日本同盟キリスト教団

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私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(ペテロの手紙第二 3章18節)

  • このページでは、これまでの当教会の歩みのなかで、正村富男師が「祈りの友」に書かれた記事から抜粋したものをご覧いただけるようにしています

■信濃の切支丹 元「祈りの友」第40(1973年8月)~47号(1974年3月) 正村富男師執筆

※元々は縦書きの記事であり、文中の「右」という表記は「上」を指し、「左」という表記は「下」を指すものである

1、はじめに
      定
 きりしたん宗門は累年御制禁たり自然不審成もの有之者申出べし御褒美として
      ばてれんの訴人  銀五百枚
      いるまんの訴人  銀三百枚
      立かへりの訴人  同 断
      同宿並宗門の訴人 銀 百枚
 右之通可被下〇之たとひ同宿宗門之内たりといふ共訴人に出る品により銀五百枚可被下之隠置他所よりあらわるるにをゐては其所の名主並五人組迄一類共に可被處厳科者せ乃下知如件
      天和二年五月
                             信濃寺

 これは16825月に「松代藩主真田家」の高札場に掲示された切支丹邪宗門禁制の文面である。
ときに、九州は島原、天草の一揆(1637年)から数えて45年目であった。この一揆は、16才の少年キリシタン四郎時貞を主将に、原城に籠城すること50日余。糧食弾薬尽き、戦闘員非戦闘員の全員約4万人が3日間で皆殺しとなったのである。
 基督教史(柏井園著)に、次のように述べられている。
 「寛永14年、天草の乱あり。肥前の島原半島と庇護の天草とには天主教の信者多く、旧領主有馬晴信も其の一人なりき。徳川家康之に自殺を命じ、後其の子の封を移せり。惨酷なる刑を宣教師及び信者に加ふるに及び積怨爆発して大乱となる。寛永14年10月に始まり、天下の大兵を迎へて善く戦ひ、征討軍の大将板倉重昌戦死す。終に長囲の計を定む。
 包囲長きに亘りて糧食竭き翌年2月城〇る。一人も節を変ずる者なかりき。天主教の勢力頓に減ぜり。之より後迫害絶えず、殉教する者頗る多し。日本国民が信仰の為に死し得る人民なることは歴史の上において証明せられたり。」
 幕府は島原、天草の一揆鎮圧の後、即ち寛永16年にはキリスト教を断固現金するとともに、鎖国令を発し、オランダ人以外の西洋人の入国を禁じてしまった。更に翌年には宗門改役を設け、諸藩もまた此職を置いて検察の任に当り、その取締りは厳格をきわめたという。
 江戸幕府が禁教について採った方策は次のようなものであった。
   1、寺請証文、寺院をして檀那たるを証せしむる文書。
   2、人別帳、戸籍簿にしてキリスト教徒探索に便すべく調製せしむ。
   3、宗旨人別改、人別帳につき一家一人毎に較照検勘して捺印せしめ、更に僧侶をして証明せしむ
   4、踏絵、耶蘇の像を踏ましめ信者にあらざることを証明せしむるもの。
   5、属託金、宣教師並に教徒を訴へ出たる者に与ふる賞金。
   6、禁書、西教に関する書籍の売買閲読を禁ずるものをいふ。
 石のように切支丹探索の取締りは、すこぶる厳重をきわめたという事である。
 私たちの郷土である「信濃」山深い小藩松代の高札場に掲げられた「定」の文字は昔を語る貴重な資料でもある。日本のキリシタンの歴史は、それはそのまま為政者のきびしい迫害と弾圧による殉教史と言われる。そういう厳重をきわめた取締りのただ中を驚くべき忍耐と勇気をもって、信仰に生き抜いた人々の、たくましい生の足跡をたどってみたい。
 次回から、信濃のキリシタン~松代藩~をまことに乏しい資料の中ではあるが、私たちの信仰に益するものを紹介したいと思っている。
 “義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:10)

