楽しんでいただけたことだろう。
 中は多少の混雑はあったが、皆で歌やタンバリンによる賛美を楽しみ、栄村の様子をうかがうこともできた。いつもとは違う雨ならではのバザーの過ごし方ができたと思う。
 やはり、すべては神の御手の中なのだ。雨だろうと何だろうと、祈って準備してきたことは、ちゃんと祝福に変えられた。“NICE RAIN”の中に神の祝福を感じることのできた今年のバザーだった。

■バザーについて(アダムの会)  K.K.

 今年も、例年のように5月22日にバザーが開催されました。今年の目玉は、アメリカのテキサスから来たクリスチャンも加わって、いっしょに開催したことだと思います。
 アダムの会では、ここ数年、焼きそばと焼き鳥をしてきましたが、人手が少なくなってきていることなどから、焼き鳥はやめて、焼きそばだけにしました。前日の土曜日には、アダムの会会長が材料の買い出しから、下ごしらえを一人でしました。当日は、アダムの会のメンバー数人に、最近教会に来られている方の応援をいただき、なんとか目標の80食を作りました。最後に17個も売れ残りがでて困っていると、青年会の姉妹が短時間に売ってくださり感謝でした。交代要員がいないため、作り終わってから、部屋の中の売り場に入ると、食べるものはもうほとんどなく、片付けはじめていたのでちょっと残念でした。
 印象に残ったことは、午前中のテント張りや、火おこしの時に、ものすごい風と雨で苦労したことです。一時は、外でするのは無理ではないかと思えたほどでしたが、午後になると少し小雨になり、終わる頃には雨があがっていました。今まで何年もバザーをしてきましたが、最悪の天候だったと思います。
 年々、アダムの会のメンバーの参加者が少なくなってきており、今回は、目標の数をつくるのに精いっぱいでした。できれば若い会員が増えて、若い方たちにバトンタッチできればと思います。普段は教会に来ていない方も、バザーには来られるので、お話などができれば良いと思います。もう少し余裕をもって、自分も楽しむことができるバザーにしたいと思いました。

■バザーのめぐみ  M.K.

 今年も無事に教会バザーが開催されました。朝からの大雨に不安な面や心配な面がありましたが、そんな思いも吹き飛ぶほど大勢の方々が教会に足を運んでくださいました。
 そんな中一麦会では毎年恒例となりましたクレープ&飲み物の販売をしました。例年でしたら女性陣がクレープ作りを担当していましたが、今年はピチピチのイケメン2人がクレープ作りを担当してくれました。すると、なんということでしょう!!あれよあれよとクレープが飛ぶように売れ、あっという間に完売となりました!!若さって素晴らしい!!その様子を見て、来年はクレープの量をどんっと増やし、売り上げ倍増を狙っていこう、と密かに企む姉さんたちでした
 とにかく今年も最後まで守られ、本当に感謝なバザーとなりました。

■レディスランチョンの感想  E.

 素敵なコンサートに感動を覚えつつ、感謝の分かち合いのためこの感想文を書きます。今でも覚えていることはフルートの美しい旋律と音です。そのフルートの清らかな音と美しい曲を通して安らぎを感じられた時間を神様から与えられました。それは神様と共にいる自分を発見したことです。今後も日常の生活の中で神を賛美し、神の隣在を覚えられる恵みが与えられるように祈りたいと思います。また、コンサート後に参加した食事会では日本文化の調和と素朴な美しさを味わいました。このような恵まれた時間と経験を与えた神に感謝し、次回またこのようなコンサートがあれば是非足を運びたいなと思っています。

■小布施ラン&自転車ツーリング  S.U.

 ここで若槻大通りに出る、左折し少し走ると左側に高山亭が見えてくる。行きの登りはここまでで後はしばらく下りが続く。まだまだ走り出したばかりで体も温まっていないが、まずまず順調のようだ、伴走のK兄も快調の様子。
 昨年からの念願であった小布施ラン&自転車ツーリングがスタートした。今回は自転車チームが2名、ランニングチームが3名、サポートチームが2名、計7名が参加したイベントになった。このイベントの為にT兄の紹介で初対面のSさんも参加されました。
 2キロ程走ると旧道の北国街道を走るはずの自転車チームが、ランチームが走るコース上で止まっているではないか。事前に地図も作りしっかりと説明もし、あれほど念を押したにもかかわらずあっさりコースをスル―?ランチームが走りながら近づいていくと、「こっちの道で良かったっけ?」自転車チームの参加の高橋先生の声がする。しかし、それ以前に間違っているけど・・・結局は自転車チームもランチームと同じルートを走ることになる。
 順調に追い風を受けながらの走行、帰りの迎え風が大変だねとK兄と話しながら往路の終わりの小布施橋を渡りはじめる。小布施橋は意外と長いねと話しながら、橋の3分の2程にさしかかった時、橋の向こう側に目をやると先に行った自転車チームとサポートチームが、カメラを手にしてランチームを待っていてくれました。「ここは笑顔で行こうね」と、K兄と小布施入り。小布施橋を渡り終えて折り返し地点の小布施役場までは全員で走り到着。ここまで約11キロ程の道のりだ、帰りも同じ距離が待っていることになる。
 ここで今回のメンバーを紹介します。自転車チームは高橋師と佐々木さん。サポートチームは富岡兄と武井兄。ランニングチームは今回初参加の反町さんと木暮兄と俺。しばらく休憩と水分補給してから「さっー帰るかー!」の合図で復路出発。
 やはり帰りはかなりの向かい風、疲れも出てきたせいもあり一緒に走っているK兄とも次第に会話が少なくなる。そして行きに通った豊野から三才方向につづく一本道は案の定走れど走れど前に進んだ気がしない。ようやく行きに見た高山亭が見えてきた、最後の登り坂で高山亭を右に見て走れば今度は教会までは下りだ。若槻大通りから浅川団地方面へ右折し住宅街の中に入り終点ゴールの教会へと最終ランナーの2名がゴールする。先にゴールしたみんながここでも待ち構えて歓迎してくれました。
 そして誰からともなく「次もやりましょうね」との声、さて次は何処へ行きますかね?

■福島聖十字架福音教会訪問記  A.K.

 去る6月25~26日、私は高橋牧師のお供で福島県福島市の聖十字架福音教会に行ってきました。25日の14時ごろ長野を出発し、高速道路を使い新潟経由で5時間ほどかけて福島市に到着しました。移動中は神様に守られ、高橋先生と談笑をしながら特に問題がなくつくことができました。
 福島に到着してから布山先生と合流し、定食屋で一緒に夕ご飯を食べました。久しぶりに会った先生はとても元気なお顔をしておられ、歓迎の言葉を頂いて旅の疲れが吹き飛びました。食事をしている最中にも地震が発生しましたが一緒に食堂にいた方々は、とくにあせる様子もなく、すごいなと思いました。
 食事後、宿泊場所である福島イングリッシュセンターに向かいました。宿泊場所に着いたところで教会の皆様からお預かりした布山先生へのお土産などをお渡ししました。先生はとても喜んでくださいました。その後、先生は自宅へ帰り、私たちはそれぞれの部屋へと行き、休みました。普通のビジネスホテルのような感じでしたが、最初に予定していた車中泊と比べるとはるかにいい施設で、ぐっすり寝る