2、松代藩
 江戸幕府は、キリスト教を益々厳重に取締るようになった。
 慶長年間、家康によって「伴天連門徒御禁制也」のキリシタン令が発せられ、それによって数多くの信者たちが国外追放となり、転宗しない者は極刑に處せられたのであった。元和年間には、大阪の陣のとき宣教師が豊臣方へ加担したという理由によって、全国的にキリスト教信者を禁圧したのである。
 同8年には長崎においてキリシタン55名が處刑された。いわゆる元和の大殉教の行われた年である。また同9年に幕府はキリシタン多数を江戸芝において處刑し、この大江戸大殉教が始まりとなってこの頃から幕府、諸藩は転宗を拒むキリシタンをしばしば處刑したのである。
 寛永元年、東北地方を例にとるならば、イェズス会士カルバリョは仙台に於て信者八名と共に殉教。同会士アダミは東北布教の後、長崎で穴つるしの刑に處せられた。秋田領ではこの年から迫害が始まり、領内の信者42名を逮捕し、また米沢では甘糟石衛門信綱他一家12人及び士分の信者20余名が米沢北山原で斬首されたのを始め、殉教者57名を出した。こうして明暦4年までには、仙台、会津、二本松、盛岡、白河、三春、津軽、松前、岩城、柵倉、中〇、山形、延沢、鶴岡、久保田、新庄、米沢の各地にキリシタン殉教者を出し、信者は容易に絶えなかった。
 キリシタンの探索、捕縛、拷問、處刑には実に惨虐な迫害手段を用い、苛酷残忍を極めたという。或る者は焚殺され、また竹の鋸で引きしごかれ、槍で突きさされ、打ち首になり、また温泉嶽の湯の端におかれ、熱気の中に立たされ、また湯壺に投げ入れられ、また穴つるしにされるなど、惨鼻を絶する拷問を受けたのであった。殉教者の中には80才の老婆や、3才の幼児もいたということである。
 “ほかの者は更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、”(へブル11:35~37)
 「其様に取締を厳重にしても尚〇に切支丹を信ずる者が松代藩にもあったものの如く、真田伯爵家所蔵の記録の中にも左記の分社が見えている。

     転切支丹之類族死罪之覚
  信濃国埴科郡松城商人転切支丹与兵衛三女本人同前香栄〇同郡長札村大工半兵衛儀不届有之候付而当丑八月二十二日三十七才にて死罪申付死骸為取捨申候只今迄の旦那寺同郡寺尾村浄土宗長命寺にて候為御断如此に候以上
     元禄十丁丑年八月二十七日
                       真田伊豆守
     前田安芸守殿
     小幡三郎左衛門殿

3、松代藩
 「切支丹」という言葉について、先日ある人から聞かされたので、竹村覚(キリシタン研究科、久留米大学教授)が述べておられることを要約して記しておきます。「キリシタン」はポルトガル語のchristaoの仮名書きである。はじめは「吉利支丹」というのが最もひろく用いられていたが、徳川五代将軍綱吉のとき、将軍名の「吉」の字を、おそれおおいというところから避け、一方では邪宗門だという感じを写し出すため、「切支丹」「鬼理志端」などと誌すようになったものである。
 キリシタンの漢字書きには、右のほか、迫害が厳しくなってくると、「切死丹」「鬼理至端」「奇栗叱弾」「切子丹」「貴利死貪」「吉利死丹」などの文字が散見されるという事である。
このことによっても、当時の為政者がいかにキリシタンたちを、大衆にいみきらわせるようにしむけていたかが、わかるというものである。「切」「死」「鬼」などの言葉は、今も昔も変わりないことだろう。
 「迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Ⅱコリント4:9)
 さて、先号において信濃国埴科郡松城(真田家十万石、松代藩の城があった。現在の長野市松代町)にも、キリシタンの探索、捕縛、拷問、処刑など苛酷残忍な迫害の嵐の中をも、信仰に生き抜いた人たちが存在したことを知ったわけである。
 即ち、元禄十丁丑年8月27日付の真田伊豆守による文書「転切支丹之類族死罪之覚」(松代町史下巻227頁)によれば、大工の半兵衛という者が「不届有之候付」37才で死罪となり、「死骸取捨申候」とある。
 さらに、松代藩の侍と思われるキリシタンがいたことが、次の文書によって確証されている。

    転切支丹類族病死取置覚
  信濃国埴科郡転切支丹三沢八右衛門四男三沢造酒石右衛門伜寺内源之進伜  
  寺内東市伜助右衛門儀当子六月九日五十八才に而病死仕候。死骸御見分之
  上〇依無御座候。則檀那寺同国同郡松代禅宗長国寺に而取置申候。
  万一之儀付追而御不審之儀御候ば、長国寺は不及申、私共付国迄茂 罷出 
  急度申訳可仕候。為後 如件。
     天保十一年庚子六月九日
                証人  野池助右衛門 黒印
                    寺内金作   黒印
     松本源八殿
     菅沼弥惣右衛門殿

5、賞金をかけられたバテレン
 先号までに、私たちの郷土であるこの山深い信濃の小藩「松代」に、その昔、ときの為政者のきびしい迫害と弾圧の中にあって、驚くべき忍耐と勇気をもって、信仰に生き抜いたキリシタンたちがあった。彼らのたくましい尊い足跡を、生のあかしをたどり聞きとりたいものと、古文書からの引用を加えながら述べてきました。
 この次から「上田藩」について書きたいと思いますが、ここで一寸より道をすることにします。
 キリシタン制札と賞金について少し述べておきましょう。
キリシタン制札(または高札)とは、キリシタンの禁制を目的としたもので、 賞金をかけてかくれた信者の密告を促そうとしたのである。
 幕府は江戸、諸藩に「宗門改役」を置き、検索の任に当らせ、懸賞密告の方法によって、キリスト教を徹底的に根絶やしにしようとしたのである。
 高札は人々によく見える所を選び、高札場として決め、その地域は租を免ぜられ、高札はきわめて大切に取り扱われて、火災水害などの時には高札の有無を領主より届出させていた。また、高札場は大体庄屋、本陣、代官屋敷などの前や、人の往来の多い辻に設けられていたということである。
 次はキリシタン制札の「覚」の例文である。なお日付は寛永十五戌寅9月13日のもの。
   一、バテレンの訴人  銀子二百枚
   一、イルマンの訴人  同  百枚
   一、キリシタンの訴人 同 五十枚
 右訴人イタシ候〇ハ、タトヒオナシ宗門タリトイフ共、宗旨ヲコロビ申出ニオイテハ、其咎ヲユルシ御褒美御書付ノ如ク可被下之旨被仰出モノ也

このような懸賞密告は元和8年(1622年)にははじめて行われたが、のちの左に示す通り4回にわたって増えていることをみても、幕府は益々禁令を厳にして、キリシタンに苛酷な弾圧を加えたものである。
              バテレン     イルマン
   寛永十年 (1633)   銀 百枚     以下品々
   同十五年(1638)    銀二百枚     銀 百枚
   承応三年 (1654)   銀三百枚     銀二百枚
   延宝二年 (1674)   銀五百枚     銀三百枚

 バテレン(伴天連)は神父、イルマン(伊留満)は修道者と思われる。賞金銀五百枚を例にとって金額を今日のものに換算してみると、約450万円から500万円余の高額となる。これは教会員のお父様(郷土史の研究をしておられる)によって、小林計一郎先生のお手をわずらわして計算基準を示していただいたものによる。

6、上田藩
 井上正重清兵衛(のちに井上筑後守)という人がいた。天正十三年(1585年)の生れ、寛文元年(1661年)二月二十七日死去、ときに77才であった。
 この人、はじめはキリシタン大名、蒲生氏郷に仕え、受洗して後に棄教して、徳川家康に仕えて寛永17年(1640年)から明暦4年(1658年)に至るまで、19年間に亘って江戸幕府の「宗門改役」になり、数多くのキリシタンを捕縛、拷問、処刑にしたのである。
 鬼のように人々から恐れられたキリシタン奉行、井上筑後守は、信者であれば女子どもの容赦なく残虐非道にも捕え、拷問にかけ虐殺したことにおいて歴史にその悪名を残したのである。
 井上筑後守は受洗して一度は信者になったが、おのれの立身出世のためにその魂を売りわたして、棄教者の道を選んだのである。彼の晩年は殉教者たちの血の海の中におかれていたようなものであったが、栄達のためとはいえ、はたしてその一生は幸せであったであろうか。
 「契利其督記」(キリスト記)は井上筑後守の在任中の宗門奉行の覚書を、後任の北条安房守がまとめたものといわれているが、これは幕府の正式な書類であった。全国的な規模でキリシタンを捕縛し、棄教を迫った事実を証しする記録文書として、重要な資料である。その中の一項目に「吉利支丹出申国所之覚」があり、寛永から明暦までに出た国々の宗門が載っている。信濃国関係の捕縛されたキリシタンだけでも次の通りである。
 「上田(仙石越前守領分)より宗門23人も出申候内侍一人出申候 松代(真田伊豆守領分)より宗門中此に出申候内侍23人も出申候 高遠鳥居主膳領主」より宗門両人出申候内侍一人出申候」
 これによっても上田藩においても捕縛者を出したことが明白である。さらに次の引用によって、キリシタンばかりかその親族にいたるも身心共に圧迫を受けたことがわかる。
 上田に於ける切支丹宗関係者として特に記されてある事は、宝永3年「上田分指出帳」に類族者一人の事が載っているのみで、此他には更になかった。(契利其督記の記述と矛盾するように思われるが、今後の研究の課題となろう―筆者。)
 「一度天主教を信じた者が、後に改宗し所謂切支丹転と成った者の、親戚の者でも類族者として容疑者の中に加えられ、其落着く行先まで取調べ、其身を終るまで監視され、死亡の際も普通人の如くには、簡単に葬式を済ますことはできなかったのである。(上田市史・上巻)

■スウェーデンの教会を訪ねて 元「祈りの友」第98号(1978年6月)~第101号(1978年9月) 正村富男師執筆

スウェーデンの教会を訪ねて(1) ~森と沼の美しい町ユンシュピンを中心に~

 我らの主イエス・キリストによって蒔かれた福音の火種は、主の弟子たちによって全世界に蒔き散らされた。
 長い年月、歴史の変遷を経た今日も、尚さらに盛んに蒔き続けられ、全世界各地で炎となっている。
 日本からはるかに遠い北欧の地スウェーデンに起こったリバイバル。その火種は福音の炎となって、日本にやってきた。
 その熱はいかなる困難をも溶解し、燃え続け、主の栄光を放ち続けてきた。はやそれが25年を過ぎんとしている。
   SAM25周年記念誌「福音の炎」より

 S・A・M・(スウェーデン・アライアンス・ミッション)が海外伝道を開始したのは今から78年前の1900年であった。スウェーデン系のアメリカ人フレデリック・アランソン博士(ミッション創立者)の提唱によって、ユンシュビンで宣教師派遣のための理事会が設立されました。そしてまずインド、中国、南アフリカに宣教師を遣わしたのである。1900年当時、宣教師として遠い国に行くのは大変な冒険であったという。交通機関もきわめて不便であり、病気は多くのいのちを奪い、また言語の学びのための学校もない時代で、外国語を習得することも非常に困難なことであったということです。
 それから50年後の1950年6月に、日本にもS・A・M・から次々と宣教師たちが送られてきました。そして愛知県、静岡県を中心に、おもに東海地方で開拓伝道が始められたわけです。今年で28年その間に18の教会、伝道所が生まれ、多くのクリスチャンが集まっていますが、その人たちの中から若い兄姉が次々に献身して、学びに訓練に、そして教会形成に伝道にと、創立者のフランソン・スピリットは受けつがれて、その働きは今日も続けられています。
 現在、インドネシヤで宣教師として働いておられる清野勝男子ご一家は、愛知県安城教会で五年間良き奉仕をなさいました。

 さて、このS・A・M・と私共のN・G・S・(長野県福音放送を支える会)との関係について少しく述べましょう。それによって私のスウェーデンの教会訪問の目的も知っていただけますでしょうから。
 S・A・M・がラジオ放送伝道を始めたのは、1956年10月で浜松放送局から第一回目の放送「世の光」であったということです。それというのは、在日宣教師のマルンバル先生がラジオ放送伝道の必要と大切さについて、S・A・M・のウィクリーに文章を書いたそうです。ですがそれは放送伝道のための具体的な献金を求めたものではなかったのですが、主は不思議な導きを与えてくださったのです。その後二人のクリスチャンがそれを読んで心を動かされて、放送のためにと献金を送ってきましたが、この「このレプタ二つ」が契機となって、S・A・M・でも放送伝道が開始されるようになったのです。
 現在では、「世の光」5分デイリー番組で東海ラジオ・信越放送・静岡放送。「ノック・ノック・ヤング」15分ウィクリー番組で東海ラジオなどで、それぞれにサポートして福音を電波にのせています。

 このたび、中部スウェーデンはヴェッテルン湖畔の美しいユンシュピンの町にあるS・A・M・の本部を中心に諸教会をたずねてきました。その中の一つの教会であるマルンベック教会(レナンデル牧師)。この教会のクリスチャンたちにお会いして心から感謝を申しのべたいこと、それが私の訪問のおもな目的でした。
 マルンベック教会での集会は二百人位のクリスチャンの集まりでしたが、そこで私は長野県の「世の光」のことを語りました。そして長野福音教会の兄姉のプレゼントを、牧師先生の手によって青年会の人たちに優先的に配っていただきました。この教会の青年グループが毎月かかさずに信越放送「世の光」のために、遠いスウェーデンから献金を送り続けてくださっているのであります。

スウェーデンの教会を訪ねて(2)~森と沼の美しい町ユンシュピンを中心に~

 スウェーデン、その公式名はスウェーデン王国である。今の国王であるカール十六世、グスタヴご夫妻は、国民から大変に愛されています。若い人たちの間でも、国王に対する信頼が篤いと聞いています。
スウェーデン王国は、ヨーロッパ大陸の北部、スカンジナビア半島の東半分を占める立憲君主国である。ノルウェー、フィンランドと境を成し、北ヨーロッパ諸国中最大の面積をもち、森林資源、鉄鉱に恵まれています。
面積は449,750平方キロ、それは日本の総面積より約20%大きい数字になります。そのような広い国土に人口がなんとわずか820万人ということです。
 資源は豊か、人口は少ない。したがってスウェーデンでは完備した社会保障制度が自慢です。私も教会での奉仕の間をぬって、学校(義務教育九年制、高校、大学)、病院、養老院、工場(漁港、ボルボ自動車、ガラス、木工など)を見てきました。
 宗教については、スウェーデンは福音ルーテル(新教)教会が国教になっています。もちろん信教の自由が保障されています。いくつかの自由派教会があって、非常に強力な地位にあります。S・A・M・(スウェーデン・アライアンス・ミッション)―日本ではS・A・M・IJAPAN―は自由派教会の一つで中部スウェーデンのヴェッテルン湖畔の美しい町、ユンシュピンを中心に、約四百七十教会、伝道所があるそうです。78年前から海外宣教のために、祈り、献金して、多くの宣教師を主のお働きに送り出しています。日本をはじめ、アジア、アフリカなど11ケ国で120名の宣教師が今日も救霊のために働き続けています。ハレルヤ!
 先日、スウェーデンから三通の便りをいただきました。今年の春、お訪ねしたマルムベック教会の若い人たちからです。マリエッテ・カールソン、アニタ・カールストローム、マッツ・グスタヴソンの三人と文通してくださる方はいないでしょうか。クリスチャン同士ですから、すばらしい交わりが生まれることと思います。
 マルムベック教会の牧師は、オーケ・レナンデル先生。教会員213名とのこと―私がNGS・(長野県福音放送を支える会)からの感謝を述べ、救いのあかしを語った時の集会にも200位来てくださいました。多くの方々は、目にいっぱいの涙を浮かべて深くうなずいておられた姿が思い出されます。教会を去るときには、二人の長老が大きな腕で、私をだきしめて涙を流し、声をころして泣きながら力いっぱい握手をして別れました。
「日本の人たちのために、祈ってきた祈りの答えを見ることができて、思い残すことはない。本当にうれしいことだ。今度会うときは天国でしょう。必ず会えます。」

 オーケ・レナンデル先生夫妻は、昭和24年、宣教師として日本伝道に献身、来日されました。そして愛知県の豊川、岡崎などで開拓伝道、日本人の救いのために涙をもって祈り、多くの犠牲をささげてくださって、たくさんの人たちをキリストに導きました。
 ところが七年ほど前ですが、ミセスのお体が急に悪くなり、秋の特別伝道会が終るのを待って、入院手術なさいました。その結果、ガンであることがわかり、後三ケ月しか生きられないということでした。先生はおもいがけない試練の中で、病身のミセスをひとまず母国のスウェーデンに連れかえりなさいましたが、まもなく平安のうちに天に召されていかれました。ミセスの生涯のほとんどは日本人への救いのために燃焼しつくされたのです。
 先生はその後、スウェーデンで牧師として奉仕され、現在七つの教会を牧会されています。(スウェーデンの地方では、小さい教会や群を複数牧会する牧師があたりまえのようでした)
 レナンデル先生は特に、海外宣教に重荷をもっておられ、その教会の一ケ年の収入の半分以上をミセスの愛された国日本をはじめアジア、アフリカなどの伝道のために献げておられるとのことです。
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちの示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのですから、私たちもまた愛し合うべきです。」(ヨハネ4:9~11)